*NIP_AAR [#r2842b65]
VICTORIA 日本 1836〜1880

今回はVX_v0.21を基準に、人口増加率及び植民地を増やした改造プレイです
。また、英、独、露、米、蘭など列強の工業力を大幅に増加させています。
乱文どうかご容赦をm(_ _)m

**[天保年間1836〜1844]
**[天保年間1836〜1844] [#x951d503]

政治

化政文化がその晩年を向かえ、江戸時代が終わりに近づいていることを象徴する事件が大塩平八郎の乱である。幕府の元与力という身分の者が叛乱に加担したという事実は幕府を大きく動揺させた。蝦夷地にはロシア使節が訪れるなど、次第にあわただしくなる世相を反映して、幕府内には強力な統率力を持つ(新たな)指導者の出現を望む声があがった。「大御所」の語源となる徳川家斉に代わり将軍に就任した家慶の下、天保の改革は始まった。質素、倹約を旨とするこの改革は天保の飢饉で完全に挫折し、失敗に終わるのだが、日本はオランダ政府の手引きにより植民地獲得に乗り出すことを公言、諸藩の猛反対を押し切って東南アジアの殖民を推し進めた。このための多額の資金捻出のために改革は頓挫している。これによってボルネオ島、ミントなどの諸島は日本がその領有を主張した。南樺太、沖縄奄美諸島、小笠原、南洋諸島を次の目標に定め、太平洋の島々を巡る争奪戦は時に列強の政治的道具として活躍した。このような拡張政策に刺激されてか、国内ではシーボルトらの下、開明派が一気に時代の寵児となり異国船打払令など時代錯誤な政策は破棄された。大英帝国に親書を送り、ヨーロッパ列強に対する通交に努めた。このような状況の変化をオランダが感じ取ったのか、1840年、同国王ウィレム二世より親書が送られた。しかしこの時期の改革には大御所と呼ばれていた家斉ほか老中たちも反対の姿勢を示したため日本の開国は先送りになった。この際には家斉派の復古を呼び、蛮社の獄を始めとする反動政策が起きている。

経済

政府はアヘン戦争の、概要をオランダから知ることで、非常な衝撃を受けていた。アジアの超大国清が英国に敗北したことは幕府首脳に危機感を募らせたのである。これを受けて、開国しない範囲でオランダより支援を受けることを決定、幕府は通商の自由を認める布告を出し、国内では物流の促進により軽工業が盛り上がりを見せていた。出版産業が大きく成熟し、各地にマニュファクチュアができるなど資本の蓄積は確実に進んでいた。輸入された貴重な機械部品により、鹿児島に鉄鋼所、大阪に製紙工場、長岡に幕府直営の製糸工場が作られるなど、産業の発達は緩やかに進められた。
かつて世界の金銀流通の中核をなした日本であったが、多くの金鉱脈は17世紀以後その産出量を減らしていた。当初から危惧されていたとおり、植民地獲得に必要な資金は膨大なものであった。年間の収支でさえペイするのが難しかった幕府が積極的な対外政策をなしえた要因は一にも二にも1837年に兵庫で発見された金鉱であった。日本はまたもや黄金の国になったのである。

文化・社会

時代は化政文化も終わろうというときであった。退廃的で華やかな文化は幕府の財政を傾けていたが、資本の蓄積によって生まれた富豪の手によって文化は維持された。この時期の蘭学は主に学術関係に限られ、思想の統制は厳しくその方面での発展は望めなかった。鎖国(=高関税)政策による民衆の意識の高まりが水面下で進行していた。この動きが具現化するのは黒船来航まで待たねばならないが、政府の開明政策は民衆の近代化への歩みを早めたといえるだろう。

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