**[弘化・嘉永年間1844〜1854] *NIP_AAR [#v5d26b05] 前へ[[NIP_AAR]] **[弘化・嘉永年間1844〜1854] [#waef1a33] 政治 経済的に幕府を一時的に再建することに成功した家慶は、その後全国的な規模で医療所の設置を行い、これらの社会保障政策により貧農を保護し、産業の根幹である農業を建てなおそうとした。しかしこれらの公共事業は財政を悪化させ、皮肉にも幕府の崩壊を早める一因となったのである。結局1845年には歳出の増加に耐えきれず農民に対する増税と社会保障費削減に踏み切った。これと同時に拡大政策を一時凍結し、植民地を外国に売却することで収支の均衡をとる方針に転換した。このときの主な取引先は英国であり、技術者の派遣の対価としてアフリカ西岸の植民地を割譲した。 1848年、ヨーロッパでは北欧ロシア同盟とドイツ諸邦が激突し、ナポレオン以来の国民戦争に発展していた。このデンマーク戦争の結果、1851年にはドイツ連邦が成立、ヨーロッパは新たな局面を迎える。ドイツの増長に危機感を抱いたナポレオン三世はアメリカ、サルディニアと組んでドイツに宣戦布告する。これにロシア、ベルギー、ギリシャらも加わってドイツ封じ込めの体制が完成していた。統一間もないドイツは四方から攻められるというかつてない苦境に立っていた。しかし兵の質、政府の意気込みに勝るドイツはこれをしのいで引き分けに持ち込むことに成功している。ロシアがトルコ・英国とのクリミア戦争に突入したことが最大の勝因である。逆にこの戦争で ロシアはコーカサスの大部分を失う大敗を喫した。1848年6月6日、オランダは突然わが国に対して宣戦を布告、植民地戦争が勃発した。これはインドネシアをめぐる日蘭の対立の沸騰点といえる事件であった。動員令を発するオランダの態度は強硬で、政府はボルネオに遠征軍を派遣し10月になると同島北部のオランダ交易拠点を襲撃してこれを占領する。しかしオランダ軍主力は日本のアフリカ植民地を攻撃、Ifniの陥落を受けて12月29日二度にわたる和平交渉で停戦協定を結ぶことに成功した。このバタビア条約では、1)ボルネオ島での日本領土の保障、2)Ifni、Marcus、Midwayのオランダへの割譲が約束された。外見的には日本の譲歩によるオランダの勝利であったが、日本としては東南アジアに橋頭堡を確保することに成功した利益は計り知れないものがあった。直接的な戦闘による損害はなかったものの、あまつさえ領土を割譲させられ、圧倒的とも言える軍事力の差を目の当たりにした幕府高官、諸藩遠征軍は軍制改革、近代化の必要性を痛感した。 1850年2月、浦賀沖にペルリ提督率いるアメリカ艦隊が来航し、日本を震撼させる。1853年の再来によって国内では叛乱が多発し、幕府はその対応に追われた。国内では開国論の権威が国難を唱えて挙国一致で当たることを提唱、これが日本中で広く読まれ反乱の機運はいったん収まる。一方で、英国がクリミア戦争に当たっている間、わが国に対して急接近してきたのがフランスである。ドイツの伸張に対して危機感を抱くナポレオンはアジアでの影響力を確保しておく必要を感じ、日本に対して独立の保障を与え、軍事顧問団の派遣を決定した。ナポレオン以降の陸軍様式の導入がこれにより始まったのである。 経済 経済を立て直すことに成功した天保の改革であったが、中産階級の出現で生活用品の需要は増加し、これに伴う収支不均衡は深刻な問題になりつつあった。これに拍車をかけたのは社会保障費の増大である。幕府は1843年に全国で医療所の設置を断行したため、多額の保健医療費が幕府の財政を圧迫したのである。これは同年におきた飢饉と平行している。一方で南方の殖民政策は1840年代にその第一段階を完了し、幕府はこれを直轄領とすることで財政の健全化を目指した。オランダ戦争の費用は比較的軽微で済んだものの、国内の産業振興を急ぎたい政府はしかし資金難に頭を悩ませていた。1853年、四国で家具調度品、東海地方を中心に服飾産業が発達すると、幕府の財政は大いに改善した。国民の識字率の上昇による労働者の質的改善が要因の一つであった。またこれは欧州が戦乱に巻き込まれたことも大きな理由である。この産業的空白により、好景気を現出した日本はナイジェリア、コンゴの領有を推し進めている。 続き[[NIP_AAR3]]