**[安政年間1854〜1860]
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政治

幕府内の権力闘争は続き、結局1856年島津斉彬(ゲーム中ではTokugawa Nariakira)が大老に就任、改革に当たることとなった。1858年斉彬は暗殺されると、幕府の権威の失墜はもはや誰の目にも明らかであった。幕府はすでに日本を取りまとめる確固たるリーダーを失い、打ち続く反乱の中、薩摩藩を中心とする改革勢力はついに決起する。1860年、現天皇を退位させ維新を宣言すると、欧米の文明を導入し選挙による議会制度の確立を目指した。文明国の仲間入りを果たした我々に対し、エジプトが突如宣戦を布告、急遽援軍を派遣した日本軍と翌年まで戦闘は続き、装備、士気ともに勝る日本軍の勝利により、紅海沿岸の土地を割譲せしめた。維新直後のこの勝利には国民も狂喜し、政府の目指す富国強兵、殖産興業のスローガンはまもなく国民共通の目標となった。

経済

1854年に改善した収支も、1856年以降は人口の増加や各地の反乱鎮圧のために急速に悪化した。そのために日本は英国との植民地交換を積極的に進めるとともに、歳出削減を断行した。軒並み20%減らした社会保障に加えて、陸軍以外の防衛費を大幅に削減、さらに低所得層の税負担を増加させて乗り切った。この期間は断続的に幕府は借金を続けている。1860年の維新に伴い租税効率は上昇したが同時に歳出も上昇し、収支は改善しなかった。その主要因は英国からの機械製品の輸入であり、最新の設備を導入するために政府は非常に多額の出費を強いられている。この成果の一つが九州地方の石炭産出の発達による官営八幡製鉄所の設立である。もとより九州では小規模な製鉄業が栄えていたが、幕府はこれを拡張し、産業の根幹である鉄鋼の自給を目指した。

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