**[万延・文久・元治・慶応年間1860〜1868]
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**[万延・文久・元治・慶応年間1860〜1868] [#xf45d403]

政治

オランダ、エジプトとの植民地戦争によって海外に広がった日本領であったが、現地住民の反乱は激しく1861年には2個師団の増設を決定する。維新による混乱は長く続いたが、植民地問題に一応の区切りがついた1862年以降、政府は再び内政重視の姿勢を打ち出す。その最たるものが鉄道の敷設だった。英国の技術者を雇い、実験的な鉄道が開設されるとすぐに産業と結びついて非常な発展を見せた。維新直後は幕府の遺臣井伊直弼の暗殺、政治汚職の発覚など混沌とした世相を反映する事件が多く、国民には殺伐とした空気が流れていた。前述したように、この時期の日本は対外的には消極策をとっている。1864年にはアフリカ西岸でモロッコと武力衝突に発展する騒動が起きるが、この小戦争には英国が日本側に加勢したためモロッコは和平を求めた。モロッコとの正面戦争を避けたい日本はここで和議を受諾した。当時の日本の軍事力はそれほど大きくなく、また列強に比して弱体であったので、大陸進出に関しては慎重を期すべしとの声が多かった。このため、特に清、朝鮮を蔑視する風潮が強まることはなく、しばらくの間は日清、日朝関係は平穏を維持した。1865年、およそ700年続いた武家社会が終わりを告げた。士族は廃止され、国民は天皇の下に平等となった。経済

政府は関西鉄道の設立を発表、国内の重要な資源産出地に優先的に鉄道網を伸ばすことを決定した。これが政府の財政を改善し、1861年には再び黒字に転換した。富国強兵を国是に、拡大再生産を続ける日本経済は順調なものに思えた。英国を模した基礎的な経済基盤の構築が進んでいた。1862年一月、激しい候補選を勝ち抜いた名古屋が造船所の建設を勝ち取り、予算の半分を国債で償還することとした。この造船所はその開業以降フル稼働を続け、鋼材の必要から地理的に近い関西の鉄鋼業成長を刺激した。1865年、関東で兵器の生産が始まる。原料は盛岡にある化学工場と九州にある爆薬工場から、大砲の生産は神戸で行われた。製鉄業の急成長により、鉄鉱石は1867年には輸入に転じた。ボルネオでは高級家具工場が開設され、「Made in Borneo」は中産階級におけるひとつのシンボルであった。同時に東京では高級服店が登場し、流行の移り変わりに貴族たちが神経を尖らすようになったという。このころには近代的工場の導入に積極的だった関東地方が早くからその農村型社会から抜け出した。一方で関西では富裕層に雇われた小作農による商品作物の栽培が主流であり、彼らの都市流入はさらに工業の発展が進む1870年代まで待たねばならない。大日本職業統計によると、1868年時点での工場労働者の割合は33%に達しており、これに比べて社会保障制度は立ち遅れていた。

文化・社会

維新は社会に大きな変革をもたらした。欧米の先端思想、芸術は広く国民に知れ渡るようになり、同時に研究・教育機関の設立を急いだ。大学の設立は、1836年に江戸時代に行われた教育令による国民のリテラシがあってスムーズに進んだ。欧米の生活様式、文化などの流入による市民の生活の変化を端的に表したのが「文明開花」という言葉である。生活用品の自給率も上昇し、国民の所得水準も向上した。識字率は1866年に80%を超え、技術開発力は列強並みの水準にまで上昇した。知識層の間では征韓論が大きな話題となり、愛国主義の勃興を見たが、まだ大半の国民は毎日の生活改善が最大の課題であった。

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