**[明治時代1868〜1880]
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政治

1868年に行われた実質上初めての政党選挙は自由党の圧勝に終わる。残りの約二割は帝国主義者のものとなった。この傾向は1872年以降の選挙でも変わらなかったが、政党によるリベラルな政治の成果は1880年の議会制民主主義確立によって白眉となる。集会の自由(1870)、政党の自由(1871)、そして普通選挙の実施(1880)へと進む改革により、日本におけるデモクラシーを求める運動はひとまず収束を迎える。このころには国民の要求は複雑で多岐にわたるものになっていった。これは1873年に工業生産が世界一になることに象徴されるように、国が豊かになったからに他ならない。これを機に関税を撤廃して自由貿易を標榜する日本は1873年、韓国の外交的侮辱に抗議して開国を迫った。日本は大使として西郷を送り、この結果韓国もまた日本と同じように砲艦外交に屈して鎖国を終わらせたのであった。これ以後、日本は積極的な対外政策に乗り出す。1874年に8個軍56個師団にも上る大軍備増強計画を実行すると1875年10月、ブルネイ王国に宣戦し、これを占領、併合する。1876年4月にはアジュー王国に宣戦、これを打倒して日本インドネシア領とした。征韓論の興隆は避けられぬものとなったが、政府は東南アジア統治に躍起で、おりしも東南アジアでは住民の反乱などが頻発するようになり軍を引き抜くことができず、懸案は次世代に繰り越されることとなった。

ヨーロッパではロシア、ドイツを巡る戦争が繰り返された。1869年の第二次土露戦争は、英国の援助の下、トルコがコーカサス、ウクライナの一部を得、英国が中央アジア、アラスカを得るなど一方的な内容となり、これをみた宰相ビスマルクが率いる統一ドイツも戦争を仕掛けてロシア領ポーランドを得た。ヨーロッパ方面でのロシアの苦境は拭いがたいものとなり、ロシアは出口を求めて中国と衝突するにいたった。しかし弱体したロシアはここでも新たな領土を獲得するには至らず、大国としての地位を急速に低下させていった。1876年になるとドイツに対してフランス、ベルギー、オーストリア、オランダが連合して戦争し、ドイツはついにその攻勢の限界点に達した。オランダ、ベルギーは国力の限界から単独講和を結んだが、フランスはアルザス、ロレーヌを、オーストリアはシュレジエンの一部を取り返した。大陸ヨーロッパの超大国を志向したドイツは、諸外国の協調によって苦しめられていた。

経済

1869年10月、一次産業労働者の数を工場労働者が上回り、53%に上った。もともと過剰な設備投資をしていた政府も、急激な労働者の増加による混乱を危惧した。この年はまた、真空管が発見されるなどの革新的な技術の進歩があり、化学の進歩に伴う長寿命社会の実現も期待された。工業力で圧倒的に優位に立っていたロシア、ドイツは戦争に明け暮れ、世界の工場を自負していた英国政府も緩慢な平和におぼれたため、1870年代前半に日本が工業生産世界一を達成した。生産力に比して国防費が少なく、また多くの製品を輸出して外貨を獲得、この結果国民は豊かな生活を謳歌した。

文化・社会

ドイツより浪漫主義が流行する。文化面で遅れていた日本もようやくここで思想的な開花が始まるのである。莫大な政府の財政黒字を背景に社会保障政策が推し進められ、国民はより政治的発言権を要求するようになった。1870年〜72年の政府の融和政策によって集会の自由、政党設立の自由などが確立された。このころには急速な近代化、産業化、多民族化に伴い多くの問題が発生した。国民の政治的自覚の上昇や少数民族問題を解決するため、1880年に大日本帝国憲法を発布、普通選挙を実施して三権分立による議会民主主義が確立した。これにより自由民権運動は収束に向かう。

世界一と謳われた都市、東京を中心に世界は回り始めていた。日本の栄華はここに極まり、アジアの盟主として君臨していくこととなる……
ということで、これから大陸進出!というときにデータが破損、強制終了となりました(ToT)
最後まで読んでくださった方に改めて謝辞を述べさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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