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 EVT162700N;アルジェリアがフランス行政区へ編入;;;;;;;;;;X
 EVT162700D;フランスによるアルジェリア殖民も進み、本土のフランス市民と同じ参政\n権を持ちたいとする要求も大きくなっていった。そして1848年の末に国\n民議会で新法が可決され、アルジェリアの民政所管地域は「県」となり\n議会へ代表を送る権利が認められた。;;;;;;;;;;X
 EVT162701N;ザアチャでアブー・ザイヤーンの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162701D;1847年にはアブドゥルカーディルの抵抗も終了し、フランスのアルジェリア\n支配に反対する連中のうち最大の危険分子が除かれることになった。\nしかし他の部族指導者らは、隙あらばフランス支配に対し抵抗運動を\n行っている。1849年にはオアシス都市のザアチャで、フランスの徴税官が\nナツメヤシに課税しようとしたのに反対して、ザアチャのシェイフである\nアブー・ザイヤーンが反乱を起こした。;;;;;;;;;;X
 EVT162702N;1851年のアルジェリア関税法;;;;;;;;;;X
 EVT162702D;1830年のフランス征服以来、アルジェリアはフランス本土と異なる経済\n主体とみなされ、本土への輸出品には関税が課せられた。しかし代議\n士を出すほどまでに植民者の数も増えてきた昨今、仏領北アフリカの経\n済開発を促進するためにフランス・アルジェリア間の関税障壁を撤廃す\nるよう求める声が、植民者らから上がっている。;;;;;;;;;;X
 EVT162703N;カビリアでアブー・バグラが反乱軍を組織;;;;;;;;;;X
 EVT162703D;1840年代、フランスは概してカビリアに手を出さないでいた。アブドゥルカ\nーディルの勢力が強かった当時、ベルベル人がさらに反乱を起こすことを\n恐れたのである。しかし1851年にはアルジェリアのフランス軍部もここに\n直接統治を敷くべき時が来たと判断し、その結果、アブー・バグラを首\n領とするベルベル反乱軍がフランスに対し蜂起した。;;;;;;;;;;X
 EVT162704N;アルジェリアで土地使用法;;;;;;;;;;X
 EVT162704D;アルジェリアをフランス植民地とするためには、長期的に見て植民者に\n土地を供与できるようにする必要があった。そうしてアルジェリア先住民\nの土地使用状況と、植民者が先住民の土地を購入できるようにする\nためのフランス側の権利関係について、フランス本土とアルジェリアの\n双方で議論が巻き起こった。1851年にかくして施行された土地法に\nより、森林地帯の国有地については全て植民者も購入できるようにな\nったが、先住部族の土地は保護された。これはある種の妥協であり、\nアルジェリアでの支持も薄かった。;;;;;;;;;;X
 ACT162704A;法案を通過させろ;;;;;;;;;;X
 ACT162704B;先住民の土地は保護せねば;;;;;;;;;;X
 EVT162705N;ランドン元帥とアルジェリア軍政の復古;;;;;;;;;;X
 EVT162705D;フランス本土でルイ・ナポレオンがクーデタに成功した。アルジェリアの植\n民者社会ではこれまで共和政が広く支持を集めてきたが、ここでも本\n土と同様に、軍部による統制が復活することになった。ナポレオンはラン\nドン元帥に命じてアルジェリアの統治機構を軍部の統制下におき、ここ\nにアルジェリアの民政は終わりを迎えることになった。;;;;;;;;;;X
 ACT162705A;軍政を復活させる;;;;;;;;;;X
 ACT162705B;民政を維持する;;;;;;;;;;X
 EVT162706N;アルジェリアでイスラム法廷の再編成;;;;;;;;;;X
 EVT162706D;ランドン総督がアルジェリアを視察に訪れたが、その目的のひとつに、先\n住民の制度体系を近代化するまでの間、先住民社会が植民者の支\n配を受けないよう保護するというものがあった。そして1854年に総督は、\nムスリム法制度を再編してカーディー(法治官)の指揮に服する宗教裁\n判所を設ける旨公示した。しかしこの改革はフランス人入植者から怒り\nを買った。先住民から入植用の土地を買う権利が制限され、またヨー\nロッパ人でも宗教裁判所にかけられるのではないかと思われたのである。;;;;;;;;;;X
 ACT162706A;法廷システムを再編する;;;;;;;;;;X
 ACT162706B;あらゆる法廷をフランスの支配下におく;;;;;;;;;;X
 EVT162707N;ドアノー事件;;;;;;;;;;X
 EVT162707D;ドアノーはトレムセンにあるアラブ局の支部長だったが、彼とかねてより険\n悪な関係にあった現地部族長が待ち伏せを受けて殺害されると、これ\nについて罪を問われることになった。入植者も先住民も、彼をアルジェリ\nア統治に軍政を敷こうとする暴君だとみなしており、オランで開かれた裁\n判はそうした立場からの糾弾の場と化した。しかしドアノーの関与を示す\n決定的な証拠だとされたものは、せいぜい状況証拠にすぎないのが実\n情だった。;;;;;;;;;;X
 ACT162707A;ドアノーを有罪にする;;;;;;;;;;X
 ACT162707B;彼は無実だ;;;;;;;;;;X
 EVT162708N;アルジェリアに鉄道;;;;;;;;;;X
 EVT162708D;アルジェリアで長期的にフランスの権益と支配を維持していくためには、\n鉄道が重要になってくるとランドン総督は考えていた。そこで1857年4\n月に布告を発してアルジェリア植民地政府に対し、オランからアルジェを\n通ってコンスタンティーヌに向かう鉄道路線を建設するよう命じた。;;;;;;;;;;X
 ACT162708A;アルジェリアでの鉄道建設を支援する;;;;;;;;;;X
 ACT162708B;植民地にそんな贅沢をする余裕は無い;;;;;;;;;;X
 EVT162709N;カビリア征服;;;;;;;;;;X
 EVT162709D;フランスの支配を受け入れまいとするカビリアでの抵抗運動には、アルジ\nェリアのフランス行政官も頭を抱え続けてきた。しかし1857年にランドン\n総督は、現地部族を屈服させてフランスの監督下に置くことを目標に、\nカビリアに派兵することを決めた。アブー・バグラ一味による抵抗は決然と\nしたものだったが、最終的にはこれも鎮圧された。;;;;;;;;;;X
 EVT162710N;アルジェリア大臣;;;;;;;;;;X
 EVT162710D;アルジェリア行政に軍の統制がかかっていることについて、入植者らの間\nで不満が高まっていたが、この傾向はドアノー事件で拍車がかかり、アル\nジェリアに民政を復活させようとの声が上がりだした。アルジェリアの軍部\nはこうした動きに反対で、アルジェリア社会が入植者に牛耳られている\nことについて、民政を導入すればきっと先住民らに敵意が芽生えるだろ\nうと考えている。;;;;;;;;;;X
 ACT162710A;アルジェリアに民政を復活させる;;;;;;;;;;X
 ACT162710B;軍政を維持する;;;;;;;;;;X
 EVT162711N;アルジェリアに県議会創設;;;;;;;;;;X
 EVT162711D;アルジェリア行政に対する軍の管制が外れたことで、フランス本土の地方\n行政区をモデルとした地方議会を求める声が上がっている。こうしてアル\nジェリアの3州それぞれに県議会が創設されたが、参政権はヨーロッパ系\n入植者に厳しく限定され、アルジェリア先住民には与えられなかった。;;;;;;;;;;X
 EVT162712N;イスラム法廷がフランスの監督下に;;;;;;;;;;X
 EVT162712D;1854年に行われたイスラム法廷の再編は、フランス人入植者からして\nみれば、アルジェリアにおける政治経済面での立場を脅かしているように\n見えた。彼らはムスリム社会がフランスの支配から離れ、社会的な並列\n構造が生まれるのを恐れたのだ。そしてシャスルー・ローバが新しくアルジ\nェリア大臣となると、1859年に布告を発し、イスラム法廷での裁判はす\nべてフランスの裁判所に上訴できるようになった。つまりイスラム法廷はフ\nランス司法システムの監督下に置かれるようになったのである。;;;;;;;;;;X
 ACT162712A;フランスの裁判所をイスラム法廷の上位に置こう;;;;;;;;;;X
 ACT162712B;イスラム法廷はフランスの司法システムの外にある;;;;;;;;;;X
 EVT162713N;ホドナ族の反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162713D;ホドナ族はアルジェリア南西部のティーテリー地方で強い勢力をもってい\nた。しかしアルジェの県議会が彼らの土地の大部分を未使用、つまりフ\nランス人入植者に払い下げられる土地として定義しなおそうとしたのに\n対し、1860年の春、彼らはフランス当局に叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X
 EVT162714N;ナポレオン3世のアルジェリア訪問;;;;;;;;;;X
 EVT162714D;入植者の追求している経済的、文化的な政策は、多数派を形成して\nいるムスリム先住民の怒りを買っている。そのためフランス軍部の指導層\nはアルジェリアでの民政復活が、植民地の安定を損ねる恐れがあるとみ\nていた。そして一方、ナポレオン3世は状況を自ら観察しようと、1860年\n9月にアルジェリアを訪問して軍部、民間問わず多くの指導者と接見し\nた。;;;;;;;;;;X
 EVT162715N;アルジェリア大臣の廃止;;;;;;;;;;X
 EVT162715D;ナポレオン3世はアルジェリアを訪問した際、アルジェリア大臣がフランス人\n入植者の言いなりであって、アルジェリアで大多数を占めるムスリムの間\nに不安定をもたらしていることを確信した。その結果として皇帝は大臣\n職を廃止し、植民地に対する軍の管制を復活させることになった。軍\n部はこれに歓喜したが、アルジェリアのフランス系入植者は怒りを禁じえ\nなかった。;;;;;;;;;;X
 ACT162715A;大臣職を廃止し、総督を呼び戻そう;;;;;;;;;;X
 ACT162715B;アルジェリアの民政は残さなければ;;;;;;;;;X
 EVT162716N;イスマイル・ユルバン;;;;;;;;;;X
 EVT162716D;イスマイル・ユルバンはギアナ生まれのムラートで、後年イスラムに改宗し\nた人物である。その彼は著書のなかで、アルジェリアの多数派であるムス\nリムの法的、経済的、文化的実態をフランスは守らなければならないと\n心情的に訴えた。ユルバンの主張によれば、アルジェリア先住民を祖国\nに忠誠を誓うフランス市民に変えていくには、これを長期にわたってじっく\nりと行われるべきであるという。またアルジェリアのフランス入植者がやって\nいる事は、フランス支配に対するムスリムの敵意をかきたてるだけだとユル\nバンは批判した。;;;;;;;;;;X
 EVT162717N;「アラブ王国」書簡;;;;;;;;;;X
 EVT162717D;ナポレオン3世はイスマイル・ユルバンの思想に深く感銘を受け、アルジェ\nリアの軍部が行っている植民地のフランス化は多数派であるムスリムを\n敵に回しているだけだと考えた。そこでナポレオン3世は総督のペリシエ\n元帥に手紙を書き、アルジェリアはフランスの庇護下にある「アラブ王国」\nであって、フランスの最終的な目標はいつの日か本国の良きパートナー\nとなれるよう、アルジェリア社会を近代化することにあるとの主張を示した。;;;;;;;;;;X
 ACT162717A;ペリシエに手紙を送る;;;;;;;;;;X
 ACT162717B;植民者はアルジェリアの礎だ;;;;;;;;;;X
 EVT162718N;1863年の元老院決議;;;;;;;;;;X
 EVT162718D;アルジェリア植民地政府が1850年代に行った土地取得には、正当性が\n疑わしいものもあった。数10万ヘクタールにわたって土地が譲渡され、\n多くの部族民が不毛な辺境の地に追いやられたのだ。こうした土地売\n買に対する批判を受けて、先住民の土地は生産性があるならばヨーロ\nッパ人入植者に譲渡してはならないとする布告が、皇帝により発せられ\nることになった。1863年に出された元老院決議はこうした要求に応える\nものだったが、これにより多くの入植者が憤慨する結果となってしまった。;;;;;;;;;;X
 ACT162718A;布告を出せ;;;;;;;;;;X
 ACT162718B;入植者の怒りを買う余裕は無い;;;;;;;;;;X
 EVT162719N;アウラード・シーディー・シャイフの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162719D;1861年にアウラード・シーディー・シャイフの首長となったサイード・スレイ\nマーンは、1864年にフランスに対し反乱を起こした。元老院決議にもか\nかわらず彼ら部族の土地が、殖民者に売却できるものとして審決され\nそうになったためである。フランスは約束を守らないという不信もあって、\n反乱はアルジェリア西部の大部分に広がっていった。;;;;;;;;;;X
 EVT162720N;アルジェリア行政局に対する軍の管制;;;;;;;;;;X
 EVT162720D;1860年にアルジェリア省が廃止されたことで、アルジェリアには軍部と文\n民の二重官僚制が生まれてしまい、司法の場でも双方の主張が対立\nするようになった。アウラード・シーディー・シャイフの反乱はこの二重制度\nに由来すると軍部は主張し、ナポレオン3世に対して文民の行政制度\nを軍の監督下におくよう求めた。入植者はこれを権利の侵害だとしてひ\nどく反発している。;;;;;;;;;;X
 ACT162720A;アルジェリアの行政局に軍の管制をきかせろ;;;;;;;;;;X
 ACT162720B;文民統制は維持されなければ;;;;;;;;;;X
 EVT162721N;ナポレオン3世が再度アルジェリアを訪問;;;;;;;;;;X
 EVT162721D;1865年、ナポレオン3世は二度目のアルジェリア訪問を行い、1860年に\nはじまる改革の影響を確かめようとした。そして1ヶ月の滞在期間中、皇\n帝は各部族や入植者、そして軍部の長といった、アルジェリアの長期的\n発展という問題を同じくする面々からの使節団と接見した。;;;;;;;;;;X
 EVT162722N;1865年の元老院決議;;;;;;;;;;X
 EVT162722D;1865年のナポレオン3世訪問を受けて、同年に元老院決議が布告さ\nれた。その内容とは全てのアルジェリア住民を、民族や宗教に関わらずフ\nランス臣民として認めることだった。つまり民事に関するフランスの法律を\n受け入れる意思があるというのなら、先住民であってもアルジェリアのヨー\nロッパ系入植者と同等の権利を持つフランス市民として、その帰化を認\nめようとするものである。入植者はこの布告に対し、アルジェリア社会に\nおける支配的地位を脅かすものとして反対意見を表明し、またムスリム\nからは、完全な市民権のためにはイスラム法を放棄せねばならないのか\nとの批判も受けた。;;;;;;;;;;X
 ACT162722A;布告を出せ;;;;;;;;;;X
 ACT162722B;入植者の怒りを買う余裕は無い;;;;;;;;;;X
 EVT162723N;アルジェリアで1868年の旱魃;;;;;;;;;;X
 EVT162723D;アルジェリアの農業は天候に依存している。1867年から1868年の冬季\nにかけては雨量が少なく、大旱魃が発生した。これによりアルジェリアの\n農村部では飢饉が発生する見込みで、またいくつもの州で農業生産\n高が減少することになった。この旱魃はなかでも、生産性の低い土地に\n追いやられていた先住民に影響を与えることとなった。;;;;;;;;;;X
 EVT162724N;アウラード・シーディー・シャイフが再度反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162724D;1864年にサイード・スレイマーンは打倒されたものの、アウラード・シーデ\nィー・シャイフは依然として反抗的なままだった。そして旱魃と、止むこと\nの無いフランス入植者の土地をめぐる圧力から、彼らは再び1869年に\n反乱を起こすことになった。;;;;;;;;;;X
 EVT162725N;アルジェリアの現状に関するベイク委員会報告;;;;;;;;;;X
 EVT162725D;1869年、フランス帝国においてアルジェリアがどうあるべきか決定するた\nめ、アルマン・ベイクを長とする委員会が設けられた。そして委員会が推\n薦したところによれば、アルジェリア先住民も入植者と同等の政治的権\n利を享受できるような自治制度が必要であるという。入植者らはこれに\n強く抗議し、北アフリカでのフランスの立場を確立するためには、アルジェ\nリアをフランスに直接統合しなければならないと主張した。;;;;;;;;;;X
 ACT162725A;勧告を受け入れる;;;;;;;;;;X
 ACT162725B;勧告を拒絶する;;;;;;;;;;X
 EVT162726N;アルジェリアで民政の復活;;;;;;;;;;X
 EVT162726D;アルジェリアはフランス本土に統合されなければならないとする、入植者\nの主張が支持されたことで、ベイク委員会やアラブ王国の構想からは\n離れ、入植者が全面的に支配する以前の体制に戻ってしまった。この\n体制において、アルジェリア先住民は権力から排除されている。;;;;;;;;;;X
 EVT162727N;クレミュー法令;;;;;;;;;;X
 EVT162727D;1870年の秋、フランスのユダヤ人団体が請願書を提出し、仏領北アフ\nリカに住むユダヤ人がフランス市民権を得られるようにと訴えた。こうした\n運動により、アルジェリア社会における一大勢力がフランス植民地に連\n関し、またフランス市民の数も増加すると主張されたのだ。しかし一方、\n入植者の多くはこの案に反対していた。アルジェリアの開発における支\n配権が弱められるかもしれないと考えたためだ。;;;;;;;;;;X
 ACT162727A;アルジェリアのユダヤ人はフランス市民だ;;;;;;;;;;X
 ACT162727B;市民権を得られるユダヤ人はフランス生まれに限る;;;;;;;;;;X
 EVT162728N;カビリアでの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162728D;1871年、フランスはプロイセンに敗北した。アルジェリアの大多数を占め\nるムスリムはこれに驚き、その多くは祖国に対するフランス支配に終わり\nが来たと考えた。そしてカビリアでは、ムハンマド・アル・ムクラーニーに率\nいられたベルベル人の一派が、フランスに対する反乱の口火を切った。;;;;;;;;;;X
 EVT162729N;ラフマーニーヤ教団がフランスへのジハードを宣言;;;;;;;;;;X
 EVT162729D;アルジェリアのイスラム神秘主義結社の中でも最大のものにラフマーニー\nヤ教団があるが、これはフランス人の入植者がカビリア地方に食い込む\nのを強く阻止してきた。だがアル・ムクラーニーが1871年に反乱を起こす\nと、間もなく教団も急進化し、ついにはアル・ムクラーニーと連合するまで\nに至る。そして教団はフランスに対するジハードを宣言し、アルジェリア東\n部にわたる大反乱が起こることになった。;;;;;;;;;;X
 EVT162730N;アルジェリアの土地所有に関するヴァルニエ法;;;;;;;;;;X
 EVT162730D;カビリアの反乱は鎮圧されたが、これを受けてアルジェリアにおけるフラン\nスの土地取得にかかる制限は、1863年から撤廃されることになった。\n反乱に参加した部族はその土地を没収され、また反乱に直接参加し\nなかった部族に対しても、彼らの所有する広大な土地についてその取得\nのために土地利用状況が再定義されることになった。ヴァルニエ法は、\nフランス入植者の大勝利の表れである。;;;;;;;;;;X
 EVT162731N;先住民法;;;;;;;;;;X
 EVT162731D;1870年代末にもなると、フランス入植者とアルジェリア先住民の関係は、\n次第に支配者と従属者のそれになっていった。そうした中1871年に制定\nされた先住民法では、先住民には別個の刑事システムが設けられた。\n植民地政府は「法と秩序」への種々の侵害を理由に、先住民に対して\n裁判無しに刑罰を与えられるようになったのである。こうした法令は、\n19世紀の後期になると多くのフランス植民地で刑法モデルとして\n採用された。;;;;;;;;;;X
 ACT162731A;先住民を抑え込まねば;;;;;;;;;;X
 ACT162731B;先住民も入植者と同じ権利を持っているだろう;;;;;;;;;;X
 EVT162732N;アルジェリアがフランス本土の行政制度に統合;;;;;;;;;;X
 EVT162732D;アルジェリアに対して入植者が究極的にもとめる政治目標は、フランス\n本土への直接統合であった。ラタシュマン(再帰属)と呼ばれたこの思\n想は本土でも広く支持を獲得し、1881年には国民議会へと上程され\nた。これが可決されれば、アルジェリアのあらゆる植民地統治機構は廃\n止され、フランス内地の県と同等の領域としての地位を得ることになる\nだろう。;;;;;;;;;;X
 ACT162732A;アルジェリアを本土の行政制度に組み込もう;;;;;;;;;;X
 ACT162732B;アルジェリアは別個に統治されるべきだ;;;;;;;;;;X
 EVT162733N;アルジェリア法とヨーロッパ系入植者の帰化;;;;;;;;;;X
 EVT162733D;フランスがアルジェリアへの植民奨励運動を活発に行ったため、フランス\n出身者以外もアルジェリアに移民するようになった。そして1880年代に\nは、アルジェリアに住むヨーロッパ系住民の半数近くが非フランス系、つま\nりスペイン人やイタリア人、マルタ人といった出自を持つようになっていた\nのだ。そこでアルジェリアのフランス人は多数派としての地位を失うのでは\nないかと考え、1889年に法案を提出し、アルジェリアで生まれた子供は\nヨーロッパ系であるなら、血統に関係なくフランス市民権を与えられるよ\nうにした。;;;;;;;;;;X
 ACT162733A;法案を通過させ、アルジェリアをフランスのまま保て;;;;;;;;;;X
 ACT162733B;フランス人でなくてもヨーロッパ系なら脅威ではない;;;;;;;;;;X
 EVT162734N;アルジェリア先住民の現状に関するジョナール報告;;;;;;;;;;X
 EVT162734D;アルジェリアがフランスの統治機構へのラタシュマン(再帰属)を果たして\nから約10年が経った。そこへ、フランスの行政官が多数派であるアルジェ\nリア先住民に対し著しく配慮の欠いた扱いをしているという報告があが\nり、国内にセンセーションが巻き起こった。こうした報告のなかでも重要\nなのが1892年のジョナール報告である。改革派のアルジェリア知事であ\nるジョナールによれば、ラタシュマンはアルジェリア先住民にとって災厄で\nあり、彼らが貧困に苦しむ一方でフランス入植者が富を得ているとのこ\nとだ。;;;;;;;;;;X
 ACT162734A;アルジェリアでの現状を調査させよう;;;;;;;;;;X
 ACT162734B;アルジェリアの先住民は危機状態にない;;;;;;;;;;X
 EVT162735N;アルジェリアに関する18人委員会報告;;;;;;;;;;X
 EVT162735D;ジョナール報告を受けて、アルジェリアの現状をきっちりと調査するために、\nジュール・フェリーを長とする18人委員会が発足した。そして報告書が出\nされたとき、政治世界に論争の嵐が巻き起こった。報告書のなかで彼ら\nは入植者政府によるアルジェリア先住民の扱いを糾弾し、また先住民に\nアルジェリアでの全面的な政治的権利を与えるよう改革を行うべきだと\nしたためである。;;;;;;;;;;X
 ACT162735A;アルジェリアには改革が必要だ;;;;;;;;;;X
 EVT162736N;アルジェリアで入植者の騒乱;;;;;;;;;;X
 EVT162736D;ドレフュス事件がもたらした社会不安に加え、アルジェリア社会を入植\n者が支配していることへの精査が次々と入ったことで、1898年の1月、\nついにアルジェリアの数都市で反ユダヤ、反ムスリム暴動が発生した。そ\nしてこの暴動は、入植者が統治により深く関われるようにしたいとする自\n治主義志向と結びつくようになった。;;;;;;;;;;X
 EVT162737N;アルジェリアに財政自治の許可;;;;;;;;;;X
 EVT162737D;入植者らの間で自治に関する抗議が増えてきたのを受けて、アルジェリ\nア側が財政委員会を組織し、それを通じて再び財政を管理できるよう\nにすることをフランス政府は提案した。この出来事は植民者の主な関心\nが、フランスへの全面的統合から、フランスの一部としてアルジェリアの行\n政を自ら支配することに、大きく変わったことを示している。;;;;;;;;;;X
 ACT162737A;財政自治を認めよう;;;;;;;;;;X
 ACT162737B;アルジェリア財政には引き続き管制をかけよう;;;;;;;;;;X
 EVT162738N;イスラム法に関するモーラン委員会;;;;;;;;;;X
 EVT162738D;アルジェリア植民地政府はその人口の大多数を占めるムスリムについて、\n彼らの制度を「近代化」することが彼らの発展に最も寄与すると考えて\nいた。そして1905年、その思想に基づき植民地政府はマルセル・モーラン\nを長とする委員会を組織し、イスラム法の編纂にあたらせることにした。\nイスラム聖職者はこれについて、イスラムの伝統にフランス的価値観を押\nし付けようとしているとみなし、これに激しく反発した。;;;;;;;;;;X
 EVT162739N;青年アルジェリアとアル・ヒラール紙;;;;;;;;;;X
 EVT162739D;20世紀初頭になると、アルジェリアのムスリム知識人にも西洋式の教育\nを受けた新世代が立ち現れるようになった。青年アルジェリアに代表され\nるこうした知識人は、ムスリムがアルジェリア社会で二等市民に甘んじ、\nまたフランスの入植者社会への同化が唱えられている現状に憤りを隠さ\nないでいた。そして1906年、彼らはアル・ヒラール紙という新聞を新しく\n創刊し、アラブ住民にその考えを広めようとした。;;;;;;;;;;X
 ACT162739A;監視するが発行を認めよう;;;;;;;;;;X
 ACT162739B;危険な考えだ、弾圧しよう;;;;;;;;;;X
 EVT162740N;青年アルジェリア覚書;;;;;;;;;;X
 EVT162740D;1912年、青年アルジェリアの一派がパリの政府に書簡を送り、アルジェリ\nアでのムスリムの二等市民としての扱い、つまり先住民法の廃止とアル\nジェリア統治に対するムスリム住民の参加を認めるよう要求した。;;;;;;;;;;X
 ACT162740;アルジェリアの民族主義が高揚している;;;;;;;;;;X
 EVT162741N;ガフサでリン鉱発見;;;;;;;;;;X
 EVT162741D;フランスがチュニジアを保護領としたのを受けて、フランス企業の投資が\n始まった。そして1885年、チュニジア西部のガフサで、鉱山会社が高品\n質のリン鉱床を発見した。;;;;;;;;;;X
 EVT162742N;チュニスでハーディーラ紙が創刊;;;;;;;;;;X
 EVT162742D;フランスがチュニジアを保護領化したことに刺激を受けて、新しい世代の\nチュニジア知識人はフランスと協力しつつイスラム社会を近代化していこ\nう、という思想を流布しだすようになった。バシール・スファルによって創刊\nされたアル・ハーディーラ紙は、この分野で最も重要な新聞となった。;;;;;;;;;;X
 EVT162743N;チュニジアに関する仏伊条約;;;;;;;;;;X
 EVT162743D;フランスがチュニジアを保護領化したことで、イタリアに強い敵意を抱かせ\nることになってしまった。イタリア人入植者の数はフランスのそれより相当\n多く、そのためイタリア政府は、チュニジアの植民地化なら我々にも利害\nがあると主張することになったのである。そのため1896年に協議が行わ\nれ、フランスはチュニジアでの立場をイタリアに承認してもらう代わりに、\n現地のイタリア人の市民権を奪わないこと、またリビアに対してイタリアが\n抱いている野心を支援することが決められた。;;;;;;;;;;X
 ACT162743A;イタリアに話を持ちかけよう;;;;;;;;;;X
 ACT162743B;取引する必要は無い;;;;;;;;;;X
 EVT162744N;青年チュニジア;;;;;;;;;;X
 EVT162744D;1900年を過ぎると、西洋式の環境で教育を受けた新世代の若きチュ\nニジア知識人も、政治組織を形成し、保護領の行政にチュニジア人が\nもっと参画できるよう要求するようになった。アリー・バーシュ・ハーンバもこ\nうした団体を率い、自身の目標について主張すべくル・チュニジアン紙を\n創刊した。;;;;;;;;;;X
 EVT162745N;諮問議会へのチュニジア人の参加;;;;;;;;;;X
 EVT162745D;フランスのチュニス総督に対し保護領開発の経費に関する助言をするこ\nとを目的として、1892年に諮問会議が設けられた。その役員は全てフ\nランス人だったが、1906年になると西欧式の教育を受けたムスリムのチ\nュニジア知識人から、チュニジア人口の大多数を占めるムスリムからも代\n表を送れるようにとの要求が出るようになった。;;;;;;;;;;X
 ACT162745A;会議にチュニジア代表をおいても良かろう;;;;;;;;;;X
 ACT162745B;チュニジア代表はフランスの国益に対する脅威だ;;;;;;;;;;X
 EVT162746N;ジャッラズ事件;;;;;;;;;;X
 EVT162746D;1911年の秋、チュニスの諮問議会は現地の採石場の拡張を認めよう\nとしたが、その対象地はムスリムの古い墓地であったことが判明した。諮\n問議会はこの認可を撤回したにもかかわらず、墓地が冒涜されるという\n話がひとり歩きし、兵士が秩序回復に乗り出す前にムスリムとヨーロッパ\n人の間で衝突が発生してしまった。;;;;;;;;;;X
 EVT162747N;1912年のチュニス運送業ストライキ;;;;;;;;;;X
 EVT162747D;1912年、チュニスで起こった鉄道事故によりムスリムの子供が死亡した\nことで、この業務に関わるムスリムは仕事をボイコットし始めた。このスト\nを組織した青年チュニジアは声明を発し、ムスリムのチュニジア人もこの\n業界であらゆる役職に就けるようにし、またヨーロッパ人労働者と同額\nの給与を得られない限り、ストは解除されないとした。そうしてこのストは\n民族主義的な様相を呈するようになったのである。;;;;;;;;;;X
 ACT162747A;ストを破り、民族主義者を捕まえる;;;;;;;;;;X
 ACT162747B;スト指導者の主張を受け入れる;;;;;;;;;;X
 EVT162755N;アブドゥルカーディルが捕縛から逃れる;;;;;;;;;;X
 EVT162755D;フランス軍はアブドゥルカーディルの勢力圏の社会基盤を実にすばやく破\n壊してまわったが、ムスリムの指導者たる彼は拘束から逃れ続け、アル\nジェリア西部の山岳地帯を確保してフランスに対する抵抗運動を継続\nした。;;;;;;;;;;X
 EVT162756N;フランス勢力がセネガルへ;;;;;;;;;;X
 EVT162756D;フランスは長らくサンルイを基点として、西アフリカのセネガル河谷に対し\n商業的な関心を持ち続けてきた。そしてセネガル河上流に住む親仏派\nの部族長らは、ハジ・ウマルがフランスとの関係を絶ってジハードに協力\nするよう圧力を強めていると言ってきた。トゥクロール北部の友邦に支援\nを送るべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 ACT162756A;友邦を助ける;;;;;;;;;;X
 ACT162756B;今アフリカで紛争を起こすリスクは負えない;;;;;;;;;;X
 EVT162757D;ハジ・ウマルに賛同するフルベ人らは、セネガル河谷にある我々の属国\n群に対して抵抗運動を組織し、この地域でのフランスの立場を脅かし\nている。;;;;;;;;;;X
 EVT162758N;フェデルブのゲム遠征隊;;;;;;;;;;X
 EVT162758D;ゲムはトゥクロール陣営のセネガル上流域における重要拠点であり、ハ\nジ・ウマルも下流域での反仏運動を支援する基地として利用していた。\nセネガル知事のフェデルブは、この要塞を無力化するために遠征軍を送\nるよう求めている。彼の計画を支援すべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 EVT162759N;ハジ・ウマルが条約を提案;;;;;;;;;;X
 EVT162759D;トゥクロールの指導者から条約の提案があった。それによればセネガルの\nフランス領は承認され、またトゥクロール内外での反仏組織への支援も\n打ち切られる。しかしその代わりに門戸開放と、セネガル川以東に対す\nるウマルの支配を承認してほしいというものだ。受諾すべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 EVT162760N;ワーロ騒乱;;;;;;;;;;X
 EVT162760D;セネガルのワーロ地方に住むウォロフ人は19世紀に、フランスの影響下\nにおかれるようになった。例えばラッカセイ栽培の導入でワーロ社会が根\n本から変化するなど、その圧力は日々強まっている。1850年代、フラン\nスがワーロ地方を直接統治下におさめようとしたことをきっかけに、ワーロ\n地方で騒乱が起こり、暴力沙汰に発展した。;;;;;;;;;;X
 EVT162761N;ダカール建設;;;;;;;;;;X
 EVT162761D;フランスは17世紀にセネガル沖合のゴレー島に交易所を設け、これを維\n持してきた。セネガル総督であるフェデルブは、ダカール本土に新たな拠\n点を建設するよう求めている。彼の主張によれば、こうすることでサンル\nイの交易所と協力してこの地方への影響力をさらに強化でき、またバサ\nーストを拠点に強まりつつあるイギリスの影響力も削ぐことができるという。;;;;;;;;;;X
 ACT162761A;セネガルの新たな中心としてダカールを築こう;;;;;;;;;;X
 ACT162761B;サンルイの植民地で充分だ;;;;;;;;;;X
 EVT162762N;ラット・ジョールの即位;;;;;;;;;;X
 EVT162762D;セネガル西部のフランス勢力圏に、カヨール王国というムスリムの国家が\nあった。ラット・ジョールはその王位継承者だったが、彼はハジ・ウマルを\n信奉する強烈な反仏派で、さらにカヨール王国における彼の指導力は\nこの地域でのフランスの影響力を脅かしうるものだった。フェデルブ総督\nは彼を退位させ、より親仏派とみられる指導者を擁立するよう求めてき\nた。;;;;;;;;;;X
 ACT162762A;ラット・ジョールを退位させよ;;;;;;;;;;X
 ACT162762B;この地域に緊張をもたらしてはならない;;;;;;;;;;X
 EVT162763N;マージュのセグー遠征隊;;;;;;;;;;X
 EVT162763D;ハジ・ウマルはベンバやマシーナに対して1860年代初めにジハードを仕\n掛け、これに成功した。そのためセネガルでの国境について、フランスは\n新たに強大な相手と取引することになってしまった。そこでフランスの総\n督から、ユージン・マージュをセグーに送ってトゥクロール国内の状況を調\nべさせ、可能ならばセネガル川に沿った現在の国境を承認させる条約\nを協議させたいという申請が来ている。;;;;;;;;;;X
 ACT162763;マージュをセグーに送る;;;;;;;;;;X
 EVT162764N;セグーからマージュ使節団が帰還;;;;;;;;;;X
 EVT162764D;ユージン・マージュは、トゥクロール国内の不安定な情勢のため、2年に\nわたりセグーに滞在することになったものの、1866年に条約を締結させ\nてセネガルへ戻ってきた。これによりトゥクロールと仏領セネガルの国境は\nセネガル川の上に引かれることになり、さらにフランス商人がトゥクロール\n市場に参入できるようになった。;;;;;;;;;;X
 EVT162765N;ヴァエリ・アフマド条約;;;;;;;;;;X
 EVT162765D;1874年、トゥクロールのアフマド皇帝はセネガル総督のヴァエリに対して\n新条約の協議を申し出た。この条約を締結すればフランスは、トゥクロ\nール帝国でより大きな貿易特権を得られることになるが、その代わりに、\n引き続きセネガル川をトゥクロールと仏領セネガルの国境として承認しな\nければならない。;;;;;;;;;;X
 EVT162766N;セネガルでアブドゥル・ブバカルの蜂起;;;;;;;;;;X
 EVT162766D;アブドゥル・ブバカルはハジ・ウマルの成功に感化され、フルベの地からフ\nランスの影響力を排しようとした。そして1870年代半ばになると、セネガ\nル東部のフルベ人集落は彼の手に落ちることとなり、1877年10月、セ\nネガル川上流域の全土で反乱が発生した。;;;;;;;;;;X
 EVT162767N;ガリエニのセグー遠征隊;;;;;;;;;;X
 EVT162767D;1870年代末、軍部や商業者の間でニジェール河谷へフランスの影響\n圏を拡大すべきだという声が大きくなっていった。この地方は潜在的なが\nらフランス製品を買ってくれる大市場であり、また西アフリカにフランスが\n勢力圏を拡大するのに戦略面から必要な土地だったためだ。そこでセ\nネガル総督から、さらなる市場参入とフランス船のニジェール川航行権\nを得るため、トゥクロールに使節団を送ってはという提案が来ている。;;;;;;;;;;X
 ACT162767A;ガリエニをセグーに送れ;;;;;;;;;;X
 ACT162767B;ニジェールに興味は無い;;;;;;;;;;X
 EVT162768N;マンゴ条約;;;;;;;;;;X
 EVT162768D;セグーに送ったガリエニ使節団は成功を収めた。アフマドはフランス商人\nにさらなる市場参入を認め、またニジェール川の航行権も許可してくれ\nたのだ。;;;;;;;;;;X
 EVT162769N;フランスのバマコ侵攻;;;;;;;;;;X
 EVT162769D;マンゴ条約により、フランスはトゥクロール帝国内に交易所を設けられる\nようになった。しかしセネガル川とニジェール川に挟まれた地域では、社\n会的な不安定のため交易所が危険にさらされている。これについてセ\nネガルに駐留しているフランス軍の司令官は、交易所の安全を確保す\nるために、トゥクロールが治安を保証できていないこの地方に兵隊を送\nる許可を求めている。;;;;;;;;;;X
 ACT162769A;バマコに兵を送れ;;;;;;;;;;X
 ACT162769B;拡張し過ぎるのは良くない;;;;;;;;;;X
 EVT162770N;フランスのケニャラン侵攻;;;;;;;;;;X
 EVT162770D;フランスの影響圏がニジェールに及ぶにつれ、近年勢力を拡大している\nマリンケの指導者、サモリ・トゥーレと接触するようになった。現地のフラン\nス軍司令官は、サモリの勢力伸張でニジェール河谷に対する支配を失\nうのではないかと考え、彼を高原に追い返すために、ニジェール川上流\nを制圧する許可を軍に与えるよう申し出ている。;;;;;;;;;;X
 ACT162770A;サモリにケニャランから退くよう求める;;;;;;;;;;X
 ACT162770B;サモリは我々の権益を脅かすまい;;;;;;;;;;X
 EVT162771N;ニジェール高地の騒乱;;;;;;;;;;X
 EVT162771D;サモリの軍はニジェールから撤退した。しかしその支持者らが抵抗運動\nを組織し、この地域へのフランス支配確立に対して反抗している。;;;;;;;;;;X
 EVT162772N;ラット・ジョールの復位;;;;;;;;;;X
 EVT162772D;フランスがプロイセンに敗北したことで、セネガルのウォロフ人が広く反乱\nを起こすのではという点が懸念された。そこでセネガル総督はかつて退\n位させたラット・ジョールをカヨール国王として復位させた。フランスと協同\nして王国内の秩序維持を行うことにラット・ジョールも賛成し、その結果\nこの地域での緊張関係は劇的に弱まった。;;;;;;;;;;X
 EVT162773N;フランス統治にラット・ジョールが反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162773D;1870年代を通して、ラット・ジョールはセネガルにおけるフランス支配に\n忠実な仲介人としてふるまった。しかし1870年代の後期、フランスがダ\nカールとサンルイを結ぶ鉄道をカヨール領を通るかたちで建設しようとした\nことで、彼の態度は一変した。一帯のウォロフ人支配が失われるのでは\nないか、と考えたラット・ジョールは鉄道建設を差止めようとした。しかし\nフランスの総督は計画を押し通して建設を始めたため、1882年末、ラッ\nト・ジョールは反乱を起こした。;;;;;;;;;;X
 EVT162774N;フランス統治にママドゥ・ラミーヌが反乱;;;;;;;;;;X
 EVT162774D;ママドゥ・ラミーヌはムリード、つまりセネガル川上流域のソニンケ社会に\nおける精神的指導者である。フランスの植民地当局からの要求が増し\nてきたことで、ラミーヌはソニンケ人から反乱軍を組織し、フランス人を追\nい払ってこの地域にトゥクロール帝国の支配を復活させようとした。;;;;;;;;;;X
 EVT162775N;サモリが条約を提案;;;;;;;;;;X
 EVT162775D;セネガル川とニジェール川に挟まれた地域においてママドゥ・ラミーヌが反\n乱を起こしたため、現地のフランス軍指揮官はサモリ・トゥーレから送ら\nれてきた、この地方での勢力圏に関して合意をなさないかとする提案に\n興味を示すようになった。これによれば、ニジェール川左岸ではフランスの\n主権が承認され、その代わりにフランスはサモリの帝国を承認し、またそ\nの独立を保障することになる。;;;;;;;;;;X
 EVT162777N;アフマドが条約を提案;;;;;;;;;;X
 EVT162777D;トゥクロールのアミールであるアフマドが、我が国とトゥクロールの関係を規\n定する新しい条約を提案してきた。これを締結すれば、トゥクロールの独\n立を我が国が承認する代わりに、アフマドは彼の領地の全土にわたって\nフランス軍の通行権を認めることになる。;;;;;;;;;;X
 EVT162778N;ニジェール大湾曲部をフランスが確保;;;;;;;;;;X
 EVT162778D;セネガルの軍司令官は、フランスが先立って確保しなければ他の列強\nがニジェール大湾曲部の支配を握ってしまうのではないかと考え、フラン\nスによる西アフリカの「文明化」という使命のため、トゥクロール帝国にフラ\nンスの直接支配を確立することを認可するよう求めてきた。;;;;;;;;;;X
 ACT162778A;フランスの宿命だ。確保しよう;;;;;;;;;;X
 ACT162778B;アフマドとの条約を尊重せねば;;;;;;;;;;X
 EVT162779N;サモリ・トゥーレとの最後の抗争;;;;;;;;;;X
 EVT162779D;サモリもフランス軍の駐セネガル指揮官も、ビサンドゥグ条約を一時的な\n休戦条約とみていた。フランス軍の指導者はサモリの対立を煽るべく腐\n心し、一方サモリもソニンケやフルベの抵抗運動に引き続き支援を与え\nていたのだ。そんな中、サモリがアフマドと協議を開き、アフマドのフランス\nに対する戦争に支援を与えようかと検討しているとの噂が流れると、セ\nネガルの軍部は西アフリカにおけるフランスの覇権のため、サモリという脅\n威を排除させてほしいと要求してきた。;;;;;;;;;;X
 ACT162779A;Send The Troops Into Beyla;;;;;;;;;;X
 ACT162779B;サモリとの条約を尊重せねば;;;;;;;;;;X
 EVT162780N;サモリ・トゥーレが捕縛を逃れる;;;;;;;;;;X
 EVT162780D;サモリの帝国の社会基盤を、フランス軍は実にすばやく破壊したが、しか\nし彼は逃げ回り捕まらないでいた。そしてサモリは象牙海岸北部に分立\nするサバンナやジャングルを確保し、フランスに対する戦いを続けた。;;;;;;;;;;X
 EVT162781N;フランスのボルヌ侵攻?;;;;;;;;;;X
 EVT162781D;フランスの覇権はコンゴ盆地から北方へ、そしてニジェールから東方へと\n拡大していき、ボルヌ地方を征服したラビーフ・イブン・アブドゥッラーとフ\nランスの関係は危機的なものとなった。ラビーフ率いる軍は彼の帝国に\n組み込むべく、フランスの支配下にある集落を襲撃していった。不安定\nの源に侵攻し、制圧すべきだろうか?これに成功すれば、西アフリカと中\n央アフリカの領地は物理的に繋がることになるだろう。;;;;;;;;;;X
 ACT162781A;チャド湖確保に向け侵攻しよう;;;;;;;;;;X
 ACT162781B;チャド湖は我々に関係ない;;;;;;;;;;X
 EVT162782N;ラビーフが捕縛を逃れる;;;;;;;;;;X
 EVT162782D;ラビーフの帝国の社会基盤を、フランス軍は実にすばやく破壊したが、し\nかし彼は逃げ回り捕まらないでいた。そしてラビーフは荒涼たるサバンナ\nを確保し、フランスに対する戦いを続けた。;;;;;;;;;;X
 EVT162783N;マダガスカル問題の解決;;;;;;;;;;X
 EVT162783D;マダガスカルを支配し完全に手中に収めることは、帝政以前からフラン\nスにおいて目標とされてきたことだった。以前はフランスが支配を得ようと\nしても、イギリスがこの島に影響力を及ぼしていたため叶わなかった。し\nかし1890年に交わされた英仏協定により、マダガスカル島に対するフラ\nンスの支配はイギリスからも認められるようになった。マダガスカルへのフラ\nンスの地位を保全するときが来たのだろうか?;;;;;;;;;;X
 ACT162783A;マダガスカルを保護領として宣言する;;;;;;;;;;X
 ACT162783B;外交的な影響力で充分だ;;;;;;;;;;X
 EVT162784N;マダガスカルがフランスの保護を拒否する;;;;;;;;;;X
 EVT162784D;フランスの保護国化提案に対し、マダガスカル政府はこれを拒否した。\nそして島内にいるフランス市民とその資産に対する襲撃が増えていると\nの報告があがっており、またマダガスカルとイギリスが接触をとっており、\nイギリスの介入を招くかもしれないとのことである。;;;;;;;;;;X
 ACT162784A;フランス帝国のためマダガスカルを確保しよう;;;;;;;;;;X
 EVT162785N;マダガスカルがフランスの保護を受諾する;;;;;;;;;;X
 EVT162785D;フランスの保護国化提案に対し、マダガスカル政府はこれを受諾した。\nこの島は今や我々の支配下にある。;;;;;;;;;;X
 EVT162786N;ボルグ地方へフランスが領有主張;;;;;;;;;;X
 EVT162786D;西アフリカにおけるフランスの勢力圏には、ソコト帝国も含まれていた。し\nかしイギリスがこのカリフ国の土地に支配を広げようとしたことで、ニジェー\nル川中流域のフランス勢力圏と繋がっているニッキのような領域が、イギ\nリスの手に落ちるおそれが出てきた。そこで顧問のなかには、ニッキがフラ\nンス支配となるよう、ボルグ地方の分割を要求してはとする者もいる。\nイギリスに対し、ボルグ地方に関して交渉を持ちかけるべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 ACT162786A;イギリスにボルグ分割を求める;;;;;;;;;;X
 EVT162787N;ボルグ地方についてイギリスが協議を拒否;;;;;;;;;;X
 EVT162787D;ボルグ地方にあるニッキの所属に関してイギリスは協議を断り、さらにこ\nの地域へ行政官を設置した。どうしようか?;;;;;;;;;;X
 EVT162788D;イギリスはソコトを征服したが、さらにチャド湖西岸にソコトが有していた\n領有主張を援用してきた。ただチャド湖に面する土地と引き換えに、ニ\nアメやアケルフといったニジェールの土地を割譲してもよいと言ってきてい\nる。我が国の軍事顧問によればこれは良い取引であり、またヨーロッパ\nで緊張が募っている今日、イギリスとの友好関係が必要になるだろうと\nのことだ。;;;;;;;;;;X
 ACT162788A;イギリスに取引を持ちかける;;;;;;;;;;X
 ACT162788B;チャド湖における我が国の地位は維持しなくては;;;;;;;;;;X
 EVT162789D;ニジェールとチャド湖岸の土地を交換する申し出について、\nイギリスはこれを快諾した。;;;;;;;;;;X
 EVT162790N;西アフリカ権益の再確認;;;;;;;;;;X 
 EVT162790D;フランスは長らく西アフリカに、セネガル河口にあるサンルイ島を拠点とし\nて、貿易上の関心を抱いてきた。1850年代の初頭、フランス商人は請\n願書を送り、大規模化した内陸部との交易にも対応できる拠点とする\nよう、サンルイ島の大陸側を制圧、確保して欲しいと訴えた。サンルイを\n完全な植民地として行政府を設けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X 
 ACT162790A;サンルイに植民地行政府をたてる;;;;;;;;;;X 
 ACT162790B;この地域に興味は無い;;;;;;;;;;X
 EVT162791N;Wolof Resistance to French Expansion In Senegal;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162791D;The Wolof Chiefs have decided to oppose the expansion of French control in Senegal, and our position had become insecure in the region. What should we do?;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162791A;We must secure our position in Senegal;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162792N;The Founding Of Libreville;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162792D;French Interest in the Gabon Estuary had been growing in the early nineteenth century. With the success of Liberia and Sierra Leone and settlements for the resettlement of rescued slaves, French interests in the Gabon esturary called for a similar settlement to be supported by the French be purchased from local chiefs. This settlement would also help secure France's trade interests in the Gabon region.;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162792A;Establish Libreville;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162793N;French Interest In The Ivory Coast;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162793D;While less the focus of interest during the height of the Slave Trade as the Gold Coast or Senegal, the Ivory Coast was seen by some French traders as a potential new source for tropical goods and as a way to divert some of the trade between the Niger Valley and the Gold Coast. Our merchants have requested that France declare the coastal areas under Baule control an area of French interest to prevent other nations from considering intervention in the area. Should we sign a treaty with the local chiefs to this effect?;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162793A;Send Bouet-Williaumez to negotiate a Treaty;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162794N;French Trade In The Ivory Coast Secured;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162794D;Bouet-Williaumez has successfully concluded a treaty with local rulers in the Ivory Coast that secures French interests in the region.;;;;;;;;;;X ,,,,
 EVT162795N;Proclaim Ivory Coast A Colony?;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162795D;The increasing interest from other nations in securing access towards the Niger River has led some advisors to call for making our position in the Ivory Coast more secure by proclaiming the area a French colony. Others maintain that the current relationship with the coastal chiefs provide enough presence to secure French interests. What shall we do?;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162795A;Establish A Colonial Administration;;;;;;;;;;X ,,,,,
 ACT162795B;Direct Rule Is Not Necessary;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162796N;Securing The Baule Hinterland;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162796D;With Samori still at large in the interior and reports of the Baule providing arms and gunpoweder to his forces that we provided the Baule in trade, our military advisors have called for an expedition to be sent to the Baule heartland to secure French control of the region and halt the arms trade.;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162796A;Send a mission to the Baule;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162797N;An Expedition To The Mossi;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162797D;The combination of Samori's continued resistance to French dominance and British expansion northwards from the Gold Coast has led our military advisors in West Africa to propose a mission be sent to the Mossi to gain a treaty of protection with France and ensure that the Mossi-dominated areas can not be used to destablize French domination of the Niger Bend area. Should we send a mission to the Mossi to demand their acceptance of French residents?;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162797A;Send The Mission To Wagadugu;;;;;;;;;;X ,,,,,
 ACT162797B;We have no interest in the Mossi lands;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162798N;The Mossi Reject French Protection;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162798D;The Naabo of the Mossi has rejected our mission's request for a French resident to be installed in Wagadugu. Our military commanders recommend we secure control of the Mossi lands before either Samori or the British are able to gain influence in the Mossi lands.;;;;;;;;;;X ,,,,
 ACT162798A;The Mossi Must Come under French Control;;;;;;;;;;X ,,,,,
 ACT162798B;Our interests can be secured without military force;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162799N;The Mossi Accept French Protection;;;;;;;;;;X ,,,,,
 EVT162799D; The Naabo of the Mossi has accepted our mission's request for a French resident to be installed in Wagadugu. Our economic and military interests in the Mossi lands have been secured.;;;;;;;;;;X ,,,,
 EVT162800N;オスマントルコによる選挙操作;;;;;;;;;;X
 EVT162800D;クリミア戦争ののち、モルダビアとワラキアは議会を開催し君主候補の選\n定をおこなうことで合法的な合併を求めていた。しかしながらオスマント\nルコはこの選定に干渉し合併反対派の議員を当選させた。列強はこ\nの動きに抗議、オスマントルコに再度の選定を要求することとなった。;;;;;;;;;;X
 ACT162800A;圧力を加え、再度の選定を行わせよう!;;;;;;;;;;X
 ACT162800B;われらに関わり合いはないな;;;;;;;;;;X
 EVT162801N;Pierre Millardet;;;;;;;;;;X
 EVT162801D;A professor of botany at the University of Bordeaux has solved two devastating problems of the wine industry - by grafting vines to North American rootstock he has brought the ravages of aphids under control and through the use of a copper sulphate and lime mix he has created the first fungicide.;;;;;;;;;;X
 ACT162801A;This will be a blessing to the vintners;;;;;;;;;;X
 EVT162801N;ピエール・ミラルデ;;;;;;;;;;X
 EVT162801D;ボルドー大学で植物学の教授を務めるピエール・ミラルデがワイン産業\nにおいて壊滅的打撃を与える二つの問題を解決した。北アメリカの品\n種を接ぎ木することを提案、これにより生産者はアブラムシ害を管理す\nることができるようになった。また彼は硫酸塩と生石灰を合成することで\n世界初の殺菌剤を作りだした。;;;;;;;;;;X
 ACT162801A;ブドウ酒の醸造業者たちには福音となるだろうな;;;;;;;;;;X
 EVT162810N;Annam Offers Cochin-China For Peace;;;;;;;;;;X
 EVT162810D;The Emperor of Annam has offered to surrender the port of Saigon and its environs in exchange for peace and toleration for Christians, should we accept?;;;;;;;;;;X
 ACT162810A;Accept the Offer;;;;;;;;;;X
 ACT162986A;France DoW ALD;;;;;;;;;;X
 EVT162989N;ラプラタ封鎖に対する疲れ;;;;;;;;;;X
 EVT162989D;ラプラタ地方介入に対する世論の支持は崩壊を始めていた。根本的\nな解決手段がないことと、国庫の圧迫が理由である。国内が混沌とす\nる前に、議会は艦隊を呼び戻すことを決めた。;;;;;;;;;;X
 ACT162989A;船を呼び戻そう;;;;;;;;;;X
 EVT162990N;リオ・デ・ラプラタにおける我々の立場;;;;;;;;;;X
 EVT162990D;フランスとイギリスは独裁者ロサスによるウルグアイの併合を恐れていた。\nまた、ロサスの影響を回避しパラグアイやアルゼンチン内陸部の市場に\n対する通商路を確保するためにパラナ河とウルグアイの河川の航行権\nに対しブエノスアイレスの知事が影響力を持つことをやめさせたかったの\nである。;;;;;;;;;;X
 ACT162990A;この地方に介入しよう;;;;;;;;;;X
 ACT162990B;そんなことに労力は裂かない!;;;;;;;;;;X
 EVT162991D;しかしながら、1840年フランスはロサスと条約を結び、リオ・デ・ラプラタ地\n方から海軍を撤退させ、モンテビデオはオリブの軍と、アルゼンチン連合に\n対し無防備になった。その後、フランス軍はマルティン・ガルシア島の陸\n軍を解散した。;;;;;;;;;;X
 ACT162991B;権益を守る立場に立つ;;;;;;;;;;X
 EVT162992N;フランス海軍、リオ・デ・ラプラタに戻る;;;;;;;;;;X
 EVT162992D;フランスはアルゼンチン、\nメソポタミア地方内陸の河川の通行権を維持する必要がある。;;;;;;;;;;X
 ACT162992A;さて再度干渉しようか;;;;;;;;;;X
 ACT162992B;繰り返すのはやめよう!;;;;;;;;;;X
 EVT162993N;アマパ戦争におけるフランスの敗北;;;;;;;;;;X
 EVT162993D;アマパ地方を巡るブラジルとの小競り合いののち、仏領ギアナが失われ\nた。ブラジルは我らに和平を要求している。条約はブラジルがアマパを領\n有することを認めさせるものであり、戦時賠償としてギアナ植民地の支\n配権をブラジルに移転することが含まれていた。;;;;;;;;;;X
 ACT162993A;受諾しよう;;;;;;;;;;X
 ACT162993B;撤退はするが、降伏はしない;;;;;;;;;;X
 EVT162994N;アマパ戦争におけるフランスの勝利;;;;;;;;;;X
 EVT162994D;アマパ占領を原因とする宣戦布告ののち、我が国はブラジルの諸州の\n制圧に成功した。外交官はフランスに和平をもちかけ、アマパをフランス\n領として認めることを強要した。;;;;;;;;;;X
 ACT162994A;和平を強要する;;;;;;;;;;X
 ACT162994B;より大きな利益を求める!;;;;;;;;;;X
 EVT162995N;スイス、アマパ問題においてブラジル側に立つ;;;;;;;;;;X
 EVT162995D;スイスはアマパ問題においてブラジルの側にたつことを決めた。抗争のも\nととなっている地方を返却する必要があるだろう。;;;;;;;;;;X
 ACT162995A;スイスの決定には従わなければな;;;;;;;;;;X
 EVT162996N;スイス、アマパ問題においてわれらの側に立つ;;;;;;;;;;X
 EVT162996D;スイスはブラジルと抗争中のアマパ問題において我々の側にたつことを\n決めた。この地方は我らのものと見なされたのだ。;;;;;;;;;;X
 ACT162996A;すごいぞ;;;;;;;;;;X
 EVT162997N;ブラジル、我らの提案を受諾;;;;;;;;;;X
 EVT162997D;ブラジルはフランスによるアマパ地方の購入を受諾。;;;;;;;;;;X
 ACT162997A;支払いを行おう;;;;;;;;;;X
 EVT162998N;ブラジル、我らの提案を拒否;;;;;;;;;;X
 EVT162998D;ブラジルはフランスによるアマパ地方の購入を拒否。;;;;;;;;;;X
 ACT162998A;この問題から手を引く;;;;;;;;;;X
 ACT162998B;アマパを占領する;;;;;;;;;;X
 EVT162999N;仏領ギアナの拡大;;;;;;;;;;X
 EVT162999D;19世紀の終わり、ギアナのフランス人植民地は、ゴムの木を求めアマゾ\nンのジャングルを内陸に向かい拡大していた。その課程において彼らは\nブラジル領アマパにいくつかの入植地を建設していた。この地域は彼ら\nにより明け渡されたのだから、われらに入植する権利がある。入植者た\nちはブラジルに有利に国境線を設定した、1713年のユトレヒト条約の\n改定を要求している。;;;;;;;;;;X
 ACT162999A;先に定められた国境線を認めよう;;;;;;;;;;X
 ACT162999B;アマパを購入する;;;;;;;;;;X
 ACT162999C;アマパを占領する;;;;;;;;;;X

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