3/9 ファラポス→ファハポス

 EVT128005N;陸軍における実証主義思潮;;;;;;;;;;X
 EVT128005D;パラグアイとの戦争ののち、陸軍において実証主義の影響が見られた。\n実証主義的段階に到達するために、現代的社会は基礎科学を確立\nし、秩序と進歩とを両立させる必要がある。もしそのために暴力が必要\nとなってもだ。ブラジル陸軍は実証主義を、共和国の理念とみなした。\nいくらかの士官は政府組織における害悪を糺すことで、共和国の独裁\n化に寄与しているのではないかと感じた。;;;;;;;;;;X
 ACT128005A;進歩と秩序を;;;;;;;;;;X
 EVT128017N;ランセイロネグロの裏切り;;;;;;;;;;X
 EVT128017D;ランセイロネグロは解放奴隷により組織された軍団である。その存在は\n王室脅威を与えており、パンチ・ベルデ和平対象でもあった。指揮官デ\nビ・カナバッロに裏切られ武装解除された彼ら黒人兵士はのちに侯爵\nとなるカシアス率いる帝国軍の攻撃により1844年11月壊滅的打撃を\n受け、解放奴隷の問題は終わりを告げる。;;;;;;;;;;X
 ACT128017A;アフリカ人は奴隷だ!;;;;;;;;;;X
 ACT128017B;彼らは自由を勝ち取った;;;;;;;;;;X
 EVT128018N;第二次ファハポス戦争;;;;;;;;;;X
 EVT128018D;ピラティニ共和国の存在は軍にとって恥辱であり、彼らは我が国に敵対\nしている。我らは今一度武器を取りこれに終焉を与えるべきである。;;;;;;;;;;X
 ACT128018A;やめておこう、彼らは自由を勝ち得たのだ;;;;;;;;;;X
 ACT128018B;反逆者に死を!;;;;;;;;;;X
 EVT128020N;アマゾナス劇場の開演;;;;;;;;;;X
 EVT128020D;マナウスの熱帯雨林の奥深く、威厳に満ちたアマゾナス劇場が開場し\nた。これは天然ゴム産業の力を誇示するものであり、マナウスを国際的\nな舞台へとひきあげた。;;;;;;;;;;X
 ACT128020A;よろしい;;;;;;;;;;X
 EVT128021N;アマゾナス劇場の閉館;;;;;;;;;;X
 EVT128021D;ゴム栽培の好況が終わりを告げ、マナウスはゴーストタウンと化した。;;;;;;;;;;X
 ACT128021A;くそったれ!;;;;;;;;;;X
 EVT128022N;ブラジルの議会主義;;;;;;;;;;X
 EVT128022D;この当時憲法により、皇帝は絶対の権力で大臣を任命し自由に内閣\nを組織することができた。しかしながら1843年、彼は一人の閣僚に内\n閣の編成を委任、議会主義への最初の段階を踏んだ。この案を気に\n入った皇帝は1847年7月20日布告を出し、内閣総理大臣職を新設\nブラジルでの古典的な議会主義が始まった。;;;;;;;;;;X
 ACT128022A;議会主義を始めようか;;;;;;;;;;X
 ACT128022B;このままでいこう;;;;;;;;;;X
 EVT128023N;ドンペドロ二世の即位;;;;;;;;;;X
 EVT128023D;1840年5月、ドン・ペドロ二世として知られるわずか14歳の\nペドロ・デ・アルカンタラ・ジョアン・カルロス・レオポルド・\nサルバドール・ビビアーノ・フランシスコ・ザビエル・デ・パウラ・\nミゲル・ガブリエル・ラファエル・ゴンザガ\nが正式に即位し9年に及ぶ摂政の期間が終わる。\nまたこれにともない摂政は廃止された。\n \n彼は皇帝即位を期にバライヤーダ、カバナゲム、ファルピーリャ、\nサビーノ、プレロスなどの反逆勢力に対して大赦を行う。\nドン・ベドロ二世の即位とコーヒー農場の拡大はついに\nドン・ベドロ一世治下の荒波のような時代からの\nブラジルを脱却させることとなった。;;;;;;;;;;;X
 ACT128023A;ドンペドロ二世が即位した;;;;;;;;;;X
 EVT128024N;皇帝の成婚;;;;;;;;;;X
 EVT128024D;婚約にもとづいてやってきた王女と、ブラジルに送られてきた彼女の肖\n像とのあいだにはなんらの共通点も見られなかった。彼女は醜く、短躯\nで、太っており片足をひきずっていた。そのうえドンペドロ二世より四歳も\n年上であった。この婚約者を見た衝撃から、若き王は教育役のコンデッ\nサ・デ・ベルモンテの腕の中で嘆き悲しんだ。「責務を果たしなさい」と彼\n女は伝えたことだろう。1843年5月30日、皇帝はブルボン家のテレサ・\nクリスティナと婚姻。両シチリア王国の国王フランチェスコ1世の娘である。;;;;;;;;;;X
 ACT128024A;ご成婚だ;;;;;;;;;;X
 EVT128025N;ドンペドロ二世の死;;;;;;;;;;X
 EVT128025D;1891年12月6日、亡命先のパリで最後のブラジル人皇帝ドンペドロ二\n世が死去した。王政復古にかける僅かな望みとともに。;;;;;;;;;;X
 ACT128025A;最後のブラジル王家の血が途絶えた;;;;;;;;;;X
 EVT128026N;「グアラニー」;;;;;;;;;;X
 EVT128026D;カルロス・ゴメスにより著された最も有名なブラジルの歌劇。\n初演はミラノのスカラ座。;;;;;;;;;;X
 ACT128026A;「グアラニー」は総立ちの喝采を受けた;;;;;;;;;;X
 EVT128027N;エウクリーデス・ダ・クーニャ「奥地」;;;;;;;;;;X
 EVT128027D;「奥地」は沿岸の'文明都市'から距離を置いた\nブラジルの違った一面を見せてくれる作品だ。\n \nこの作品は、国内に野蛮でそして巨大な全く違った国が\n存在していることを教えてくれる\nまたこの作品はブラジル人たちの記憶に新しい、\nカヌードスの血なまぐさい事件を取り扱っている。;;;;;;;;;;;X,,,,,,
 ACT128027A;「奥地」が出版された;;;;;;;;;;X
 EVT128028N;バトルオブ・ポーパス;;;;;;;;;;X
 EVT128028D;第一次大戦中、大西洋を警戒しセネガルに向かっていた海軍はダカー\nルに碇泊。スペイン風邪により半数の船員が感染死亡した。その後ジ\nブラルタルに到着した小艦隊は浅瀬に群れていたイルカ(porpoise)に\n砲撃を開始。ドイツの潜水艦と誤認したためである。;;;;;;;;;;X
 ACT128028A;我が海軍が?なんてこった!;;;;;;;;;;X
 EVT128029N;サントス・デュモン、パリ上空を飛行;;;;;;;;;;X
 EVT128029D;1906年11月12日、アルベルト・サントス・デュモンは、パリの群衆を前に\n14-bis号で六度の飛行を行った。空気より重い装置による最初の飛\n行とされた。一年後、アメリカのライト兄弟の初飛行(1903年)が露見す\nるまでこの説は信じられた。;;;;;;;;;;X
 ACT128029A;ライト兄弟?誰よそれ!?;;;;;;;;;;X
 EVT128038N;自由な子宮法;;;;;;;;;;X
 EVT128038D;1871年9月28日、リオブランコ子爵による保守内閣は自由な子宮法を\n採択した。奴隷制廃止運動は自由主義者にとって主要な議題であり\n最も過激な自由主義者を数年に渡り抑えるため保守派は妥協点を\n求めることを強いられた。;;;;;;;;;;X
 ACT128038A;彼らは自由の身で産まれることができる;;;;;;;;;;X
 EVT128039N;サライバ=コテギペ法;;;;;;;;;;X
 EVT128039D;1884年9月28日、奴隷制廃止運動を抑える目的でもうひとつの法案\nが可決された。この法案では60歳以上の奴隷を解放することを宣言し\nていた。しかしながら、この法案でもその年齢に従い主人に対して償い\nのために数年を無償の労働を行う必要はあった。より多くの自由を保\n障していたものの法案は、ほとんどの奴隷は60まで生きない、というブラ\nックジョークを生み出した。また、この法案は非生産層である農奴に対\nしては適用を除外されている。;;;;;;;;;;X
 ACT128039A;彼らは自由の身で死ぬことができる;;;;;;;;;;X
 EVT128040N;奴隷制廃止同盟;;;;;;;;;;X
 EVT128040D;奴隷制廃止同盟が結成された。この集団が結成されたことにより、奴\n隷制廃止闘争は過激化し、逃亡奴隷に対して強力な支援がなされ\nた。これにより大量の逃亡が発生し、多くのキロンボ(解放奴隷集落)が\n形成された。キロンボはリオデジャネイロやサントスなど大都市の近郊や\n内部に作られた。;;;;;;;;;;X
 ACT128040A;奴隷のために闘う新しい集団だ;;;;;;;;;;X
 EVT128041N;花闘争;;;;;;;;;;X
 EVT128041D;イザベル王女がペトロポリスの街道に出向き椿の花を配った。この花は\n奴隷制廃止の象徴であり、その後を廃止論者たちが寄付を求め付き\n従った。;;;;;;;;;;X
 ACT128041A;イザベル王女は花で闘う;;;;;;;;;;X
 EVT128044N;1842年の自由主義革命;;;;;;;;;;X
 EVT128044D;1842年5月、自由主義革命が首都において発生した。反乱軍はラフ\nァエル・トビアス・デ・アギアルにより率いられおり、ディオゴ・フェイジョ司祭\nの支援を受けていた。彼らは首都への侵攻を目論んだが、カシアス男\n爵により率いられた陸軍に鎮圧された。これによりフェイジョは投獄。カ\nシアスは陸軍とともに戦闘に制し、首謀者は投獄されたが、のち1844\n年3月皇帝により特赦された。;;;;;;;;;;X
 ACT128044A;自由主義者の叛乱だ!;;;;;;;;;;X
 EVT128045N;英国大使事件;;;;;;;;;;X
 EVT128045D;ブラジル駐在のイギリス大使、ウィリアム・クリスティーは、\nドン・ペドロ二世に砂州に座礁した英国船から盗まれた、\n積荷に対する支払いを要求した。周辺住民による略奪である。\n皇帝はこの支払いを拒否した。\n \n二年後、英国人の将校二名が祈祷所で暴行事件を起こし逮捕された\nクリスティーは公式にこの将校の解放と先年の積荷への支払いを要求。\nドン・ペドロ二世は、クリスティーを追放しロンドン駐在の\nブラジル大使を呼び戻すべきか悩むこととなる。;;;;;;;;;;;X,,,,,
 EVT128045N;イギリス大使事件;;;;;;;;;;X
 EVT128045D;ブラジル駐在のイギリス大使、ウィリアム・クリスティーは、\nドン・ペドロ二世に砂州に座礁したイギリス船から盗まれた、\n積荷に対する支払いを要求した。周辺住民による略奪である。\n皇帝はこの支払いを拒否した。\n \n二年後、イギリス人の将校二名が祈祷所で暴行事件を起こし逮捕された\nクリスティーは公式にこの将校の解放と先年の積荷への支払いを要求。\nドン・ペドロ二世は、クリスティーを追放しロンドン駐在の\nブラジル大使を呼び戻すべきか悩むこととなる。;;;;;;;;;;;X,,,,,
 ACT128045A;ウィリアム・クリスティーを追放;;;;;;;;;;X
 ACT128045B;謝罪し積荷の対価を支払う;;;;;;;;;;X
 EVT128046N;レオポルドは我らに好意的だ;;;;;;;;;;X
 EVT128046D;ベルギー王レオポルド一世はクリスティーの件に関して我らに好意的だ。;;;;;;;;;;X
 ACT128046A;イギリスと和解する;;;;;;;;;;X
 ACT128046B;そのままでよい;;;;;;;;;;X
 EVT128047N;レオポルドは英国よりの立場だ;;;;;;;;;;X
 EVT128047D;ベルギー王レオポルド一世はクリスティーの件に関して英国に好意的だ。;;;;;;;;;;X
 EVT128047N;レオポルドはイギリスよりの立場だ;;;;;;;;;;X
 EVT128047D;ベルギー王レオポルド一世はクリスティーの件に関してイギリスに好意的だ。;;;;;;;;;;X
 ACT128047A;彼らに従おう;;;;;;;;;;X
 ACT128047B;支払わない;;;;;;;;;;X
 EVT128048N;ブラジル民法;;;;;;;;;;X
 EVT128048D;1917年、数ヶ月の猶予期間ののち、ブラジル政府はブラジル人民法を\n採択した。裁判はより容易に効果的に行われることとなるだろう。;;;;;;;;;;X
 ACT128048A;採択しよう!;;;;;;;;;;X
 ACT128048B;民法なんて必要ない!;;;;;;;;;;X
 EVT128050N;王室の追放;;;;;;;;;;X
 EVT128050D;暫定共和国政府はまっさきに王室追放を行った。共和国樹立の宣言\nが行われた、その両日後にドン・ペドロ二世は国外退去を命じられるこ\nととなる。クーデターから二日後、彼はこれを承伏し家族と共にブラジル\nを去ることとなった。;;;;;;;;;;X
 ACT128050A;追放しよう、王室は脅威だ!;;;;;;;;;;X
 ACT128050B;王室は無害だ;;;;;;;;;;X
 EVT128052N;最初の海軍反乱;;;;;;;;;;X
 EVT128052D;海軍のクストディオ・メロ提督に率いられたグアナバラ湾の艦隊が陸軍\n畑のデオドロ・ダ・フォンセカ大統領に反する意向をもって都市を砲撃し\nた。これにより大統領の辞任は決定的となった。;;;;;;;;;;X
 ACT128052A;クストディオ・メロはリオデジャネイロを脅かしている;;;;;;;;;;X
 EVT128053N;ジョゼ・デ・アレンカールと世界先住民運動;;;;;;;;;;X
 EVT128053D;ブラジル浪漫主義小説は「真の国家の存在意義」を先住民たちを\nブラジル人の手によって美化することによって模索した。\n \n小説家ジョゼ・デ・アレンカールは、卓越した技巧をもって「グアラニー」、\n「イラセマ」などをあらわしこれを顕現してみせた。;;;;;;;;;;;X,,,,,,,
 ACT128053A;この著作群はブラジルのナショナリズムに影響を与えた;;;;;;;;;;X
 EVT128054N;マシャード・デ・アシスと社会批評;;;;;;;;;;X
 EVT128054D;ブラジル文学における社会批評の現れとしてもっとも重要なものはマシャ\nード・デ・アシスである。「ドン・カズムーロ」や「ブラス・クーバスの死後の\n回想」などのロマンス小説や「オ・エイリアニスト」などの短編は、敏感に\n社会変化と帝国制度の危機を辛辣に皮肉った。;;;;;;;;;;X
 ACT128054A;マシャード・デ・アシスとその作品;;;;;;;;;;X
 EVT128055N;国際文芸学会;;;;;;;;;;X
 EVT128055D;1876年、他の知識層とともにマシャード・デ・アシスは\nブラジル文芸学界を設立し、その初代会長となった。;;;;;;;;;;X
 ACT128055A;国際文芸学会が誕生した;;;;;;;;;;X
 EVT128056N;刑法の再編;;;;;;;;;;X
 EVT128056D;保守内閣で最も熱心に話し合われた議題は刑法の再編についてであ\nった。これには法の執行と警察機関の中央集権化が含まれている。都\n市で選出された判事に上位職である帝国政府に任命された判事を\n罷免する権利を委ねるというものである。農地改革論者の主流層のい\nくらかと自由主義者の代表たちの間でこの改革は嫌われ承伏されなか\nった。;;;;;;;;;;X
 ACT128056A;採択しよう!;;;;;;;;;;X
 ACT128056B;新しい刑法は必要ではない;;;;;;;;;;X
 EVT128057N;信仰問題;;;;;;;;;;X
 EVT128057D;一人の司祭がフリーメーソンの儀式に参加したことを理由に司教に停\n職を命じられた。その後オリンダとパラの司教がフリーメーソンのカトリック\n儀式への参加を禁止。ドン・ペドロ二世はこれに仲裁しこの措置を禁じ\nるよう命じた。司祭はその姿勢を崩さず、結果投獄され強制労働の判\n決が下る。彼らはバチカンの援助をうけ他の司祭たちとも連携していた\nのち司祭らは大赦されたが、カトリック教会はドン・ペドロを許すことは\nなく、支援は打ち切られた。;;;;;;;;;;X
 ACT128057A;フリーメーソンの側に立とう;;;;;;;;;;X
 ACT128057B;教会側に立とう;;;;;;;;;;X
 EVT128058N;選挙法の再編;;;;;;;;;;X
 EVT128058D;都市住民の意見の一部を受ける形で、1881年1月ルイ・バルボーサに\nより起草、再編された選挙法が施行された。直接選挙を制定し、非カ\nトリック教徒と解放奴隷に被選挙権を認めた。しかし、この法律でも選\n挙権を得るには年の収入が200ミルレイス(金貨)必要とされていた。つ\nまり、ごく少数の地権者か、成功した商人もしくは資本家しか選挙に参\n加することはできなかった。;;;;;;;;;;X
 ACT128058A;受諾;;;;;;;;;;X
 ACT128058B;否認;;;;;;;;;;X
 EVT128059N;共和主義者宣言;;;;;;;;;;X
 EVT128059D;1870年12月リオデジャネイロで「共和主義者宣言」が発表されたこと\nにより共和主義者が誕生した。この書籍は帝政へのユニテリアズムに対\n立する理由で連邦主義者を擁護、また国と教会の癒着した政体と終\n身制の議会が終焉を迎えることを指摘していた。これらの意見は重要\nなプロヴィンスで力を得。各地方に共和主義政党が結成、古い党派は\n刷新されることとなった;;;;;;;;;;X
 ACT128059A;君主制が衰退しいてく;;;;;;;;;;X
 EVT128060N;工業界の反発;;;;;;;;;;X
 EVT128060D;君主政に対する反発はサンパウロやリオデジャネイロにおける工業家や\n都市部の中流層にも広まった。工業化は国外からの輸入を減らしたか\nったが、地権者により貴族支配された議会に入り込む隙間はなかった\nのだ。都市層は非直接選挙制の廃止と権利の拡大を要求し、1876\n年人口の0.25%に対して選挙権が認められた。;;;;;;;;;;X
 ACT128060A;貴族主義者が衰退していく;;;;;;;;;;X
 EVT128064N;労働者同盟;;;;;;;;;;X
 EVT128064D;国際的に認められた最初の労働者の組合である労働者同盟が1908\n年に結成された。二年後、同盟は最初の労働者大会を開催した。19\n08年から1909年と1913年から1915年の間、労働者同盟は機関誌「\n労働者の声」を発行した。;;;;;;;;;;X
 ACT128064A;労働者が発言を始めた;;;;;;;;;;X
 EVT128065N;労働者党;;;;;;;;;;X
 EVT128065D;伝統的な政治システムとは無関係に、労働者層は独自に彼ら権利を\n拡大するため力を合わせはじめた。19世紀の終わりには、初の労働者\n連盟が結成、のちにこれが労働者組合となる。そして1890年労働党\nが結成された。;;;;;;;;;;X
 ACT128065A;労働者が発言権を得た;;;;;;;;;;X
 EVT128066N;ブラジル社会党;;;;;;;;;;X
 EVT128066D;労働党の基盤が成立したのち、1902年ブラジル社会党が結成、\n機関誌「アバンティ(前進)」の発行を開始する。;;;;;;;;;;X
 ACT128066A;労働者はさらに発言権を得ている;;;;;;;;;;X
 EVT128067N;1917年のゼネスト;;;;;;;;;;X
 EVT128067D;1917年はゼネストへと発展する小さなストライキが続けざまに発生した\nきっかけはサンパウロで7月に発生した4万5千人規模のストライキであ\nる。20%の賃上げと投獄された労働者の赦免と解放、小売価格の補\n償など、政府に対するいくつかの要求を行った。;;;;;;;;;;X
 ACT128067A;要求の一部を受け入れよう;;;;;;;;;;X
 ACT128067B;要求を全面的に受け入れよう;;;;;;;;;;X
 ACT128067C;ストライキを押さえ込め;;;;;;;;;;X
 EVT128068N;13人の将軍による声明;;;;;;;;;;X
 EVT128068D;事態はさらに悪化し、法秩序の回復はみられなかった。フロリアノに対\n抗する形で13人の士官(将軍、元帥)が1892年4月声明を発表、ただ\nちに憲法に従う形で大統領選挙を行うよう要求した。これに対するフロ\nリアノの対応は実にシンプルであった。\n \n全員更迭。;;;;;;;;;;X
 ACT128068A;全員更迭せよ;;;;;;;;;;X
 ACT128068B;全員逮捕せよ;;;;;;;;;;X
 ACT128068C;降参しよう;;;;;;;;;;X
 EVT128071N;セアラ州における奴隷制崩壊;;;;;;;;;;X
 EVT128071D;セアラ州は浅瀬に面するため船舶は接舷できず、\n船荷をジャンガダと呼ばれる小さな筏を利用して積みおろしする必要があった。\nこの筏の顔役フランシスコ・ドナシメントは奴隷解放運動に参加し、\n積荷として奴隷を乗船させることを拒否し、また他の筏にもこれを徹底した。\nこうしてセアラ州での奴隷の乗船および受け取りは不可能となった。\n官憲や政府の圧力にもかかわらずジャンガダの船団は\n強硬に南東に向かうあらゆる船に奴隷を運ぶことを許さなかった。\n \nこの運動は成功し、1884年3月セアラ州において奴隷制は事実上崩壊した。\nフランシスコ・ドナシメントはこの行動から、\n海龍(シードラゴン)として知られることとなった。;;;;;;;;;;;X,
 ACT128071A;奴隷達を解放しよう;;;;;;;;;;X
 EVT128072N;アメリカの綿花栽培が壊滅;;;;;;;;;;X
 EVT128072D;1860年代、綿花は国際市場において二番手の流通量を誇っていた。\n南北戦争により南部アメリカにおける綿花栽培が崩壊した結果、この\n傾向はさらなる拡大をみせた。;;;;;;;;;;X
 ACT128072A;綿花栽培を始めよう;;;;;;;;;;X
 EVT128073N;アメリカの綿花栽培が回復;;;;;;;;;;X
 EVT128073D;南北戦争終結後、アメリカの綿花栽培は彼らの努力と経済の持ち直\nしにより回復した。ブラジルの商品は競争力を失い、綿花農場は荒れ\n地となった。;;;;;;;;;;X
 ACT128073A;市場が失われた;;;;;;;;;;X
 EVT128088N;ブラジル商業法;;;;;;;;;;X
 EVT128088D;1850年、ブラジル政府は商業、金融機関、海運業などを規制するた\nめに商法を採択。この商法は、1808年の商法の基本といわれるフラン\nス商法につよく影響されたものであった。;;;;;;;;;;X
 ACT128088A;採択しよう!;;;;;;;;;;X
 ACT128088B;市場のルールに任せよう;;;;;;;;;;X
 EVT128090N;二回目の海軍反乱;;;;;;;;;;X
 EVT128090D;クストディオ・メロ提督に率いられた反乱軍は王政復古派のサラダナ・\nダ・ガマ提督に支援を受けた。戦艦アキダバン・クストディオにより首都を\n脅かし旧憲法の回復を要求、サンタクルズの要塞と戦火を交わした。;;;;;;;;;;X
 ACT128090A;クストディオ・メロが再びリオデジャネイロを脅かしている!;;;;;;;;;;X
 EVT128091N;デステホ侵攻;;;;;;;;;;X
 EVT128091D;サンタ・カタリーナのデステホが叛乱した海軍により獲得されたことにより\n二つの革命勢力が合流することとなった。海軍と連邦主義者、彼らは\nいまや同じ未来を目指していた。;;;;;;;;;;X
 ACT128091A;クストディオ・メロがデステホに上陸した;;;;;;;;;;X
 EVT128092N;アルマカオの戦い;;;;;;;;;;X
 EVT128092D;1894年3月13日、叛乱海軍は政府軍により鎮圧された。サラダナ・ダ\n・ガマ提督と525人の反逆者はグアナベラ湾に碇泊していたポルトガル\n船に亡命を誓願。この事件によりポルトガルとブラジルの外交関係は破\n綻することとなる。;;;;;;;;;;X
 ACT128092A;なんてこった!;;;;;;;;;;X
 EVT128094N;アントニオ・コンセルヘイロ;;;;;;;;;;X
 EVT128094D;アントニオ・コンセルヘイロがペルナンブコの内陸において宗教結社を結\n成。1893年彼は地方の権力者に衝撃をあたえその名を知らしめた。\n税率の引き上げが理由である。コンセルヘイロは共和国と戦い、貧民の\n生活を守る新しい政体を立ち上げるよう呼びかけた。この結果、彼は王\n政復古派と見なされるようになる。彼は支持者とともに増税の布告を\n拒否。市民、宗教の権力者層と継続的な闘争を始めた。;;;;;;;;;;X
 ACT128094A;アントニオ・コンセルヘイロがペルナンブコで伝道している;;;;;;;;;;X
 EVT128095N;カヌードスの救け村;;;;;;;;;;X
 EVT128095D;教会に発言を禁じられ、警察に追われたアントニオ・コンセルヘイロとそ\nの支持者達はさらに内陸へと向かい、カヌードスの救け村(Arrial de Ca\nnudos)を立ち上げた。原始的な集落と私兵による宿営地を混ぜたよう\nな集まりであり、およそ30000人の住民がいた。この集落は地方の支配\nを宣言し、教会に不安感を与えた。アントニオ・コンセルヘイロは自営の\nために武装集団の組織を始めていた。;;;;;;;;;;X
 ACT128095A;アントニオ・コンセルヘイロが廃村カヌードスを発見した;;;;;;;;;;X
 EVT128096N;カヌードスの乱;;;;;;;;;;X
 EVT128096D;1896年11月から1897年3月までの間、連邦軍勢力は三度カヌードス\nに猛攻撃をしかけ打ち負かされた。この敗北は政府を震え上がらせ18\n97年中旬、ギマレス将軍率いる二門の砲とマシンガンを備えた8000人\nの大部隊による遠征が行われた。戦闘は1897年7月に始まり10月ま\nで続いた。政府軍は都市の制圧と、アントニオ・コンセルヘイロの殺害に\n成功。その後五日間戦闘は続いた。;;;;;;;;;;X
 ACT128096A;兵を送ろう;;;;;;;;;;X
 ACT128096B;そのままで構わない;;;;;;;;;;X
 EVT128097N;カヌードスでの敗北;;;;;;;;;;X
 EVT128097D;連邦軍はクインクイン・コイアムに指揮されたカヌードスのガンマンに撃\n退された。彼らは大鎌や木の棒、骨董品のライフルで兵士達に襲いか\nかった。コンセルヘイロと闘う士官はカヌードスでの戦闘員は少なく物理\n的・地勢的にも不利であることを熟知していた。;;;;;;;;;;X
 ACT128097A;もっと兵を送るのだ!;;;;;;;;;;X
 ACT128097B;そのままで構わない;;;;;;;;;;X
 EVT128098N;カヌードスでの勝利;;;;;;;;;;X
 EVT128098D;大砲とマシンガンで武装した連邦軍兵士はついにカヌードスの包囲に\n成功。飢餓や脱走よる重篤な損失にもかかわらずコンセルヘイロの支\n援者はゲリラ作戦を決行。コンセルヘイロ自身は包囲攻撃の際死亡し\nたが、戦闘終結にはそれからさらに五日を要した。カヌードスの乱は連\n邦政府によるそれまでで最大の市民虐殺となった。;;;;;;;;;;X
 ACT128098A;勝利だ;;;;;;;;;;X
 EVT128099N;大砲を持ってこい!;;;;;;;;;;X
 EVT128099D;カヌードスにより感化された世論を沈めるため、政府は早急にアントニオ\n・コンセルヘイロを鎮圧する必要に迫られた。第四次遠征軍は20000\n人の兵士と四人の将軍により編成され、陸軍大臣みずらかも戦地に\n赴くこととなった。;;;;;;;;;;X
 ACT128099A;村に照準を合わせろ!;;;;;;;;;;X
 EVT128105N;リオグランデドスルにおけるブランコ党の襲撃;;;;;;;;;;X
 EVT128105D;ウルグアイの内政が、ブランコ党とコロラド党の対立により数年に渡り緊\n張。1860年ごろからアギーレに率いられたブランコ党員はコロラド党とブ\nラジルの内政干渉に異議を唱え、国境付近の牧場を再三にわたり襲\n撃した。;;;;;;;;;;X
 ACT128105A;抗議しよう;;;;;;;;;;X
 ACT128105B;新たな対立を深める必要はない;;;;;;;;;;X
 EVT128108N;愛国者による義勇軍;;;;;;;;;;X
 EVT128108D;パラグアイ戦争において、戦時動員はなされなかった。パラグアイ戦争に\n参加した兵士122,700人のうち実に54,500人が義勇兵であった。これ\nは歴史上はじめてブラジル人が同じ目的のために共通の敵にあたった\n事件である。;;;;;;;;;;X
 ACT128108A;義勇兵を用いる;;;;;;;;;;X
 ACT128108B;常備軍だけでいい;;;;;;;;;;X
 EVT128110N;アルフレッド・タウニー著「ラグナ撤退作戦」;;;;;;;;;;X
 EVT128110D;1867年5月ブラジル陸軍は最悪の敗北を喫することとなった。この事件\nは司令官の一人であったアルフレッド・タウニーにより著されたた「ラグナ\n撤退作戦」に詳しい。カルロス・カミサオ大佐により率いられたパラグアイ\n兵を撃退するためマトグロッソに入った1680人の兵士たち。戦闘を繰り\n返し、病に悩まされ、撤退したかれらは700人まで兵を減らすこととなっ\nた。;;;;;;;;;;X
 ACT128110A;「ラグナ撤退作戦」が出版された;;;;;;;;;;X
 EVT128111N;カンポス・サレスのアルゼンチン訪問;;;;;;;;;;X
 EVT128111D;ブラジルの大統領がブエノスアイレスを訪問、三日間の祭事が催され歓\n迎を受けた。チリ政府はアルゼンチンとブラジル間に密約が行われた可\n能性を疑った。;;;;;;;;;;X
 ACT128111A;よし;;;;;;;;;;X
 ACT128111B;不必要だ;;;;;;;;;;X
 EVT128115N;カシアス侯、前線を退く;;;;;;;;;;X
 EVT128115D;ブラジルではパラグアイとの停戦を求める動きが強まっていた。総司令官\nのカシアスは停戦を要求、帝国の大臣達と抗争の外交的な解決を求\nめた。しかしドンペドロ二世は強行に継戦を主張、カシアスを辞職に追\nい込むと、後任ににイザベル王女の夫デウ伯爵を任命した。;;;;;;;;;;X
 ACT128115A;デウ伯爵を総司令官に;;;;;;;;;;X
 EVT128117N;愛国者による義勇軍;;;;;;;;;;X
 EVT128117D;1867年、あらたな徴兵の必要が生じ、義勇軍に関する法律が帝国の\nすべての市民を対象にすることとなった。徴兵の緊急性により陸軍の門\n戸は下級層に開かれ、白人やムラート(混血)、解放奴隷、貴族の区\n別はなかった。この制度により下級層の発言力が高まった。;;;;;;;;;;X
 ACT128117A;法令の範囲を拡大;;;;;;;;;;X
 ACT128117B;兵力は充分だ;;;;;;;;;;X
 EVT128118N;リオデジャネイロの再開発;;;;;;;;;;X
 EVT128118D;ペレイラ・パソス市長は都市の大規模な再開発を行った。\n中央通りの開通、港湾の現代化、ベイラ・マル通りの建設。\n街路と歩道の整備、一般道の舗装、レーメトンネルの開通。\nアトレティカ通りなどを作り始め、下町と郊外をつなぎ始めた。\n'長靴履きの市長'とあだ名された彼の手法と進歩への\nツルハシは都市を大いに近代化に向けた。\n \n都市が進歩するにつれて貧困層はリオを取り囲む丘陵地に\n追い出されることとなり、これが今日に残るリオ周辺の\nフェイブラス(一種のスラム)の誕生でもあった。;;;;;;;;;;;X
 ACT128118A;ショベルとツルハシによる前進を;;;;;;;;;;X
 ACT128118B;そんな余裕はない;;;;;;;;;;X
 EVT128119N;アベニーダセントラルとオビドール通り;;;;;;;;;;X
 EVT128119D;都市改革の焦点となるのは中央通りの建設だ。二月から建設をはじめ\nて九ヶ月のあいだ、614にのぼる建築が行われた。借家は姿を消し貧\n民層はダウンタウンから姿を消すこととなった。;;;;;;;;;;X
 ACT128119A;キラキラの新しいダウンタウンだ;;;;;;;;;;X
 EVT128120N;市民劇場;;;;;;;;;;X
 EVT128120D;市民劇場の外観が、実施されたすべての計画同様すばらしく洗練され\nたものとなった。これに伴い一連のポストカードが全国で発行された。;;;;;;;;;;X
 ACT128120A;市民劇場のこけらおとしが行われた;;;;;;;;;;X
 EVT128121N;国立図書館;;;;;;;;;;X
 EVT128121D;国立図書館の外観が、実施されたすべての計画同様すばらしく洗練\nされたものとなった。これに伴い一連のポストカードが全国で発行された。;;;;;;;;;;X
 ACT128121A;再び図書館の扉が開かれた;;;;;;;;;;X
 EVT128122N;ベイラ・マル通り;;;;;;;;;;X
 EVT128122D;セントラルアベニューの他、美しい眺めを発見したカリオカスに感謝をこめ\nベイラ・マル通りが建設された。広い通りはからは山脈が一瞥でき、町\nが二つの自然の記念碑、山脈と海洋に挟まれていることを教えてくれる。;;;;;;;;;;X
 ACT128122A;海と丘をつなぐ道だ;;;;;;;;;;X
 EVT128123N;王女の成婚;;;;;;;;;;X
 EVT128123D;政府と人民が王女の成婚を重要視するのは自然な流れである。欧州\nの貴族達とやりとりを交わしたのち、王女はふさわしい王子を選んだ。結\n婚相手の名はルイ・フィリペ・マリー・フェルディナンド・ガストン、デウ伯爵\nである。式はリオデジャネイロにある帝国教会で1864年10月15日に執\nり行われた。ペトロポリスにハネムーン旅行したのち、ヨーロッパに赴くと王\n女は両親に夫を紹介した。;;;;;;;;;;X
 ACT128123A;王女のご成婚だ;;;;;;;;;;X
 EVT128126N;王女の成婚;;;;;;;;;;X
 EVT128126D;政府と人民が王女の成婚を重要視するのは自然な流れである。欧州\nの貴族達とやりとりを交わしたのち、王女はふさわしい王子を選んだ。結\n婚相手の名はルイ・フィリペ・マリー・フェルディナンド・ガストン、デウ伯爵\nである。式はリオデジャネイロにある帝国教会で1864年10月15日に執\nり行われた。ペトロポリスにハネムーン旅行したのち、ヨーロッパに赴くと王\n女は両親に夫を紹介した。;;;;;;;;;;X
 ACT128126A;王女のご成婚だ;;;;;;;;;;X
 EVT128127N;イザベル一世の戴冠;;;;;;;;;;X
 EVT128127D;1891年12月6日、ペドロ二世王の死に伴い、イザベル一世がブラジル\n帝国の帝位を受け継いだ。;;;;;;;;;;X
 ACT128127A;「回復者」イザベル一世が即位した;;;;;;;;;;X
 EVT128128N;リオデジャネイロ市街電車とライトアンドパワーズ;;;;;;;;;;X
 EVT128128D;カナダ資本の ライトアンドパワーズ株式会社が\n水力発電による開発の優先権を取得。\nフォンテの発電所建設を皮切りに、\n市街電車、電話、ガス会社などの権利を得た。;;;;;;;;;;;X,,,,,
 ACT128128A;電力の光が降り注いだ;;;;;;;;;;X
 EVT128133N;大統領暗殺失敗;;;;;;;;;;X
 EVT128133D;1897年11月、プルデンテ・デ・モライス大統領はカヌードスとの戦闘から\n帰還したエスピリト・サント号の船上で歓迎を受けていた。そこに拳銃を\nもった急進派の男が大統領に近づいた。プルデンテ大統領はとっさに山\n高帽で武器をはじき落としたが、その前に拳銃は五度火を噴いた!逮\n捕前に、急進派が陸軍大臣の暗殺に関与していることもあきらかにな\nった。彼の死は政治的な復讐心を煽り、カヌードス包囲を正当化させる\n言い訳となった。;;;;;;;;;;X
 ACT128133A;そんな近距離でどうやったら失敗できるんだ?;;;;;;;;;;X
 EVT128136N;大統領暗殺;;;;;;;;;;X
 EVT128136D;1897年11月、プルデンテ・デ・モライス大統領はカヌードスとの戦闘から\n帰還したエスピリト・サント号の船上で歓迎を受けていた。そこに拳銃を\nもった急進派の男が大統領に近づいた。プルデンテ大統領はとっさに山\n高帽で武器をはじき落としたが、彼の命を救う助けにはならなかった。\n暗殺者の名は、マルセリーノ・ビスポ・デ・メロ、一兵士であった。;;;;;;;;;;X
 ACT128136A;マストに半旗を掲げよ;;;;;;;;;;X
 EVT128137N;百万人コーヒー都市、サンパウロ;;;;;;;;;;X
 EVT128137D;サンパウロの北西部にコーヒー栽培が広がりを見せはじめると、サンパウ\nロ市はたぐいまれな大発展を遂げた。コーヒー生産はいまやサントス港を\n通じて行われるようになっている。農園に押し込められるのに飽き飽きし\nたコーヒー男爵達は資金を持ち出し、どこか他へと移り住むことを考え\nていた。;;;;;;;;;;X
 ACT128137A;コーヒー通りを開通しよう;;;;;;;;;;X
 ACT128137B;そんな余裕はない;;;;;;;;;;X
 EVT128138N;お茶の水橋(Viaduto do Cha);;;;;;;;;;X
 EVT128138D;サンパウロの現代化の引き金となったこの陸橋は、皮肉を込めてお茶の\n水橋と呼ばれている。1892年、サンパウロはいまや一大コーヒー都市と\nなっていた。陸橋はコンソラサォン通りと新市街であるパカエンブとを結ん\nだ。;;;;;;;;;;X
 ACT128138A;善哉;;;;;;;;;;X
 EVT128139N;パウリスタ大通り;;;;;;;;;;X
 EVT128139D;カグアスの峰から下るサンパウロ通りはプラタナスと樫の木に挟まれた並\n木道である。完成後わずかののちに、この通りの区画は完売。コーヒー\n輸出で財をなした者たちが小さな宮殿をいくつも建設した。;;;;;;;;;;X
 ACT128139A;善哉;;;;;;;;;;X
 EVT128140N;港湾の近代化;;;;;;;;;;X
 EVT128140D;アフォンソ・ペナ大統領はコーヒー以外にも興味をしめし、今後のために\nも他の生産物の輸出も活性化させるべきだと考えた。彼はレシフェ港や\nビトーリア、アレグレ港などのの近代化を命じ、国際貿易の活性化を目\n論んだ。;;;;;;;;;;X
 ACT128140A;労働者を集めよう;;;;;;;;;;X
 ACT128140B;その手の事業に回す予算はない;;;;;;;;;;X
 EVT128143N;コーヒーのための人手;;;;;;;;;;X
 EVT128143D;目の回るようなコーヒー栽培の拡大は、奴隷制廃止運動と時期を同じ\nくしていた。そのためコーヒー男爵達は労働力に関する不安をいだくよう\nになった。政権に対する支持と引き替えに彼らは政府に、移民の促進\n策をとるように要求した。1887年、ブラジルとヨーロッパ諸国は一連の条\n約を交わし、イタリア、プロシア、スペインなどから多くの農民たちが移民\nとしてやってきた。;;;;;;;;;;X
 ACT128143A;取引を結ぼう;;;;;;;;;;X
 ACT128143B;高すぎやしないか!?;;;;;;;;;;X
 EVT128150N;労働力に関する論争;;;;;;;;;;X
 EVT128150D;労働の形態として奴隷を用いるのがよいか自由労働者を用いるのがよ\nいか国内で論争が繰り返された。コーヒー農園などの大農場を所有す\nる貴族階級は奴隷制度の有益制を強調した。;;;;;;;;;;X
 ACT128150A;より多くの奴隷が必要だ;;;;;;;;;;X
 ACT128150B;自由な労働者が必要だ;;;;;;;;;;X
 EVT128151N;労働力に関する論争;;;;;;;;;;X
 EVT128151D;奴隷制の取りやめを求めるイギリスの圧力と、奴隷制廃止運動の流れ\nにより、都市では自由労働のシステムに関して討論が交わされた。ヨー\nロッパ移民を農場で働かせるか、古くからの奴隷制か、どちらをとるべき\nか。;;;;;;;;;;X
 ACT128151A;自由な労働者が必要だ;;;;;;;;;;X
 ACT128151B;より多くの奴隷が必要だ;;;;;;;;;;X
 EVT128200N;初飛行;;;;;;;;;;X
 EVT128200D;アルベルト・サントス・デュモンはパリ近郊のバガテル園で飛行機械の試\n験に成功。22.5秒間に220メーターを飛行した。;;;;;;;;;;X
 ACT128200A;よし;;;;;;;;;;X
 EVT128201N;初の女性パイロット;;;;;;;;;;X
 EVT128201D;アネーシャ・ピンケイホ・マシャードが初の女性パイロットとして認められた。;;;;;;;;;;X
 ACT128201A;よし;;;;;;;;;;X

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