########189K - TUKULOR (TAG JOD)##########;;;;;;;;;;;X EVT189003N;ハジ・ウマルの台頭;;;;;;;;;;X EVT189003D;ムスリムの学者であるハジ・ウマルは、1820年代から1830年代にかけてイスラム世界をくまなく旅し、西アフリカに純粋なイスラム社会を復活させるべきだとする思想を信奉するようになった。彼はトゥクロールに戻ると本拠地であるディンガレイで支持を集め、トゥクロール社会において一大有力者となったのだ。;;;;;;;;;;X EVT189003D;ムスリムの学者であるハジ・ウマルは、1820年代から1830年代にかけて\nイスラム世界をくまなく旅し、西アフリカに純粋なイスラム社会を復活させ\nるべきだとする思想を信奉するようになった。彼はトゥクロールに戻ると本\n拠地であるディンガレイで支持を集め、トゥクロール社会において一大\n有力者となったのだ。;;;;;;;;;;X EVT189004N;カアルタ征服;;;;;;;;;;X EVT189004D;1855年にはハジ・ウマルも、ジハードを開始して西アフリカに完璧なイスラム国家を建設する用意を整えた。最初の標的には、バンバラ帝国下にあるカアルタ王国が選ばれた。この国では内戦が勃発しており、拡大するに絶好の機会だったのである。彼は侵略にあたり強い抵抗を受けたが、最終的にこれを圧倒することができた。;;;;;;;;;;X EVT189004D;1855年にはハジ・ウマルも、ジハードを開始して西アフリカに完璧なイス\nラム国家を建設する用意を整えた。最初の標的には、バンバラ帝国下\nにあるカアルタ王国が選ばれた。この国では内戦が勃発しており、拡大\nするに絶好の機会だったのである。彼は侵略にあたり強い抵抗を受け\nたが、最終的にこれを圧倒することができた。;;;;;;;;;;X EVT189005N;セネガル河上流部へフランスが拡大;;;;;;;;;;X EVT189005D;ウマルがカアルタ征服を成し遂げたのを受けて、次はフルベ人の故地であるセネガル川流域を制圧することが決まった。手始めとして、サンルイにいるフランス人と交流をもつ現地部族の首長から忠誠を取り付けることになったが、フランスは属国たる彼らに軍事支援を送ってきた。これによりウマルは撤退するか、フランスとの全面戦争に突入するかの選択に迫られたのである。;;;;;;;;;;X EVT189005D;ウマルがカアルタ征服を成し遂げたのを受けて、次はフルベ人の故地で\nあるセネガル川流域を制圧することが決まった。手始めとして、サンルイ\nにいるフランス人と交流をもつ現地部族の首長から忠誠を取り付けるこ\nとになったが、フランスは属国たる彼らに軍事支援を送ってきた。これに\nよりウマルは撤退するか、フランスとの全面戦争に突入するかの選択に\n迫られたのである。;;;;;;;;;;X ACT189005A;反仏ゲリラを組織する;;;;;;;;;;X ACT189005B;フランスへのジハードを宣言する;;;;;;;;;;X EVT189006N;バンバラへのジハード;;;;;;;;;;X EVT189006D;ウマルがカアルタ征服を成し遂げたのを受けて、次はフルベ人の故地であるセネガル川流域を制圧することが決まった。手始めとして、サンルイにいるフランス人と交流をもつ現地部族の首長から忠誠を取り付けることになったが、フランスは属国たる彼らに軍事支援を送ってきた。これによりウマルは撤退するか、フランスとの全面戦争に突入するかの選択に迫られたのである。;;;;;;;;;;X EVT189006D;ウマルがカアルタ征服を成し遂げたのを受けて、次はフルベ人の故地で\nあるセネガル川流域を制圧することが決まった。手始めとして、サンルイ\nにいるフランス人と交流をもつ現地部族の首長から忠誠を取り付けるこ\nとになったが、フランスは属国たる彼らに軍事支援を送ってきた。これに\nよりウマルは撤退するか、フランスとの全面戦争に突入するかの選択に\n迫られたのである。;;;;;;;;;;X EVT189007N;ゲム陥落;;;;;;;;;;X EVT189007D;セネガル川上流域におけるトゥクロールの陣地の中でも、特に重要な軍事拠点だったのがゲムである。しかしゲムはフランスに制圧されてしまった。セネガルのフランス陣地に総攻撃をかけるべきだろうか?それとも、目を東方拡大へと向けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT189007D;セネガル川上流域におけるトゥクロールの陣地の中でも、特に重要な軍事\n拠点だったのがゲムである。しかしゲムはフランスに制圧されてしまった。\nセネガルのフランス陣地に総攻撃をかけるべきだろうか?それとも、目を\n東方拡大へと向けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT189007A;失陥を受け入れよう。我々の関心はむしろ東方にある;;;;;;;;;;X EVT189008N;フランスとの条約?;;;;;;;;;;X EVT189008D;東進を目指すトゥクロールとベンバとの間で紛争が起こっているが、フランスはこれを利用してくるかもしれない。そう考えたハジ・ウマルは1860年、セネガルに引かれた現行の国境線を承認する条約を提案した。これにより国境が画定したが、その代わりウマルが行ってきたセネガルでの反仏組織支援は終了することになった。;;;;;;;;;;X EVT189008D;東進を目指すトゥクロールとベンバとの間で紛争が起こっているが、フラン\nスはこれを利用してくるかもしれない。そう考えたハジ・ウマルは1860年、\nセネガルに引かれた現行の国境線を承認する条約を提案した。これに\nより国境が画定したが、その代わりウマルが行ってきたセネガルでの反仏\n組織支援は終了することになった。;;;;;;;;;;X ACT189008A;フランスに条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT189008B;異教徒と条約など結べるか;;;;;;;;;;X EVT189009N;フランス・トゥクロール条約;;;;;;;;;;X EVT189009D;我々が提案した友好条約案に対し、フランスはこれを受諾した。これでベンバ打倒に注意を傾けることができる。;;;;;;;;;;X EVT189009D;我々が提案した友好条約案に対し、フランスはこれを受諾した。これで\nベンバ打倒に注意を傾けることができる。;;;;;;;;;;X EVT189010N;マシーナへのジハード;;;;;;;;;;X EVT189010D;マシーナはハジ・ウマルに対し、これをニジェール河谷に住む全ムスリムの正当な支配者として認めなかった。そのためマシーナは、ムスリムの統治を受ける国家であったにもかかわらず、ハジ・ウマルによるジハードの対象となったのだ。バンバラでの反ウマル抵抗軍をマシーナが支援したことを皮切りに、ハジ・ウマルはマシーナが背信者の国だと宣言して宣戦した。;;;;;;;;;;X EVT189010D;マシーナはハジ・ウマルに対し、これをニジェール河谷に住む全ムスリムの\n正当な支配者として認めなかった。そのためマシーナは、ムスリムの統治\nを受ける国家であったにもかかわらず、ハジ・ウマルによるジハードの対象\nとなったのだ。バンバラでの反ウマル抵抗軍をマシーナが支援したことを\n皮切りに、ハジ・ウマルはマシーナが背信者の国だと宣言して宣戦した。;;;;;;;;;;X EVT189011N;アフマドがトゥクロール帝国を確固たるものにする;;;;;;;;;;X EVT189011D;マシーナとの紛争中にハジ・ウマルは殺害され、その指導者たる地位は息子のアフマドが継承することになった。アフマドはマシーナ征服を遂行しとおし、トゥクロール帝国における権威確立に向け、軍の指揮官からも継続的な支持を取り付けることにも成功した。;;;;;;;;;;X EVT189011D;マシーナとの紛争中にハジ・ウマルは殺害され、その指導者たる地位は\n息子のアフマドが継承することになった。アフマドはマシーナ征服を遂行\nしとおし、トゥクロール帝国における権威確立に向け、軍の指揮官から\nも継続的な支持を取り付けることにも成功した。;;;;;;;;;;X EVT189012N;マージュ使節団がセグーに着く;;;;;;;;;;X EVT189012D;帝国での政情不安のために大幅に遅れることにはなったが、2年以上もの行程を経た1866年、フランス使節のユージン・マージュがセグーに到着した。その目的はセネガルでの国境承認と、フランス商人への門戸開放を内容とする条約について議論することにあった。;;;;;;;;;;X EVT189012D;帝国での政情不安のために大幅に遅れることにはなったが、2年以上\nもの行程を経た1866年、フランス使節のユージン・マージュがセグーに到\n着した。その目的はセネガルでの国境承認と、フランス商人への門戸開\n放を内容とする条約について議論することにあった。;;;;;;;;;;X EVT189013N;フランスとの新条約?;;;;;;;;;;X EVT189013D;ムハンマド・ハビーブの反乱から帝位を守りきったアフマドだったが、彼はフランスのセネガル総督のヴァエリと協議をひらき、フランスにさらなる貿易特権を認める代わりに、引き続きセネガル川に引かれた国境線を認めるよう要求した。;;;;;;;;;;X EVT189013D;ムハンマド・ハビーブの反乱から帝位を守りきったアフマドだったが、彼は\nフランスのセネガル総督のヴァエリと協議をひらき、フランスにさらなる貿易\n特権を認める代わりに、引き続きセネガル川に引かれた国境線を認め\nるよう要求した。;;;;;;;;;;X EVT189014N;ティンブクトゥでシーディー・アフマド・アルベッカイの反乱;;;;;;;;;;X EVT189014D;クンタ族の首長でティンブクトゥの上流貴族でもあるシーディー・アフマドは、ハジ・ウマルのジハードに対し冷淡な態度をとってきたが、しかし彼は積極的にマシーナの抵抗運動を支援したわけではなかった。だがマシーナ政府が転覆されると、彼はティンブクトゥの内治について、自分が共同体での権力を維持できるようにするため、反乱を起こすことになった。;;;;;;;;;;X EVT189014D;クンタ族の首長でティンブクトゥの上流貴族でもあるシーディー・アフマド\nは、ハジ・ウマルのジハードに対し冷淡な態度をとってきたが、しかし彼は\n積極的にマシーナの抵抗運動を支援したわけではなかった。だがマシー\nナ政府が転覆されると、彼はティンブクトゥの内治について、自分が共\n同体での権力を維持できるようにするため、反乱を起こすことになった。;;;;;;;;;;X EVT189015N;サンサンディングの反乱;;;;;;;;;;X EVT189015D;サンサンディングはニジェール川中流域にある一大交易センターで、ソニンケ人やモシ人の商人が多く居住していた。ハジ・ウマルはイスラムの慣習に基づいて非ムスリムによる交易に新税を課したが、このためにサンサンディングでは暴力が噴出した。駐屯していたトゥクロールの守備隊は追放され、帝国領の相当分が彼らの支配下におかれようとしている。;;;;;;;;;;X EVT189015D;サンサンディングはニジェール川中流域にある一大交易センターで、ソニ\nンケ人やモシ人の商人が多く居住していた。ハジ・ウマルはイスラムの慣\n習に基づいて非ムスリムによる交易に新税を課したが、このためにサン\nサンディングでは暴力が噴出した。駐屯していたトゥクロールの守備隊は\n追放され、帝国領の相当分が彼らの支配下におかれようとしている。;;;;;;;;;;X EVT189016N;アフマドがアミール・アルムーミニーン位を宣言;;;;;;;;;;X EVT189016D;皇帝の権威発揚のためカアルタ地方を訪れたアフマドに、モロッコのシャリーフから遣わされて来た使節団が接見した。そして使節らは、アフマドをアミール・アルムーミニーン、つまりトゥクロールの正統なイスラム指導者であると承認するスルタンからの勅書を授けたのである。この衝撃的ともいえる外交事件により、アフマドはハジ・ウマルの正統な後継者としての自身の地位を著しく強めることになった。;;;;;;;;;;X EVT189016D;皇帝の権威発揚のためカアルタ地方を訪れたアフマドに、モロッコのシャ\nリーフから遣わされて来た使節団が接見した。そして使節らは、アフマド\nをアミール・アルムーミニーン、つまりトゥクロールの正統なイスラム指導者\nであると承認するスルタンからの勅書を授けたのである。この衝撃的とも\nいえる外交事件により、アフマドはハジ・ウマルの正統な後継者としての\n自身の地位を著しく強めることになった。;;;;;;;;;;X EVT189017N;ムハンマド・ハビーブの反アフマド策謀;;;;;;;;;;X EVT189017D;アミール・アルムーミニーンとしての承認を受けたにもかかわらず、アフマドの親族には彼を妬むものが何人もいた。特に弟のムハンマド・ハビーブはそれが顕著で、カアルタ知事という職位を乗り越えて、全国の指導権を握りたいという欲求に駆られていた。そして1872年、兄の政権を転覆させようとムハンマドが企てているのにアフマドは気付き、カアルタ地方に彼の権威を知らしめるべく軍隊を派遣した。;;;;;;;;;;X EVT189017D;アミール・アルムーミニーンとしての承認を受けたにもかかわらず、アフマド\nの親族には彼を妬むものが何人もいた。特に弟のムハンマド・ハビーブは\nそれが顕著で、カアルタ知事という職位を乗り越えて、全国の指導権を\n握りたいという欲求に駆られていた。そして1872年、兄の政権を転覆さ\nせようとムハンマドが企てているのにアフマドは気付き、カアルタ地方に彼\nの権威を知らしめるべく軍隊を派遣した。;;;;;;;;;;X EVT189018N;ガリエニ探検隊がセグーに到着;;;;;;;;;;X EVT189018D;ジョゼフ・ガリエニ率いるフランス使節団が1879年7月、セグーに到着した。彼らの携えてきた新条約案によれば、トゥクロールの国境線は承認されることになるが、代わりに門戸開放を大規模なものとし、またフランス船舶に対しニジェール川の航行権を認めることになる。これにより国境地帯において、大国フランスも友好的にふるまってくれるだろう。;;;;;;;;;;X EVT189019D;フランス商人の安全が脅かされているとして、フランス軍がセネガル川を越えてバマコに向かっている。これは我が国の主権に対する侵害行為だが、はたしてこれに反攻すべきだろうか?それとも領土支配の喪失を受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT189018D;ジョゼフ・ガリエニ率いるフランス使節団が1879年7月、セグーに到着し\nた。彼らの携えてきた新条約案によれば、トゥクロールの国境線は承認\nされることになるが、代わりに門戸開放を大規模なものとし、またフランス\n船舶に対しニジェール川の航行権を認めることになる。これにより国境\n地帯において、大国フランスも友好的にふるまってくれるだろう。;;;;;;;;;;X EVT189019D;フランス商人の安全が脅かされているとして、フランス軍がセネガル川を\n越えてバマコに向かっている。これは我が国の主権に対する侵害行為\nだが、はたしてこれに反攻すべきだろうか?それとも領土支配の喪失を\n受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT189019A;今はフランスに逆らえない;;;;;;;;;;X EVT189020D;フランスはママドゥ・ラミーヌの反乱に掛かりきりになっており、アフマドはこれについて、フランスからの支援を取り付けるいい機会だと考えた。そして無制限の軍事通行権を与えるかわりに、フランスに対して引き続きトゥクロールの領土保全を保証してくれるよう求めたのだ。;;;;;;;;;;X EVT189020D;フランスはママドゥ・ラミーヌの反乱に掛かりきりになっており、アフマドはこ\nれについて、フランスからの支援を取り付けるいい機会だと考えた。そし\nて無制限の軍事通行権を与えるかわりに、フランスに対して引き続きト\nゥクロールの領土保全を保証してくれるよう求めたのだ。;;;;;;;;;;X EVT189021N;ニョーロ条約;;;;;;;;;;X EVT189021D;アフマドが条約締結を申し出たのについて、フランスはこれを受諾した。;;;;;;;;;;X