########196K - MASINA (TAG KUT)##########;;;;;;;;;;;X
 EVT196003N;セフ・アフマドの死;;;;;;;;;;X
 EVT196003D;セフ・アフマドはマシーナの建国者である。彼はニジェール川中流域での\nジハードを主導し、西アフリカにイスラム教のユートピアを作ることを終局\n的な目標としていた。その統治は厳しく、コーランを厳密に解釈しようと\nしたため、体制は強固なものとなったものの大衆の人気を博することは\nなかった。それゆえマシーナの大半では、彼の死を悼むようなことは\nなかった。;;;;;;;;;;X
 EVT196003N;セク・アフマドの死;;;;;;;;;;X
 EVT196003D;セク・アフマドはマシーナの建国者である。彼はニジェール川中流域での\nジハードを主導し、西アフリカにイスラム教のユートピアを作ることを終局\n的な目標としていた。その統治は厳しく、コーランを厳密に解釈しようと\nしたため、体制は強固なものとなったものの大衆の人気を博することは\nなかった。それゆえマシーナの大半では、彼の死を悼むようなことは\nなかった。;;;;;;;;;;X
 EVT196004N;ティンブクトゥでトゥアレグの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT196004D;マシーナの国内でその統治に最も不満を抱いていたのは、ティンブクトゥ\nにいるトゥアレグ人の指導者層だった。彼らは16世紀から都市に支配を\n及ぼしており、マシーナの支配者だったフルベ人に対し、この地域での\n交易の主導権を奪ったよそ者との見方をもっていたのだ。そしてセフ・ア\nフマドが死去すると、トゥアレグ人は反乱を起こした。;;;;;;;;;;X
 EVT196005N;アフマド・セフの権力掌握;;;;;;;;;;X
 EVT196005D;セフ・アフマドの息子であるアフマド・セフがマシーナの支配者となったが、\nこれを歓迎するグループは少なかった。しかし1846年に彼は首都の支\n配を確立し、統治の正当性を広く認められることになった。;;;;;;;;;;X
 EVT196004D;マシーナの国内でその統治に最も不満を抱いていたのは、ティンブクトゥ\nにいるトゥアレグ人の指導者層だった。彼らは16世紀から都市に支配を\n及ぼしており、マシーナの支配者だったフルベ人に対し、この地域での\n交易の主導権を奪ったよそ者との見方をもっていたのだ。そしてセク・ア\nフマドが死去すると、トゥアレグ人は反乱を起こした。;;;;;;;;;;X
 EVT196005N;アフマド・セクの権力掌握;;;;;;;;;;X
 EVT196005D;セク・アフマドの息子であるアフマド・セクがマシーナの支配者となったが、\nこれを歓迎するグループは少なかった。しかし1846年に彼は首都の支\n配を確立し、統治の正当性を広く認められることになった。;;;;;;;;;;X
 EVT196006N;マシーナ継承危機;;;;;;;;;;X
 EVT196006D;1853年にアフマド・セフが死去すると、継承者をめぐって深刻な派閥対\n立が起こった。先王の息子であるアフマド・モ・アフマドと、先王の弟であ\nったアブドゥライエ・セフがそれぞれ新王として擁立され、前者はバロボ将\n軍に率いられていた。優位に立ったのはアフマド・モ・アフマドの方だった\nが、野心あふれる将軍が幼い王を背後で操っているとして大衆の不評\nを買うことになった。;;;;;;;;;;X
 EVT196007N;アルハジ・ウマルのマシーナ侵略;;;;;;;;;;X
 EVT196007D;アルハジ・ウマルがトゥクロールでジハードを宣言したが、マシーナの指導\n者らがこれを受け入れることはなかった。ニジェール川上流域でのムスリ\nム国家建設は我々が担うべきだ、と考えていたためである。しかしウマル\nがベンバを征服したことで、トゥクロールのジハードはマシーナのすぐ目前\nにまで迫っている。ウマルの大義を前に幾つかの地方が敗北し、マシー\nナの指導層はウマルの社会運動の強さに直面しているのだ。;;;;;;;;;;X
 EVT196006D;1853年にアフマド・セクが死去すると、継承者をめぐって深刻な派閥対\n立が起こった。先王の息子であるアフマド・モ・アフマドと、先王の弟であ\nったアブドゥライエ・セクがそれぞれ新王として擁立され、前者はバロボ将\n軍に率いられていた。優位に立ったのはアフマド・モ・アフマドの方だった\nが、野心あふれる将軍が幼い王を背後で操っているとして大衆の不評\nを買うことになった。;;;;;;;;;;X
 EVT196007N;ハジ・ウマルのマシーナ侵略;;;;;;;;;;X
 EVT196007D;ハジ・ウマルがトゥクロールでジハードを宣言したが、マシーナの指導\n者らがこれを受け入れることはなかった。ニジェール川上流域でのムスリ\nム国家建設は我々が担うべきだ、と考えていたためである。しかしウマル\nがベンバを征服したことで、トゥクロールのジハードはマシーナのすぐ目前\nにまで迫っている。ウマルの大義を前に幾つかの地方が敗北し、マシー\nナの指導層はウマルの社会運動の強さに直面しているのだ。;;;;;;;;;;X
 EVT196008N;独立国家マシーナの終焉;;;;;;;;;;X

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