[[VIP翻訳]]

 ######218K - MOROCCO########;;;;;;;;;;;X
 EVT218000N;アブドゥルカーディルのモロッコ逃避;;;;;;;;;;X
 EVT218000D;アブドゥルカーディルはフランスに敗れるとモロッコに保護を求めてきた。\n彼はモロッコを拠点として、アルジェリアからフランス人を追い払うという\n目標に向け引き続き活動していく気でいる。辿り着いたウジダで彼は\n異教徒に対し勇敢に立ち向かう英雄だと歓迎され、当地の有力者は\nアブドゥルカーディルの活動をモロッコ政府が支援すべきだと言ってきた。;;;;;;;;;;X
 ACT218000A;アブドゥルカーディルの対仏闘争を援助する;;;;;;;;;;X
 ACT218000B;彼を追放せよ。でなければフランスが我々を懲らしめに来る!;;;;;;;;;;X
 EVT218001D;フランス軍はアブドゥルカーディルの追撃中、イスリーで\nモロッコ軍を粉砕した。しかしイギリスがフランスを説得し\n対立解消へ向け協議の場を持てることとなった。\n協議による和解を受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 ACT218001A;フランスと和解に向けて協議しよう;;;;;;;;;;X
 ACT218001B;異教徒への聖戦を続けるのだ!;;;;;;;;;;X
 EVT218002D;イスリーの戦いを受け、タンジールでフランスとモロッコはイギリスを\n仲介に折衝を行った。その結果結ばれた条約で、フランスは\nモロッコ領から撤兵するとともにモロッコの領土保全を認め、\nそれと引き換えにモロッコはアブドゥルカーディルの支援を止め、\nまたモロッコ経済はヨーロッパの交易圏に門戸を開かれることとなった。\n世論では異教徒への聖戦継続が支持されたが、\n政府はフランスと戦える立場にないことを自覚したのだった。;;;;;;;;;;X
 EVT218003N;アブドゥルカーディルが再度モロッコへ逃避;;;;;;;;;;X
 EVT218003D;アルジェリアからフランス人を追い払うアブドゥルカーディルの\n最後の試みもフランス軍に撃破された。彼はモロッコに逃げ戻り\n北部にいる部族の保護下にある。タンジール条約を\n締結したからには、大衆の彼への支持に反してでも\nモロッコ政府はアブドゥルカーディルを捕える必要がある。;;;;;;;;;;X
 ACT218003;アブドゥルカーディルの逮捕を裁可しよう;;;;;;;;;;X
 EVT218004N;地中海沿岸の密輸問題;;;;;;;;;;X
 EVT218004D;地中海西部の商業は活発化し、国家歳入も増加した。\nしかしモロッコ本土にはセウタとメリリャというスペインに属する\n2つの港があるため、モロッコ北部で大量の商品が密輸されている。\nそこで1841年、スルタンの側近はスペインの港を経由した密輸の\n取締りを行った。その結果歳入は増加したが、\nこれがスペインを刺激しうるものであったのも事実である。;;;;;;;;;;X
 ACT218004A;密貿易を撲滅する;;;;;;;;;;X
 ACT218004B;スペインを怒らせるリスクは冒せない;;;;;;;;;;X
 EVT218005N;密輸船拿捕へのスペインの抗議;;;;;;;;;;X
 EVT218005D;1841年7月、モロッコの地中海岸での密輸に関わっていた\nスペイン船を、わが国の巡視船がセウタ沖で捕らえた。\nスペイン当局は釈放を要求し、モロッコ側が応じない場合には\n望むままに問題を解決する用意があるとほのめかしている。\nイギリスの駐タンジール領事が忠告するところによれば、\nさらなる問題の発生を避けるためスペイン人を解放したほうが良さそうだ。;;;;;;;;;;X
 ACT218005B;こいつら密輸業者を見せしめにせねば;;;;;;;;;;X
 EVT218006N;タフィレルトの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218006D;1841年10月、タフィレルトのベルベル諸部族が\nスルタンに対し叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X
 EVT218007N;スースでの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218007D;1842年5月、スース谷のベルベル諸部族が\nスルタンに対し叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X
 EVT218008D;イスリーでの敗北やタンジール条約を経て、モロッコの長期的な\n安全保障を確固たるものにし、またしばしば頭を悩ませる部族連合に\n対してスルタンの権威を強める必要性が浮き彫りとなった。\n当時のスルタン、アブドゥッラフマーンの側近のなかでも改革派の者は、\n近代的な西洋式編成の陸軍を創設するよう提唱した。;;;;;;;;;;X
 EVT218009N;1847年の旱魃;;;;;;;;;;X
 EVT218009D;モロッコの農業はその多くを冬と春の嵐に依存している。これらの嵐が\nもたらす豊かな降水がなければ、暑く長い夏に耐えられないためだ。\n1846年と1847年は十分な雨が降らず、モロッコ西部では\n深刻な旱魃が発生した。作物が台無しになって輸出額も下がり、\n地方でも飢饉の脅威は日増しに大きくなっている。;;;;;;;;;;X
 EVT218010N;海外交易の国有化;;;;;;;;;;X
 EVT218010D;1847年の旱魃に端を発する社会的苦悩について、海外貿易や\n深刻な困窮の時にあるにもかかわらず小麦などの\n穀類の輸出を許可している政府が槍玉にあげられた。\n1848年の上旬にスルタンのアブドゥッラフマーンは、イギリス人商人が\n抗議したにもかかわらずあらゆる海外貿易を国家の管理下におき、\nまた状況が改善するまで一部商品の輸出を禁ずる布告を発した。\n交易を管理下におくと関税収入が増加しうるというメリットについて、\nスルタンもこれを無視できなかったのだ。;;;;;;;;;;X
 ACT218010;独占的な貿易を確立せよ;;;;;;;;;;X
 EVT218011D;ラバト近郊の部族民が、沿岸で難破していた2隻のフランス船を\n襲撃、略奪した。フランス政府は船の所有者の代わりに\n砲艦を現地に派遣し、船の所有者への損害賠償を求めている。\nだがイギリス領事は、フランスがモロッコを侵略した際には\nイギリスがモロッコ側に立って介入すると保証してくれている。;;;;;;;;;;X
 ACT218011;フランスの要求を拒否する;;;;;;;;;;X
 EVT218012N;モロッコ経済危機の拡大;;;;;;;;;;X
 EVT218012D;1852年時点で既に、モロッコ政府は日々悪化する経済危機に\n直面していた。1847年の旱魃から続く不作、国家の独占に\n由来する貿易縮小、そして高コストの軍制改革が\n相乗して起こったこの危機により、財政赤字は拡大していった。\n財政赤字で通貨価値は押し下げられ、経済停滞はさらに悪化していく。;;;;;;;;;;X
 EVT218013D;1850年代半ばまでに貿易協定の締結を求めるイギリスの圧力は\n大きくなっていき、アブドゥッラフマーンの側近の中にも\n経済的苦境から自由貿易がモロッコを助け出してくれるかもしれないと\n結論付けるものが増えていった。モロッコの交渉担当者は\nイギリスの影響を抑えるため、イギリスがモロッコに領土を持たないことと\n現地職員が過度の外交的保護を享受しないようにすることを主張し\nこれに成功した。最終的に、イギリスの外交的な支援を\n引き続き受けていくためには、この新貿易協定を受諾する必要があるだろう。;;;;;;;;;;X
 EVT218014N;ムハンマド4世の即位;;;;;;;;;;X
 EVT218014D;1859年8月28日、アブドゥッラフマーンが死去した。\n次のスルタン位は息子のムハンマド4世が継承し、\nモロッコの民衆も広くこれを支持している。;;;;;;;;;;X
 EVT218015N;メリリャ近郊でスペインが挑発;;;;;;;;;;X
 EVT218015D;メリリャ周辺にも居留地を拡大しようというスペインの策動により\nスペイン兵と現地部族が衝突するという事態が発生した。\nメリリャ近辺に住む部族の指導者は、じわじわと勢力を\n拡大するスペイン人からモロッコの主権を守るため、\n当地域へ軍隊を送って欲しいと求めてきている。;;;;;;;;;;X
 ACT218015A;北方に増援を送ろう;;;;;;;;;;X
 ACT218015B;戦争になるリスクは冒せない。係争地をスペインに譲渡しよう;;;;;;;;;;X
 EVT218016N;イギリスがスペインとの仲介を申し出る;;;;;;;;;;X
 EVT218016D;我が軍はスペイン人の侵略者を前に撤退中だが、\nイギリスはスペインによる全土掌握を避けるために\n紛争の仲介をしようと申し出ている。;;;;;;;;;;X
 ACT218016A;イギリスによる仲介の申し出を受けよう;;;;;;;;;;X
 ACT218016B;異教徒と交渉するなどごめんだ;;;;;;;;;;X
 EVT218017D;1860年のスペインへの敗戦は大きなコストを伴うものだった。\nセウタとメリリャの境界は広げられ、モロッコは1億ペセタの賠償金を\n支払わねばならなくなった。さらに賠償金完済まで\nテトワンがスペインに占領されることになった。;;;;;;;;;;X
 EVT218018N;モロッコはスペインに賠償額の再交渉を要請;;;;;;;;;;X
 EVT218018D;ウェッド・ラアス条約の賠償金条項は、モロッコの脆弱な\n経済状況からするとあまりに厳しいものであることが分かった。\nこれをモロッコ経済でもなんとか対応できるものとすべく、\n賠償金条項について再交渉を求めるべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 ACT218018;条約の再交渉についてイギリスに援助を頼む;;;;;;;;;;X
 EVT218019N;モロッコ=スペイン通商条約;;;;;;;;;;X
 EVT218019D;ウェッド・ラアス条約について再交渉した結果、新しい通商条約が\n結ばれた。これは賠償金の支払額を減額するのと引き換えに、\n向こう20年にわたって全関税収入の半分をスペインに支払い、\nまたスペイン産品に対する関税率を削減することを内容とするものだ。\nモロッコのあらゆる港にスペイン当局の職員が派遣され、\n関税の徴収が監視されることとなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218020N;サムサール;;;;;;;;;;X
 EVT218020D;サムサールとはモロッコの現地代行屋のことで、ヨーロッパ人が\nモロッコで取引などをする際に便宜をはかる代理人を指す。\nモロッコ政府はヨーロッパ人の土地所有や居住を制限していたが\nそのため西欧諸国の領事はサムサールに代行させるに際し、\n本国政府が領事に与える完全な保護でもって\n彼らを代理人とする権限を与えられるようになった。\n誰がサムサールなのかモロッコ政府にも確認する術が\nほとんどないこともあってこの制度は濫用され\nサムサールの数はネズミ算式に増えていった。;;;;;;;;;;X
 EVT218021N;サムサール問題でモロッコがフランスに接近;;;;;;;;;;X
 EVT218021D;1860年半ば、サムサールはモロッコ政府にとって深刻な\n問題となっていた。サムサールは顧客たる西欧諸国の\n治外法権があって国内法が適用されず、またその免責特権も\n総じてモロッコを食い物にしつつ私腹を肥やすため用いられたのだ。\nだがフランスはスペインやイギリスほどサムサールを多く雇っておらず、\nモロッコにおける影響力のバランスをとるため、\nこの問題の解決のために協力してくれるかもしれない。\nフランスにサムサール問題での支援を願うべきだろうか?;;;;;;;;;;X
 ACT218021;フランスに話を持ちかけよう;;;;;;;;;;X
 EVT218022D;フランスはベクラール協定で「領事ごとにサムサールは2人」という\n制限をかけ直すことを提案し、スペインとイギリスもそれを受け入れた。\nこの合意をヨーロッパ人が誠実に履行するかどうか、\n確認を怠ってはならない。\nしかしこれは今まで拡大の一途をたどってきた\nヨーロッパ諸国の影響力に歯止めをかける第一歩である。;;;;;;;;;;X
 EVT218023N;1861年の勅令;;;;;;;;;;X
 EVT218023D;1860年に再びスペインに敗れたことで、モロッコ政府には\nその主権保持のため資産の管理を確たるものとする必要があり\nさらにそのためには組織改革が必要であることが明らかになった。\nこうして行われた改革のうち、最も重要なものにアーミーンの創設がある。\nこれはモロッコの港にあって関税の受領を監督する官職で\n関税収入の向上に大いに貢献した。\n従来の監督官職は現地の名望家に売られていたのに対し\nアーミーンは直接スルタンに責任を負う役職であったためだ。;;;;;;;;;;X
 EVT218024N;1862年の通貨改革;;;;;;;;;;X
 EVT218024D;スペインへの賠償金支払いで、モロッコ政府の準備金が底をつき\nモロッコの貨幣制度を裏付けていた金も払底してしまった。\nそこで1862年、ムハンマド4世は新貨幣としてディナール銀貨を鋳造し\nあらゆる税金を銀貨で支払わせるよう命じた。\nその結果として、税収に著しい改善が見られた。;;;;;;;;;;X
 EVT218025N;1864年のユダヤ人に関する勅令;;;;;;;;;;X
 EVT218025D;オスマン帝国とチュニジアで、ムスリムであるか否かに関わらず\n平等な法的地位を認める法令が成立した。\nこれを受けて、ヨーロッパの領事らはモロッコでも\n同様の法制度を設けるべきだと主張している。\nサムサール問題でベクラール協定に調印したこともあって\nこうした圧力は大きくなっており、結局ムハンマド4世は\n1864年にザヒール(勅令)を出し、モロッコにおいて少数派である\nユダヤ教徒に対する差別を撤廃せざるを得なくなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218026N;西洋式軍団の再編成;;;;;;;;;;X
 EVT218026D;1860年の2度目の対スペイン敗戦で、モロッコ陸軍の質を高める\n必要性が浮き彫りになった。スペインへの賠償金も完済して\nサムサール問題でも合意を達成した現在、ムハンマド4世は\n次にすべきことは軍を再編成し、陸軍を近代化することだと考えている。\nその結果ヨーロッパからの武器購入は伸び、陸軍の規模も大きくなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218027D;1866年、エッサウィーラの港で税関職員とスペインの雇ったサムサールが\n諍いを起こした。その過程でサムサールはモロッコ当局により\n投獄されたが、サムサールはスペイン政府の保護下にある\n官吏たる地位にあった。スペインはエッサウィーラに砲艦を派遣し、\nサムサールの逮捕について公式に謝罪するよう求めている。;;;;;;;;;;X
 ACT218027;謝罪の意を表明する;;;;;;;;;;X
 EVT218028D;1869年、マザガンの港で税関職員とイタリアの雇ったサムサールが\n諍いを起こした。その過程でサムサールはモロッコ当局により\n投獄されたが、サムサールはイタリア政府の保護下にある\n官吏たる地位にあった。イタリアはマザガンに砲艦を派遣し、\nサムサールの逮捕について公式に謝罪するよう求めている。;;;;;;;;;;X
 EVT218029N;兌換危機の拡大;;;;;;;;;;X
 EVT218029D;1862年の通貨改革で銀貨の価値が定められたが、\nしかしこれは自由に銅貨と交換することができた。\nこのため銅貨の価値が下がるとともに銀貨もその影響を受け、\n最終的にインフレーションが発生した。\n1867年時点でディナール銀貨の価値は1割も下がり、\nその下落はさらに加速していく。;;;;;;;;;;X
 EVT218030N;カサブランカ港の改善;;;;;;;;;;X
 EVT218030D;ヨーロッパ諸国の駐カサブランカ領事らは、\n港での貿易がより容易に行えるように、モロッコ政府が\n港湾設備の改善のため資金を出すべきだと主張している。;;;;;;;;;;X
 EVT218031N;エッサウィーラ港の改善;;;;;;;;;;X
 EVT218031D;ヨーロッパ諸国の駐エッサウィーラ領事らは、\n港での貿易がより容易に行えるように、モロッコ政府が\n港湾設備の改善のため資金を出すべきだと主張している。;;;;;;;;;;X
 EVT218032N;ハサン1世の即位;;;;;;;;;;X
 EVT218032D;1873年9月25日、ムハンマド4世が死去し、\n次のスルタン位は息子のハサンが承継した。\nその即位で、前スルタンの在位中に彼が統治していたマラケシュへと\nモロッコの権力の中枢は移転した。;;;;;;;;;;X
 EVT218033N;Fez Rebels Against Hassan I;;;;;;;;;;X
 EVT218033N;フェズでハサン1世に対する反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218033D;1873年に行われた新スルタン、ハサン1世の即位は\n必ずしも広汎な歓迎を受けた訳ではない。\n特にフェズの都市エリート層はその傾向が顕著であった。\nフェズはムハンマド4世の時代には権力の中枢だったが\n新スルタンのもとでは第二首都とされるおそれがあったためである。\n都市の首長らはハサン1世の即位を認めず、\n兄弟のアブドゥッラフマーンこそがスルタンに相応しいと主張している。;;;;;;;;;;X
 EVT218034N;ベニー・スナッセンの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218034D;1875年、強い勢力を持っていたベルベル部族連合の\nベニー・スナッセンが、ハサン1世に対し反乱を起こした。;;;;;;;;;;X
 EVT218035N;サムサール問題の再来;;;;;;;;;;X
 EVT218035D;1863年に交わされたベクラール協定で\n理論上、モロッコのサムサール問題は解決するはずだった。\nしかしヨーロッパ諸国の領事は何度も協定を無視し、\n1870年代になると、サムサール問題はモロッコ政府が\n富裕層に課税したり経済活動をしたりする際の障害となっていた。;;;;;;;;;;X
 EVT218036N;カーイド・マクリーン;;;;;;;;;;X
 EVT218036D;ハリー・マクリーン卿はスコットランドの陸軍中尉で、\n経済的な事情からイギリスを離れたが、モロッコ陸軍の再編成を\n支援するよう請われてハサン1世に仕える身となった。\n彼はアラビア語を習得して流暢に話すようになるなど、\n努めて第二の祖国に馴染もうとした。\nそうして周囲の信望も得た彼は、以降32年にわたり主席顧問として\nモロッコ陸軍の士気および能力の向上に携わったのである。;;;;;;;;;;X
 EVT218037N;サムサールへの対応でモロッコがイギリスに接近;;;;;;;;;;X
 EVT218037D;1870年代半ばには、モロッコ政府にとってサムサールが\n再び主要な問題となっていた。サムサールは顧客たる\n西欧諸国の保護下にあって国内法が適用されず、\nその免責特権もモロッコを食い物にして私腹を肥やすため用いられたのだ。\nイギリスは戦略的観点からモロッコに独立国家としての地位を\n維持するよう望んでおり、ハサン1世はサムサール問題の解決のため\nイギリスに話を持ちかけねば、と考えている。;;;;;;;;;;X
 ACT218037;イギリスに助けを求めよう;;;;;;;;;;X
 EVT218038N;タンジール会議;;;;;;;;;;X
 EVT218038D;サムサールを用いる慣行を取りやめ、領事の代理人へも\n再びモロッコの権力が及ぶように、とするモロッコ政府は要求し、\nこれをヨーロッパ諸国の駐タンジール領事も受け入れた。;;;;;;;;;;X
 EVT218039N;タンジール会議の中止;;;;;;;;;;X
 EVT218039D;サムサールを使う慣行を取りやめてほしいとするモロッコ政府の要求を、\nヨーロッパ諸国の駐タンジール領事は拒絶した。;;;;;;;;;;X
 EVT218040N;タンジール港の改善;;;;;;;;;;X
 EVT218040D;ヨーロッパ諸国の駐タンジール領事らは、\n港での貿易がより容易に行えるように、モロッコ政府が\n港湾設備の改善のため資金を出すべきだと主張している。;;;;;;;;;;X
 EVT218041D;ハサン1世がモロッコ軍の強化を試みたことで\nヨーロッパ諸国は我先にと権益確保に乗り出してきた。\nこの特権争いに新しく加わったのがドイツである。\nイギリス、フランス、スペインは国土を分割すべく準備しているようだが、\nドイツはこれらの国に将来、外交面で釘を刺してくれるかもしれない。\nタンジールのドイツ領事は沿岸の防衛力強化に、と\nクルップ社の兵器を紹介してきた。;;;;;;;;;;X
 EVT218042N;1878年の旱魃;;;;;;;;;;X
 EVT218042D;モロッコの農業はその多くを冬と春の嵐に依存している。これらの嵐が\nもたらす豊かな降水がなければ、暑く長い夏に耐えられないためだ。\n1877年と1878年は十分な雨が降らず、モロッコ西部では\n深刻な旱魃が発生した。作物が台無しになって輸出額も下がり、\n地方でも飢饉の脅威は日増しに大きくなっている。;;;;;;;;;;X
 EVT218043N;モロッコはサムサールについての国際会議を提案;;;;;;;;;;X
 EVT218043D;サムサール問題について、1876年には合意履行が確保できなくなり\nハサン1世は、モロッコの近代化がますます困難なものと\nなっている現実に直面した。1880年の上旬、スルタンは\nサムサール問題の終局的解決のため、国際会議を開くよう公に要請した。\nこの件ではイギリスがスルタンに味方してくれるだろう。;;;;;;;;;;X
 ACT218043;国際会議を開こう;;;;;;;;;;X
 EVT218044D;1880年の5月から6月にかけて、モロッコと西欧諸国の利害調整に\n答えを出すべくマドリードに各国の外交官が集まり、\n最終的に両者が譲歩して合意に至った。\nモロッコはヨーロッパ人に不動産の所有を認める代わりに\nヨーロッパ人が雇用できるサムサールの数は削減されることになった。\nサムサールは依然としてモロッコ人で西欧諸国の保護下にあり、\nハサン1世も完全に満足できる合意内容ではなかった。\nしかしこれは現状打開への切掛りとなるだろう。;;;;;;;;;;X
 EVT218045N;スース谷の反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218045D;モロッコ南部のスース地方はベルベル諸部族による\n大規模な連合の支配下にあったが、彼らは中央政府の\n統治に対して反抗的な態度をとっていた。\n1882年にも反乱が起こり、ハサン1世は中央政府の権力を\n知らしめるためこの地方へと派兵せざるを得なくなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218046N;1884年の旱魃;;;;;;;;;;X
 EVT218046D;モロッコの農業はその多くを冬と春の嵐に依存している。これらの嵐が\nもたらす豊かな降水がなければ、暑く長い夏に耐えられないためだ。\n1883年と1884年は十分な雨が降らず、モロッコ西部では\n深刻な旱魃が発生した。作物が台無しになって輸出額も下がり、\n地方でも飢饉の脅威は日増しに大きくなっている。;;;;;;;;;;X
 EVT218047N;マクス税の廃止;;;;;;;;;;X
 EVT218047D;マクスとは税金の一種で、コーランに記載されない例外的な税である。\nこのため敬虔なムスリムからは違法なものだと強く非難されたが、\nマクスは既に主要な財源のひとつとなっていた。\nしかし旱魃が頻発したことで、マクス廃止を求める不満の声は\nもはや避けられない水準にまで大きくなってしまった。;;;;;;;;;;X
 ACT218047A;マクスを廃止しよう;;;;;;;;;;X
 ACT218047B;廃止できるほどの財政的余裕は無い;;;;;;;;;;X
 EVT218048D;モロッコ南部のスース地方はベルベル諸部族による\n大規模な連合の支配下にあったが、彼らは中央政府の\n統治に対して反抗的な態度をとっていた。\n1886年にも反乱が起こり、ハサン1世は中央政府の権力を\n知らしめるためこの地方へと派兵せざるを得なくなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218049D;1883年にフランスがチュニジアを併合すると、スペインの\n商業・軍事関係者の間で懸念が広がった。\nモロッコが同様の道をたどれば、スペインの権益が奪われるためである。\nタンジールのスペイン領事はモロッコに、スペインの同意無しには\nいかなる国境の改訂も受け入れないよう求めてきた。\nこれはフランス勢力の拡大を食い止めるのに好都合だろう。;;;;;;;;;;X
 EVT218050D;1883年にフランスがチュニジアを併合すると、\nイタリアの商業・軍事関係者の間で懸念が広がった。\nモロッコが同様の道をたどれば、イタリアの権益が奪われるためである。\nタンジールのイタリア領事はモロッコに、イタリアの同意無しには\nいかなる国境の改訂も受け入れないよう求めてきた。\nこれはフランス勢力の拡大を食い止めるのに好都合だろう。;;;;;;;;;;X
 EVT218051N;ワジール・アアザム;;;;;;;;;;X
 EVT218051D;ヨーロッパ諸国の外圧は日増しに大きくなっているなか、\nモロッコの主権維持には中央政府の権限を大きくすることが必要である。\nスルタンのハサン1世はこのことを理解し、\n1879年、中央政府を構成していたマフザン体制を作り直して\nワジール・アアザム職を設けた。これは宰相にあたる官職で\nその任務は軍事、外交、財政に関わる業務の調整と監督にあった。;;;;;;;;;;X
 EVT218052N;リーフ地方の反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218052D;モロッコ北部のリーフ地方は諸部族による\n大規模な連合の支配下にあったが、彼らは中央政府の\n統治に対して反抗的な態度をとっていた。\n1889年にも反乱が起こり、ハサン1世は中央政府の権力を\n知らしめるためこの地方へと派兵せざるを得なくなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218053N;タフィレルトの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218053D;モロッコ東部のタフィレルト地方は諸部族による\n大規模な連合の支配下にあったが、彼らは中央政府の\n統治に対して反抗的な態度をとっており、\nフランスとの対立を招く危険性をはらんでいた。\n1893年にも反乱が起こり、ハサン1世は中央政府の権力を\n知らしめるため、この地方へと派兵せざるを得なくなった。;;;;;;;;;;X
 EVT218054D;メリリャ居留地のスペイン人は防衛力の強化を望み、\nそのために現地のゲライ部族と衝突して\n多くのスペイン人が死亡する事態となった。\nスペインは武力介入をちらつかせつつ補償を要求しており、\nフランス・イギリスの領事も仲介を申し出てくれていない。;;;;;;;;;;X
 ACT218054;スペインに補償しよう;;;;;;;;;;X
 EVT218055N;ムーラーイ・ムハンマドの拘留;;;;;;;;;;X
 EVT218055D;ムーラーイ・ムハンマドはハサン1世の息子で、\n次のスルタン位は彼が承継することになっていた。\n1880年代、彼は父のもとでいくつかの州を治め、1893年には軍を率いて\nモロッコ南部の反乱を鎮圧するよう命じられた。\nしかし彼が西洋人に影響されてウラマーを顧みなくなり、\nしかも反乱鎮圧の際に失敗を繰り返したとの報告があがってきたため、\nムーラーイ・ムハンマドは投獄され継承権も奪われてしまう。;;;;;;;;;;X
 EVT218056N;アブドゥルアズィーズの即位;;;;;;;;;;X
 EVT218056D;1894年6月7日、ハサン1世はタフィレルトから帰る途中で死去した。\nスルタンの死がさらなる反乱を呼ぶことが懸念されたため、\n側近らはスルタンが死んだことを安全な地域に戻るまでは\n内密なものとし、そうしてハサン1世の息子のアブドゥルアズィーズが\n14歳で新スルタンとして即位した。;;;;;;;;;;X
 EVT218057N;バー・アフマドが実権を握る;;;;;;;;;;X
 EVT218057D;バー・アフマドは前スルタン、ハサン1世の側近の一人である。\nしかし前スルタンの死から、彼は若き新スルタンへの自身の\n影響力を確固たるものとすべく動き出し、最終的には政敵を官房から\n排してしまった。またバー・アフマドは中央政府への抵抗を容赦なく\n叩き潰し、スルタンの成人までモロッコの安定に尽力した。;;;;;;;;;;X
 EVT218058N;ムーラーイ・ムハンマドの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218058D;バー・アフマドが権力を確立するうえで最大の障害となったのが、\nモロッコ南方の諸部族、特にラハムナー部族である。\n彼らは1894年、拘留中であるアブドゥルアズィーズの兄の\nムハンマドこそが新スルタンにふさわしいとして反乱を起こした。\nバー・アフマド政権の転覆をはかったこの反乱は手強く、\n彼にとってこれが試練の時となった。;;;;;;;;;;X
 EVT218059N;1896年の通貨改革;;;;;;;;;;X
 EVT218059D;1890年代半ば時点で、既にモロッコのディナール銀貨の価値は\n大きく下がり、市場でもスペインやフランスの銀貨が\n広く用いられるようになった。そこでバー・アフマドは\n以前より僅かに大きな新ディナール銀貨を打ち出すよう命じ\nモロッコ経済を引き上げようとしたのだ。\nしかし残念ながら、新銀貨はイスラームの伝統に反するところがあったうえ\n市場でも想定された額面のものとして受け入れられることもなかった。\nこうして通貨価値は引き続き下落していくことになる。;;;;;;;;;;X
 EVT218060N;ボコヤ族の反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218060D;リーフ地方の中部に住むボコヤ部族は、収入を補うため海賊業に\n携わってきた。そして中央の政治不安や大規模な農業危機が\n引き金となって1890年代には再び海賊行為を働くようになっていた。\nヨーロッパ諸国の領事がバー・アフマドに海賊を退治するよう求めると、\n1897年中旬に彼らは反乱軍として蜂起した。;;;;;;;;;;X
 EVT218061N;アフマド・アン・ナスィーリーの「論究の書」;;;;;;;;;;X
 EVT218061D;アフマド・アン・ナスィーリーは、ハサン1世およびバー・アフマドに仕えた\n側近であるが、彼が亡くなる直前の1897年、公人としての人生の\n集大成である「キターブ・アル・イスティクサー(論究の書)」が公刊された。\nアン・ナスィーリーは西欧諸国の国力を熟知しており、\nこの書物でもヨーロッパと協力してその科学技術を導入すべし、と説く。\nまたジハードを訴える者について、これは長期的にみればモロッコの国力を\n削ぐだけだとして、彼らを見当違いで認識の甘い夢想家だと非難した。;;;;;;;;;;X
 EVT218062N;アイト・ウリールの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218062D;ラハムナーの反乱が鎮圧されても、モロッコ南部の概して不安定な\n政情は解消されなかった。多くの部族でバー・アフマドは\n権力を不法に獲得した簒奪者と見られる向きがあったためである。\n1899年にもアイト・ウリールの部族が、諸部族への課税を不満として\n中央政府に対し、新たに反乱を起こした。;;;;;;;;;;X
 EVT218063N;バー・アフマドの死;;;;;;;;;;X
 EVT218063D;バー・アフマドがモロッコを統治したのは6年間で、その間彼は\n強権的な手法によりモロッコを大体はまとめることが出来ていた。\nしかしバー・アフマドが権力を手中に収めたことで、\nスルタン国家としては権力の源を大きく削がれてしまった事にもなる。\n1900年に彼が死ぬと、スルタンのアブドゥルアズィーズは\n自ら国を治めようと身を乗り出してきた。\n強圧的だが有能だったバー・アフマドは最早ない。\nだがスルタンの権威がこれ以上失われないようにするにはやむを得まい。;;;;;;;;;;X
 EVT218064N;アブドゥルアズィーズによる政府機関制の導入;;;;;;;;;;X
 EVT218064D;アブドゥルアズィーズは権力を保ち続けられるよう望んだ。\nしかしそのためには、政府機構を改革し、\n部族へはスルタンの権威を確固たるものとすること、\nさらに税収を増加させたり、西欧列強からの支持を\n取り付けることも必要だった。新スルタンはその手始めに、\nマフザンを西欧式の統治機構へと改革し、\nまた各機関の責任を負う大臣職を設けるよう号令をかけた。;;;;;;;;;;X
 EVT218065N;アブドゥルアズィーズの徴税改革;;;;;;;;;;X
 EVT218065D;統治機構の再編成を終えると次に、アブドゥルアズィーズは\n財政の健全化に取り組んだ。ウラマーは反対したが\n彼は旧来の税制を廃止して税を一本化するよう命じた。\nこのタルティーブという新税制は、全モロッコ人に納税義務を負わせ、\nまた以前は地方の名望家に請負わせていた徴税業務も\n政府から派遣された官吏に行わせることとなった。\nしかしこの新税制は広く不評を買った。\nイスラームの伝統に馴染むものでなかったうえ、\n以前はマフザンから徴税対象外とされた者にも適用されたためである。;;;;;;;;;;X
 EVT218066N;マフザンのフェズ移転;;;;;;;;;;X
 EVT218066D;モロッコ史を顧みると権力の中枢は伝統的に、\nフェズとマラケシュの二都市が交代して担ってきた。\nハサン1世は南部の部族に統制をきかせるため、\n首都をフェズからマラケシュへと移し、バー・アフマドもこれに倣った。\nしかしこのためフェズがスルタン制批判の中枢となってしまったのである。\nアブドゥルアズィーズはこの傾向を抑えるため、\n再びフェズへと首都を移すことにした。;;;;;;;;;;X
 EVT218067N;アブー・ヒマーラの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218067D;ジーラーニー・イブン・イドリースはもとは役人だった。\nしかし神聖な場所とされてきたフェズにある聖者の墓が、\nイギリス人宣教師めらに冒涜されるのを見て彼は政府に叛旗を翻した。\n山々をロバに乗って逃げ回るうちにアブー・ヒマーラとして知られるようになり、\nそして投獄されているムーラーイ・ムハンマドの名を騙るようになった。\n経済が大混乱にあるなか大衆を煽動していったことで、\nアブー・ヒマーラの反乱は多くのモロッコ人を惹き付けていった。;;;;;;;;;;X
 EVT218068N;1903年の通貨改革;;;;;;;;;;X
 EVT218068D;1896年に行われたバー・アフマドの通貨改革は、\n法的な正当性がないとみなされて失敗した。これを踏まえて\nアブドゥルアズィーズは1903年、新たに通貨改革を行い、\nイスラームの慣習に則ったディナール銀貨を鋳造させた。\nしかしこの銀貨はバー・アフマドのディナール銀貨と比べて\n銀の含有率が低く、商人に受け入れられることは無かった。\nモロッコの通貨は一層不安定になり、問題は深刻化していく。;;;;;;;;;;X
 EVT218069N;1904年の対仏借款;;;;;;;;;;X
 EVT218069D;モロッコが陥っている深刻な経済状況のため、アブドゥルアズィーズは\n海外からの借款で財政を均衡化する案を検討せざるを得なくなった。\n1904年の春、フランスの銀行のうち数行から代理人が送られ、\nスルタンが借款を受け入れる用意があるなら、と申し出てきた。\n借款を受けなければ、モロッコはきっと破産してしまうだろう。;;;;;;;;;;X
 EVT218070D;フランス政府は1904年、借款を受けるにあたって\nモロッコに厳しい条件を突きつけてきた。その中には\n「モロッコが返済に際して将来の徴税権を担保に充てる」\nというものまで含まれている。この借款を受ければ\nモロッコはフランスの強い影響下に置かれることだろう。\nしかし借款を受けなければ、モロッコはきっと破産してしまう。;;;;;;;;;;X
 EVT218071D;1905年、サン・ルネ・タイヤンディエに率いられたフランスの使節団が\nフェズに到着した。彼らの携えている条約草案には、1904年借款の\n「安全を保障する」ため財政・軍事面でモロッコがフランスの\n支配下に置かれる旨記載されている。\nこのような条約には有力者の合議が必要だ、\nと言えば時間稼ぎができるかもしれない。またイギリスの支援が\n得られるかもしれないし、フランスがわが国に介入することについて\n他国が反対する時間もできるだろう。;;;;;;;;;;X
 ACT218071A;有力者を招き、条約について協議しよう;;;;;;;;;;X
 ACT218071B;フランスには抗えない。受諾せねば;;;;;;;;;;X
 EVT218072N;ムハンマド・アブドゥルカビール・アルキッターニー;;;;;;;;;;X
 EVT218072D;大衆の尊敬を集めるウラマーのひとりに、アルキッターニーがいた。\n20世紀に入ろうかという当時、西欧の影響は一層強くなっていた。\nそんな中、彼はウラマーの中でとりわけそれに強く反対し、\n声を張り上げるようになった。フランスの支配が\nどんどん色濃くなっていく現状を受け、アルキッターニーは、\nモロッコから全てのヨーロッパ人を力づくでも追放すること、\n西欧文明に汚される以前のイスラーム社会に立ち返ること、を\nスルタンに対し公に求めてきた。\n彼の急進的な主張は、とりわけ貧困層から強い支持を得ている。;;;;;;;;;;X
 EVT218073N;サン・ルネ・タイヤンディエへのモロッコの返答;;;;;;;;;;X
 EVT218073D;フランスの要求を突っぱねることについて、ドイツ政府は最大級の\n外交的支援を行うと言明してくれている。\nサン・ルネ・タイヤンディエ条約の締結を正式に断ろう。\nまたドイツは、西欧列強のモロッコにおける影響力を\n抑えるための国際会議を開くなら援助しよう、とも言ってくれた。;;;;;;;;;;X
 ACT218073;フランスの要求を蹴り、ドイツに助けを請おう;;;;;;;;;;X
 EVT218075N;1906年の旱魃;;;;;;;;;;X
 EVT218075D;モロッコの農業はその多くを冬と春の嵐に依存している。これらの嵐が\nもたらす豊かな降水がなければ、暑く長い夏に耐えられないためだ。\n1905年と1906年は十分な雨が降らず、モロッコ西部では\n深刻な旱魃が発生した。作物が台無しになって輸出額も下がり、\n地方でも飢饉の脅威は日増しに大きくなっている。;;;;;;;;;;X
 EVT218076D;西欧資本がモロッコ経済に食い込んでいったことで、また1906年の\n旱魃による深刻な経済危機もあって、民衆の怒りは募るばかりだ。\nモロッコ人がヨーロッパ人を襲う事態も増えてきている。1907年の3月\nマラケシュで暴徒がフランス人医師のエミール・モーシャンを殺害した。\nフランス軍は制裁としてウジダを占領し、アルジェリア国境の安全を\n確保するよう主張している。彼らがいつ占領を解くかは不明瞭だ。;;;;;;;;;;X
 EVT218077D;1907年、カサブランカ港の改良に従事していたフランス人技師が\nかつてムスリムの墓地だった場所で作業を行った。\nそれを受けてカサブランカの市民が暴動を起こし、\nヨーロッパ人所有の財物を破壊した。\nするとフランスは、カサブランカにいるヨーロッパ人の安全を\nモロッコ政府が確保できていないとして\nカサブランカ一帯の支配を掌握してしまった。;;;;;;;;;;X
 EVT218078N;マラケシュでアブドゥルハフィーズの擁立;;;;;;;;;;X
 EVT218078D;アブドゥルアズィーズは以前から西欧に対し弱腰だと見なされていたが\nフランスが領土の一部を支配下においたことで、\n彼の正統性は打ち砕かれてしまった。\n8月にはモロッコ南部の有力な部族長らは協同して\n「アブドゥルアズィーズは退位して兄のアブドゥルハフィーズをスルタンに」\nと訴えた。モロッコは今や内戦が勃発する可能性に直面している。;;;;;;;;;;X
 EVT218079N;アブドゥルアズィーズがフェズから逃亡;;;;;;;;;;X
 EVT218079D;アブドゥルハフィーズの擁立から数日が経ち、フェズでは\nアブドゥルアズィーズをスルタンと認める向きがすっかり弱まってしまった。\n数多くの地域が次々とアブドゥルハフィーズ側につき、\nついに1907年9月12日、アブドゥルアズィーズはフェズを脱出し、\nフランス支配下のカサブランカへ保護を求めて逃げていってしまう。\nしかし彼はスルタン位を放棄しておらず、\nモロッコには2人のスルタンがいることになってしまった。;;;;;;;;;;X
 EVT218080N;アブドゥルアズィーズの廃位;;;;;;;;;;X
 EVT218080D;フェズにいるウラマーらは、モロッコのスルタンに\n宗教的正統性を与えてきた。アブドゥルアズィーズは\nフェズを逃げ出してしまったが、ウラマーの大半は依然として\nアブドゥルハフィーズをスルタン位の簒奪者とみなし、\n彼の統治に正統性を与えていなかった。しかし1908年の12月、\nアブドゥルハフィーズ派の一部がフェズを掌握し、\nウラマーに強いてアブドゥルアズィーズの退位を宣言させてしまった。;;;;;;;;;;X
 EVT218081N;アブドゥルアズィーズが退位を表明;;;;;;;;;;X
 EVT218081D;アブドゥルアズィーズは自身が退位させられたことについて、\n強制によるもので不法だと拒絶した。\nそして1908年には数度にわたり王位を取り戻すべく行動を起こした。\nしかし1908年8月にマラケシュ近郊のアブー・アジーバでの戦いに敗れるや、\nフランスに保護を求めてカサブランカへと逃亡、退位を公に表明した。\nアブドゥルハフィーズは今や正式なスルタンである。;;;;;;;;;;X
 EVT218082N;西欧諸国の領事がアブドゥルハフィーズを承認;;;;;;;;;;X
 EVT218082D;1908年の8月にアブドゥルアズィーズは廃位させられたが、西欧諸国の\n駐モロッコ領事らは、アブドゥルハフィーズがアルヘシラス議定書を\n受諾しないことを理由として新スルタンを承認しないでいた。\nフランス領事は関税の取立てが手中にあるのを利用して、スルタンから\nさらなる譲歩を引き出そうとしていたのだ。最終的にスルタンは\n合法だと西欧の領事から承認されたが、それと引き換えに\n凍結していた関税債の販売を再開することになった。;;;;;;;;;;X
 EVT218083N;モロッコの負債に関する再協議;;;;;;;;;;X
 EVT218083D;アブドゥルハフィーズがスルタンとして承認されたことで、\nモロッコの関税収入の一部が再び得られるようになった。\nしかし徴税額はきわめて低く、さらに1904年の借款の返済も滞り、\nモロッコが破産状態に陥る可能性は依然として高い水準にあった。\n1910年初旬、使節団がフランスへと送られ、返済期限の引き延ばしと\n新たな借款への担保設定について協議することになった。;;;;;;;;;;X
 EVT218084D;フランスは最後通牒を突きつけてきた。新たな借款を組むが、\nその代わりモロッコの財務・軍事はフランスの完全な監督を受ける。\nさもなくば1904年借款の債務不履行の代償として、\nフランスはエッサウィーラとタフィレルトを支配下におく、と言っている。\nどうすべきだろう?;;;;;;;;;;X
 ACT218084A;フランスの示した条件を受け入れる;;;;;;;;;;X
 ACT218084B;モロッコからフランス人を追い出すのだ;;;;;;;;;;X
 EVT218085N;1911年のアルムクリ協定;;;;;;;;;;X
 EVT218085D;1910年にパリへと送られたモロッコ使節団の長は\nムハンマド・アルムクリであったが、彼は親フランス派で、フランスによる\nモロッコ支配を免れ得ないものとみていた。\n1911年3月に彼はフランスと協議し、合意に至った。\nしかしその内容は、フランスが新たに借款を提供する代わりに、\nモロッコにおいてフランス軍は必要とあれば秩序維持のため\n自由に行動できるとするものだった。\nすでにフランスはモロッコを支配する立場にあるため、\nこの協定を拒むのは無理だろう。;;;;;;;;;;X
 EVT218086N;ムーラーイ・ザインの反乱;;;;;;;;;;X
 EVT218086D;アブドゥルハフィーズの蜂起は、モロッコの主権を護持し\nヨーロッパ諸国による支配を終わらせたい、という公約に支えられていた。\nしかし彼はフランスがモロッコに次々と外圧をかけてくるのに対し、\nこれを食い止めることが出来ず、民衆からは別の人物をスルタンに、\nとの声が高まっていた。そうして1911年4月、メクネスのウラマーは\nスルタンの兄弟であるザインこそ新しいスルタンにふさわしいと主張し、\n瞬く間にフェズ地方一帯へ反乱が広まっていった。;;;;;;;;;;X
 EVT218087N;フランス軍がモロッコに進駐;;;;;;;;;;X
 EVT218087D;アルムクリ協定にあるとおり、フランスは秩序維持のためとして\nフェズへ兵隊を派遣してきた。しかしその真の目的は、\nフェズでの権威がフランスに属すると知らしめることにある。;;;;;;;;;;X
 EVT218088N;スペイン軍がモロッコに進駐;;;;;;;;;;X
 EVT218088D;モロッコ政府にはテトワンの秩序維持ができないとして、\nスペインはモロッコ北部に軍を派遣してきた。;;;;;;;;;;X
 EVT218089N;ドイツがモロッコ南部の支配権を得る;;;;;;;;;;X
 EVT218089D;アガディール危機を解決するため、列強はドイツがスース谷へ\n支配を及ぼすことを認めることにした。わが国はこれに従うほかない。;;;;;;;;;;X
 EVT218090D;フランスがモロッコを保護国とする条約を突きつけてきた。\n元首としてのスルタンの地位は守られるが総督の下にある\nフランス人顧問によってモロッコの統治は管理されることになる。\n独立国モロッコの終焉である。;;;;;;;;;;X
 EVT218091N;リオ・デ・オロにスペイン支配が及ぶ;;;;;;;;;;X
 EVT218091D;フランスとスペインの間に結ばれた協定により、リオ・デ・オロについての\nスペインの領有主張が認められることになった。西欧諸国の領事らは\nわが国に対し、この地域でのスペインの領有権を認めるよう\n圧力をかけてきている。;;;;;;;;;;X
 EVT218092D;フランスの勢力圏はサハラ砂漠にまで広がったが、モロッコと\n仏領アルジェリアの境界は曖昧なままだった。\nオアシス都市には不明瞭ながらスルタンに忠誠を誓っているものがある。\nしかし実効的な支配下にあると言えるのはエルラルビまでである。\nフランスは、エルラルビまではモロッコの主権を認めつつそこに国境を引き\n砂漠地帯での国境線を安定化しようと提案してきた。;;;;;;;;;;X

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS