####### 279K TURKEY #######;;;;;;;;;;;X,,, EVT279000N;クレタの反乱;;;;;;;;;;X,,, EVT279000D;1896年、クレタでオスマン帝国の統治に対する反乱が発生した。島の\n人口の大多数を占めるキリスト教徒がギリシアとの「エノシス」、つまり連\n合を切望したのだ。そして翌年にはギリシアから義勇軍がやってきた。;;;;;;;;;;X ACT279000B;反乱軍の要求に屈する;;;;;;;;;;X,,, EVT279003N;ヘルツェゴビナの反乱;;;;;;;;;;X,,, EVT279003D;1874年に起こった凶作により、ヘルツェゴビナに住むキリスト教徒の\n小作農は、ムスリムの地主に小作料を払えなくなった。彼らはオスマン\n政府からの解放を目指して蜂起し、やがて反乱はボスニア全土に\n拡大していった。;;;;;;;;;;X EVT279004N;ブルガリアの反乱 - 4月蜂起;;;;;;;;;;X,, EVT279004D;ボスニアで発生した反乱にオスマン帝国政府が手こずっているのを好機\nと見るや、ブルガリア革命中央委員会はブルガリア人の解放を目指して\n1876年4月にコプリフシティツァで反乱を起こした。;;;;;;;;;;X, EVT279005N;クレタがオスマンから自治を獲得;;;;;;;;;;X,, EVT279005D;オスマン帝国がギリシア政府を打倒してしまうのではと考えた列強が、戦\n争を終わらせてしまおうと介入してきた。その結果ギリシアから形ばかりな\nがら賠償金を得たが、クレタがキリスト教徒の自治におかれるとともにオ\nスマン軍もクレタ島から撤収することになってしまった。今回の戦争で我\nが帝国は、いかなる新領土も得られなかった。;;;;;;;;;;X, EVT279006N;セルビア・トルコ戦争へロシアが介入;;;;;;;;;;X,, EVT279006D;今回の戦争でオスマン帝国が勝つことにより、ロシアはこれまでバルカン\nに築き上げてきた勢力圏が台無しになってしまうのではないかと考えた。\nそこでロシアは我々に対し、現状復帰に基礎をおく和平案をセルビアと\n結ぶよう要求してきた。;;;;;;;;;;X, EVT279008N;セルビアへの停戦要求?;;;;;;;;;;X,, EVT279008D;何州ものオスマン領がセルビア軍の手に落ちた。\nしかも好戦的な汎スラブ主義者の扇動によって、\nロシアも徐々に不穏な動きを見せるようになっている。\nひょっとするとこの辺りで和平を模索すべきなのかもしれない。\nさて敗北を認めてボスニア・ヘルツェゴビナを手放すか、\nそれとも戦いを続けるか。どうしようか?;;;;;;;;;;X, EVT279009N;コンスタンティノープル会議;;;;;;;;;;X,, EVT279009D;1876年の冬から1877年にかけて\nヨーロッパの外交官がコンスタンティノープルに集まり、\n東方問題を外交的に解決できないかと協議を重ねた。\nそして会議の結果バルカン半島の平和に向けた最良解として、\nブルガリアの自治が必要であるとされた。;;;;;;;;;;X,, ACT279009A;ブルガリアはやはり帝国の不可分の領土だ;;;;;;;;;;X,, ACT279009B;オスマンの宗主権下で大ブルガリアの自治を許す;;;;;;;;;;X,, EVT279012N;ロシアへの停戦要求?;;;;;;;;;;X,, EVT279012D;ロシア陸軍をプレヴェン要塞で食い止めていたものの、\nそれも束の間、ついに戦線を抜かれてしまった。\nロシア軍は現在コンスタンティノープルの近郊にまで迫ってきている。\n休戦のための条件を聞いてみてはどうだろうか?;;;;;;;;;;X, EVT279013N;サンステファノ条約;;;;;;;;;;X,, EVT279013D;コンスタンティノープル近郊にあるサンステファノにおいて、\nオスマンとロシアの交渉担当は和平条約を締結した。\nしかしそれはオスマン帝国にとって非常に不利なもので、\nブルガリアに自治を認めるうえ小アジアの一部をロシアに割譲し、\nさらには国境線もルーマニア、セルビア、モンテネグロの\n有利なように再画定されることとなった。;;;;;;;;;;X EVT279015D;バルカン問題についてベルリンで国際会議が開かれた結果、\nオスマンの地位はある程度まで回復できることになった。\nロシアの子分となったブルガリアの領土は大幅に縮小され、\nマケドニアやアルバニアを引き続き統治することが認められた。\nしかし引き換えにオーストリアがボスニアを治めるとともに\nイギリスがキプロスを統治すること、さらにはセルビア、モンテネグロ、\nルーマニアが完全にオスマンの軛を脱することを受け入れなくては\nならない。だがベルリン会議以前と比べれば事態は好転している。;;;;;;;;;;X, EVT279018N;サンステファノ条約によるブルガリア自治声明;;;;;;;;;;X,, EVT279018D;サンステファノ条約をうけて自治国ブルガリアが成立した。\nマケドニアの大部分を含む広大な領土を有するうえ\nエーゲ海への出口すらもつブルガリアは、\nバルカン半島最大の国家となった。;;;;;;;;;;X, EVT279019N;オスマン・セルビア間の和平;;;;;;;;;;X,, EVT279019D;サンステファノでなされた協定から必然的に導かれるとおり、\nオスマン帝国はニシュの統治権をセルビアへと譲渡することになった。;;;;;;;;;;X,, EVT279020D;イギリスは独立保障や今後の外交的支援と引き換えに、\nキプロスの施政権を要求している。キプロス島に対する形式的な主権は\nスルタンが有するものの、島の統治はイギリスの管理下におかれるだろう。\n今度のような事態が発生したときに、イギリスの援けを失っても\nやっていけるものだろうか?;;;;;;;;;;X, ACT279020B;断る!;;;;;;;;;;X EVT279021N;希土国境に関するコンスタンティノープル協定;;;;;;;;;;X,, EVT279021D;サンステファノで協議が行われようかというその時、\nギリシアはオスマン帝国に宣戦を布告してきた。\nイギリスが圧力を加えてくれたおかげで紛争からは手を引いたものの、\nブルガリア成立への埋合せとして国境の再画定を主張した。\nそして戦争に至ろうかという局面が何度も訪れるほどの激論が\n3年にわたり交わされた結果、テッサリアと南エピルスの統治を\nギリシアに認めるとする協定が1881年に締結された。;;;;;;;;;;X,, EVT279022N;オーストリアのボスニア統治;;;;;;;;;;X,, EVT279022D;ベルリン会議においてオスマン側が受諾させられた決定事項には、\nボスニアの施政権をオーストリアに認めるとするものがあった。\n国際法上ボスニアは変わらずオスマン帝国の領域であったものの、\n事実上ハプスブルグ家の支配するところとなってしまった。\nそしてそれは、ブルガリアにおいてロシアと勢力均衡を維持したいとする\nオーストリアの思惑も絡んだものだった。;;;;;;;;;;X, EVT279023D;ベルリン会議ではバルカン半島におけるロシア権益の\n見直しが決まったが、当のロシアがこれを拒絶している。\nそこでイギリスは我が国に対し、会議での合意事項を\nロシアに遵守させるため共に戦わないかと話を持ちかけてきた。\nこの試みが失敗に終われば、バルカン半島は永久に\nロシアの勢力圏下とされてしまうだろう。\n戦争に加わってみてはどうだろうか?;;;;;;;;;;X, EVT279024D;ベルリン会議ではバルカン半島におけるロシア権益の\n見直しが決まったが、当のロシアがこれを拒絶している。\nそこでオーストリアは我が国に対し、会議での合意事項を\nロシアに遵守させるため共に戦わないかと話を持ちかけてきた。\nこの試みが失敗に終われば、バルカン半島は永久に\nロシアの勢力圏下とされてしまうだろう。\n戦争に加わってみてはどうだろうか?;;;;;;;;;;X, EVT279025D;ベルリン会議ではバルカン半島におけるロシア権益の\n見直しが決まったが、当のロシアがこれを拒絶している。\nそこでフランスは我が国に対し、会議での合意事項を\nロシアに遵守させるため共に戦わないかと話を持ちかけてきた。\n我々が行動を起こさねば、バルカン半島は永久に\nロシアの勢力圏下とされてしまうだろう。\n戦争に加わってみてはどうだろうか?;;;;;;;;;;X, EVT279026N;パリ条約 - クリミア戦争の終結;;;;;;;;;;X,, EVT279026D;ロシアが侵略してきたものの我々同盟軍はこれを打ち破った。\nだが一連の行動により、国内では社会的にも経済的にも\nひどい緊張関係が生じてしまった。そんななかロシア側は、\n協議により決められた調停案を受け入れるよう求めてきている。\nこれを受けようか?;;;;;;;;;;X, EVT279027N;トリポリ問題;;;;;;;;;;X,, EVT279027D;1870年代よりイタリアはトリポリに対して関心をもっていたが、\nそれは次第に強くなっていき、1911年にはこの地域を\nイタリア勢力圏下にあるとみなすに至った。\nそして1911年初旬、列強の支持を取り付けたイタリア政府は\nオスマン帝国に対し、トリポリを原則的にイタリア植民地としてしまうような\n要求を順次突きつけてきた。これについてどのように対応しようか?;;;;;;;;;;X, ACT279027B;とても戦争などできない。トリポリをリビアに割譲しよう;;;;;;;;;;X, EVT279028N;東ルメリアがブルガリアへ統合;;;;;;;;;;X,, EVT279028D;東ルメリアについてベルリン会議では、オスマン帝国に従属はするものの\n引き続き自治が行われることとされた。しかし1885年9月に起こった\n民衆蜂起によって自治政府が転覆すると、新しく政権の座についた\n指導層はブルガリアへの統合を主張するようになった。こうした状況にも\nかかわらずオスマン軍の現地入りは認められていなかったため、東ルメリアは\n結局ブルガリアの支配するところとなった。;;;;;;;;;;X, EVT279029N;ナームク・ケマルが演劇「ヴァタン・ヤーフト・シリストレ」を脱稿;;;;;;;;;;X,, EVT279029D;ナームク・ケマルは1840年に生まれ、70年代には\n青年オスマン運動の中核も務めた作家である。\n当時「上からの改革」であるタンジマートが行われていたが、\n彼はこれを批判し議会制度を導入するよう主張したのだ。\nそうしたケマルの作品中もっとも有名なのが、\n個人的なものを超えた祖国への忠誠を描いた演劇\n「ヴァタン・ヤーフト・シリストレ(母国、またはシリストラ)」\nであった。だがこの作品は政治的腐敗や主導権に欠く政府を暗に\n非難しており、1873年に初演されるやイスタンブールで反政府暴動を\n引き起こすことになった。こうした情勢には政府も素早く対応し、\nナームク・ケマルは逮捕されたうえ、この演劇も\n1908年に至るまで上演が禁じられた。;;;;;;;;;;X EVT279031N;ヨーロッパへのエジプト鎮圧支援要請;;;;;;;;;;X,, EVT279031D;オスマン帝国の権威をかさに自治を維持してきたエジプト総督だったが、\nここへきて彼は独立を宣言すべく準備を進めている。エジプト総督の\n横柄な鼻をあかすためには、列強の支持を取り付ける必要がある。;;;;;;;;;;X,, ACT279031A;帝国の不可分性を守るため、西欧に助けを求めよう;;;;;;;;;;X,, ACT279031B;たとえ助けがなくても、すぐに行動せねば;;;;;;;;;;X,, EVT279032N;バルタ・リマヌ協定;;;;;;;;;;X,, EVT279032D;ロシアに支配されるのではと懸念される一方で、ムハンマド・アリーが\n野心を顕わにする、そうした状況に進退窮まったオスマン政府は、\nイギリスから外交支援を得るため交渉を始めた。だが外交支援を\n取り付けるには、イギリスとの自由貿易協定を受け入れる必要があった。\nこうして1838年8月、両国間でバルタ・リマヌ協定が締結されることになった。;;;;;;;;;;X EVT279033N;マフムト2世の東方問題清算;;;;;;;;;;X,, EVT279033D;マフムト2世は、イギリスから外交面で支援を取り付けたことで\n影響力が大きくなったと考えていた。そして1839年4月、\n東方問題をきっぱり清算しきってしまおうと決心した。;;;;;;;;;;X, EVT279034N;ギュルハネ勅令;;;;;;;;;;X,, EVT279034D;オスマン帝国は運勢からして衰亡期にあり、大宰相ヒュスレヴ・パシャは\n改革を約束することで列強の支持を得られればと考えていた。\n改革を実行すれば市民はムスリムでなくとも同権として扱われ、また政府の\n能率性も向上するだろう。;;;;;;;;;;X EVT279035N;列強による第二次オリエント危機の解決要求;;;;;;;;;;X, EVT279035D;ムハンマド・アリーとオスマン政府の対立が悪循環に陥ったあげく\n統制がきかなくなるのではないかとして、列強諸国は双方に\n調停案を受け入れるよう求めてきた。;;;;;;;;;;X EVT279036N;第二次オリエント危機の解決に向けた第一の試み;;;;;;;;;;X, EVT279036D;エジプト総督職がムハンマド・アリー一族の世襲となる代わりに、\nシリア地方がオスマン帝国に返還されるとの裁定を列強諸国が伝えてきた。;;;;;;;;;;X, EVT279037N;ムハンマド・アリーと列強の最後の対決;;;;;;;;;;X, EVT279037D;交渉にかかる期間が延長されたことで、\n辛抱強かった列強もついに根負けしてしまった。\nムハンマド・アリーに、より懲罰的な調停案を\n呑ませるべきだとの考えをイギリスは表明している。;;;;;;;;;;X EVT279038N;メクテビ・アシレットの設立;;;;;;;;;;X, EVT279038D;オスマン帝国政府は1892年、アラブ人やクルド人部族の子弟に対してオスマン文明にのっとった教育を施すため、メクテビ・アシレット(部族学校)の設立を決めた。そして同年10月3日にその開校を迎えた。;;;;;;;;;;X, EVT279038D;オスマン帝国政府は1892年、アラブ人やクルド人部族の子弟に対して\nオスマン文明にのっとった教育を施すため、メクテビ・アシレット(部族学校)の\n設立を決めた。そして同年10月3日にその開校を迎えた。;;;;;;;;;;X, ACT279038;無知蒙昧から救ってやろう;;;;;;;;;;X, EVT279045D;オスマン帝国とその同盟軍はあらゆる戦線で撤退を重ねている。そこでヨーロッパの列強はパリに集まり、バルカンでの勢力均衡を維持できるような落し所がないか協議することになった。これによる調停案について、我が国はこれを受諾するか否か決める必要がある。;;;;;;;;;;X EVT279045D;オスマン帝国とその同盟軍はあらゆる戦線で撤退を重ねている。\nそこでヨーロッパの列強はパリに集まり、バルカンでの勢力均衡を\n維持できるような落し所がないか協議することになった。\nこれによる調停案について、\n我が国はこれを受諾するか否か決める必要がある。;;;;;;;;;;X EVT279046N;トリポリ戦争での対伊敗戦;;;;;;;;;;X, EVT279046D;リビア沿岸部の主要地点はイタリア軍にあらかた押さえられてしまった。しかもロードス島近海においてイタリア海軍の行っている軍事作戦は、我が国への侵略行為につながりかねないものだ。さらにバルカン半島の国家が反オスマン同盟を組んだとの報告も続々と入ってきている。バルカンでの脅威に立ち向かうため、イタリアとの戦争を終えなくてはならない。;;;;;;;;;;X, EVT279046D;リビア沿岸部の主要地点はイタリア軍にあらかた押さえられてしまった。\nしかもロードス島近海においてイタリア海軍の行っている軍事作戦は、\n我が国への侵略行為につながりかねないものだ。さらにバルカン半島の\n国家が反オスマン同盟を組んだとの報告も続々と入ってきている。\nバルカンでの脅威に立ち向かうため、イタリアとの戦争を終えなくてはならない。;;;;;;;;;;X, ACT279046;リビアとロードスをイタリアに割譲しよう;;;;;;;;;;X, EVT279053N;ルーマニアの独立承認;;;;;;;;;;X, EVT279053D;露土戦争でオスマン帝国が1878年に敗戦したのを受けて、ルーマニアのカロル公はオスマンへの臣従を取りやめる旨宣言した。;;;;;;;;;;X, EVT279053D;露土戦争でオスマン帝国が1878年に敗戦したのを受けて、\nルーマニアのカロル公はオスマンへの臣従を取りやめる旨宣言した。;;;;;;;;;;X, EVT279054N;モンテネグロ独立の回復;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279054D;休戦協定の一環として、オスマン帝国はモンテネグロから撤退したうえ、その完全な独立を承認せねばならなくなってしまった。;;;;;;;;;;X,,,,,, EVT279054D;休戦協定の一環として、オスマン帝国はモンテネグロから撤退したうえ、\nその完全な独立を承認せねばならなくなってしまった。;;;;;;;;;;X,,,,,, EVT279055N;エジプトのロンドン条約受諾;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279055D;ムハンマド・アリーも頭が冷えたのかイギリスの最後通牒を受け入れた。エジプト総督の地位は彼の一族による世襲となったものの、シリア地方や聖地の支配権が返還されたうえ、スルタンがエジプト総督の上位にあることも認められた。;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279055D;ムハンマド・アリーも頭が冷えたのかイギリスの最後通牒を受け入れた。\nエジプト総督の地位は彼の一族による世襲となったものの、\nシリア地方や聖地の支配権が返還されたうえ、\nスルタンがエジプト総督の上位にあることも認められた。;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279056N;エジプト副王領;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279056D;エジプトは総督イスマーイールによる主導のもと、経済的にも政治的にも大きく変化を遂げることになったが、その手法はタンジマートによる改革派が唱えた西洋化と似たものだった。しかもイスマーイールは外交界において、オスマン政府を強く支持しているように振舞っていたのである。こうした彼の努力をオスマン帝国も認め、1867年には彼をヘディーヴ(副王)に昇格させるとともに、国内行政においてもエジプトの支配権をより広汎に与えることとなった。;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279056D;エジプトは総督イスマーイールによる主導のもと、\n経済的にも政治的にも大きく変化を遂げることになったが、\nその手法はタンジマートによる改革派が唱えた西洋化と似たものだった。\nしかもイスマーイールは外交界において、\nオスマン政府を強く支持しているように振舞っていたのである。\nこうした彼の努力をオスマン帝国も認め、\n1867年には彼をヘディーヴ(副王)に昇格させるとともに、\n国内行政においてもエジプトの支配権をより広汎に与えることとなった。;;;;;;;;;;X,,,,,,, ACT279056;イスマーイールに新たな地位を与えよう;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279057N;イスマーイールの継承問題;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279057D;ヘディーヴとなったイスマーイールだったが、彼は改革がそのまま続いていくように、さらにはヘディーヴの地位が自分の一族に限られるようにと取り組んでいた。その結果1873年、オスマン帝国のスルタンはフェルマーン(勅令)を発し、死後は息子のタウフィークに跡を継がせたいとするイスマーイールの願いを公式に認めることになった。;;;;;;;;;;X,,,,,, EVT279057D;ヘディーヴとなったイスマーイールだったが、彼は改革がそのまま続いて\nいくように、さらにはヘディーヴの地位が自分の一族に限られるようにと\n取り組んでいた。その結果1873年、オスマン帝国のスルタンはフェルマーン\n(勅令)を発し、死後は息子のタウフィークに跡を継がせたいとする\nイスマーイールの願いを公式に認めることになった。;;;;;;;;;;X,,,,,, EVT279058N;タウフィークのヘディーヴ任命;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279058D;1879年7月当時、エジプト経済は次第に困難な情勢におかれるようになっていた。そこで英仏両国はヘディーヴ・イスマーイールを失政のかどで廃位に追いやってしまった。そのためイスマーイールの後継者として1873年フェルマーンで指名されていたタウフィークが、新しいヘディーヴとなった。;;;;;;;;;;X,,,,, EVT279058D;1879年7月当時、エジプト経済は次第に困難な情勢におかれるように\nなっていた。そこで英仏両国はヘディーヴ・イスマーイールを失政のかどで\n廃位に追いやってしまった。そのためイスマーイールの後継者として1873年\nフェルマーンで指名されていたタウフィークが、新しいヘディーヴとなった。;;;;;;;;;;X,,,,, EVT279059N;イギリスのエジプト介入;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279059D;アフマド・ウラービー大佐の率いるエジプト・アラブ人部隊は、1881年にエジプトの支配権を掌握してしまった。そしてイギリスの利害関係には譲歩するようにオスマン政府が忠告していたにもかかわらず、エジプトの対英関係は、イギリス権益の保護をめぐって危機的な状態にまで陥ってしまった。そしてイギリス政府はウラービー政権を転覆し、ヘディーヴによる統治を復活させようとの動きを見せている。今回の事件はエジプトにおけるオスマン帝国の主権侵害であるが、エジプトの民族主義者を支援してイギリス勢力に立ち向かうことは可能だろうか?;;;;;;;;;;X,,, ACT279059A;Protest British Actions But Remain Neutral;;;;;;;;;;X ACT279059B;Intervene to support Urabi's resistance;;;;;;;;;;X EVT279059D;アフマド・ウラービー大佐の率いるエジプト・アラブ人部隊は、1881年に\nエジプトの支配権を掌握してしまった。そしてイギリスの利害関係には\n譲歩するようにオスマン政府が忠告していたにもかかわらず、エジプトの\n対英関係は、イギリス権益の保護をめぐって危機的な状態にまで\n陥ってしまった。そしてイギリス政府はウラービー政権を転覆し、\nヘディーヴによる統治を復活させようとの動きを見せている。今回の事件は\nエジプトにおけるオスマン帝国の主権侵害であるが、エジプトの民族主義者を\n支援してイギリス勢力に立ち向かうことは可能だろうか?;;;;;;;;;;X,,, ACT279059A;イギリスの行動に抗議するが、中立を保つ;;;;;;;;;;X ACT279059B;ウラービー率いる反乱軍を支援するため、介入する;;;;;;;;;;X EVT279101N;大教育改革;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT279101D;歴史的な帝国を築いたオスマン人だったが、その歴史を残すことには概して無頓着だった。歴史とは時の権力者が残す年代記でしかなかったためである。歴史が科目として加えられたのは、タンジマート期に教育改革の必要性が認められてからだった。一連の改革の手始めは1845年勅令によるもので、初等教育が義務化されたうえ政府がこれを統制するよう定められた。そして後には小学校から始まってルシュディーヤ、イダーディーヤ、スルターニーヤと3学年ごとに上がる教育制度が設けられ、さらには師範学校と大学が設立されることになる。公教育の目指すもの全てを同時に達成できるほどの資本がなかったため、こうした改革が満足な効果をあげることはなかったものの、情勢は着実に前進している。;;;;;;;;;;X EVT279101D;歴史的な帝国を築いたオスマン人だったが、その歴史を残すことには\n概して無頓着だった。歴史とは時の権力者が残す年代記でしか\nなかったためである。歴史が科目として加えられたのは、タンジマート期に\n教育改革の必要性が認められてからだった。一連の改革の手始めは\n1845年勅令によるもので、初等教育が義務化されたうえ政府がこれを\n統制するよう定められた。そして後には小学校から始まって\nルシュディーヤ、イダーディーヤ、スルターニーヤと3学年ごとに上がる\n教育制度が設けられ、さらには師範学校と大学が設立されることになる。\n公教育の目指すもの全てを同時に達成できるほどの資本がなかったため、\nこうした改革が満足な効果をあげることはなかったものの、\n情勢は着実に前進している。;;;;;;;;;;X ACT279101A;将来へ投資するのだ;;;;;;;;;;X,,,,,,, ACT279101B;教育は聖職者に任せよう;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279102N;混乱にある聖地 - レバノン山地におけるキリスト教徒の騒乱;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279102D;レバノンへ外国勢力が入ってきたことで、現地の社会政治的な問題が悲痛なまでの宗教紛争に変質してしまった。そしてそれは1860年、およそ1万人のマロン派信徒、さらにはカトリックや正教を奉じるギリシア人がドルーズ派ムスリムによって虐殺されるという悲劇により最高潮を迎えた。こうした事件の発生を、フランスは介入に向けた好機とみている。そこでフランスによる介入に先んじようと、オスマン政府は秩序回復のためレバノンに乗り込むこととなった。;;;;;;;;;;X,,,, EVT279102D;レバノンへ外国勢力が入ってきたことで、現地の社会政治的な問題が\n悲痛なまでの宗教紛争に変質してしまった。そしてそれは1860年、\nおよそ1万人のマロン派信徒、さらにはカトリックや正教を奉じるギリシア人が\nドルーズ派ムスリムによって虐殺されるという悲劇により最高潮を迎えた。\nこうした事件の発生を、フランスは介入に向けた好機とみている。\nそこでフランスによる介入に先んじようと、オスマン政府は秩序回復のため\nレバノンに乗り込むこととなった。;;;;;;;;;;X,,,, ACT279102A;レバノン山地に自治を与える;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, ACT279102B;秩序回復のためオスマン軍を送る;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, ACT279102C;レバノン山地にフランス保護領を認める;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279103N;アブデュルアジズのヨーロッパ外遊;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279103D;1867年、パリでは万国博覧会が催されることになっていた。そこへ「スルタン自身で視察されては」との招待がフランス皇帝ナポレオン3世よりあったことで、アブデュルアジズはパリに向け、長く華麗な外遊に出ることとなったのである。この旅にはスルタンの甥であるムラトとアブデュルハミト、さらにはエジプトのヘディーヴ・イスマーイールが随行した。アブデュルアジズはこの外遊の途中、ブカレストに始まってウィーン、ベルリン、パリ、ロンドン、ブリュッセルといった欧州諸国の首都を歴訪し、友好関係を向上させるとともにタンジマート改革の進捗具合を宣伝しようと努めた。;;;;;;;;;;X EVT279103D;1867年、パリでは万国博覧会が催されることになっていた。\nそこへ「スルタン自身で視察されては」との招待が\nフランス皇帝ナポレオン3世よりあったことで、アブデュルアジズは\nパリに向け、長く華麗な外遊に出ることとなったのである。\nこの旅にはスルタンの甥であるムラトとアブデュルハミト、\nさらにはエジプトのヘディーヴ・イスマーイールが随行した。\nアブデュルアジズはこの外遊の途中、ブカレストに始まって\nウィーン、ベルリン、パリ、ロンドン、ブリュッセルといった\n欧州諸国の首都を歴訪し、友好関係を向上させるとともに\nタンジマート改革の進捗具合を宣伝しようと努めた。;;;;;;;;;;X EVT279104N;スルタン・アブデュルアジズの悲劇的な最期;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279104D;1860年代に入ると、西欧式の教育を受けた改革派世代(青年オスマン人)が台頭するようになった。彼らはスルタンや官僚機構が持つ権限について、これらの行使をより監督できるようにしようと考えている。そして当時青年オスマン人が権力の座から締め出されていたからか、はたまたアブデュルアジズのとった政策が1870年代に入って壊滅的な結果に終わったからか、ついに青年オスマン人らは実力行使に出た。1876年5月、スルタンに掛け合って大宰相の首を挿げ替えさせたのである。新しい大宰相には青年オスマン運動のリーダー、ミドハト・パシャが就くことになった。さて青年オスマン人らは、スルタンの処遇について決める必要がある。その命運は彼らの手中にあり、しかもスルタンからの支援はもはや当てにならないのだ。;;;;;;;;;;X,,, EVT279104D;1860年代に入ると、西欧式の教育を受けた改革派世代\n(青年オスマン人)が台頭するようになった。彼らはスルタンや\n官僚機構が持つ権限について、これらの行使をより\n監督できるようにしようと考えている。そして当時青年オスマン人が\n権力の座から締め出されていたからか、はたまたアブデュルアジズのとった\n政策が1870年代に入って壊滅的な結果に終わったからか、\nついに青年オスマン人らは実力行使に出た。1876年5月、\nスルタンに掛け合って大宰相の首を挿げ替えさせたのである。\n新しい大宰相には青年オスマン運動のリーダー、ミドハト・パシャが\n就くことになった。さて青年オスマン人らは、スルタンの処遇について\n決める必要がある。その命運は彼らの手中にあり、しかも\nスルタンからの支援はもはや当てにならないのだ。;;;;;;;;;;X,,, ACT279104A;秘密裡にスルタンを処刑する;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, ACT279104B;平和裡にスルタンの亡命を許す;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279105N;メクテビ・アシレットの設立;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279105D;オスマン帝国政府は1892年、アラブ人やクルド人部族の子弟に対して近代化されたオスマン文明にのっとった教育を施すため、メクテビ・アシレット(部族学校)の設立を決めた。そして同年10月3日にその開校を迎えた。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279105D;オスマン帝国政府は1892年、アラブ人やクルド人部族の子弟に対して\n近代化されたオスマン文明にのっとった教育を施すため、\nメクテビ・アシレット(部族学校)の設立を決めた。そして同年10月3日に\nその開校を迎えた。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, ACT279105;無知蒙昧から救ってやろう;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279106N;ダーリュル・フュヌーヌ・オスマンル;;;;;;;;;;X,,,,,,,,, EVT279106D;イスタンブールに大学を設立しようとの動きは19世紀を通じて何度もみられたが、いずれも失敗に終わっていた。しかし1900年8月12日、ついにダーリュル・フュヌーヌ・オスマンル(オスマン大学)が開校を迎えた。;;;;;;;;;;X,, EVT279106D;イスタンブールに大学を設立しようとの動きは19世紀を通じて\n何度もみられたが、いずれも失敗に終わっていた。しかし1900年8月12日、\nついにダーリュル・フュヌーヌ・オスマンル(オスマン大学)が開校を迎えた。;;;;;;;;;;X,, EVT279107N;オスマン初の憲法公布;;;;;;;;;;X,,, EVT279107D;青年オスマン運動では、西洋化によって帝国の政治構造を変えていく必要性が強く認識されていた。当時スルタンや官僚による権力濫用が横行しており、また改革によって引き続きヨーロッパから支援を得ることができるためである。しかもバルカン危機は深刻化の度合いを深めており、ロシアによる介入が脅威として数えられる有様である。そこで青年オスマン人はスルタンのアブデュルハミト2世を説き伏せ、ついに1876年12月、オスマン帝国憲法であるカーヌーニ・エサーシー(基本法)が公布される運びとなった。;;;;;;;;;;X EVT279107D;青年オスマン運動では、西洋化によって帝国の政治構造を\n変えていく必要性が強く認識されていた。当時スルタンや官僚による\n権力濫用が横行しており、また改革によって引き続きヨーロッパから\n支援を得ることができるためである。しかもバルカン危機は深刻化の度合いを\n深めており、ロシアによる介入が脅威として数えられる有様である。\nそこで青年オスマン人はスルタンのアブデュルハミト2世を説き伏せ、ついに\n1876年12月、オスマン帝国憲法であるカーヌーニ・エサーシー(基本法)が\n公布される運びとなった。;;;;;;;;;;X ACT279107;憲法万歳、スルタン万歳!;;;;;;;;;;X,, EVT279108N;アブデュルハミト2世専制の復活;;;;;;;;;;X,,, EVT279108D;ロシアとの紛争は続き、スルタンも自分の権限が抑えられる改革には積極的に取り組もうとはしなかった。立憲政府をたてようとの試みには多くの障害が立ちはだかっていた。そんなある時、ロシア軍が国境深くまで侵入し、議員も戦争に踏み切ってはどうかと主張するようになった。スルタンはこうした問題に「議会制はオスマン社会に対立の火種をあまりに多くばら撒いてしまった」と主張して、1878年初旬、議会を廃してしまった。厳密に言えば、1876年憲法が効力を失ったわけではなかったが、緊急の情勢がスルタンにふたたび専制をもたらしてしまったのである。;;;;;;;;;;X EVT279108D;ロシアとの紛争は続き、スルタンも自分の権限が抑えられる改革には\n積極的に取り組もうとはしなかった。立憲政府をたてようとの試みには\n多くの障害が立ちはだかっていた。そんなある時、ロシア軍が国境深くまで\n侵入し、議員も戦争に踏み切ってはどうかと主張するようになった。\nスルタンはこうした問題に「議会制はオスマン社会に対立の火種をあまりに\n多くばら撒いてしまった」と主張して、1878年初旬、議会を廃してしまった。\n厳密に言えば、1876年憲法が効力を失ったわけではなかったが、\n緊急の情勢がスルタンにふたたび専制をもたらしてしまったのである。;;;;;;;;;;X ACT279108A;スルタンの専制を全面的に復活させる;;;;;;;;;;X,,, ACT279108B;議会制を維持する;;;;;;;;;;X,,, EVT279109N;1908年の青年トルコ革命;;;;;;;;;;X,,, EVT279109D;軍隊で発生した反乱を鎮めるためスルタン・アブデュルハミト2世は、1876年憲法によって作られた議会制度をやむなく復活させることになった。;;;;;;;;;;X,,, EVT279109D;軍隊で発生した反乱を鎮めるためスルタン・アブデュルハミト2世は、\n1876年憲法によって作られた議会制度をやむなく復活させることになった。;;;;;;;;;;X,,, ACT279109A;議会制を復活させる;;;;;;;;;;X,,, ACT279109B;全面的なスルタン専制を維持する;;;;;;;;;;X,,, EVT279110N;1909年の反革命;;;;;;;;;;X,,, EVT279110D;1909年、青年トルコ人による改革案に反対する反革命勢力により、アブデュルハミト2世の専制を復活させようとする事件が発生したものの、反乱は青年トルコ人派の部隊により速やかに鎮圧された。結局アブデュルハミト2世は廃位されることになり、新しいスルタンとしてメフメト5世が即位した。;;;;;;;;;;X,, EVT279110D;1909年、青年トルコ人による改革案に反対する反革命勢力により、\nアブデュルハミト2世の専制を復活させようとする事件が発生したものの、\n反乱は青年トルコ人派の部隊により速やかに鎮圧された。\n結局アブデュルハミト2世は廃位されることになり、\n新しいスルタンとしてメフメト5世が即位した。;;;;;;;;;;X,, EVT279111N;クリミア戦争での戦債調達;;;;;;;;;;X,,, EVT279111D;クリミア戦争の長期化にともない、支出が収入を大きく上回るようになった。そこで戦争遂行のために英仏と交渉して借款を受けてはどうだろうかとの議論が立ち起こっている。;;;;;;;;;;X,, EVT279111D;クリミア戦争の長期化にともない、支出が収入を大きく上回るようになった。\nそこで戦争遂行のために英仏と交渉して借款を受けてはどうだろうかとの\n議論が立ち起こっている。;;;;;;;;;;X,, ACT279111A;英仏から外債を募る;;;;;;;;;;X ACT279111B;自前で調達する;;;;;;;;;;X EVT279112N;戦債確保;;;;;;;;;;X EVT279112D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、英仏両国から是認された。;;;;;;;;;;X EVT279113D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、フランスがこれを是認する一方、イギリスは拒絶した。;;;;;;;;;;X EVT279114D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、イギリスがこれを是認する一方、フランスは拒絶した。;;;;;;;;;;X EVT279115D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、英仏両国から拒絶された。;;;;;;;;;;X EVT279112D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、\n英仏両国から是認された。;;;;;;;;;;X EVT279113D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、\nフランスがこれを是認する一方、イギリスは拒絶した。;;;;;;;;;;X EVT279114D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、\nイギリスがこれを是認する一方、フランスは拒絶した。;;;;;;;;;;X EVT279115D;我が国は継戦のため戦債による資金調達を目指していたが、\n英仏両国から拒絶された。;;;;;;;;;;X EVT279116N;民主制によるドイツの誕生;;;;;;;;;;X EVT279116D;ドイツ統一は人民の意思だ;;;;;;;;;;X ACT279116A;民主主義など是認できない;;;;;;;;;;X ACT279116B;奴らを叩きのめそう!;;;;;;;;;;X ACT279116C;別に問題ない;;;;;;;;;;X ACT279117A;民主主義者は仲間だ。歓迎しよう;;;;;;;;;;X ACT279117B;同盟を結ぼう;;;;;;;;;;X EVT279118N;保守派によるドイツの誕生;;;;;;;;;;X EVT279118D;反動主義による統一ドイツが誕生した。;;;;;;;;;;X ACT279118A;反動主義など是認できない;;;;;;;;;;X,,, ACT279119A;保守派は仲間だ。歓迎しよう;;;;;;;;;;X,,, EVT279120N;オスマン帝国の財政破綻;;;;;;;;;;X,,, EVT279120D;全方面にわたる改革を進めてきたオスマン帝国だったが、1870年代に入ると財源不足が目立つようになった。財政改革を早急に行う必要が出てきたのである。しかし当時の帝国では富裕層と一般大衆の対立が激化しており、また様々な民族・宗教による集団がお互いに反目しあっていた。こうした状況下にあっては、いくら帝国政府が改革続行のために歳入増を必要としていたところで、慎重に段取りを進めないことにはこうした社会的不安定要素が暴発してしまうことだろう。;;;;;;;;;;X EVT279120D;全方面にわたる改革を進めてきたオスマン帝国だったが、\n1870年代に入ると財源不足が目立つようになった。\n財政改革を早急に行う必要が出てきたのである。\nしかし当時の帝国では富裕層と一般大衆の対立が激化しており、\nまた様々な民族・宗教による集団がお互いに反目しあっていた。\nこうした状況下にあっては、いくら帝国政府が改革続行のために\n歳入増を必要としていたところで、慎重に段取りを進めないことには\nこうした社会的不安定要素が暴発してしまうことだろう。;;;;;;;;;;X ACT279120A;財政再建に取り組まねば;;;;;;;;;;X,,, ACT279120B;病より恐ろしい治療だってある;;;;;;;;;;X,,, EVT279121N;帝国財政危機の拡大;;;;;;;;;;X,,, EVT279121D;対露戦争での敗北によりバルカン半島の領土を喪失したことを受けて、オスマン帝国は財政危機に陥ってしまった。ヨーロッパ人と交わした借款契約にかかる負債の償還が、じきに予算額の多くを食い尽くすようになったのだ。しかもそれぞれの負債が整理されていないために利率もばらばらで、なかには法外といっていい利子をとるものもあった。そこで宰相らはスルタン・アブデュルハミト2世に対し、解決策として負債を整理してはどうかと訴えている。しかし一方で、借款契約を完全に撤回し破産宣言を出してはと言う者もある。;;;;;;;;;;X EVT279121D;対露戦争での敗北によりバルカン半島の領土を喪失したことを受けて、\nオスマン帝国は財政危機に陥ってしまった。ヨーロッパ人と交わした\n借款契約にかかる負債の償還が、じきに予算額の多くを食い尽くすように\nなったのだ。しかもそれぞれの負債が整理されていないために利率も\nばらばらで、なかには法外といっていい利子をとるものもあった。そこで\n宰相らはスルタン・アブデュルハミト2世に対し、解決策として負債を\n整理してはどうかと訴えている。しかし一方で、借款契約を完全に撤回し\n破産宣言を出してはと言う者もある。;;;;;;;;;;X ACT279121A;負債の整理を求める;;;;;;;;;;X,,, ACT279121B;公債を精算しきってしまう;;;;;;;;;;X,,, ACT279121C;借款の不払いを宣言する;;;;;;;;;;X,,, EVT279122N;デュユヌ・ウムーミーエ - オスマン帝国の公債管理;;;;;;;;;;X,,, EVT279122D;借款契約にかかる債務問題を協議しなおすことについて、無事ヨーロッパから支援を取り付けることができた。そしてオスマン政府が対応できるような返済方法について、1881年に何度も会議が開かれ、その結果デュユヌ・ウムーミーエ(公債局)とよばれる部局が設けられることとなった。この局員にはヨーロッパ人が用いられ、公債償還のため割り当てられた財源についてこれを管理する権限が与えられた。こうしてオスマン帝国は、自国財政を十分に管理できなくなっていったのである。;;;;;;;;;;X, EVT279122D;借款契約にかかる債務問題を協議しなおすことについて、\n無事ヨーロッパから支援を取り付けることができた。そして\nオスマン政府が対応できるような返済方法について、\n1881年に何度も会議が開かれ、その結果\nデュユヌ・ウムーミーエ(公債局)とよばれる部局が\n設けられることとなった。この局員にはヨーロッパ人が用いられ、\n公債償還のため割り当てられた財源について\nこれを管理する権限が与えられた。こうしてオスマン帝国は、\n自国財政を十分に管理できなくなっていったのである。;;;;;;;;;;X, ACT279122;リディア人め!;;;;;;;;;;X,,, EVT279123D;ヨーロッパ諸国が介入をちらつかせつつ、公債の所有者に対する補償を求めてきた。これに応じれば、オスマン公債管理局とよばれる部局が設けられることになる。この局員にはヨーロッパ人が用いられ、公債償還のため割り当てられた財源についてこれを管理する権限が与えられるだろう。自国財政の統括権を失うか、それとも敢えて開戦するか選択する必要がある。;;;;;;;;;;X, EVT279123D;ヨーロッパ諸国が介入をちらつかせつつ、公債の所有者に対する補償を\n求めてきた。これに応じれば、オスマン公債管理局とよばれる部局が\n設けられることになる。この局員にはヨーロッパ人が用いられ、公債償還の\nため割り当てられた財源についてこれを管理する権限が与えられるだろう。\n自国財政の統括権を失うか、それとも敢えて開戦するか選択する\n必要がある。;;;;;;;;;;X, ACT279123A;英仏と戦争はできない。受諾しよう;;;;;;;;;;X,, ACT279123B;背信者め、主権を譲り渡すものか!;;;;;;;;;;X,,, EVT279124N;オスマン銀行の設立;;;;;;;;;;X,,,, EVT279124D;オスマン帝国とイギリス、フランスの協力で1856年に設立されたオスマン銀行だったが、1863年にはオスマン政府が全面的にこれを監督することとなった。そしてヨーロッパの投資家に国債を販売することで諸改革への資金を確保しようと、政府はオスマン銀行を通じ起債するようになったのである。;;;;;;;;;;X,, EVT279124D;オスマン帝国とイギリス、フランスの協力で1856年に設立された\nオスマン銀行だったが、1863年にはオスマン政府が全面的にこれを\n監督することとなった。そしてヨーロッパの投資家に国債を販売することで\n諸改革への資金を確保しようと、政府はオスマン銀行を通じ\n起債するようになったのである。;;;;;;;;;;X,, EVT279125N;セルヴェティ・フュヌーンの創刊;;;;;;;;;;X,,,, EVT279125D;1891年、文芸雑誌セルヴェティ・フュヌーン(学識の富)が新しく出版された。ここには意匠を凝らした文体の詩文や小説、それにコラムが掲載され、自分のために自分の頭で考えようとの思想を読者に広めている。またヨーロッパの斯界では「芸術のための芸術」が目下のところ目指されているが、セルヴェティ・フュヌーン誌は創刊以来、レジャイザーデ・エクレムやテヴフィク・フィクレットなど、こうした考えに賛同する多くの者から支持を集めている。;;;;;;;;;;X EVT279125D;1891年、文芸雑誌セルヴェティ・フュヌーン(学識の富)が\n新しく出版された。ここには意匠を凝らした文体の詩文や小説、\nそれにコラムが掲載され、自分のために自分の頭で考えようとの\n思想を読者に広めている。またヨーロッパの斯界では\n「芸術のための芸術」が目下のところ目指されているが、\nセルヴェティ・フュヌーン誌は創刊以来、\nレジャイザーデ・エクレムやテヴフィク・フィクレットなど、\nこうした考えに賛同する多くの者から支持を集めている。;;;;;;;;;;X EVT279126N;チュニジアへの直接介入;;;;;;;;;;X EVT279126D;トリポリを治めていたカラマンル朝のパシャは独立を志向していたが、1835年に制圧された。とすると次にオスマン政府が考えることといえば、チュニジアの再直轄領化であろう。当時チュニジアを治めていたのはフサイン朝のベイであったが、彼らはオスマン政府を上位に仰いではいたものの、内政・外交の両面において帝国政府から独立したかのような振る舞いを見せており、しかも貢納を拒んですらいたのだ。ところで今度、ムスタファがチュニジアの新しいベイとなることが決まった。彼は今の立場を引き続き承認するよう求めているが、彼に対してオスマン政府の上位性を、貢納支払いという手法により公式に認めさせるというのはどうだろうか?;;;;;;;;;;X EVT279126D;トリポリを治めていたカラマンル朝のパシャは独立を志向していたが、\n1835年に制圧された。とすると次にオスマン政府が考えることといえば、\nチュニジアの再直轄領化であろう。当時チュニジアを治めていたのは\nフサイン朝のベイであったが、彼らはオスマン政府を上位に仰いでは\nいたものの、内政・外交の両面において帝国政府から独立したかのような\n振る舞いを見せており、しかも貢納を拒んですらいたのだ。ところで今度、\nムスタファがチュニジアの新しいベイとなることが決まった。彼は今の立場を\n引き続き承認するよう求めているが、彼に対してオスマン政府の上位性を、\n貢納支払いという手法により公式に認めさせるというのはどうだろうか?;;;;;;;;;;X ACT279126A;チュニスのベイに貢納を求める;;;;;;;;;;X ACT279126B;チュニジアの現状を維持する;;;;;;;;;;X EVT279127N;チュニジアによるオスマン宗主権の承認;;;;;;;;;;X EVT279127D;新しくチュニジアのベイとなったムスタファは、スルタンの配下にあって臣従することを正式に表明せよとのオスマン政府の要求を受け入れた。;;;;;;;;;;X EVT279127D;新しくチュニジアのベイとなったムスタファは、スルタンの配下にあって\n臣従することを正式に表明せよとのオスマン政府の要求を受け入れた。;;;;;;;;;;X EVT279128N;フランスの対チュニジア支援;;;;;;;;;;X EVT279128D;オスマン帝国に対する臣従表明に難色を示していたムスタファ・ベイだったが、ここへきてフランスがチュニジア側についてしまった。チュニジアに対して無理にでも要求を呑まそうとするならば、フランスは軍事介入に踏み切るかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT279128D;オスマン帝国に対する臣従表明に難色を示していた\nムスタファ・ベイだったが、ここへきてフランスがチュニジア側についてしまった。\nチュニジアに対して無理にでも要求を呑まそうとするならば、\nフランスは軍事介入に踏み切るかもしれない。;;;;;;;;;;X ACT279128B;チュニジアにオスマン支配を認めさせる;;;;;;;;;;X EVT279129N;チュニジアの要求拒絶;;;;;;;;;;X EVT279129D;チュニジア側に立ってくれるものがヨーロッパ諸国にないにもかかわらず、オスマン帝国の宗主権を認めよとする我が国の要求について、彼らはこれを拒否してきた。;;;;;;;;;;X EVT279129D;チュニジア側に立ってくれるものがヨーロッパ諸国にないにもかかわらず、\nオスマン帝国の宗主権を認めよとする我が国の要求について、\n彼らはこれを拒否してきた。;;;;;;;;;;X EVT279130N;アフマド・ベイの叙任式開催要請;;;;;;;;;;X EVT279130D;1837年の10月、ムスタファ・ベイが死去し、ベイの地位は息子のアフマドが名目上は継ぐことになった。しかし正式にベイとして認められるためにはスルタンの承認が必要である。そのためチュニジアは叙任書を受けようと、イスタンブールへ使節を派遣してきたのだ。だがチュニジアへの支配権を強化しようにも、フランスがこれを認めないのは既に表明済みである。叙任書を与える以外に手はないのだ。;;;;;;;;;;X EVT279130D;1837年の10月、ムスタファ・ベイが死去し、ベイの地位は息子のアフマドが\n名目上は継ぐことになった。しかし正式にベイとして認められるためには\nスルタンの承認が必要である。そのためチュニジアは叙任書を受けようと、\nイスタンブールへ使節を派遣してきたのだ。だがチュニジアへの支配権を\n強化しようにも、フランスがこれを認めないのは既に表明済みである。\n叙任書を与える以外に手はないのだ。;;;;;;;;;;X ACT279130;チュニジア太守アフマド・ベイを承認する;;;;;;;;;;X EVT279131N;チュニジアとギュルハネ勅令;;;;;;;;;;X EVT279131D;オスマン帝国がより高位にあることをムハンマド・アリーも認めるに至り、政府の次なる関心はチュニジアに移った。かの地を治めているアフマド・ベイが、ギュルハネ勅令をいまだ施行しないでいるのだ。だが彼の地位はそもそも、オスマン政府によるチュニジア当地を担当する行政官に過ぎない。無理にでもアフマド・ベイに勅令を施行させ、結局のところオスマン政府が上位にあるのだと知らしめてはどうだろうか。;;;;;;;;;;X EVT279131D;オスマン帝国がより高位にあることをムハンマド・アリーも認めるに至り、\n政府の次なる関心はチュニジアに移った。かの地を治めている\nアフマド・ベイが、ギュルハネ勅令をいまだ施行しないでいるのだ。\nだが彼の地位はそもそも、オスマン政府によるチュニジア当地を担当する\n行政官に過ぎない。無理にでもアフマド・ベイに勅令を施行させ、\n結局のところオスマン政府が上位にあるのだと知らしめてはどうだろうか。;;;;;;;;;;X ACT279131A;ギュルハネ勅令施行をチュニジアに求める;;;;;;;;;;X EVT279132D;アフマド・ベイがギュルハネ勅令を施行した。すなわちチュニジアにおいても帝国の法が効力をもつこと、ひいてはオスマン政府の権威を認めたことになる。;;;;;;;;;;X EVT279133D;ギュルハネ勅令の施行に難色を示していたアフマド・ベイだったが、ここへきてフランスがチュニジア側についてしまった。チュニジアに対して無理にでも要求を呑まそうとするならば、フランスは軍事介入に踏み切るかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT279132D;アフマド・ベイがギュルハネ勅令を施行した。すなわちチュニジアにおいても\n帝国の法が効力をもつこと、ひいてはオスマン政府の権威を認めたことになる。;;;;;;;;;;X EVT279133D;ギュルハネ勅令の施行に難色を示していたアフマド・ベイだったが、\nここへきてフランスがチュニジア側についてしまった。\nチュニジアに対して無理にでも要求を呑まそうとするならば、\nフランスは軍事介入に踏み切るかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT279135N;ムハンマド・ベイの叙任式開催要請;;;;;;;;;;X EVT279135D;1855年の5月、アフマド・ベイが死去し、ベイの地位は息子のムハンマドが名目上は継ぐことになった。しかし正式にベイとして認められるためにはスルタンの承認が必要である。そのためチュニジアは叙任書を受けようと、イスタンブールへ使節を派遣してきたのだ。だがチュニジアへの支配権を強化しようにも、フランスがこれを認めないのは既に表明済みである。叙任書を与える以外に手はないのだ。;;;;;;;;;;X EVT279135D;1855年の5月、アフマド・ベイが死去し、ベイの地位は息子のムハンマドが\n名目上は継ぐことになった。しかし正式にベイとして認められるためには\nスルタンの承認が必要である。そのためチュニジアは叙任書を受けようと、\nイスタンブールへ使節を派遣してきたのだ。だがチュニジアへの支配権を\n強化しようにも、フランスがこれを認めないのは既に表明済みである。\n叙任書を与える以外に手はないのだ。;;;;;;;;;;X ACT279135;チュニジア太守ムハンマド・ベイを承認する;;;;;;;;;;X EVT279136D;ムハンマド・ベイがハットゥ・ヒュマユーンを施行した。すなわちチュニジアにおいても帝国の法が効力をもつこと、ひいてはオスマン政府の権威を認めたことになる。;;;;;;;;;;X EVT279137D;ハットゥ・ヒュマユーンの施行に難色を示していたムハンマド・ベイだったが、ここへきてフランスがチュニジア側についてしまった。チュニジアに対して無理にでも要求を呑まそうとするならば、フランスは軍事介入に踏み切るかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT279136D;ムハンマド・ベイがハットゥ・ヒュマユーンを施行した。すなわちチュニジアに\nおいても帝国の法が効力をもつこと、ひいてはオスマン政府の権威を\n認めたことになる。;;;;;;;;;;X EVT279137D;ハットゥ・ヒュマユーンの施行に難色を示していたムハンマド・ベイだったが、\nここへきてフランスがチュニジア側についてしまった。チュニジアに対して\n無理にでも要求を呑まそうとするならば、フランスは軍事介入に\n踏み切るかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT279138N;ムハンマド・アッサーディク・ベイの叙任式開催要請;;;;;;;;;;X EVT279138D;1859年の9月、ムハンマド・ベイが死去し、ベイの地位は息子のムハンマド・アッサーディクが名目上は継ぐことになった。しかし正式にベイとして認められるためにはスルタンの承認が必要である。そのためチュニジアは叙任書を受けようと、イスタンブールへ使節を派遣してきたのだ。だがチュニジアへの支配権を強化しようにも、フランスとイギリスがこれを認めないのは既に表明済みである。叙任書を与える以外に手はないのだ。;;;;;;;;;;X EVT279138D;1859年の9月、ムハンマド・ベイが死去し、ベイの地位は息子の\nムハンマド・アッサーディクが名目上は継ぐことになった。しかし正式に\nベイとして認められるためにはスルタンの承認が必要である。そのため\nチュニジアは叙任書を受けようと、イスタンブールへ使節を派遣してきたのだ。\nだがチュニジアへの支配権を強化しようにも、フランスとイギリスがこれを\n認めないのは既に表明済みである。叙任書を与える以外に手はないのだ。;;;;;;;;;;X ACT279138;チュニジア太守ムハンマド・アッサーディク・ベイを承認する;;;;;;;;;;X EVT279139N;オスマン帝国のムハンマド・アッサーディク支援;;;;;;;;;;X EVT279139D;チュニジアではベイが改革に取り組んでいるが、これに対して反乱が発生しチュニジアの一部を支配するまでになっている。もし現政権が転覆すれば、ヨーロッパ諸国はきっと介入してチュニジアを乗っ取ってしまうだろう。さてベイは助けを求めているが、援軍を出して反乱部隊を叩きのめしてはどうだろうか。;;;;;;;;;;X EVT279140D;役人の腐敗に経済状況の悪化もあいまって、ついにチュニジアは破産を宣言するまでになってしまった。それを受けてヨーロッパ人らは国際負債委員会を設立し、チュニジアの償還具合を監督するとともに財政運営を事実上とり行うことになった。しかしこのことによってある一国がチュニジアの支配権を得るのは困難になり、ベイも自分の地位を失わずにすんだ。;;;;;;;;;;X EVT279139D;チュニジアではベイが改革に取り組んでいるが、これに対して\n反乱が発生しチュニジアの一部を支配するまでになっている。\nもし現政権が転覆すれば、ヨーロッパ諸国はきっと介入して\nチュニジアを乗っ取ってしまうだろう。\n \nさてベイは助けを求めているが、\n援軍を出して反乱部隊を叩きのめしてはどうだろうか。;;;;;;;;;;X EVT279140D;役人の腐敗に経済状況の悪化もあいまって、ついにチュニジアは\n破産を宣言するまでになってしまった。それを受けてヨーロッパ人らは\n国際負債委員会を設立し、チュニジアの償還具合を監督するとともに\n財政運営を事実上とり行うことになった。しかしこのことによって\nある一国がチュニジアの支配権を得るのは困難になり、ベイも自分の\n地位を失わずにすんだ。;;;;;;;;;;X ACT279140;結局フランスも乗っ取れなかったな;;;;;;;;;;X EVT279150N;チュニジアに関する1871年フェルマーン;;;;;;;;;;X EVT279150D;ムハンマド・アッサーディク・ベイは、日々強まるイタリア勢力からの圧力に耐えかねていた。そこでベイはチュニジアについて「帝国に忠誠を誓いつつも自治権を有する一州である」だとし、このように両国関係を規定するようなフェルマーン(勅令)を発してくれないかとの要請をオスマン政府に送ってきた。こうしたフェルマーンを発すれば、チュニジアが西洋支配を排して独立を維持できないかという点に、我々が関心を抱いているのが明確になるだろう。;;;;;;;;;;X EVT279150D;ムハンマド・アッサーディク・ベイは、日々強まるイタリア勢力からの圧力に\n耐えかねていた。そこでベイはチュニジアについて「帝国に忠誠を誓い\nつつも自治権を有する一州である」だとし、このように両国関係を\n規定するようなフェルマーン(勅令)を発してくれないかとの要請を\nオスマン政府に送ってきた。こうしたフェルマーンを発すれば、チュニジアが\n西洋支配を排して独立を維持できないかという点に、我々が関心を\n抱いているのが明確になるだろう。;;;;;;;;;;X ACT279150A;フェルマーンを発する;;;;;;;;;;X ACT279150B;チュニジアの命運は我が国の手を離れてしまった;;;;;;;;;;X EVT279200N;ドナウ諸公国のルーマニア民族主義;;;;;;;;;;X,,,, EVT279200D;モルダヴィア、ワラキアの両公国にもナショナリズムが広まり、ルーマニア人はひとつの国家をなすべきであるとの主張が人口に膾炙しつつある。そして1848年の自由主義革命の後押しを受け、両公国において統一ルーマニアの建国を求める大規模なデモが発生した。;;;;;;;;;;X,,, EVT279200D;モルダヴィア、ワラキアの両公国にもナショナリズムが広まり、\nルーマニア人はひとつの国家をなすべきであるとの主張が人口に膾炙しつつある。\nそして1848年の自由主義革命の後押しを受け、両公国において\n統一ルーマニアの建国を求める大規模なデモが発生した。;;;;;;;;;;X,,, ACT279200A;主張させるだけで要求は無視しよう;;;;;;;;;;X,,,, ACT279200B;民族主義者を制圧していこう;;;;;;;;;;X,,,, EVT279201N;ドナウ諸公国の不正選挙;;;;;;;;;;X,,,, EVT279201D;クリミア戦争の結果を受け、モルダヴィアとワラキアでは再び民族主義者が扇動してまわるようになった。そのため1856年の地方議会選挙において、彼ら民族主義者が勝利してしまう可能性が出てきてしまった。そこで現状維持のため、選挙結果に手を加えてみてはとする声がある。どうしようか?;;;;;;;;;;X,,,, EVT279201D;クリミア戦争の結果を受け、モルダヴィアとワラキアでは再び民族主義者が\n扇動してまわるようになった。そのため1856年の地方議会選挙において、\n彼ら民族主義者が勝利してしまう可能性が出てきてしまった。\nそこで現状維持のため、選挙結果に手を加えてみてはとする声がある。\nどうしようか?;;;;;;;;;;X,,,, ACT279201A;選挙を妨害する;;;;;;;;;;X,,,, ACT279201B;思うままに選挙を進めさせる;;;;;;;;;;X,,,, EVT279202N;ドナウ諸侯国の不正選挙に対する猛抗議;;;;;;;;;;X,,,, EVT279202D;モルダヴィアとワラキアで行われた選挙について、我々がその結果に手を加えようとしたことに対し、列強は嵐のような抗議を送ってきた。彼らは再選挙を求めている。どうしようか?;;;;;;;;;;X,,,, EVT279202D;モルダヴィアとワラキアで行われた選挙について、我々がその結果に\n手を加えようとしたことに対し、列強は嵐のような抗議を送ってきた。\n彼らは再選挙を求めている。どうしようか?;;;;;;;;;;X,,,, ACT279202A;新しく選挙を実施する;;;;;;;;;;X,,,, ACT279202B;再選挙を拒否する;;;;;;;;;;X