[[VIP-304K ACW (part of USA range) (2)]] EVT304415N;ブラックウォーリア号事件;;;;;;;;;;X EVT304415D;ニューヨークからモビールに向かっていた蒸気商船ブラック・ウォーリアは\nハバナ港に停泊中、スペイン当局によって拿捕されてしまった。そして\n税関規則に違反したとして6000ドルの罰金を命ぜられることになった。\nキューバ獲得をねらう南部諸州はこれをいい機会だとみて、\n戦争するよう主張している。;;;;;;;;;;X ACT304415A;騒乱が収まるのをまとう;;;;;;;;;;X ACT304415B;キューバ買収を申し出よう;;;;;;;;;;X ACT304415C;武力でキューバを奪い取ろう;;;;;;;;;;X EVT304416N;ブルックによるサムナー殴打事件;;;;;;;;;;X EVT304416D;チャールズ・サムナーは、マサチューセッツ選出の上院議員である。彼は\n「カンザスに対する犯罪」と題し、奴隷制に対する憎悪に満ち溢れた\n演説を述べたが、その直後、サウスカロライナ選出の下院議員である\nプレストン・ブルックスに杖で打ち据えられるという事件が発生した。\nこの一件で北部は怒りに震え、南部は喜びに沸き立った。;;;;;;;;;;X EVT304417N;スペインが拒絶!;;;;;;;;;;X EVT304417D;アメリカ合衆国がキューバ島を1000万ドルで購入しようとしたことに対し、\nスペインはこれを拒絶した。;;;;;;;;;;X ACT304417A;引き下がろう;;;;;;;;;;X ACT304417B;なんて事を!;;;;;;;;;;X EVT304418N;スペインが受諾!;;;;;;;;;;X EVT304418D;アメリカ合衆国がキューバ島を1000万ドルで購入しようとしたことに対し、\nスペインはこれを受諾した。;;;;;;;;;;X EVT304420N;サミュエル・モールスと電信技術;;;;;;;;;;X EVT304421N;ポニー・エクスプレス;;;;;;;;;;X EVT304421D;ポニー・エクスプレスは手紙や報道を届けるために設けられた早馬便で、\nミズーリ州セントジョセフからカリフォルニアのサンフランシスコまで、\n1860年4月から1861年11月にかけて往復を繰り返した。\n騎乗者や馬を乗り継ぐために休息用の駅が路線上にいくつも\n設置されたため、こうした路線を使用することで東西を結ぶ\n情報網もより良いものになっていった。;;;;;;;;;;X ACT304421A;やった!;;;;;;;;;;X EVT304422N;第二国立銀行の営業不認可;;;;;;;;;;X EVT304422D;1836年、第二国立銀行は営業認可を得ることができず、身売りされる\nことになった。全米経済は各州の銀行に委ねられることとなり、その中には\n「ヤマネコ銀行」のような胡散臭い金融機関も含まれていた。;;;;;;;;;;X ACT304422A;国立銀行は不要だ;;;;;;;;;;X EVT304423N;正貨回状;;;;;;;;;;X EVT304423D;国立銀行がなくなったことで手形等が濫発され、合衆国内では\n不動産投機が過熱するようになった。そこでこれに対抗しようと、\nジャクソン大統領は「正貨回状」を発令した。これにより土地売買は\n正貨、つまり金か銀によってしか行えないようになったのである。;;;;;;;;;;X ACT304423A;不動産投機を抑えよう;;;;;;;;;;X ACT304423B;手形でも問題ない;;;;;;;;;;X EVT304424N;1837年恐慌;;;;;;;;;;X EVT304424D;1837年の初頭、ニューヨークの銀行が正貨での支払いを\n拒否するようになった。こうして土地投機バブルが弾け、\nアメリカ合衆国の紙幣価値も暴落した。全米の経済が\n破綻し、不況時代がはじまったのだった。;;;;;;;;;;X ACT304424A;国家の危機だ!!;;;;;;;;;;X EVT304425N;国内経済の復興;;;;;;;;;;X EVT304425D;6年間もの不況を乗り越えて、アメリカ合衆国は1837年恐慌から\nゆっくりと、かつ徐々に復興していった。;;;;;;;;;;X ACT304425A;正常化には時間がかかるものだ;;;;;;;;;;X EVT304426N;モルモン教徒のオハイオ撤退;;;;;;;;;;X EVT304426D;モルモン銀行設立がうまくいかず、またオハイオ州カートランドでは信徒\n同士での内紛が発生したこともあって、開祖ジョセフ・スミスも含む\n教団のほとんどが西方のミズーリへと移住することになった。彼らは\nデービーズ郡などミズーリ北西部の一帯に縄張りを築き、\nファーウェストやザイオンといった入植地を建設した。;;;;;;;;;;X ACT304426A;モルモン教徒がミズーリに着いた;;;;;;;;;;X EVT304427N;モルモン戦争;;;;;;;;;;X EVT304427D;モルモン教徒と現地の入植者らの関係は、ミズーリでも一触即発のものと\nなっていた。そして1838年には紛争が発生し、ミズーリ北西部では\n襲撃と報復が繰り返されるようになった。;;;;;;;;;;X ACT304427A;ミズーリでも厄介事か;;;;;;;;;;X EVT304428N;ホーンズミルの虐殺;;;;;;;;;;X EVT304428D;ミズーリで起こったモルモン戦争では何度も襲撃事件が発生したが、\nなかでもホーンズミルにある集落では、リビングストン郡などの入植者が\n200名以上も集まってここを襲撃し、18名が殺害され15名が\n負傷する事態となった。こうした襲撃事件のためにジョセフ・スミスや\n信徒らは屈服することを選び、ここに紛争は終結した。;;;;;;;;;;X ACT304428A;ミズーリは沈静化した;;;;;;;;;;X EVT304429N;モルモンのイリノイ移住;;;;;;;;;;X EVT304429D;ミズーリでモルモン戦争が終結すると、モルモン教徒のほとんどは\nミズーリを去る決意をした。そして15000人を超える信徒が\nミシシッピー河を渡り、イリノイ州へと移住したのである。\nジョセフ・スミスらのモルモン教指導層も拘留を解かれると、\nノーブーに新たなモルモン居留地を築くよう尽力した。;;;;;;;;;;X ACT304429A;また移住するのか;;;;;;;;;;X EVT304430N;アミスタッド号事件;;;;;;;;;;X EVT304430D;1839年8月24日、キューバのスクーナー船アミスタッドが、\nロングアイランド沖で拿捕された。だがそこでは、\n積め込まれていたアフリカ人たちが拘束人を打ち倒し、\n船を乗っ取っていた。裁判は2年にも及んだが、公判では\n奴隷制度という扱いにくい問題が触れられたほか、\n国内にある階級分断に目を向けさせることになった。;;;;;;;;;;X ACT304430A;アフリカから来たのだ;;;;;;;;;;X EVT304431N;フォート・ロスの購入;;;;;;;;;;X EVT304431D;フォート・ロスとは、カリフォルニア西部の沿岸にある植民地で、ロシア\nアメリカ会社が1812年に築いた拠点である。だが1830年代から\n1840年代にかけてアメリカ人入植者が西部へ進出し、さらに\nカリフォルニアへも入りだすと、ロシアはラッコの枯渇もあって、この\n植民地を収益性のないものとみなすようになっていった。そして\n1842年、ジョン・サッターという現地の入植者が、この入植地の\n購入について申し出てきた。;;;;;;;;;;X ACT304431A;買い取ろう;;;;;;;;;;X EVT304434N;1842年関税;;;;;;;;;;X EVT304434D;かつての経済恐慌による不況から5年が経過したアメリカ合衆国では、\n市場を安定化させるために関税を上げろとの声が日増しに強くなっている。;;;;;;;;;;X ACT304434A;高関税が必要だ;;;;;;;;;;X ACT304434B;何もしない;;;;;;;;;;X ACT304434C;関税の値下げが必要だ;;;;;;;;;;X EVT304435N;ウォーカー関税;;;;;;;;;;X EVT304435D;1846年になると、西部の住民は保護主義への支持を取りやめるように\nなっていた。そして南部もまた、かつて北部との対立をもたらした低関税を\n再び主張するようになっている。;;;;;;;;;;X EVT304436D;オハイオ生命保険信託社の突然の倒産により経済恐慌が発生した。\n穀物価格は低下し、レイオフも次々と行われ、企業は破産していった。;;;;;;;;;;X EVT304437N;1857年関税;;;;;;;;;;X EVT304437D;経済恐慌が始まっていくにつれて、多くが関税水準を劇的に引き下げる\nべきだと考えるようになった。こうすることで海外からの輸入額が下がり、\n農産品の市場も大きくなって、合衆国の抱える問題が相殺できるものと\nされたのである。;;;;;;;;;;X EVT304438D;1857年にはじまった経済状況は、回復の兆しを見せつつある。\n恐慌の残した爪跡は、全面的に消えうせたとは言えないまでも、\n2年ほどが経過してからは感じられなくなっている。;;;;;;;;;;X EVT304439N;大移住;;;;;;;;;;X EVT304439D;1843年、ミズーリを発った開拓者の第一波が、大津波のように\n北西部のオレゴン準州へとなだれ込んだ。彼らの通った街道は\n後にオレゴン・トレイルとよばれるようになるのだが、この年以後、\n東部から西部へは着々と入植者が流入するようになった。;;;;;;;;;;X ACT304439A;幌馬車を西へ!;;;;;;;;;;X EVT304440N;アメリカ海軍兵学校;;;;;;;;;;X EVT304440D;海軍将校を育成していくため、1845年10月10日にアメリカ海軍\n錬兵所が設立された。錬兵所は5年後にアメリカ海軍兵学校と\n改称されることになるが、ここでは軍務に対するプロ気質や\nチームワークといった伝統が教え込まれていった。;;;;;;;;;;X ACT304440A;錨を揚げろ!;;;;;;;;;;X EVT304441N;カリフォルニアのゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT304441D;1848年1月24日、ニュージャージー出身の水車工\nジェームズ・ウィルソン・マーシャルが、カリフォルニアの\nサッターズミルで金のかけらを発見した。そうして\n国中が一攫千金の夢に取り付かれるようになり、\nカリフォルニアには人という人が大挙して流れ込んでいった。;;;;;;;;;;X ACT304441A;金だ!;;;;;;;;;;X EVT304442N;コムストック鉱脈;;;;;;;;;;X EVT304442D;ネバダにあるシックスマイル・キャニオンの源流で金鉱が見つかり、\nヘンリー・コムストックという鉱夫が所有権を主張するところとなった。\nこの発見でバージニアシティーは鉱業都市として名を上げていき、\nまたなかでも南北戦争期では、貴金属生産によって連邦政府の\n経済発展を大いに下支えした。;;;;;;;;;;X EVT304443N;コムストック鉱脈の枯渇;;;;;;;;;;X EVT304443D;1890年になると、コムストック鉱脈では金鉱の枯渇にともない豊かさが\n失われていった。一帯はもとのゴーストタウンに戻り、かつての繁栄という\n思い出に浸っている。;;;;;;;;;;X ACT304443A;もう永遠に使えないのか;;;;;;;;;;X EVT304444N;中央アメリカ平和会議;;;;;;;;;;X EVT304444D;1907年にニカラグアへと介入したものの、この地域で日常的に\n起こる紛争にアメリカ合衆国も嫌気がさすようになった。\nそこで中央アメリカ5ヶ国で平和会議を催してはどうかと\n声を上げたのである。こうして平和友好一般条約が締結され、\nこの地域での国際紛争を平和裏に解決するため、\n常設の中央アメリカ司法裁判所がつくられることになった。;;;;;;;;;;X ACT304444A;口論は止めだ!法廷を作ろう;;;;;;;;;;X ACT304444B;我々の問題じゃない;;;;;;;;;;X EVT304445N;ドレッド・スコット裁判;;;;;;;;;;X EVT304445D;北部に連れ込まれたことのある奴隷ドレッド・スコットが、解放布告を\n求めて裁判を起こしたが、この裁判はアメリカ合衆国での派閥対立に\nおける焦点となっていった。そして1857年に連邦最高裁判所が下した\n判決は驚くべきものだった。準州での奴隷所持を是認し、黒人の\n市民権を否定し、そしてミズーリ協定を違憲だと裁定したためである。;;;;;;;;;;X ACT304445A;重大な判決だ;;;;;;;;;;X EVT304446N;レコンプトン憲法;;;;;;;;;;X EVT304446D;奴隷制に近しい憲法をカンザスにもたらそうとの動きがあり、その一環と\nして後にレコンプトン憲法と呼ばれた文書案が住民投票に諮られた。\nこの案では奴隷制について採用を前提としつつ、それを制限するか\n否かについてのみ入植者が選べるとしていたため、解放論者らは投票を\n拒んでしまった。こうして12月には議会の裁可を得て、連邦政府もこの\n憲法によりカンザス編入をはかることとなった。だが連邦議会では論争が\n続いており、カンザス編入の障害となっている。;;;;;;;;;;X ACT304446A;カンザスは奴隷州たるべきだ!;;;;;;;;;;X EVT304447N;レベンワース憲法;;;;;;;;;;X EVT304447D;奴隷制と距離を置く憲法をカンザスにもたらそうとの動きがあり、その一環と\nして後にレベンワース憲法と呼ばれた文書案を批准すべく、レベンワースで\n自由土地主義を奉じる入植者により投票が行われた。連邦政府も\nこの憲法によりカンザス編入をはかることとなった。だが連邦議会では\n論争が続いており、カンザス編入の障害となっている。;;;;;;;;;;X ACT304447A;カンザスは自由州たるべきだ!;;;;;;;;;;X EVT304448N;黄熱病の流行;;;;;;;;;;X EVT304448D;1841年、アメリカ合衆国では南部諸州を中心に黄熱病が大流行した。;;;;;;;;;;X ACT304448A;悲劇だ;;;;;;;;;;X ACT304448B;何か手を打たねば;;;;;;;;;;X EVT304449N;黄熱病の流行;;;;;;;;;;X EVT304449D;1847年、ニューオーリンズを黄熱病禍が襲い、\n何千人もの市民が犠牲となった。;;;;;;;;;;X EVT304450N;コレラの流行;;;;;;;;;;X EVT304450D;1848年、全米でコレラが大流行した。なかでもニューヨークでは\n4000人以上が犠牲となった。;;;;;;;;;;X EVT304451D;1851年、全米でコレラが大流行した。なかでもイリノイやミズーリ、\nグレートプレーンズでは大きな被害が発生した。;;;;;;;;;;X EVT304452D;1852年、ニューオーリンズで黄熱病が大流行し、\n8000人もの市民が犠牲となった。;;;;;;;;;;X EVT304453N;天然痘の流行;;;;;;;;;;X EVT304453D;1860年、ペンシルバニア州で天然痘が大流行した。;;;;;;;;;;X EVT304454N;インフルエンザの世界的大流行;;;;;;;;;;X EVT304454D;1857年、屈指の感染力を持つインフルエンザが全世界で大流行し、\nアメリカ合衆国もその直撃を受けた。;;;;;;;;;;X EVT304455N;止まらないインフルエンザ大流行;;;;;;;;;;X EVT304455D;前年に引き続き、1858年もアメリカ合衆国はインフルエンザの大流行に\n苦しめられることになった。;;;;;;;;;;X EVT304456N;インフルエンザ大流行の継続;;;;;;;;;;X EVT304456D;3年間にもわたって全米を冒したインフルエンザ大流行は、\n1859年にようやく沈静化した。;;;;;;;;;;X ACT304456A;ついに悲劇が幕を下ろした;;;;;;;;;;X EVT304457D;1855年、全米で黄熱病が大流行した。;;;;;;;;;;X EVT304458D;1854年、テキサスのコーパスクリスティで黄熱病が大流行した。;;;;;;;;;;X EVT304459N;ナサニエル・ホーソーン;;;;;;;;;;X EVT304459D;アメリカン・ルネッサンスと呼ばれることもあるアメリカ文学の黄金期にあって、\n小説家ナサニエル・ホーソーンはその中心にいた人物である。\n往時の作品群と同様、人間の本性を陰鬱な目線により描き出した\n著作の多くは1850年代初頭に書かれた。\n \n代表作に『緋文字(1850)』、『七破風の家(1851)』。;;;;;;;;;;X EVT304460N;ハーマン・メルヴィル;;;;;;;;;;X EVT304460D;ハーマン・メルヴィルといえば、1840年代刊の『タイピー』や『オムー』と\nいった紀行小説が有名であるが、彼は社会批判もまた著していた。\nしかしその大作『白鯨』は1851年に出版されたものの、\nそれから30年以上にわたり正当な評価を受けることがなかった。;;;;;;;;;;X EVT304461N;エドガー・アラン・ポー;;;;;;;;;;X EVT304461D;詩人にして論説家、さらには小説家でもあるエドガー・アラン・ポーは、\n短編をアネクドートから芸術の域にまで高めた最も偉大な物書きの\nひとりとされる。彼は人間社会を悲観的に見つめ、作品も彼のいう\n独自効果を対象に据えていた。ポーの代表作は、1845年刊の詩集\n「大鴉」である。;;;;;;;;;;X EVT304462N;ウォルト・ホイットマン;;;;;;;;;;X EVT304462D;ウォルト・ホイットマンは新聞編集者から転向した詩人で、代表作\n「草の葉」の完成には1847年の創作開始から8年もの年月を要した。\nこの作品は当時、肉体的・性愛的なものを賛美しているとして\n批判を受けることもあった。だがかつてなく鮮烈で律動的な詩作で\nもって、自由詩というありかたを鮮烈に実証してみせたのだった。;;;;;;;;;;X EVT304463N;フォートララミー条約;;;;;;;;;;X EVT304463D;フォートララミー条約は、インディアンにはロングメドウズ条約として、\n他の者にはグレートホースクリーク条約として知られる。これは\n平原インディアンを相手方とする条約であって、端的に言えば\nグレートプレーンズにおける各部族の居住権が保護される一方、\nアイオワ全土から先住民は撤退する、というのがその内容である。;;;;;;;;;;X ACT304463A;批准しよう。グレートプレーンズは彼らのものだ;;;;;;;;;;X ACT304463B;拒絶しよう。インディアンに譲歩はしない;;;;;;;;;;X EVT304464N;発言禁止令;;;;;;;;;;X EVT304464D;奴隷制廃止を訴える請願書は山のように届き、しかもその数を増しつつあった。そこで議会は発言禁止令を可決させ、奴隷制にかかわるあらゆる動議が自動的に棚上げされるようにしてしまった。この制度は向こう数年間にわたりうまく規制をかけられていたが、しかしマサチューセッツ州のジョン・クインシー・アダムズのような一部の人間からは、当初から反対意見を浴びせられていた。;;;;;;;;;;X EVT304464D;奴隷制廃止を訴える請願書は山のように届き、しかもその数を\n増しつつあった。そこで議会は発言禁止令を可決させ、奴隷制に\nかかわるあらゆる動議が自動的に棚上げされるようにしてしまった。\nこの制度は向こう数年間にわたりうまく規制をかけられていたが、\nしかしマサチューセッツ州のジョン・クインシー・アダムズのような\n一部の人間からは、当初から反対意見を浴びせられていた。;;;;;;;;;;X ACT304464A;論議を押さえ込め!;;;;;;;;;;X EVT304465N;発言禁止令の撤回;;;;;;;;;;X EVT304465D;アメリカ合衆国内で派閥主義が増長するにしたがい、奴隷制度に関する一切の動議を差し止める発言禁止令はしだいに人気を失っていった。そしてマサチューセッツ州選出の下院議員ジョン・クインシー・アダムズが主導して反対運動を長期にわたり行った結果、この規則は撤回されることになった。;;;;;;;;;;X EVT304465D;アメリカ合衆国内で派閥主義が増長するにしたがい、奴隷制度に関する\n一切の動議を差し止める発言禁止令はしだいに人気を失っていった。\nそしてマサチューセッツ州選出の下院議員ジョン・クインシー・アダムズが\n主導して反対運動を長期にわたり行った結果、この規則は撤回される\nことになった。;;;;;;;;;;X ACT304465A;言論の自由だ;;;;;;;;;;X EVT304466N;人身保護法;;;;;;;;;;X EVT304466D;1850年協定において逃亡奴隷法の全面施行が規定されていることに腹を立てた北部諸州は、人身保護法を成立させることでこれに応酬した。この法律は、逃げ出した奴隷を捕らえるのに州政府の人員や機関を使わせないようにするものだったためである。;;;;;;;;;;X EVT304466D;1850年協定において逃亡奴隷法の全面施行が規定されていることに\n腹を立てた北部諸州は、人身保護法を成立させることでこれに応酬\nした。この法律は、逃げ出した奴隷を捕らえるのに州政府の人員や\n機関を使わせないようにするものだったためである。;;;;;;;;;;X ACT304466A;こんな不快な法律に手を貸すつもりはない;;;;;;;;;;X EVT304467N;南部女性キリスト教徒へ告ぐ;;;;;;;;;;X EVT304467D;アンジェリーナ・グリムケとサラ・グリムケという姉妹がニューヨークへと逃れてきた。父親はサウスカロライナ州の判事を務めていたが、それが奴隷州であったのに嫌気が差したのである。そうして姉妹はニューヨークで反奴隷制の小冊子を刊行したが、そこに書かれていた「南部女性キリスト教徒に告ぐ」と題された要請文はサウスカロライナで公式に焚書とされたほどだった。そして帰郷すれば逮捕するとの警告まで寄せられたものの、グリムケ姉妹は反奴隷制協会を前にして公演を行った最初の女性、さらには女性の権利運動の先導者ともなったのであった。;;;;;;;;;;X EVT304467D;アンジェリーナ・グリムケとサラ・グリムケという姉妹がニューヨークへと\n逃れてきた。父親はサウスカロライナ州の判事を務めていたが、\nそれが奴隷州であったのに嫌気が差したのである。そうして姉妹は\nニューヨークで反奴隷制の小冊子を刊行したが、そこに書かれていた\n「南部女性キリスト教徒に告ぐ」と題された要請文はサウスカロライナで\n公式に焚書とされたほどだった。そして帰郷すれば逮捕するとの\n警告まで寄せられたものの、グリムケ姉妹は反奴隷制協会を前にして\n公演を行った最初の女性、さらには女性の権利運動の先導者とも\nなったのであった。;;;;;;;;;;X ACT304467A;これは探究しなければならない;;;;;;;;;;X EVT304468N;ワシントン・アーヴィング;;;;;;;;;;X EVT304468D;アーヴィングはアメリカ短編小説の父とされ、1830年代か40年代に\n書かれた「スリーピー・ホロウの伝説」「リップ・ヴァン・ウィンクル」といった\n初期作品でよく知られている。;;;;;;;;;;X EVT304469N;小麦粉暴動;;;;;;;;;;X EVT304469D;ニューヨーク市のチャサム・スクエアで「パン、食肉、地代そして燃料に\n関する集会」が開かれ、6000人もの市民が参加した。そして彼らは\n暴徒化し、製粉業者は価格吊上げを狙って在庫を売り渋っていると\n声を上げた。そして倉庫一件が焼け落ちる結果となったが、この事件は\n今後発生していく貧富対立による反乱の嚆矢となったのだった。;;;;;;;;;;X EVT304470N;アスタープレイス暴動;;;;;;;;;;X EVT304470D;イギリスのシェイクスピア劇役者であるウィリアム・チャールズ・マックレディが、\nアスタープレイス劇場で演じることになった。だがこれに反対する15000人\nもの住民が劇場外で暴徒化し、彼に投石する事態となった。警察が\n現地に着いて暴動を鎮圧したが、暴動後の混乱により23名の死者と\n100名の負傷者が出てしまった。;;;;;;;;;;X EVT304471N;地下鉄道;;;;;;;;;;X EVT304471D;「地下鉄道」は奴隷の北部脱走を支援するシステムで、アメリカ合衆国に\nおいては人の目を盗んで奴隷制度と戦う手段でもあった。そして1849年、\n逃亡奴隷ハリエット・タブマンの参加により、こうした事業は格段の進歩を\n見せる。彼女は南部へと19回も潜り込み、300人もの奴隷を解放して\n預言者モーゼになぞらえられた。;;;;;;;;;;X EVT304472N;ジョン・コールドウェル・カルフーン;;;;;;;;;;X EVT304472D;カルフーンは南部の大物政治家で、先頭に立って州権を擁護するとともに\n奴隷制を護ってきたが、そのうち彼は「南部人の生き方」の代名詞と\nされるようになっていった。「奴隷制には非の打ち所がない」との彼の\n演説が、その核心を描き出している。;;;;;;;;;;X ACT304472A;奴隷制には非の打ち所がない;;;;;;;;;;X EVT304473N;チャールズ・グッドイヤー;;;;;;;;;;X EVT304473D;チャールズ・グッドイヤーは、ゴムの実用化に向けて開発をすすめていった\n先駆者ともよべる人物である。なかでも1844年に取得した特許は\n有名で、後に「硫化」とよばれるこのプロセスによってゴムの伸縮性は\n大いに向上した。;;;;;;;;;;X EVT304474N;独立国庫法;;;;;;;;;;X EVT304474D;第二国立銀行が廃止されると、アメリカ合衆国には連邦銀行という\n制度がなくなってしまった。そこで毒をもって毒を制すとの考えのもと\n国立銀行を規制しようと、議会では独立国庫法が制定された。\nこれが可決されれば、連邦政府はその経費を自分で\n管轄できるようになるだろう。;;;;;;;;;;X ACT304474A;中央銀行など不要だ。法案を撤回しよう;;;;;;;;;;X ACT304474B;中道をとり、法案を支持しよう;;;;;;;;;;X ACT304474C;財政の監督を厳しくし、国立銀行を復活させよう;;;;;;;;;;X EVT304475N;ジェームズ・フェニモア・クーパー;;;;;;;;;;X EVT304475D;クーパーはアメリカが生んだ最初の大小説家で、その辺境を旅する冒険小説は読者に大好評であった。代表作に「モヒカン族の最後」「鹿狩人」「道を拓く者」があり、これらが最後に刊行されたのは1841年のことであった。;;;;;;;;;;X EVT304475D;クーパーはアメリカが生んだ最初の大小説家で、その辺境を旅する\n冒険小説は読者に大好評であった。代表作に「モヒカン族の最後」\n「鹿狩人」「道を拓く者」があり、これらが最後に刊行されたのは\n1841年のことであった。;;;;;;;;;;X EVT304476N;ブルック農場の設立;;;;;;;;;;X EVT304476D;マサチューセッツ州ウェストロクスベリーに、集団生活の実験場が設立された。ここブルック農園は進歩的共同体となるべく設計され、教育・超越論・中枢生活といった面について先進的なアイデアが詰め込まれている。そうして教育的な側面では成功をおさめたが、砂質土壌と農夫の経験不足のため農園はほとんど利益をあげることができず、こうした経費面での問題から1847年には計画自体が頓挫してしまった。;;;;;;;;;;X EVT304476D;マサチューセッツ州ウェストロクスベリーに、集団生活の実験場が\n設立された。ここブルック農園は進歩的共同体となるべく設計され、\n教育・超越論・中枢生活といった面について先進的なアイデアが\n詰め込まれている。そうして教育的な側面では成功をおさめたが、\n砂質土壌と農夫の経験不足のため農園はほとんど利益を\nあげることができず、こうした経費面での問題から1847年には\n計画自体が頓挫してしまった。;;;;;;;;;;X ACT304476A;共同生活をやってみよう;;;;;;;;;;X EVT304477N;ホレス・グリーリーとニューヨーク・トリビューン;;;;;;;;;;X EVT304477D;1841年創刊のニューヨーク・トリビューン紙は、アルコール・タバコ・ギャンブル・売春・死刑への反対キャンペーンを張るなど驚くほど道徳主義的な論調の新聞であった。ホレス・グリーリーはこうした新聞を媒体として、19世紀中期のアメリカ合衆国で最も影響力ある論客へ成り上がっていった。;;;;;;;;;;X EVT304477D;1841年創刊のニューヨーク・トリビューン紙は、アルコール・タバコ・ギャンブル・\n売春・死刑への反対キャンペーンを張るなど驚くほど道徳主義的な論調の\n新聞であった。ホレス・グリーリーはこうした新聞を媒体として、19世紀中期の\nアメリカ合衆国で最も影響力ある論客へ成り上がっていった。;;;;;;;;;;X ACT304477A;号外だよ!;;;;;;;;;;X EVT304478N;ドロシア・ディックス;;;;;;;;;;X EVT304478D;1861年6月、「精神病患者にも人道的な取り扱いを」との社会運動に\nかれこれ20年以上も携わってきた福祉家が、アメリカにいる全看護婦の\n総括者として任命された。彼女の名はドロシア・ディックスといい、それから\n間もなくドラゴン・ディックスとよばれるようになった人物である。ディックスの\n監理は厳しく、また看護婦たる者はある程度の能力や礼儀作法を\n備えるべきだと主張した。こうして南北戦争中、看護要員らは効率的に\n動けるようになったのだった。;;;;;;;;;;X ACT304478A;しっかりとした癒しの手だ;;;;;;;;;;X EVT304479N;家内経済論;;;;;;;;;;X EVT304479D;キャサリン・ビーチャーは1841年、家庭内労働と家計を概説して小論文に\nまとめ、彼女の人生と同様に女性が働きに出ることの重要性を唱えて\nまわった。また彼女は家庭生活の全側面を一冊にまとめ上げたが、\nこうした活動はいかにもアメリカ的であるといえるだろう。;;;;;;;;;;X ACT304479A;母であり、教師でもある;;;;;;;;;;X EVT304480N;ドーアの反乱;;;;;;;;;;X EVT304480D;1663年にイギリスから自治勅許を得て以来、ロードアイランド州政府は\nいまだ保守的なこの憲章にしたがって運営されていた。これに対する\nトーマス・ウィルソン・ドーアの抗議行動が、のちに言う「ドーアの反乱」\nである。ドーア一派は自身らで会議を開いて憲法を採択しドーアを\n知事として選出したが、ロードアイランド州知事のキングは戒厳令を\n敷き、ドーアを拘禁してしまった。だが結局、彼のおこした改革案は\n間もなく採用されることになった。;;;;;;;;;;X ACT304480A;権利をよこせ!;;;;;;;;;;X EVT304481N;フィラデルフィアで移民排斥派の反乱;;;;;;;;;;X EVT304481D;フィラデルフィアは従来プロテスタントが多い地域だったが、そこにカトリックの\n移民が流入し、教育制度も世俗的なものとなってしまった。そこで移民\n排斥を訴える民衆らは通りに繰り出し、1844年の夏には大規模な\n反乱となった。この事件で資産的な被害が出たほか、何人かが命を\n落とした。;;;;;;;;;;X ACT304481A;郷に入れば郷に従わねば;;;;;;;;;;X EVT304482N;反地代闘争;;;;;;;;;;X EVT304482D;ニューヨーク州の土地所有制には、古くはニューネーデルラント時代にまで\nさかのぼる封建的な地主制度があった。その影響もあってか、当局者が\n地代の不払いを理由に借地人らを追い払おうとした際には、借地人らに\nよる抗議運動が発生した。こうして1846年には州の立憲会議が開かれ、\nニューヨーク州における土地所有制が全面的に改革されることとなった。;;;;;;;;;;X EVT304483N;麻酔の利用;;;;;;;;;;X EVT304483D;ガスを用いて手術中の苦痛を和らげるとの手法は、ホレス・ウェルズと\nウィリアム・モートンという2人の歯科医仲間によって始められた。\nまず1845年にウェルズが笑気ガスを、続いて翌年にモートンが\nエーテルを使用した。この業績によって彼らは医学界の\n草分け的存在となった。;;;;;;;;;;X EVT304486N;クレイトン・ブルワー条約;;;;;;;;;;X EVT304486D;中央アメリカでの運河掘削をめぐって対立した末に、アメリカ合衆国とイギリスはクレイトン・ブルワー条約を締結することになった。この条約において、当事国は相手国との協議なしに中央アメリカ運河の掘削を始めてはならないこと、また当該運河への排他的支配権は認められないことが定められたが、一般民衆からは不評だった。;;;;;;;;;;X EVT304486D;中央アメリカでの運河掘削をめぐって対立した末に、アメリカ合衆国と\nイギリスはクレイトン・ブルワー条約を締結することになった。この条約に\nおいて、当事国は相手国との協議なしに中央アメリカ運河の掘削を\n始めてはならないこと、また当該運河への排他的支配権は認められ\nないことが定められたが、一般民衆からは不評だった。;;;;;;;;;;X EVT304487N;ソジャーナー・トゥルース;;;;;;;;;;X EVT304487D;「ソジャーナー・トゥルース」ことイザベラ・バウムフリーは解放奴隷の女性で、奴隷制廃止論や婦人参政権について説いてまわった人物である。彼女は奴隷制廃止について雄弁をふるい、また休むことなく女性の権利のため運動を重ねていった。こうして名を博していったバウムフリー女史だったが、1851年にオハイオ州アクロンで女性会議が開かれた際のスピーチで、彼女は社会的な女性像と自分の生涯を引き合いに出しつつ「私は女じゃないのかい?」と訴えた。こうしてこのフレーズは、彼女のトレードマークとなった。;;;;;;;;;;X EVT304487D;「ソジャーナー・トゥルース」ことイザベラ・バウムフリーは解放奴隷の女性で、\n奴隷制廃止論や婦人参政権について説いてまわった人物である。\n彼女は奴隷制廃止について雄弁をふるい、また休むことなく女性の\n権利のため運動を重ねていった。こうして名を博していったバウムフリー\n女史だったが、1851年にオハイオ州アクロンで女性会議が開かれた際の\nスピーチで、彼女は社会的な女性像と自分の生涯を引き合いに出しつつ\n「私は女じゃないのかい?」と訴えた。こうしてこのフレーズは、彼女の\nトレードマークとなった。;;;;;;;;;;X ACT304487A;私は女じゃないのかい?;;;;;;;;;;X EVT304490N;オーティスとエレベーター;;;;;;;;;;X EVT304490D;イライシャ・グレーブズ・オーティスは1852年、ついに安全な\nエレベーターを発明した。この発明によって、以前より\n高いビルもついに建てられるようになり、一部ながら\n摩天楼の発達に手を貸すこととなった。そして1857年には\n初の旅客用エレベーターも設置されるようになった。;;;;;;;;;;X EVT304491N;フアン・コルティーナ;;;;;;;;;;X EVT304491D;アングロサクソン系の入植者や保安官は、メキシコ系住民に\n対して不公平な取り扱いをしていた。それを目の当たりにした\nフアン・コルティーナは無法者となり、リオグランデ共和国の建国と\n「グリンゴに死を!」との訴えをあげつつ、テキサスのブラウンズヴィルで\n襲撃をはたらくようになった。陸軍部隊がのちにメキシコヘと\n追い払ったが、彼はそこでもパルチザンとなり、現地で数多くの\n紛争を起こした。;;;;;;;;;;X EVT304492N;タイタスヴィル;;;;;;;;;;X EVT304492D;1859年、ペンシルバニア州タイタスヴィルで全米初の油田が\n掘り抜かれた。この出来事は後に燃料・輸送業界に\n革命をもたらし、ジョン・ロックフェラーと彼の\nスタンダードオイル社がのし上がる契機ともなった。;;;;;;;;;;X EVT304493N;ポタワタミー・クリーク;;;;;;;;;;X EVT304493D;熱烈な奴隷制廃止論者だったジョン・ブラウンが、反奴隷派の\n住民を率いてカンザスのポタワタミー・クリークへと向かい、そこで\n奴隷派の住民を襲って5名を惨殺した。これにより彼と\nその信奉者に対する暴力行為に拍車がかかっている。;;;;;;;;;;X ACT304493A;そこまでだ;;;;;;;;;;X EVT304494N;ニューヨーク - アメリカの対応;;;;;;;;;;X EVT304494D;ニューイングランドはニューヨークをそそのかし、連邦から離脱させようと\nしている!どのように対処すべきだろう?;;;;;;;;;;X ACT304494A;抗議のうえ断固として対応しよう;;;;;;;;;;X ACT304494B;我慢などできるか!;;;;;;;;;;X ACT304494C;行かせてやろう;;;;;;;;;;X EVT304497N;ホンジュラス危機;;;;;;;;;;X EVT304497D;セラヤ大統領が率いるニカラグアの自由党政権は、もっぱら\n彼の抱く野望のために、長らく連邦政府の懸案事項となってきた。\nそんな時、ホンジュラス亡命政権の軍隊がホンジュラスへと侵攻して\nマヌエル・ボニージャ政権を転覆させようとした。その背後には\nセラヤが付いていると噂されており、どのような対応をとるべきか\n検討する必要がある。;;;;;;;;;;X ACT304497A;介入だ。海兵隊を送ろう;;;;;;;;;;X ACT304497B;他所の問題に口出しすべきじゃない;;;;;;;;;;X ACT304497C;バナナ共和国の馬鹿者め!;;;;;;;;;;X EVT304498N;アメリカ・ニカラグア条約;;;;;;;;;;X EVT304498D;海運王として知られるヴァンダービルトがニカラグアに投資しだし、\nまた運河のルートを確保しようとの動きもあって、アメリカ合衆国は\nニカラグア当局と接触のうえ、こうした権利関係を保障する条約を\n公式に締結しようとした。だがこうした行為はイギリス勢力を\nいらだたせるようなものだ。;;;;;;;;;;X ACT304498A;条約を締結する;;;;;;;;;;X ACT304498B;イギリスを刺激する必要はない;;;;;;;;;;X EVT304499N;ニカラグア介入;;;;;;;;;;X EVT304499D;ニカラグア北部出身の独裁者、ホセ・サントス・セラヤにはアメリカ合衆国も\n愛想を尽かしつつあった。セラヤがホンジュラスに対して抱いている野心を\n押さえ込まねばならず、しかも彼には他の列強と共謀して造反をはかった\nことがあったためだ。こうして1909年にセラヤ政権に対する反乱が\n発生すると、ニカラグアにきっぱりと介入してセラヤ政権を転覆させて\nしまおうとの声が出てくるようになった。;;;;;;;;;;X ACT304499A;介入し、セラヤ政権を転覆しよう;;;;;;;;;;X ACT304499B;放っておこう;;;;;;;;;;X ACT304499C;問題は個人でなく、国家にある;;;;;;;;;;X EVT304500N;テキサスの編入承認;;;;;;;;;;X EVT304500D;テキサスは連邦への編入を承認した。;;;;;;;;;;X EVT304501N;1873年の貨幣鋳造法;;;;;;;;;;X EVT304501D;1792年にアレクサンダー・ハミルトンが制定して以来、アメリカ合衆国\nでは金銀二重本位制がとられてきた。だが1873年、銀の価値を金に\nよって決定するにはどうすればとの大論争が起こるようになっている。\nもし交換比率を市場価格より低いものとすれば、金の価値は下がって\n事実上の銀本位制になってしまうだろう。だが市場価格が\n上がっていくなら、より利益のあげやすい金本位制に移行すると\nみられる。貨幣鋳造法が成立すれば銀から金へと正貨が変わり、\n単一本位制が実施されることになる。;;;;;;;;;;X ACT304501A;金銀交換比率を設定し、金本位制に移行する;;;;;;;;;;X ACT304501B;伝統的な本位制で充分だ;;;;;;;;;;X EVT304502N;銀の価値下落;;;;;;;;;;X EVT304502D;1873年に成立した貨幣鋳造法は、金を基準とした銀の価格を\n固定相場により決定するものだった。ここで市場における金の\n価格が下落すれば、基本的にアメリカ合衆国の正貨は銀となる。\nだが1870年代末、多くの国が次から次へと金本位制を\n採用したことで金の価格が上がり、アメリカ合衆国は事実上の\n金本位制へと移行した。しかし国内の低所得層からは、\nこの政策はきわめて不評である。;;;;;;;;;;X ACT304502A;一体どうすればいいんだ?;;;;;;;;;;X ACT304502B;貨幣鋳造法を改正する;;;;;;;;;;X ACT304502C;民衆のためだ。貨幣鋳造法を撤回しよう;;;;;;;;;;X EVT304503N;1873年恐慌;;;;;;;;;;X EVT304503D;1873年、経済恐慌が発生した。だがそこに至るまでの間には種々の\n事件が起こっていたはずであり、国内随一の投資銀行であった\nジェイクック銀行の破産は、まさにそれを予感させるものであった。\nニューヨーク証券取引所は10日にわたって閉鎖され、さらに貸付金が\n干上がったことから銀行は差し押さえに回った。絶体絶命の\n危機にある経済を相手に、全米がもがき苦しむことになって\nしまったのだった。;;;;;;;;;;X ACT304503A;経済の足元がガタ付いている;;;;;;;;;;X EVT304504N;国内経済の復興;;;;;;;;;;X EVT304504D;1873年不況からアメリカ合衆国の経済が完全に復旧するまでには、\nおおよそ5年もの歳月を必要とした。;;;;;;;;;;X ACT304504A;常態に戻りつつある;;;;;;;;;;X EVT304510N;ロシア艦隊のアメリカ訪問;;;;;;;;;;X EVT304510D;南北戦争の行われていた頃、東部西部を問わずアメリカ合衆国の\n押さえている港をロシア艦隊が訪問した。当時は合衆国軍の士気を\n何としてでも上げなければならなかったのだ。;;;;;;;;;;X ACT304510A;ツァーリ万歳!;;;;;;;;;;X EVT304511N;ロシア艦隊の訪米拒否;;;;;;;;;;X EVT304511D;ロシア艦隊にはアメリカ合衆国を訪問して頂きたいとの招待に対して、\nロシア政府はこの誘いを丁重に断った。後にリンカーン大統領はこう\n語ったという。「世界中の暴君らに立ち向かうにあたり、\n傍らに立って下さるのは神のみだ」;;;;;;;;;;X ACT304511A;おたがい孤立しているのか;;;;;;;;;;X EVT304528N;望厦条約;;;;;;;;;;X EVT304528D;アヘン戦争の終結にともない、ケイレブ・クッシングの交渉によって\n望厦条約が締結された。これにより清の有する5港が\nアメリカ商人に開かれ、清国内でのアメリカ市民の法的権利も\n保障され、最恵国待遇も認められることとなった。これが\nアメリカによる中国介入の第一歩であった。;;;;;;;;;;X ACT304528A;クッシングを交渉に遣れ;;;;;;;;;;X ACT304528B;中国?何だそれは?;;;;;;;;;;X EVT304529N;第三世代要塞の建造計画 - 第一段階;;;;;;;;;;X EVT304529D;軍部や政界の首脳は1812年の米英戦争を経て、とある事実を確信するに至った。それは、石組みの近代要塞と重火器で防御された地域に対してはイギリス軍も足場を築けなかったというものである。そのため1830年代から同40年代にかけて、当時朽ちつつあった港湾防衛施設を建て直そうとの動きが強まるようになった。;;;;;;;;;;X EVT304529D;軍部や政界の首脳は1812年の米英戦争を経て、とある事実を確信\nするに至った。それは、石組みの近代要塞と重火器で防御された\n地域に対してはイギリス軍も足場を築けなかったというものである。\nそのため1830年代から同40年代にかけて、当時朽ちつつあった\n港湾防衛施設を建て直そうとの動きが強まるようになった。;;;;;;;;;;X ACT304529A;徐々に防衛を進めよう。第一段階で充分だ;;;;;;;;;;X ACT304529B;防衛はすぐにでも完璧にしなければ!;;;;;;;;;;X ACT304529C;複合要塞なんざ人間の愚かさを示す墓標に過ぎない;;;;;;;;;;X EVT304530N;第三世代要塞の建造計画 - 第二段階;;;;;;;;;;X EVT304530D;南北戦争では、ニューオーリンズの戦い(1862年)やモビール湾海戦(1864年)といった著名な戦いにおいても、近代要塞がその焦点となった。これら城砦の築造には多くの資金が必要だが、これを建てれば港湾都市は安全保障面での信頼性で大きく伸びることになるだろう。加えて契約により現地企業が大きな利益を得られることもあげられる。;;;;;;;;;;X EVT304530D;南北戦争では、ニューオーリンズの戦い(1862年)やモビール湾海戦\n(1864年)といった著名な戦いにおいても、近代要塞がその焦点となった。\nこれら城砦の築造には多くの資金が必要だが、これを建てれば\n港湾都市は安全保障面での信頼性で大きく伸びることになるだろう。\n加えて契約により現地企業が大きな利益を得られることもあげられる。;;;;;;;;;;X ACT304530A;第二段階の建設を進めよう;;;;;;;;;;X ACT304530C;もう要塞は充分だ。計画を終えよう;;;;;;;;;;X EVT304531N;第三世代要塞の建造計画 - 最終段階;;;;;;;;;;X EVT304531D;沿岸部の要塞化もその最終形が完成を間近に控えている。これらの城砦は最新式の重火器を備え、野砲隊を支援してくれることだろう。;;;;;;;;;;X EVT304531D;沿岸部の要塞化もその最終形が完成を間近に控えている。これらの\n城砦は最新式の重火器を備え、野砲隊を支援してくれることだろう。;;;;;;;;;;X ACT304531A;金のかかる事業だった;;;;;;;;;;X EVT304532N;ブタ戦争;;;;;;;;;;X EVT304532D;アメリカ合衆国とイギリスの対立は緊迫したものとなっている。\nシアトル近郊のサンジュアン島では、農民の飼っている\nブタをめぐる諍いから危うく双方が戦争を起こしてしまう\nところだった。;;;;;;;;;;X ACT304532A;新しいブタを買ってやろう;;;;;;;;;;X ACT304532B;イギリスにブタを買わせよう;;;;;;;;;;X ACT304532C;神の名にかけて、これはアメリカのブタだ!;;;;;;;;;;X EVT304575N;逃亡奴隷法;;;;;;;;;;X EVT304575D;北部諸州は議会上程中の逃亡奴隷法案について、協定の一環だとしてしぶしぶその通過に同意することとなった。だがだがこれは北部住民の神経を逆なでしており、連邦政府がこれを施行するようなことがあれば、北部の諸都市で暴動が起こってしまうだろう。;;;;;;;;;;X EVT304575D;北部諸州は議会上程中の逃亡奴隷法案について、協定の一環だとして\nしぶしぶその通過に同意することとなった。だがだがこれは北部住民の\n神経を逆なでしており、連邦政府がこれを施行するようなことがあれば、\n北部の諸都市で暴動が起こってしまうだろう。;;;;;;;;;;X ACT304575A;施行しよう;;;;;;;;;;X ACT304575B;自重しよう;;;;;;;;;;X EVT304579N;ジョン・ブラウンの襲撃;;;;;;;;;;X EVT304579D;奴隷たちに広汎な反乱を起こさせられないか、さらには奴隷制度そのものに直接攻撃を仕掛けられないかとして、熱狂的な奴隷廃止論者ジョン・ブラウンは21名―うち5名が白人、16名が黒人だった―を率い、バージニア州ハーパーズフェリーにある合衆国陸軍の兵器庫へ襲撃をかけた。彼らはさらなる蜂起を企図しており、そのために銃器が得られればと考えていたのである。だがこの計画が裏目に出て彼らは現地住民に取り押さえられ、その後到着したロバート・エドワード・リー大佐の率いる部隊の手により拘置所に送られることとなった。だがこのジョン・ブラウンの処遇については検討すべき点がある。;;;;;;;;;;X EVT304579D;奴隷たちに広汎な反乱を起こさせられないか、さらには奴隷制度その\nものに直接攻撃を仕掛けられないかとして、熱狂的な奴隷廃止論者\nジョン・ブラウンは21名―うち5名が白人、16名が黒人だった―を率い、\nバージニア州ハーパーズフェリーにある合衆国陸軍の兵器庫へ襲撃\nをかけた。彼らはさらなる蜂起を企図しており、そのために銃器が\n得られればと考えていたのである。だがこの計画が裏目に出て彼らは\n現地住民に取り押さえられ、その後到着したロバート・エドワード・\nリー大佐の率いる部隊の手により拘置所に送られることとなった。\nだがこのジョン・ブラウンの処遇については検討すべき点がある。;;;;;;;;;;X ACT304579A;彼を処刑せよ;;;;;;;;;;X ACT304579B;殉教者を生み出すな。拘禁せよ;;;;;;;;;;X EVT304580N;サザン・ホームガード;;;;;;;;;;X EVT304580D;1850年代に派閥対立が激化したことで、南部人の多くは、自分の信条や生き方を守り抜くに声を上げるだけでは足りないと結論付けるようになった。そして逃亡奴隷法の成立やジョン・ブラウン事件への抗議を受けて、南部人は州軍を再編成してホームガード(地方義勇兵)としたが、こうした動きが後の南軍の土台となっていったのである。;;;;;;;;;;X EVT304580D;1850年代に派閥対立が激化したことで、南部人の多くは、\n自分の信条や生き方を守り抜くに声を上げるだけでは\n足りないと結論付けるようになった。そして逃亡奴隷法の\n成立やジョン・ブラウン事件への抗議を受けて、南部人は\n州軍を再編成してホームガード(地方義勇兵)としたが、\nこうした動きが後の南軍の土台となっていったのである。;;;;;;;;;;X ACT304580A;守り抜くぞ;;;;;;;;;;X ACT304580B;武器をとれなどと言う必要はない;;;;;;;;;;X EVT304584N;パスファインダー;;;;;;;;;;X EVT304584D;ジョン・チャールズ・フレモントは7度にわたって西部を遠征し、のべ2万マイル以上も西部の地を踏破して地図に描き起こした。彼はこうして西部地図の作成に貢献し、「パスファインダー(道を拓く者)」として世界中に名を知られるようになった。これらの遠征ではキット・カーソンに代表される山男が案内人を務め、彼らの拓いた街道はオレゴンからカリフォルニアに向かう開拓者らに重宝された。;;;;;;;;;;X EVT304584D;ジョン・チャールズ・フレモントは7度にわたって西部を遠征し、のべ2万\nマイル以上も西部の地を踏破して地図に描き起こした。彼はこうして\n西部地図の作成に貢献し、「パスファインダー(道を拓く者)」として\n世界中に名を知られるようになった。これらの遠征ではキット・カーソンに\n代表される山男が案内人を務め、彼らの拓いた街道はオレゴンから\nカリフォルニアに向かう開拓者らに重宝された。;;;;;;;;;;X EVT304586N;フレデリック・ダグラス;;;;;;;;;;X EVT304586D;奴隷制廃止運動を先頭だって引っ張っていった人物にフレデリック・ダグラスがある。彼は逃亡奴隷だったが、後に反奴隷制の大義を掲げて雄弁を振るうようになった。1845年に自伝を著して刊行し、2年後には新聞「ノース・スター」紙を発刊するなどして、彼はしだいに重要な人物となっていった。;;;;;;;;;;X EVT304586D;奴隷制廃止運動を先頭だって引っ張っていった人物にフレデリック・\nダグラスがある。彼は逃亡奴隷だったが、後に反奴隷制の大義を\n掲げて雄弁を振るうようになった。1845年に自伝を著して刊行し、\n2年後には新聞「ノース・スター」紙を発刊するなどして、彼は\nしだいに重要な人物となっていった。;;;;;;;;;;X ACT304586A;独立記念日とは奴隷にとって何だ?;;;;;;;;;;X EVT304590N;奴隷制をめぐり教会が分裂;;;;;;;;;;X EVT304590D;奴隷制をめぐる論争はアメリカ社会の全側面にわたって断裂を生み出してしまい、そしてそれは教会も例外ではなかった。長老派教会は1838年に、メソジスト教会やバプテスト教会は1845年に、各々が奴隷制推進と反対で二分されてしまった。;;;;;;;;;;X EVT304590D;奴隷制をめぐる論争はアメリカ社会の全側面にわたって断裂を\n生み出してしまい、そしてそれは教会も例外ではなかった。\n長老派教会は1838年に、メソジスト教会やバプテスト教会は\n1845年に、各々が奴隷制推進と反対で二分されてしまった。;;;;;;;;;;X EVT304591N;「分れ争う家」演説;;;;;;;;;;X EVT304591D;共和党の党大会がイリノイ州スプリングフィールドで開かれ、来たる大統領選の候補としてエイブラハム・リンカーンが指名を受けた。リンカーンはその晩に演説を行い、「もし家分れ争わば、その家立つこと能わざるべし」との後代にまで語り継がれる名演説を残した。;;;;;;;;;;X EVT304591D;共和党の党大会がイリノイ州スプリングフィールドで開かれ、\n来たる大統領選の候補としてエイブラハム・リンカーンが\n指名を受けた。リンカーンはその晩に演説を行い、\n「もし家分れ争わば、その家立つこと能わざるべし」\nとの後代にまで語り継がれる名演説を残した。;;;;;;;;;;X EVT304592N;リンカーン・ダグラス討論;;;;;;;;;;X EVT304592D;国民の視線がイリノイ州に注がれている。民主・共和両党の論戦がここイリノイで交わされ、知名度の薄いエイブラハム・リンカーンが著名なスティーブン・ダグラスと対峙しているのだ。この討論では奴隷制問題が脚光を浴びているが、その核心は「分れ争う家」と「主権在民(州権の優越)」の対立である。;;;;;;;;;;X EVT304592D;国民の視線がイリノイ州に注がれている。民主・共和両党の論戦が\nここイリノイで交わされ、知名度の薄いエイブラハム・リンカーンが\n著名なスティーブン・ダグラスと対峙しているのだ。この討論では\n奴隷制問題が脚光を浴びているが、その核心は「分れ争う家」と\n「主権在民(州権の優越)」の対立である。;;;;;;;;;;X EVT304593N;差し迫った南部の危機;;;;;;;;;;X EVT304593D;ヒントン・ローワン・ヘルパーの「差し迫った南部の危機」は反奴隷制を訴える書籍である。だがそれは道義的見地からではなく、奴隷制が白人貧困層を脅かしているとの経済的見地から書かれたものだった。南部人がこの論説に激怒して発禁とした一方、北部では共和党が10万部以上を配り回っていた。;;;;;;;;;;X EVT304593D;ヒントン・ローワン・ヘルパーの「差し迫った南部の危機」は反奴隷制を\n訴える書籍である。だがそれは道義的見地からではなく、奴隷制が\n白人貧困層を脅かしているとの経済的見地から書かれたものだった。\n南部人がこの論説に激怒して発禁とした一方、北部では共和党が\n10万部以上を配り回っていた。;;;;;;;;;;X EVT304594N;コロンビア特別区の奴隷貿易廃止;;;;;;;;;;X EVT304594D;1850年協定が制度化され、その一環としてコロンビア特別区では\n奴隷貿易が廃止された。;;;;;;;;;;X EVT304595N;ニューイングランド移住者支援協会;;;;;;;;;;X EVT304595D;1854年3月、マサチューセッツを代表する奴隷制廃止論者のイーライ・セアーがマサチューセッツ移住者支援協会を設立した。この団体はのちにニューイングランド移住者支援協会と名を変え、自由土地主義を奉ずる入植者をカンザスへと送り込んで、この地へ反奴隷主義の大義を広めさせようと運動を重ねていった。;;;;;;;;;;X EVT304595D;1854年3月、マサチューセッツを代表する奴隷制廃止論者の\nイーライ・セアーがマサチューセッツ移住者支援協会を設立した。\nこの団体はのちにニューイングランド移住者支援協会と名を変え、\n自由土地主義を奉ずる入植者をカンザスへと送り込んで、\nこの地へ反奴隷主義の大義を広めさせようと運動を重ねていった。;;;;;;;;;;X EVT304596N;聖書とライフル;;;;;;;;;;X EVT304596D;コネチカットからカンザスへと移住してきた奴隷廃止派の入植者は、「流血のカンザス」で奴隷賛成派の入植者に襲われまいと、こぞって一丁25ドルのシャープス・ライフルを買い求めた。そうして25丁のライフルが揃い、それとともに教区民が25冊の聖書を教会に納めた。そして牧師ヘンリー・ワード・ビーチャーは、「ライフルとバイブル(聖書)こそが我らが大義を推し進めるのだ」と住民に語っている。;;;;;;;;;;X EVT304596D;コネチカットからカンザスへと移住してきた奴隷廃止派の入植者は、\n「流血のカンザス」で奴隷賛成派の入植者に襲われまいと、\nこぞって一丁25ドルのシャープス・ライフルを買い求めた。\nそうして25丁のライフルが揃い、それとともに教区民が25冊の\n聖書を教会に納めた。そして牧師ヘンリー・ワード・ビーチャーは、\n「ライフルとバイブル(聖書)こそが我らが大義を推し進めるのだ」\nと住民に語っている。;;;;;;;;;;X EVT304597N;法定通貨法;;;;;;;;;;X EVT304597D;貴金属類の供給を保全するため対策が講じられてきたものの、戦争継続にむけて緊急の補助を行う必要があったためか、連邦政府は大規模な貨幣不足に陥っていた。そこで財務長官のサモン・ポートランド・チェイスは法定通貨法の制定を主張した。これが可決されれば連邦政府は自身が保証する通貨―グリーンバック―を発行して戦費に充てることができるだろう。;;;;;;;;;;X EVT304597D;貴金属類の供給を保全するため対策が講じられてきたものの、\n戦争継続にむけて緊急の補助を行う必要があったためか、連邦\n政府は大規模な貨幣不足に陥っていた。そこで財務長官のサモン・\nポートランド・チェイスは法定通貨法の制定を主張した。これが\n可決されれば連邦政府は自身が保証する通貨―グリーンバック―\nを発行して戦費に充てることができるだろう。;;;;;;;;;;X ACT304597A;現金が必要だ!;;;;;;;;;;X ACT304597B;紙幣など結構!;;;;;;;;;;X EVT304598N;流通縮小法;;;;;;;;;;X EVT304598D;南北戦争が終わったことで財源危機は息を潜めていったが、この危機がもたらした政府保証通貨―グリーンバック―はいまだ市場に残されていた。財務省は借款を返して財政規律を取り戻すのだと総点検を始めているが、市場からはこれに呼応するように、戦時中にとられた緊急措置を巻き戻してグリーンバックの流通量を減らしてほしいとの声が出てきている。;;;;;;;;;;X EVT304598D;南北戦争が終わったことで財源危機は息を潜めていったが、この危機が\nもたらした政府保証通貨―グリーンバック―はいまだ市場に残されていた。\n財務省は借款を返して財政規律を取り戻すのだと総点検を始めているが、\n市場からはこれに呼応するように、戦時中にとられた緊急措置を巻き\n戻してグリーンバックの流通量を減らしてほしいとの声が出てきている。;;;;;;;;;;X ACT304598A;グリーンバックを減らそう;;;;;;;;;;X ACT304598B;めちゃめちゃになりかねない;;;;;;;;;;X ACT304598C;グリーンバックを一掃しよう;;;;;;;;;;X EVT304599N;グリーンバック政策;;;;;;;;;;X EVT304599D;グリーンバック紙幣を廃止・回収しようとの試みは数年にわたって\n続けられた。こうして財務省も悪影響が全米経済に及びつつ\nあることに気が付いたのだった。そして流通路からグリーンバック紙幣を\n取り除いてしまおうとの案について、再び議論が交わされるようになった。;;;;;;;;;;X ACT304599A;グリーンバック回収を止める;;;;;;;;;;X ACT304599B;妥協し回収を抑える;;;;;;;;;;X ACT304599C;もっと頑張れる。グリーンバックを回収せよ;;;;;;;;;;X EVT304600N;反乱軍を打ちのめせ!;;;;;;;;;;X EVT304600D;サムター要塞が攻撃されたのを受け、リンカーン大統領は75000人の志願兵を募集した。;;;;;;;;;;X EVT304600D;サムター要塞が攻撃されたのを受け、リンカーン大統領は\n75000人の志願兵を募集した。;;;;;;;;;;X ACT304600A;90日間に限り志願兵を募集しよう;;;;;;;;;;X ACT304600B;正規兵のみを用いよう;;;;;;;;;;X EVT304602N;いざリッチモンドへ!;;;;;;;;;;X EVT304602D;政界では「連合国の首都であるリッチモンドを直ちに攻撃せよ」との圧力が高まっている。;;;;;;;;;;X EVT304602D;政界では「連合国の首都であるリッチモンドを直ちに攻撃せよ」との\n圧力が高まっている。;;;;;;;;;;X ACT304602A;準備に時間が必要だ;;;;;;;;;;X EVT304603N;志願兵の解隊;;;;;;;;;;X EVT304603D;リンカーンの集めた75000名の志願兵は、本来90日間に限って募集されたものだった。彼らは帰途につかせることになる。;;;;;;;;;;X EVT304603D;リンカーンの集めた75000名の志願兵は、本来90日間に限って\n募集されたものだった。彼らは帰途につかせることになる。;;;;;;;;;;X ACT304603A;志願兵を家に帰そう;;;;;;;;;;X ACT304603B;彼らを連邦政府の管轄下におこう;;;;;;;;;;X