半分はハードコード ####### 330K COLONIZATION #######;;;;;;;;;;;X EVT330061N;東アフリカに関するドイツとの協定;;;;;;;;;;X EVT330061D;1886年にザンジバルの領土を分割した協定は、ドイツ・\nイギリス間に未解決の問題 〜 ザンジバルおよびウガンダ\n両王国の支配権の帰属問題 〜 を残すものであった。\n近年、ウガンダでカール・ペーテルスが\n活動していることは、その支配権を確立するために、\nドイツが何らかの手段を講じる可能性を示唆している。\nおそらくドイツ側は、イギリスのウガンダ統治権を\n承認する見返りとして、現在イギリス領である\n北海ハンブルグ沖のヘルゴランド島の\n返還をねらっているのだろう。;;;;;;;;;;X ACT330061A;ドイツに取引を持ちかけてみようか;;;;;;;;;;X ACT330061B;これでは問題の解決になるまい;;;;;;;;;;X EVT330062N;東アフリカに関するイギリスとの協定;;;;;;;;;;X EVT330062D;1886年にザンジバルの領土を分割した協定は、ドイツ・\nイギリス間に未解決の問題 〜 ザンジバルおよびウガンダ\n両王国の支配権の帰属問題 〜 を残すものであった。\n北海のヘルゴランドがイギリス領であり続けることは、\n我々の海軍が長く懸念を寄せてきた事柄である。\nイギリスは、このヘルゴランドと引き換えに、\nウガンダおよびザンジバルにおけるイギリスの統治権を\n認めよという取引を申し出てきた。\n受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330062A;イギリスとの取引に乗ろう;;;;;;;;;;X ACT330062B;取引をする意味など、なきに等しい;;;;;;;;;;X EVT330063N;1890年のヘルゴラント・ザンジバル条約;;;;;;;;;;X EVT330063D;ブガンダ問題について提案していた取引案を、ドイツは受け入れた。\nタンガニーカ地方はドイツの支配下に入り、また北海に浮かぶヘルゴ\nラント島もドイツ領となったが、イギリスがブガンダおよびザンジバルで\n支配的な地位に立つことに対し彼らの承認を得ることができた。;;;;;;;;;;X EVT330064N;東アフリカに関するフランスとの協定?;;;;;;;;;;X EVT330064D;ドイツと取引が交わされたものの、イギリスによるザンジバルへの支配確\n立に対して、依然フランスはこれを妨害できる列強のひとつであった。し\nかしフランスは長らくマダガスカルに利害を持っており、我々がマダガスカ\nルへのフランス支配を認めるならば、彼らもイギリスのザンジバル支配を\n認めてくれるかもしれない。;;;;;;;;;;X ACT330064A;フランスに取引を持ちかける;;;;;;;;;;X ACT330064B;マダガスカルへの影響力は維持せねば;;;;;;;;;;X EVT330065D;イギリスとフランスの両国は、長きにわたってザンジバルおよびマダガスカル\nへの影響力を巡り争ってきた。だがイギリスはこの紛争の解決に向け申\nし出てきている。それによればフランスはマダガスカルを、イギリスはザンジ\nバルをそれぞれ支配圏に組み込むことについて、お互い承認する形に\nなる。;;;;;;;;;;X EVT330066N;1890年の英仏協定;;;;;;;;;;X EVT330066D;東アフリカに関して我々が提案した取引案を、フランスは受け入れた。フ\nランスはマダガスカルを勢力下におくことになったが、その代わり彼らはイ\nギリスがザンジバルに対して支配的な立場にあることを承認することとな\nった。;;;;;;;;;;X EVT330067N;東アフリカについて、イタリアと交渉;;;;;;;;;;X EVT330067D;イタリアの東アフリカへの関心は主にエチオピアと\nソマリアに向けられているが、ケニヤ北部に入植した\nイタリア人の事も意識はしているようだ。\n我々のケニヤ支配権を固めるために、\nイタリアがエチオピアおよびソマリア沿岸部に\n手を出すことを認めるべきかも知れない。;;;;;;;;;;X ACT330067A;イタリアに取引を打診しよう;;;;;;;;;;X ACT330067B;話し合うことはない;;;;;;;;;;X EVT330068D;イギリスとイタリアは、これまではアフリカ東部における権益を\n互いに尊重することができた。\n今彼らが提案しているのは、エチオピアとソマリアを\n我々が影響下におくことを認め、その交換条件として\nケニヤをイギリスが支配することを認める、というものであった。\nこれは受けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT330069N;1890年の英伊協定;;;;;;;;;;X EVT330069D;東アフリカについての我々の取引案をイタリアが受け入れた。イタリアが\nエチオピアを勢力下におくのを認める代わりに、ケニアにおけるイギリスの\n支配的地位は承認された。;;;;;;;;;;X EVT330070N;ポルトガルが中央アフリカに勢力拡大;;;;;;;;;;X EVT330070D;ポルトガルはアンゴラとモザンビークの沿岸を基点として、内陸への進出\nをすすめてきた。そしてその結果、中央アフリカにまたがり一個のブロックと\nしてのポルトガル領が生まれたのである。こうした情勢により、帝国主義\n派の一部政治家が望むようなケープタウンからカイロにいたる一枚岩の\nイギリス勢力圏は、その誕生が見込めなくなりつつある。さらに近年、ポ\nルトガル人は我が国の勢力下にあるニヤサランドにまで進出してきた。\nポルトガル人どもに、この地域を牛耳っているのは誰かはっきりさせてや\nるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330070A;ポルトガルに撤退を求める;;;;;;;;;;X ACT330070B;この地方はポルトガルに掌握させておく;;;;;;;;;;X EVT330071N;中央アフリカ東部に関するイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT330071D;我が国がアフリカの内陸へと進出したことについて、イギリスはニヤサラン\nドから撤退するようにとの要求を突きつけてきた。それによれば、かの地\nはイギリスの勢力圏内だとのことだ。我々がこの要求を呑まなければ、\nイギリスは軍事力に訴えてでも支配を守ろうとするだろう。どうしようか?;;;;;;;;;;X ACT330071A;大英帝国とは争えない;;;;;;;;;;X ACT330071B;我々もバラ色の帝国を築こう!;;;;;;;;;;X EVT330072N;ポルトガルが要求を拒否!;;;;;;;;;;X EVT330072D;ポルトガル人どもは生意気にも我々の要求を拒み、ニヤサランドから撤\n退することはないと言ってきた。だがニヤサランドには、法的に見てもイギ\nリスの勢力圏が正当に及んでいる。軍事力に訴えてでも、ポルトガルに\nこの論点を受け入れさせるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330072A;ポルトガルに懲罰を与えねば;;;;;;;;;;X ACT330072B;この地方はポルトガルに掌握させておく;;;;;;;;;;X EVT330200N;アブシリの反乱;;;;;;;;;;X EVT330200D;アブシリ・ビン・サリームは、タンガ地方にあるスワヒリ社会の指導者である\nスワヒリが担ってきた内陸部との交易に対し、ヨーロッパの植民当局が\n関与を深めてきたため、アブシリは反乱軍を組織することとなった。その\n目的はヨーロッパ人をスワヒリ海岸から追い出し、ザンジバルのスルタンの\n権威を取り戻すことにある。;;;;;;;;;;X EVT330202N;マジ・マジの反乱;;;;;;;;;;X EVT330202D;植民地支配に抵抗する呪術師Kinjikitile Ngwaleは、\n信心ある者が飲めば白人の弾丸が効かなくなるという\n魔法の水(マジ)を授かったと高らかに宣言した。\n彼に影響され、タンガニーカ南部では\n1905年7月まで大規模な反乱が続いた。;;;;;;;;;;X EVT330203N;ブニョロの反乱;;;;;;;;;;X EVT330203D;大湖地方北部においてブガンダ王国と覇を競ったブニョロ王国の首長\nらは、近年進みつつある植民地支配について、これを独立維持へのよ\nいチャンスだと考えた。そして彼らは新しく敷かれた植民地秩序を拒み\nこの地方から入植者を追い出してしまおうとして反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330204N;カバカ・ムワンガの反乱;;;;;;;;;;X EVT330204D;ブガンダが植民地化される過程において、ヨーロッパ人が植民地政府と\nの調整役に選んだのはカバカ(ブガンダ王)ではなく、各地の首長らであ\nった。そのため政治権力は次第にカバカの手を離れ、彼ら首長へと移っ\nていくことになった。これに危機感を抱いたのは当時のカバカ、カバカ・ム\nワンガである。そこで彼は1897年に植民地当局に対して反乱を起こし\n王国の主権を取り戻そうとした。;;;;;;;;;;X EVT330205N;ニャンギレの反乱;;;;;;;;;;X EVT330205D;植民地当局は1890年代、ブニョロ平定を何度も試みたが、ブニョロ人\nが全面的に降伏することはなかった。そして植民地という社会構造、経\n済構造が浸透していったことにより、さらなる反乱を招くことになってしま\nった。反乱軍は「ニャンギレ(私は拒む)」を合言葉に、植民地化がもた\nらす経済的、社会的要求に屈することはないぞと決意を新たにしている。;;;;;;;;;;X EVT330206N;マズルイの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330206D;マズルイとは、古くからモンバサを治めてきた指導層のことである。当時の\nケニア沿岸一帯はザンジバルの勢力圏にあったのだが、マズルイは19世\n紀を通じて、彼らザンジバル人の支配強化に対し頑強に抵抗を続けて\nいたのだ。だがケニアが植民地化されたことで、マズルイの支配はさらに\n危ういものとなった。そこでムバラク・ビン・ラシードの指揮のもと、彼らは\n1895年11月に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330207N;キクユ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330207D;グレート・リフト・バレー(大地溝帯)地方は、ケニア西部の肥沃な一帯\nである。ここには古くからキクユ人が住んでいたが、白人入植者はプラン\nテーション建設のため、ここを「余りの土地」だとして領有権を主張した\nそのためキクユ人は1902年、植民地当局を追放せよとの声を挙げ、\n反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330208N;ナンディ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330208D;ヴィクトリア湖の東に広がる高原には、昔からナンディとよばれる民族が\n暮らしてきた。だがそこにも植民地支配の波がおよぶようになると、一帯\nに緊張が走り、そしてついに1905年、当地からの植民者追放をうたう\n反乱が発生してしまった。;;;;;;;;;;X EVT330209N;ヘヘ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330209D;タンガニーカ南方に住むヘヘ人はムクワワ王のもとで反乱を起こし、\nヨーロッパ人を追い出して父祖伝来の地の支配を取り戻そうとした。;;;;;;;;;;X EVT330220N;バウレ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330220D;象牙海岸にはかねてより植民地制を導入しようとの動きがあったが、こ\nれを妨げてきたのが、古くからこの地に住んできたバウレ人である。彼ら\nは植民地化を拒み、バウレ人のあいだに政治的な階層秩序がもたらさ\nれるのを拒絶した。そしてエティエン・コメナンの指揮のもとバウレ人は反\n乱を起こし、父祖伝来の地から植民者を追い出してしまおうとした。;;;;;;;;;;X EVT330221N;バウレ人が再び蜂起;;;;;;;;;;X EVT330221D;バウレ人を植民地体制に組み込もうとする動きが進んでいくなか、彼ら\nの住む象牙海岸には緊張が走るようになった。そして1894年9月には、\nクアシ・ブエケらによるバウレ人の徹底的な反抗を招くことになるのである。;;;;;;;;;;X EVT330222N;バウレ人が三たび蜂起;;;;;;;;;;X EVT330222D;象牙海岸に植民地制度を導入しようとの試みに対し、この地域に住\nむバウレ人は1890年代を通じ抵抗を続けた。そして以前から反西洋\n感情をあらわにしていたバウレ人首長のカティア・コフィが現地当局に処\n刑されると、1898年、バウレ人は三度目の反乱を起こすことになったの\nである。;;;;;;;;;;X EVT330223N;イジェブの反乱;;;;;;;;;;X EVT330223D;ヨーロッパの交易システムも宣教団も、ヨルバ人との付き合いは長いもの\nとなっており、この地を植民地化する際には彼らがその一助となっていた\nしかし、植民地化によって独立を失うという点については、必ずしも全\nてのヨルバ国家が喜んで受け入れたわけではなかった。その代表がイジ\nェブで、かの国は国境を閉ざして植民地当局との連絡を絶ってしまった\nそこで我が国が植民地体制下に入るよう強いたことで、イジェブの国王\nは植民地当局に対して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330224N;イツェキリ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330224D;イツェキリ人のナナ首長は、我々がニジェール川デルタに植民地制度を\n敷こうとしたことに対して反乱を起こし、これはこの地域で発生した反\n乱のなかでも最も厄介なものとなった。植民地政府の行政官がニジェー\nル川デルタでの交易を自由に行わせて欲しいと訴えたのに対して、ナナ\n首長は1894年にこれを拒否し、国境地帯で彼らに向かって発砲した\nのだ。;;;;;;;;;;X EVT330225N;ベニンの反乱;;;;;;;;;;X EVT330225D;1880年代から1890年代にかけてベニンの首長らは植民地制度に組\nみ込まれていった。そして90年代末になると植民地当局は、ベニンに\n人身御供のような風習があると知るようになる。彼らはこの風習を野蛮\nなものだとして止めさせようとし、そして1897年の1月、現地行政官が\n殺害されたことで抗争にまで発展してしまった。;;;;;;;;;;X EVT330226N;エクメクの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330226D;イボ人はヨーロッパ交易圏と古くからかかわりを持ってきた。だが彼らの住\nむイボランドに植民地化が及ぶにつれて、社会的、経済的そして文化\n的な緊張関係が生じるようになった。そしてこれが植民地当局への反\n抗となって立ち現れてくるのである。ヨーロッパ貿易商や植民地政府職\n員に攻撃を仕掛け、イボランド支配への脅威となった彼ら反乱軍は、\nエクメク、つまり「静かな者たち」と呼ばれた。;;;;;;;;;;X EVT330227N;小屋税の反乱;;;;;;;;;;X EVT330227D;小屋税とは植民地行政府が設けた人頭税の一種であるが、その目的\nは当局の収入源とすることだけではない。植民地化によって新しく諸産\n業が生まれて経済システムを形作るようになったが、現金収入をエサに\nしつつ、この体系へと土着住民を組み込むこともまた小屋税の目的の\nひとつだったのだ。だがこの小屋税を課すことで反乱を招く事例が多かっ\nた。そのなかでも苛烈をきわめたものといえば、1898年にシエラレオネで\n起こった、バイ・ブレを首領とする反乱だった。;;;;;;;;;;X EVT330228N;ヤー・アサンテワーの反乱;;;;;;;;;;X EVT330228D;アシャンティ王国は西アフリカ沿岸部の一帯でも有数の大国であり、王\n国が滅ぼされた現在でも旧王家はアシャンティ人から広汎な支持を集\nめている。つまりこのアシャンティを征服して植民地化してしまったことに\nより、かつての王族が反乱を起こす土壌はすでに形成されていたのだ。\nそして1900年、アシャンティ最後の君主、プレンペ王の妹であるヤー・ア\nサンテワーが植民地当局に叛旗を翻し、これに呼応した民衆がアシャン\nティ再興と植民地勢力の追放をとなえて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330229N;モシ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330229D;ボルタ川上流に広がる高原地帯には古くからモシ人が住んでいるが、\n彼らは18世紀後半になるとこの地に強大な王国を築くまでに発展して\nいた。よってこの地域に植民地を設けることでモシ人との接触、衝突が\n起こるのは当然の帰結でもある。そして20世紀初頭、植民地当局の\n実効支配が強くまた広くなるにつれて、モシ人はかつての王国を再興し\nようと反乱に走るようになった。;;;;;;;;;;X EVT330230N;フォデ・カバの反乱;;;;;;;;;;X EVT330230D;セネガル南部のカザマンス地方でも、今や着々と植民地化が進んでい\nる。だがこの地に住むジュラ人のイスラム法学者であるフォデ・カバ・ドゥン\nビアは、これに反抗するようになった。植民地支配の強制に耐えかねた\nフォデ・カバは民衆を救うために抵抗運動を起こし、1910年にこの運動\nは反乱にまで発展した。;;;;;;;;;;X EVT330240N;ンデベレ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330240D;ンデベレ国家を崩壊においやって植民地化を強制したことで、ンデベレ\n人のあいだに列強への敵意が募るようになっていった。そして1896年に\n小屋税が課されることが決まると、ンデベレ人は国家再興をはかり反乱\nを起こした。;;;;;;;;;;X EVT330241N;ショナ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330241D;ンデベレ人の反乱が近隣に住むショナ人にも飛び火した。\n「ここは我々の土地だ。植民地など跳ね除けてしまえ」と\nする動きがショナ人の間にも広まりつつある。;;;;;;;;;;X EVT330242N;ヘレロ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330242D;カオコランドに住むヘレロ人はかつてナマ人に支配されており、この地に植民地化が及びつつあった当初もナマ人から抜け出そうと躍起になっていた。こうした事情により、連合してナマ人と戦ってくれるのではないかとの期待から、植民地が設けられた初めのうちはヘレロ人も当局を歓迎していたのだ。だが当局による貢納要求はヘレロ人の怒りを買い、20世紀を迎えたころになると彼らも植民地からの解放を望むようになっていった。そして1904年1月、ヘレロ人はサミュエル・マハレロの指揮のもと団結し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330242D;カオコランドに住むヘレロ人はかつてナマ人に支配されており、この地に\n植民地化が及びつつあった当初もナマ人から抜け出そうと躍起になって\nいた。こうした事情により、連合してナマ人と戦ってくれるのではないかと\nの期待から、植民地が設けられた初めのうちはヘレロ人も当局を歓迎\nしていたのだ。だが当局による貢納要求はヘレロ人の怒りを買い、20世\n紀を迎えたころになると彼らも植民地からの解放を望むようになっていっ\nた。そして1904年1月、ヘレロ人はサミュエル・マハレロの指揮のもと団\n結し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330243N;チオコの反乱;;;;;;;;;;X EVT330243D;植民地支配の波がモザンビークにまで及ぶと、現地人の多くは、18世紀にザンベジ川下流域を支配していたモノモタパ王国こそが自分たちの伝統的な暮らしを守ってくれるのだと考え、モノモタパの残存勢力がその旗振り役となってくれないかと期待を高めるようになった。そして1897年、ザンベジ中流域の住民はチオコに率いられて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330243D;植民地支配の波がモザンビークにまで及ぶと、現地人の多くは、18世\n紀にザンベジ川下流域を支配していたモノモタパ王国こそが自分たちの\n伝統的な暮らしを守ってくれるのだと考え、モノモタパの残存勢力がその\n旗振り役となってくれないかと期待を高めるようになった。そして1897年\nザンベジ中流域の住民はチオコに率いられて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330244N;メナベの反乱;;;;;;;;;;X EVT330244D;かつてマダガスカルはイメリナ王国により全島的に統治されてきたが、この王国政府が打倒され崩壊したことでマラガシーの集団やその支配地域も細分化され、植民地当局はマダガスカル島の支配を維持していくために、全土に散らばる彼らの相手をしなければならなくなった。メナベ地方に居住するサカラヴァ族もそうしたマラガシーのひとつで、しかも彼らはイメリナ時代からその支配に抵抗してきたのだった。そしてサカラヴァ族は1897年に植民地制への服従を拒み、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330244D;かつてマダガスカルはメリナ王国により全島的に統治されてきたが、この\n王国政府が打倒され崩壊したことでマラガシーの集団やその支配地域\nも細分化され、植民地当局はマダガスカル島の支配を維持していくた\nめに、全土に散らばる彼らの相手をしなければならなくなった。メナベ地\n方に居住するサカラヴァ族もそうしたマラガシーのひとつで、しかも彼らは\nメリナ時代からその支配に抵抗してきたのだった。そしてサカラヴァ族は\n1897年に植民地制への服従を拒み、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330245N;VVS団の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330245D;マダガスカルに君臨していたイメリナ王国は崩壊してしまったが、決してマラガシーのアイデンティティーまで消えうせた訳ではなかった。そして彼らは「よそ者の下におかれている」との意識も持ち続けていったのだった。その後1910年代になるとビ・バト・サケリカ(VVS団、「鉄・石・分枝」の意)という秘密結社が発足してマダガスカルの独立回復と植民地制度の撤廃を訴え、1915年には彼らVVS団の構成員らによる反乱がアンタナナリボで発生した。;;;;;;;;;;X EVT330245D;マダガスカルに君臨していたメリナ王国は崩壊してしまったが、決してマ\nラガシーのアイデンティティーまで消えうせた訳ではなかった。そして彼らは\n「よそ者の下におかれている」との意識も持ち続けていったのだった。その\n後1910年代になるとビ・バト・サケリカ(VVS団、「鉄・石・分枝」の意)\nという秘密結社が発足してマダガスカルの独立回復と植民地制度の撤\n廃を訴え、1915年には彼らVVS団の構成員らによる反乱がアンタナナ\nリボで発生した。;;;;;;;;;;X EVT330246N;ザンベジの反乱;;;;;;;;;;X EVT330246D;モザンビーク中部、ザンベジ川の下流にあたる地域にはショナ系の諸民族が暮らしている。だがこの地域が植民地化されるにあたって現地住民には貢納や賦役の義務が課されるようになり、彼らショナ人も不満を鬱積させていった。そして1917年にはこの一帯で大規模な反乱が発生した。当局はバルエ人を率いて蜂起したノングウェ・ノングウェに対し反植民地感情を煽ったかどで国外追放を命じたが、これは火に油を注ぐ結果に終わった。逆にモザンビーク中部での全面的な反乱を招いてしまったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330246D;モザンビーク中部、ザンベジ川の下流にあたる地域にはショナ系の諸民\n族が暮らしている。だがこの地域が植民地化されるにあたって現地住\n民には貢納や賦役の義務が課されるようになり、彼らショナ人も不満を\n鬱積させていった。そして1917年にはこの一帯で大規模な反乱が発\n生した。当局はバルエ人を率いて蜂起したノングウェ・ノングウェに対し反\n植民地感情を煽ったかどで国外追放を命じたが、これは火に油を注ぐ\n結果に終わった。逆にモザンビーク中部での全面的な反乱を招いてし\nまったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330260N;クワニャマ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330260D;アンゴラの植民地化も内陸に及ぶにつれ、南部に広がる高原地帯では現地人との間に生じた軋轢が徐々に問題化していった。ムタヤカヴェラが当局に対して反抗運動を繰り広げたのもこうした時流においてであった。彼の指揮のもとクワマト人とクワニャマ人は連合し、彼らの居住する一帯から植民地官吏を追い払ってしまおうとしたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330260D;アンゴラの植民地化も内陸に及ぶにつれ、南部に広がる高原地帯では\n現地人との間に生じた軋轢が徐々に問題化していった。ムタヤカヴェラ\nが当局に対して反抗運動を繰り広げたのもこうした時流においてであっ\nた。彼の指揮のもとクワマト人とクワニャマ人は連合し、彼らの居住する\n一帯から植民地官吏を追い払ってしまおうとしたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330261N;バイルンダの反乱;;;;;;;;;;X EVT330261D;ヨーロッパ人はアンゴラの土地に次々と投資していったが、現地住民はこれに対し、自分たちが服属させられるのではないかと考え危機感を抱くようになった。そして1904年、植民地当局への反抗からバイルンダで反乱が発生した。;;;;;;;;;;X EVT330261D;ヨーロッパ人はアンゴラの土地に次々と投資していったが、現地住民は\nこれに対し、自分たちが服属させられるのではないかと考え危機感を抱\nくようになった。そして1904年、植民地当局への反抗からバイルンダで\n反乱が発生した。;;;;;;;;;;X EVT330262N;ムシディの反乱;;;;;;;;;;X EVT330262D;カサイ地方の植民地化が始まった当初、この地域で栄えていたルンダ王国はこれに協力的だった。植民地当局の力を借りることで、近隣の敵対関係にある諸王国との勢力関係を埋め合わせようとしたのだ。だが20世紀に入ると、植民地政府が要求してくる貢納や賦役の額は無視できないものとなっていき、そしてついにルンダ国王のムシディは植民地政府など追放してしまえと訴えて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330262D;カサイ地方の植民地化が始まった当初、この地域で栄えていたルンダ\n王国はこれに協力的だった。植民地当局の力を借りることで、近隣の\n敵対関係にある諸王国との勢力関係を埋め合わせようとしたのだ。だ\nが20世紀に入ると、植民地政府が要求してくる貢納や賦役の額は無\n視できないものとなっていき、そしてついにルンダ国王のムシディは植民\n地政府など追放してしまえと訴えて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330263N;シエテカラの反乱;;;;;;;;;;X EVT330263D;20世紀も初頭になると、アンゴラ南部でも植民地体制が確立されていった。だが当局の要求する貢納や賦役には現地住民も怒りを募らせてゆき、植民地支配に対する抵抗運動が起こるようになっていく。そして1915年にはクワモト地方の住民がシエテカラの指揮のもと蜂起し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330263D;20世紀も初頭になると、アンゴラ南部でも植民地体制が確立されてい\nった。だが当局の要求する貢納や賦役には現地住民も怒りを募らせて\nゆき、植民地支配に対する抵抗運動が起こるようになっていく。そして1\n915年にはクワモト地方の住民がシエテカラの指揮のもと蜂起し、反乱\nを起こした。;;;;;;;;;;X EVT330264N;ベンバ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330264D;中央アフリカに住むングニ諸族のなかでも随一の勢力をもつ民族にベンバ人がある。彼らは自分達の土地がただ植民地とされるのを良しとせず、1897年にはこれに抵抗して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330264D;中央アフリカに住むングニ諸族のなかでも随一の勢力をもつ民族にベン\nバ人がある。彼らは自分達の土地がただ植民地とされるのを良しとせず\n1897年にはこれに抵抗して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330265N;トンガ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330265D;ニヤサランドに植民地支配が浸透していくにつれ、現地住民はしだいに当局に対し敵意を募らせていった。そんななか、当局はプランテーションでの労働力確保のために小屋税を導入する。これが決定打となって1909年に呪術師マルマのもとトンガ人が蜂起し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330265D;ニヤサランドに植民地支配が浸透していくにつれ、現地住民はしだいに\n当局に対し敵意を募らせていった。そんななか、当局はプランテーション\nでの労働力確保のために小屋税を導入する。これが決定打となって19\n09年に呪術師マルマのもとトンガ人が蜂起し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330266N;チレンベの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330266D;植民地政府の支配が確立したことで布教活動も進み、アフリカの現地住民のなかにもキリスト教を受容するものが増えていったが、彼らのなかには、当局による圧政からの解放が聖書に書かれていると主張する者が現れるようにもなった。そして習合的なキリスト教運動がニヤサランドに広まってゆき、彼らはジョン・チレンベのもとで1915年に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330266D;植民地政府の支配が確立したことで布教活動も進み、アフリカの現地\n住民の中にもキリスト教を受容するものが増えていったが、彼らの中に\nは、当局による圧政からの解放が聖書に書かれていると主張する者が\n現れるようにもなった。そして習合的なキリスト教運動がニヤサランドに\n広まってゆき、彼らはジョン・チレンベのもとで1915年に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330280N;アザンデの反乱;;;;;;;;;;X EVT330280D;アザンデ人はスーダン南部の丘陵地帯に居住する民族で、近年はヤン\nビオ王のもと国家を形成しその国力を高めていた。そして植民地化の\n波がこの一帯にまで及ぶと、当然のことながらアザンデ国家との衝突が\n発生した。ヤンビオ王に対して当局が派遣する顧問を受け入れるように\nと強硬な姿勢をとったことで、1905年の1月にヤンビオ率いるアザンデ人\nは当局に対して武器を取って立ち上がったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330281N;ヌバ山地で騒乱;;;;;;;;;;X EVT330281D;ヌバ山地には古来から様々な国家が支配を及ぼそうと画策してきた。\nだが現地住民はこれら外部による支配をことごとく跳ね除けてきたので\nある。そして今度も同様で、ヌバ山地の一帯に小屋税を課そうとしたこ\nとが発端となり、1906年に植民地当局に対する反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X EVT330282N;サイード・ムハンマドがソマリ人と反乱を起こす;;;;;;;;;;X EVT330282D;ソマリ人は以前から植民地制度に反抗的な姿勢をとってきたが、サイー\nド・ムハンマドの登場によってそれが反乱のかたちを成すようになった。イ\nスラム聖職者だった彼にはカリスマ的な指導力があり、そのため多くの氏\n族がサイード・ムハンマドのもとで結集して反植民地運動に身を投ずる\nことになったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330283N;トゥアットの反乱;;;;;;;;;;X EVT330283D;サハラ砂漠に植民地が拡大していくにつれ、以前から砂漠地帯で権\n勢を誇っていたトゥアレグ人との係わりかたが問題となっていった。伝統\n的な交易路の支配を握るためには、トゥアレグ人の支配下にあるいくつ\nものオアシス都市に植民地当局の支配を認めさせていく必要があった\nためだ。だが1900年、こうしたオアシス都市のひとつでモロッコ王国と深\nいかかわりを持ってきたトゥアットで、植民地機関を設けることへの反発\nから反乱が発生した。;;;;;;;;;;X ACT330000;我々の植民地帝国に投資しろ;;;;;;;;;;X EVT330001N;スタンリーがコンゴで前進する - ポポカバカ;;;;;;;;;;X ACT330001;素晴らしい;;;;;;;;;;X EVT330002N;スタンリーがコンゴで前進する - コキリャヴィル;;;;;;;;;;X EVT330003N;スタンリーがコンゴで前進する - ルエボ;;;;;;;;;;X EVT330004N;スタンリーがコンゴで前進する - ニャンガラ;;;;;;;;;;X EVT330005N;スタンリーがコンゴで前進する - ルサンボ;;;;;;;;;;X EVT330006N;スタンリーがコンゴで前進する - スタンリービル;;;;;;;;;;X EVT330007N;スタンリーがコンゴで前進する - カビンダ;;;;;;;;;;X EVT330008N;スタンリーがコンゴで前進する - ニャングェ;;;;;;;;;;X ACT330009;コンゴ自由国建国;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330010_NAME;コンゴ自由国を併合;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330010_DESC;コンゴ自由国は1877年から1908年までベルギー王レオポルド二世の\n私領であり、現在コンゴ民主共和国として知られる領域全てを含んで\nいた。そこでは開発、強欲、大量殺戮および傷害の光景が見られ、人\n々はレオポルドの統治に抵抗するか、ゴム園で強制的に重労働させら\nれるか、他の収益を上げる労働の為に危険にさらされた。レオポルドの\n所業が欧州の報道機関によって暴露された後、1908年にベルギーの\n正統な植民地であり、ベルギー領コンゴとして知られている領土となった。;;;;;;;;;;X ACT330010A;ベルギー領コンゴとする;;;;;;;;;;X ACT330010B;保護国として残す;;;;;;;;;;X EVT330011N;コンゴを設立する;;;;;;;;;;X ACT330011;サインしたものを成し遂げよう;;;;;;;;;;X EVT330050N;アドルフ・ルーデリッツが地方の統治者からナミビアの土地を購入する;;;;;;;;;;X EVT330050D;アドルフ・ルーデリッツが地方の統治者からナミビアの土地を購入した。\n彼は保護を求めてきている。我々はどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT330050A;ルーデリッツの活動を保護する;;;;;;;;;;X ACT330050B;我々に植民地は不要だ;;;;;;;;;;X EVT330051N;グスタフ・ナハティガルがカメルーンをドイツ植民地と宣言;;;;;;;;;;X EVT330051D;カメルーン海岸はかねてからヨーロッパ貿易商の興味をひいてきた。186\n0年代から1870年代はイギリスが優勢にあったが、ドイツが統一されると\nドイツ商人や宣教師の活動が増えるようになった。そしてイギリスがこの\n地方を植民地としてしまうのではとの考えから、1884年7月、グスタフ・\nナハティガルがカメルーン海岸に派遣され、この地域がドイツの保護領と\nなる旨宣言された。;;;;;;;;;;X ACT330051A;カメルーンはドイツである;;;;;;;;;;X ACT330051B;カメルーンはイギリスのものだ;;;;;;;;;;X EVT330052N;ドイツ人探検家が地方の統治者からトーゴランドの土地を購入する;;;;;;;;;;X EVT330052D;ドイツ人探検家が地方の統治者からトーゴランドの土地を購入した。\n彼らは保護を求めてきている。我々はどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT330052A;彼らを保護する;;;;;;;;;;X EVT330053N;ドイツ人探検家が地方の統治者からトーゴランドの土地を購入する;;;;;;;;;;X EVT330053D;トーゴランド海岸はかねてからヨーロッパ貿易商の興味をひいてきた。18\n60年代から1870年代はイギリスが優勢にあったが、ドイツが統一される\nとドイツ商人や宣教師の活動が増えるようになった。そしてイギリスがこ\nの地方を植民地としてしまうのではとの考えから、トーゴランドがドイツの\n保護領となる旨宣言された。;;;;;;;;;;X ACT330053A;トーゴはドイツである;;;;;;;;;;X ACT330053B;トーゴはフランスのものだ;;;;;;;;;;X ACT330053C;トーゴはイギリスのものだ;;;;;;;;;;X EVT330054N;ナミビアへのドイツ移民;;;;;;;;;;X EVT330054D;新たなドイツ人が植民地に到着した。;;;;;;;;;;X ACT330054A;ようこそ!;;;;;;;;;;X EVT330055N;アドルフ・ルーデリッツが南西アフリカ保護領を宣言;;;;;;;;;;X EVT330055D;ベルリン会議が終わると、アフリカの植民地化にむけた取り決めも全て定\nまった。会議で決まった規定に従い、アフリカ内陸地方の支配を確保す\nるために保護領を設ける必要がある。;;;;;;;;;;X ACT330055A;南西アフリカに保護領を設ける;;;;;;;;;;X ACT330055B;沿岸部の支配で構わない;;;;;;;;;;X EVT330056N;カール・ペーテルスとタンガニーカのドイツ利権;;;;;;;;;;X EVT330056D;ドイツ植民会社の重鎮カール・ペーテルスは、\n自国が列強となる運命を信じるとともに、\n東アフリカはドイツの権益を伸長させる土地で\nあることも堅く信じていた。\n1884年、彼は東アフリカを旅し、タンガニカ外縁部の原住民に\nドイツは彼らの保護者であることを認識させ、\n礼遇を受けた。\n\nペーテルスの行動を認め、\n東アフリカの権益を主張するべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330056A;ドイツは、東アフリカに権益を持つ!;;;;;;;;;;X ACT330056B;東アフリカに興味などない;;;;;;;;;;X EVT330057N;東アフリカでのイギリス権益;;;;;;;;;;X EVT330057D;イギリスが東アフリカに有していた商業権益は、ザンジバルのスルタンとの\n密接な協力によって維持されてきた。しかし内陸のタンガニーカに対し\nてドイツが勢力圏とする旨宣言したことで、この地域でのイギリスの利権\nが危うくなるのではとの懸念が発生した。もしかすると、タンガニーカでの\nドイツ利権を承認することで、ケニアおよびザンジバルでのイギリス利権を\n承認させるような取引も可能かもしれない。;;;;;;;;;;X ACT330057A;ドイツに取引を提案する;;;;;;;;;;X ACT330057B;ドイツを東アフリカに参入させてはならない;;;;;;;;;;X EVT330058N;イギリスが東アフリカ分割を提案;;;;;;;;;;X EVT330058D;ペータース条約を承認したことでイギリスとの関係は緊迫したものとなっ\nてしまった。だが緊張緩和のため、イギリスは東アフリカを英独でそれぞれ\nの地区に分割することを提案している。これが実行されればドイツはタン\nガニーカを獲得し、イギリスはケニアとザンジバルを得る。この申し出を受\nけるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330058A;イギリスの提案を呑む;;;;;;;;;;X ACT330058B;東アフリカ全域に支配を及ぼさねば;;;;;;;;;;X EVT330059N;イギリスの東アフリカでの取引をドイツが受容;;;;;;;;;;X EVT330059D;東アフリカ分割に向けた提案をドイツは受け入れ、この取引についてザ\nンジバルのスルタンにも伝えられた。この協定のうちザンジバルに関わる\n条項を拒むなら、列強の侵略を招くだろうと念を押していたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330060N;ザンジバル本土の分割;;;;;;;;;;X EVT330060D;英独両国はザンジバルの大陸領土について、これを彼らで分割すると\nいう協定に合意してしまった。ザンジバルの主権下に残されたのは、海\n岸に沿った幅10マイルしかない帯状の地域だけである。彼らは我々の\n政府に通知をよこし、領土喪失を拒むなら履行確保のため軍事介入\nを行うと言ってきた。;;;;;;;;;;X EVT330080N;ナタールへの介入;;;;;;;;;;X EVT330081N;ズールーランドへの介入;;;;;;;;;;X EVT330082N;ボルノへの介入;;;;;;;;;;X EVT330083N;マダガスカルへの介入;;;;;;;;;;X EVT330084N;ジャワへの介入;;;;;;;;;;X ACT330100A;全ての列強をベルリン会議に呼ぼう;;;;;;;;;;X ACT330100B;神の意志に委ねよう;;;;;;;;;;X ACT330101A;素晴らしい!;;;;;;;;;;X EVT330150N;イタリア人投資家がジブチ購入を試みる;;;;;;;;;;X EVT330150D;イタリア人投資家が東アフリカを保持しようと試みている。彼らはジブチに\nある我国の植民地に対し、かなりの金額で購入を申し出ている。\n我々はどうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330150A;ジブチはエチオピアへの回廊だ!我々の物だ!;;;;;;;;;;X ACT330150B;イタリアにやってもいいだろう;;;;;;;;;;X ACT330151A;売却しろ;;;;;;;;;;X ACT330151B;いや、結構だ;;;;;;;;;;X EVT330152N;イタリアのエリトリア進出;;;;;;;;;;X EVT330152D;イタリア人投資家が最近アフリカで新しい土地を購入し、彼らは新しい\n保護国を建国するために我々に接見してきました。;;;;;;;;;;X ACT330152A;彼らを支援しろ;;;;;;;;;;X EVT330153N;イタリアがソマリランドで保護国建国を申し出る;;;;;;;;;;X EVT330153D;我々はソマリランド地域でいくつかの領土を所有している。ベルリン会議\nの決議により、我々は領有宣言をして保護国を建国するべきだが、ザ\nンジバルもこの地域に対する領有主張がある。我々はこの問題につい\nてザンジバルと話し合わなければならない。;;;;;;;;;;X ACT330153A;彼らが主張を受け入れる条約を申し出よう;;;;;;;;;;X ACT330153B;やめておこう;;;;;;;;;;X ACT330153C;戦争で奪い取ろう!;;;;;;;;;;X EVT330154N;イタリアがソマリランドで保護国建国を申し出る;;;;;;;;;;X EVT330154D;イタリアが彼らがソマリランド沿岸を保持するのを認める条約に調印を求\nめてきた。彼らは多くの投資家を持ちたくさんの土地を購入し領有宣\n言をしたがっているが、ベルリン会議により我々の支配下にあるいくつか\nの土地を購入しなければ領有宣言が出来なかったのだ。イギリスはイ\nタリアの主張を支持している。;;;;;;;;;;X ACT330154A;条約調印;;;;;;;;;;X ACT330154B;まさか!;;;;;;;;;;X EVT330298N;ベルギー国王レオポルド2世の名代スタンリーによる条約群;;;;;;;;;;X EVT330298D;ヘンリー・スタンリーは、ベルギー王国に雇われて働いているアメリカ人\n探検家である。彼はコンゴ盆地の各地を遍歴し、現地部族に保護\n条約を結ばせて回った。そして今、レオポルド2世の主張によれば、\nこの条約群によりコンゴ河盆地の支配は彼に帰属するという。我々\nは長らくこの地域と交流を持ってきたが、レオポルドの主張に対しど\nのように返答しよう?;;;;;;;;;;X ACT330298A;スタンリーの既成事実を受け入れる;;;;;;;;;;X ACT330298B;コンゴはポルトガル領だと宣言する;;;;;;;;;;X EVT330299N;コンゴ危機;;;;;;;;;;X EVT330299D;ヘンリー・スタンリーは、ベルギー王国に雇われて働いているアメリカ人探\n検家である。彼はコンゴ盆地の各地を遍歴し、ベルギー支配を承認す\nる旨書かれた条約を結ばせて回った。しかしポルトガルはこうした条約\n群を不当だとして承認せず、コンゴ盆地への領有主張を続けている。\nどうしようか?;;;;;;;;;;X ACT330299A;ポルトガルのコンゴへの主張を受け入れる;;;;;;;;;;X ACT330299B;コンゴはベルギー領だと宣言する;;;;;;;;;;X ####### 330K COLONIZATION #######;;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330000_NAME;ベルギー王レオポルド二世がコンゴを獲得;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330000_DESC;レオポルドは海外植民地を持つ事が国家の偉大さを示すものだと熱烈\nに信じており、ベルギーが植民地を獲得するように尽力した。ベルギー\n国民も政府もこの事に関心を持っておらず、結局レオポルドは私有地と\nして植民地を獲得しようとしはじめた。アフリカやアジアの植民地取得に\n何度か失敗した後の1876年、国際学術・博愛協会に偽装した持株\n会社を設立した。1879年この持株会社の後援で、彼はコンゴ地域で\n植民地を建設する為にアメリカ人探検家ヘンリー・モートン・スタンリーを\n雇った。;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330009_NAME;コンゴ自由国建国;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330009_DESC;多くの外交駆け引きが1884-85年のベルリン会議で行われ、14ヶ国の\n欧州諸国とアメリカ合衆国の代表は、レオポルドとスタンリーが領有主\n張した領域の大部分を承認した。1885年2月5日、レオポルドの私領\nとして自由に統治する事の出来るベルギーより76倍も広大な領土を持\nった、コンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ、次にザイール、現在はコン\nゴ民主共和国となる)が建国された。;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330010_NAME;コンゴ自由国を併合;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330010_DESC;コンゴ自由国は1877年から1908年までベルギー王レオポルド二世の\n私領であり、現在コンゴ民主共和国として知られる領域全てを含んで\nいた。そこでは開発、強欲、大量殺戮および傷害の光景が見られ、人\n々はレオポルドの統治に抵抗するか、ゴム園で強制的に重労働させら\nれるか、他の収益を上げる労働の為に危険にさらされた。レオポルドの\n所業が欧州の報道機関によって暴露された後、1908年にベルギーの\n正統な植民地であり、ベルギー領コンゴとして知られている領土となった。;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330100_NAME;ドイツがアフリカ分割について会議を呼びかける;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330100_DESC;アフリカ分割は1880年代から第一次世界大戦開始までの期間であり\n、植民地帝国の獲得が地球上のどこよりも早く行われた。それは新し\nい帝国主義の最もたる例であった。19世紀後半は非公式な帝国の統\n治から経済支配による統治への変遷が見られ、1870年代からは領土\nを他国より先に自らの勢力下におこうとする獲得競争が見られた。;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330101_NAME;ベルリン会議;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_330101_DESC;1884〜85年のベルリン会議ではアフリカにおける欧州各国の植民地化\nと貿易について取り決められた。その結果、ベルリン会議の総括的な決\n議はしばしばアフリカ分割の形式化と見なされた。1870年代後半から\nのアフリカ植民について欧州列強はこの「競争の規則」を定義し作成す\nる事と、各国の利権の範囲を定める事に強い関心を持っていた。欧州\n各国の領土的野心によるコンゴ川下流領域の競争の件があり、アフリ\nカ分割について国際会議を開く事に各国は同意した。出席した国は、\nドイツ、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ベルギー、デンマーク、フラン\nス、大英帝国、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スペイン、ザンジバ\nル、スウェーデン=ノルウェー同君連合、オスマン帝国、アメリカ合衆国で\nあった。会議は1884年11月15日にベルリンで開始された。1885年2\n月26日まで延長された熟考の後に、会議に出席した全ての国の代表\nによる署名によって決議され、合衆国以外の国により批准された。この\n決議により6つの問題についての対処が成された。1.コンゴ流域での通\n商の自由。2.奴隷貿易。3.コンゴ流域領土の中立。4.コンゴの探検。5.\nニジェールの探検。6.アフリカ大陸沿岸での占有の規則。署名した各国\nは新しくアフリカ沿岸に先遣施設を建て領有する場合、あるいは保護\n国を持つ場合、他の署名した各国に通知する事が求められた。これに\nより沿岸を得ると更に内陸を占有する事が有効になった。また、勢力圏\nにおける義務に対する国際的な法令の最初の例がベルリン会議での\n決議に含まれているのも注目に値した。アフリカの国家にとってこの会議\nは独立の終焉の前兆であり、1890年代から1900年代の間に多くの独\n立国が消滅した。;;;;;;;;;;X