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*1850〜1870の詳細 [#m709d7c7] **内政重点期 [#b68d1720] 1851年7月、ベルギーと防衛同盟を再締結。&br; 1851年8月、ベルギーに「株式市場」を渡し、「科学的経営」を入手。「ロマン主義美術」(国威+50)&br; 1851年9月、スウェーデンに「石炭の精錬」を渡し、「民間銀行による紙幣印刷」を入手。研究ポイントが-6となるが急ぎで貰う。収支+90£/日に回復。&br; 1851年12月、「現実主義」研究開始。フランスでナポレオンのクーデター発生。大統領独裁制となる。教皇領がヴェネツィアから領土を奪い、南の国境で接することになる。&br; 1852年1月、第一回総選挙、自由党が77.83%を占めて大勝。世論調査で自由主義者が77.5%なので予想通りの結果と言えるが、「立憲君主制・議会制」の特権を生かし、急進性を上昇させずに保守党に再変更する。[[VickyWiki「政府とその変更」:http://victoria.nsen.ch/wiki/index.php/Governments_and_How_to_Change_Them]]&br; 1852年4月、「家柄をもって政府要職に…」励起。外交ポイント過多へ。&br; 1852年5月、ロシアvsトルコ・イギリスとバルカンを巻き込んだ8カ国間の戦争勃発。やり過ごす。&br; 1852年8月、露土戦終結を受けて、ロシア・イギリスにごくわずかな外交使節を派遣。スウェーデンにイェブティを6,000£で売却。&br; 1852年11月、「多占体制」判明。海外経営をあまりする気がない以上、増築とのバランスの良い「寡占体制」が望ましかった。産業界では「資本家を作りすぎて事務員用の中POPが足りない」問題が深刻化。更に深刻化させる。&br; 1852年12月、フランスでナポレオンが皇帝に選出され、"A conservitive Germany isn't so bad"と"We can't stand democracies!"を改めて喰らう。(ナポレオン帝政に移行したことに伴う再判定)&br; 1853年1月、「集産主義」研究開始。ビッテンフェルト将軍登場。&br; 1853年10月、ベルギーに「民間銀行による紙幣印刷」を渡し、「鉄製の線路」と2,500£を入手。&br; 1853年11月、事務員をなんとか揃え、国民欄に御三家が出揃う。借款81万£、利子340£/日を乗り越えて、収支+100£/日程度。『拡大再生産』 直接税ALL17%のまま、急進性下降率は-0.02〜-0.82。&br; #ref(g3_1853_11_25s.png,around,nolink,left,) #clear &br; 1854年1月、「企業銀行」研究開始。&br; 1854年2月、一斉関係改善交渉。英(→+158)露(→+96)普(→+194)&br; 1854年4月、北部にレベル2鉄道敷設開始。&br; 1854年6月、各種資材が定数を満たして収支が+200£/日以上となったのを受け、直接税率を貧:中:富で 13:13:17 に変更。結果収支+200£/日保持。急進性下降率-0.04〜-0.82。&br; 1855年1月、「暗殺未遂:ナポレオン3世は無傷」発生。オーストリア亡き今、イタリアは順当なサルディニア-フランス組の統一コース。ベルギーに「企業銀行」を渡し、「蒸気タービン」を入手。「中央銀行による紙幣発行」研究開始。&br; 1855年8月、フランス-サルディーニャ防衛同盟締結。速やかな統一を希望。&br; 1855年9月、ベルギーに「集産主義」を渡し、「鋼鉄の大量生産」と3,500£入手。&br; 1856年1月、「経験論」研究開始。「企業銀行」の効果で利子が275£/日に圧縮。収支+330£/日となったのを受け、直接税を貧:中:富で 9:13:17 に変更。急進性下降率-0.05〜-0.84。収支大差なし。&br; 1856年2月、スウェーデンとの同盟が失効。即、攻守同盟を締結。&br; 1856年4月、イギリスとの同盟が失効。即、防衛同盟を締結。&br; 1856年6月、プリンツ・F・カール将軍登場。&br; 1856年7月、ベルギーとの同盟が失効。即、防衛同盟を締結。&br; 1856年8月、新たな借款を避けたレベル2鉄道の敷設が、着工中のものを含めて全土で完了する。レベル3鉄道の敷設開始。直接税を貧:中:富で 0:9:17 に変更。急進性下降率-0.08〜-0.89。収支+320£/日。&br; 1856年9月、ベルギーに「中央銀行による紙幣印刷」を渡し、「作業の半自動化」と4,200£入手。ザールブリュッケンの20,000弱POPを将校に変換。エルベラカに交易所建設。&br; 1856年10月、議席をやや伸ばしたものの保守党大敗。しかし与党へ。プロイセンでは自由党が政権与党に付く。&br; 1856年12月、ベルギーに「戦艦密集ドクトリン」と3,100£を渡し、「生産時間の短縮」を入手。&br; **クリミア戦争期間も内政重点期 [#z051db08] 1857年1月、「後装式ライフル」研究開始。&br; 1857年5月、教皇領がヴェネツィアに二度目の宣戦布告。併合する模様なので、トリエステに独立保証をかけておく。&br; 1857年7月、教皇領がヴェネツィアを併合。スロヴェニアにも独立保証をかけておく。&br; 1857年8月、クリミア戦争が発動。ロシア・ギリシャvsトルコ・イギリス・セルビア・モルダヴィア・フランス・サルディーニャとなる。デンマークはロシアとの、モンテネグロとはギリシャとの同盟を破棄。&br; 1857年12月、モンテネグロがギリシャと同盟再締結。ロシア側でサルディーニャに宣戦布告。スペインがフランスと同盟締結し、ロシアに宣戦布告。参戦すると、ナショナリズム地域で今以上の反乱多発を招くことになるので内政に専念する。プロイセン(列強7位)に「企業銀行」を渡し、「市場規制」を入手。(ロシア侵攻は好みでプレイするとよい。サンクトペテルブルグを占領すれば、莫大な賠償金を得ることが出来るであろう。しかし他の列強が参加している場合は先を越されて占領され、足止めを喰らうこともあるので注意が必要である)&br; 1858年2月、「地点防御システム」研究開始。両シチリア王国がスペインと同盟し、連鎖でロシアに宣戦布告。&br; 1858年3月、モルトケ将軍登場。グラフィックを見ていると、ロシア包囲網に参加してもよいと思えてくるので注意が必要となる。しばらく忘れていた予備役を101個師団とし、以後は常設師団のみを作成する。&br; 1858年6月、国内暴動マップが全て緑になる。急進性下降率-0.08〜-0.90。部隊を再配置。&br; 1858年9月、ドイツが独立保証をかけていないロンバルディアに教皇領が宣戦布告。しかしフランスが独立保証をかけていたので参戦。防衛同盟を結んでいたトリエステも参戦。&br; 1858年11月、教皇領がトリエステを併合。&br; 1859年1月、トルコが5領邦を割譲してロシアと和平。残るはロシア・ギリシャ・モンテネグロvsフランス・スペイン・両シチリア・サルディーニャ。(後にトルコはモンテネグロのみに宣戦布告し併合する)&br; 1859年2月、プロイセン(列強6位)に「後装式ライフル」を渡し、「有機化学」を入手。「現象論」研究開始。&br; 1859年6月、不満分子への教皇領からの密輸業者、処刑される。&br; 1859年9月、ベルギーに「後装式ライフル」と800£を渡し、「企業活動の責任」を入手。新たな借款を避けたレベル3鉄道の敷設が、着工中のものを含めて全土で完了する。治安維持費用をMAXに変更。収入+200£/日。以後、工場の統廃合(拡張と閉鎖)と人員の整理(工員と事務員の入換え)を行う。「多占体制になっても泣かない」&br; 1860年2月、「鉄製後装砲」研究開始。&br; 1860年4月、ギリシャ、島2つを残してサルディーニャの衛星国となる。&br; 1860年5月、ロシア-フランスが現状復帰で和平。ロシアはサルディーニャ戦を残すのみ、フランスは教皇領戦を残すのみとなる。&br; 1860年5月、ロンバルディアが教皇領から4領邦を得て和平。フランスがフリーになる。「写真主義美術」(国威+150)。825,000£の借款(利子275£/日)を微妙に返し始める。&br; 1860年6月、ベルギーに「地点防御システム」と300£を渡し、「投資銀行」を入手。研究ポイントが-7になるが「全然かまわない」。収支が+300£/日に復活したので、「ドイツは容易に次の行動を起こせるだろう」。「写真主義音楽」(国威+150)時代の先端を走る。『威信、産業は、大英帝国を抜いて世界一』となる。&br; 1860年8月、「完全な市民権」を重要視する社会主義者が6.8%にまで増える。&br; 1860年9月、エルハド・ビルマに交易所を建設。&br; 1860年12月、「経験主義」(国威+150)。アメリカ南部連合設立とともに即南北戦争開戦。&br; 1861年1月、「陸軍将校の意思決定」研究開始。「メキシコ介入」イギリス・フランスが開始。連鎖でスペインと両シチリアも介入。(後日スペインは正式介入)&br; 1861年2月、サルディーニャ、ロシアと現状復帰で和平。クリミア戦争終結。&br; **シュレスヴィヒ問題・イタリア統一戦争と第二次モロッコ侵攻 [#gf68da00] 1861年3月、スウェーデンと攻守同盟を更新。&br; 1861年7月、政党が5つに増えた中、保守党は20%を維持して踏みとどまる。与党へ。&br; 1861年9月、「再び我らの同胞に?」が発生し、南部連合降伏・併合。&br; 1861年10月、イギリスと防衛同盟を更新。&br; 1861年11月、「実用主義」(国威+150)。「機関銃」研究開始。&br; 1862年2月、ベルギーに「鉄製後装砲」を渡し、「歴史準拠理論」を入手。&br; 1862年6月、ベルギーと防衛同盟を更新。&br; 1862年7月、イギリスがフランスに植民地戦争を宣戦。フランスが動員令を出す。余っていた帆船で輸送船隊を1作成。&br; 1862年10月、「軍事統計」研究開始。&br; 1862年11月、直接税を貧:中:富で 0:9:13 に変更。急進性下降率-0.07〜-0.89。収支+400£/日(借金を返済し続けたことと、資本家・貴族の購買による関税収入の伸びでかえって増える)。防衛費と陸軍維持費をMAXに上げ、デンマーク国境部隊の兵士の補充を開始。収支+170£/日。&br; 1862年12月、サルディーニャがフランスと軍事同盟締結。ドイツに対して無効。&br; 1863年1月、デンマークに「シュレスヴィヒはデンマーク固有の領土」が発生するが、スウェーデンは前回同様に「スウェーデンからの支持が揺れる」であったため、予算を戻す。ベルギーに「機関銃」を渡し、「新古典主義と制度尊重主義」と3,300£を入手。&br; 1863年6月、「写実主義文学」(国威+150)&br; 1863年7月、ロシアから独立保証を受ける。&br; 1863年8月、モロッコへの陸軍通行権取り消し。防衛予算を50%として、第一陣を沿海に派遣。&br; 1863年9月、「現代的中央銀行制度」研究開始。&br; 1863年10月、英仏、現状復帰で和平。「統一か、死か!」発動。ロンバルディアの自由な人々も威信急落。&br; 1863年12月、モロッコに植民地戦争を宣戦布告。(国威→2391)&br; 1864年4月、ハンガリーからの密輸業者、見逃される。&br; 1864年8月、モロッコ全土を占領し、屈辱+首都以外割譲で一旦和平。続けて2回戦へ。(国威→2295)&br; 1864年9月、「金融監査委員会」研究開始。セリルチベスチに要塞建設。モロッコを併合し、衛星国化。(国威→2300。BBR15.79→3.79)防衛費はそのまま50%を維持。&br; 1864年12月、借款残額が50万£を切る。&br; 1865年3月、モロッコとの同盟を解消。プロイセンに「集産主義」を渡し、「鋼鉄の線路」と3,200£を入手。レベル4鉄道敷設開始。「一流の科学者が我国へ亡命」励起。「縦深防御システム」発見。素晴らしい。&br; 1865年6月、スロヴェニアから防衛同盟の申し出を受け、締結。&br; 1865年7月、スペインから「無効:イギリス、交戦中:サルディーニャ・フランス」で申し出を受けるが、黙殺。&br; 1865年9月、「内燃機関」研究開始。&br; 1866年1月、ロシアと防衛同盟締結。ロシア側の部隊を西へ移動させる。&br; 1866年4月、少数党がそれぞれ議席を伸ばす中、自由党が勝利。保守党が与党へ。&br; 1866年5月、スウェーデンから軍事同盟の申し出。締結。&br; 1866年7月、中国に侵攻していたロシア、アルタイと賠償金で和平。アイグン条約発動。AIにしては頭が良い。&br; 1866年8月、各国と現状復帰和平を行ったフランス、両シチリアと最後に和平し、フリーになる。&br; 1866年9月、「電気」研究開始。&br; 1866年10月、「イタリアの誕生」発生。イギリスとの軍事同盟が失効。直後に「交戦中の国:中国」で防衛同盟の申し出を受ける。受諾。&br; 1867年1月、プロイセンとの同盟を軍事同盟にしようと一旦切ったところ、先方から「軍事同盟、無効:ロシア」の申し出があり、承諾。&br; 1867年6月、ベルギーとの同盟が失効、即、防衛同盟を締結。&br; 1867年8月、ベルギーに「金融監査委員会」を渡し、「最先端治金学」と6,900£を入手。&br; 1867年9月、「流れ作業」研究開始。&br; 1868年1月、新たな借款を避けたレベル4鉄道の敷設が、着工中のものを含めて全土で完了。防衛費・陸軍維持費をMAXに上げ、兵の補充を開始。収支+270£/日。&br; 1868年4月、スウェーデンに「業務規則」を渡し、「奇襲艦隊ドクトリン」「汽船」を入手。&br; 1868年8月、首都で外交会議。スイスとの関係+10、オランダとの関係+25*2。ベルギーに「汽船」と1,700£を渡し、「統合鉄道システム」を入手。&br; 1868年9月、「経営戦略」研究開始。ジェラタに教会を建設。&br; 1869年1月、スウェーデンに「機械生産」を渡し、「火器管制システム」と2,700£を入手。&br; 1869年4月、動員令を発令。独伊国境へ20個師団。独仏国境へ20個師団。ベルギーとの国境へ60個師団を振り分ける。教育費51%。収支は約-240£/日。フランスも動員令をかける。&br; 1869年7月、電気工場の許可が下りる。&br; 1869年9月、「革命運動と反革命運動」研究開始。動員が早すぎて赤字がたまっていっても「全然かまわない」&br; 1869年11月、ベルギー国境の部隊をベルギー領内へ入れる。&br; そのような魔法はない → [[GER_UNI_3T_6]] 「ドイツ帝国に万歳三唱」
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*1850〜1870の詳細 [#m709d7c7] **内政重点期 [#b68d1720] 1851年7月、ベルギーと防衛同盟を再締結。&br; 1851年8月、ベルギーに「株式市場」を渡し、「科学的経営」を入手。「ロマン主義美術」(国威+50)&br; 1851年9月、スウェーデンに「石炭の精錬」を渡し、「民間銀行による紙幣印刷」を入手。研究ポイントが-6となるが急ぎで貰う。収支+90£/日に回復。&br; 1851年12月、「現実主義」研究開始。フランスでナポレオンのクーデター発生。大統領独裁制となる。教皇領がヴェネツィアから領土を奪い、南の国境で接することになる。&br; 1852年1月、第一回総選挙、自由党が77.83%を占めて大勝。世論調査で自由主義者が77.5%なので予想通りの結果と言えるが、「立憲君主制・議会制」の特権を生かし、急進性を上昇させずに保守党に再変更する。[[VickyWiki「政府とその変更」:http://victoria.nsen.ch/wiki/index.php/Governments_and_How_to_Change_Them]]&br; 1852年4月、「家柄をもって政府要職に…」励起。外交ポイント過多へ。&br; 1852年5月、ロシアvsトルコ・イギリスとバルカンを巻き込んだ8カ国間の戦争勃発。やり過ごす。&br; 1852年8月、露土戦終結を受けて、ロシア・イギリスにごくわずかな外交使節を派遣。スウェーデンにイェブティを6,000£で売却。&br; 1852年11月、「多占体制」判明。海外経営をあまりする気がない以上、増築とのバランスの良い「寡占体制」が望ましかった。産業界では「資本家を作りすぎて事務員用の中POPが足りない」問題が深刻化。更に深刻化させる。&br; 1852年12月、フランスでナポレオンが皇帝に選出され、"A conservitive Germany isn't so bad"と"We can't stand democracies!"を改めて喰らう。(ナポレオン帝政に移行したことに伴う再判定)&br; 1853年1月、「集産主義」研究開始。ビッテンフェルト将軍登場。&br; 1853年10月、ベルギーに「民間銀行による紙幣印刷」を渡し、「鉄製の線路」と2,500£を入手。&br; 1853年11月、事務員をなんとか揃え、国民欄に御三家が出揃う。借款81万£、利子340£/日を乗り越えて、収支+100£/日程度。『拡大再生産』 直接税ALL17%のまま、急進性下降率は-0.02〜-0.82。&br; #ref(g3_1853_11_25s.png,around,nolink,left,) #clear &br; 1854年1月、「企業銀行」研究開始。&br; 1854年2月、一斉関係改善交渉。英(→+158)露(→+96)普(→+194)&br; 1854年4月、北部にレベル2鉄道敷設開始。&br; 1854年6月、各種資材が定数を満たして収支が+200£/日以上となったのを受け、直接税率を貧:中:富で 13:13:17 に変更。結果収支+200£/日保持。急進性下降率-0.04〜-0.82。&br; 1855年1月、「暗殺未遂:ナポレオン3世は無傷」発生。オーストリア亡き今、イタリアは順当なサルディニア-フランス組の統一コース。ベルギーに「企業銀行」を渡し、「蒸気タービン」を入手。「中央銀行による紙幣発行」研究開始。&br; 1855年8月、フランス-サルディーニャ防衛同盟締結。速やかな統一を希望。&br; 1855年9月、ベルギーに「集産主義」を渡し、「鋼鉄の大量生産」と3,500£入手。&br; 1856年1月、「経験論」研究開始。「企業銀行」の効果で利子が275£/日に圧縮。収支+330£/日となったのを受け、直接税を貧:中:富で 9:13:17 に変更。急進性下降率-0.05〜-0.84。収支大差なし。&br; 1856年2月、スウェーデンとの同盟が失効。即、攻守同盟を締結。&br; 1856年4月、イギリスとの同盟が失効。即、防衛同盟を締結。&br; 1856年6月、プリンツ・F・カール将軍登場。&br; 1856年7月、ベルギーとの同盟が失効。即、防衛同盟を締結。&br; 1856年8月、新たな借款を避けたレベル2鉄道の敷設が、着工中のものを含めて全土で完了する。レベル3鉄道の敷設開始。直接税を貧:中:富で 0:9:17 に変更。急進性下降率-0.08〜-0.89。収支+320£/日。&br; 1856年9月、ベルギーに「中央銀行による紙幣印刷」を渡し、「作業の半自動化」と4,200£入手。ザールブリュッケンの20,000弱POPを将校に変換。エルベラカに交易所建設。&br; 1856年10月、議席をやや伸ばしたものの保守党大敗。しかし与党へ。プロイセンでは自由党が政権与党に付く。&br; 1856年12月、ベルギーに「戦艦密集ドクトリン」と3,100£を渡し、「生産時間の短縮」を入手。&br; **クリミア戦争期間も内政重点期 [#z051db08] 1857年1月、「後装式ライフル」研究開始。&br; 1857年5月、教皇領がヴェネツィアに二度目の宣戦布告。併合する模様なので、トリエステに独立保証をかけておく。&br; 1857年7月、教皇領がヴェネツィアを併合。スロヴェニアにも独立保証をかけておく。&br; 1857年8月、クリミア戦争が発動。ロシア・ギリシャvsトルコ・イギリス・セルビア・モルダヴィア・フランス・サルディーニャとなる。デンマークはロシアとの、モンテネグロとはギリシャとの同盟を破棄。&br; 1857年12月、モンテネグロがギリシャと同盟再締結。ロシア側でサルディーニャに宣戦布告。スペインがフランスと同盟締結し、ロシアに宣戦布告。参戦すると、ナショナリズム地域で今以上の反乱多発を招くことになるので内政に専念する。プロイセン(列強7位)に「企業銀行」を渡し、「市場規制」を入手。(ロシア侵攻は好みでプレイするとよい。サンクトペテルブルグを占領すれば、莫大な賠償金を得ることが出来るであろう。しかし他の列強が参加している場合は先を越されて占領され、足止めを喰らうこともあるので注意が必要である)&br; 1858年2月、「地点防御システム」研究開始。両シチリア王国がスペインと同盟し、連鎖でロシアに宣戦布告。&br; 1858年3月、モルトケ将軍登場。グラフィックを見ていると、ロシア包囲網に参加してもよいと思えてくるので注意が必要となる。しばらく忘れていた予備役を101個師団とし、以後は常設師団のみを作成する。&br; 1858年6月、国内暴動マップが全て緑になる。急進性下降率-0.08〜-0.90。部隊を再配置。&br; 1858年9月、ドイツが独立保証をかけていないロンバルディアに教皇領が宣戦布告。しかしフランスが独立保証をかけていたので参戦。防衛同盟を結んでいたトリエステも参戦。&br; 1858年11月、教皇領がトリエステを併合。&br; 1859年1月、トルコが5領邦を割譲してロシアと和平。残るはロシア・ギリシャ・モンテネグロvsフランス・スペイン・両シチリア・サルディーニャ。(後にトルコはモンテネグロのみに宣戦布告し併合する)&br; 1859年2月、プロイセン(列強6位)に「後装式ライフル」を渡し、「有機化学」を入手。「現象論」研究開始。&br; 1859年6月、不満分子への教皇領からの密輸業者、処刑される。&br; 1859年9月、ベルギーに「後装式ライフル」と800£を渡し、「企業活動の責任」を入手。新たな借款を避けたレベル3鉄道の敷設が、着工中のものを含めて全土で完了する。治安維持費用をMAXに変更。収入+200£/日。以後、工場の統廃合(拡張と閉鎖)と人員の整理(工員と事務員の入換え)を行う。「多占体制になっても泣かない」&br; 1860年2月、「鉄製後装砲」研究開始。&br; 1860年4月、ギリシャ、島2つを残してサルディーニャの衛星国となる。&br; 1860年5月、ロシア-フランスが現状復帰で和平。ロシアはサルディーニャ戦を残すのみ、フランスは教皇領戦を残すのみとなる。&br; 1860年5月、ロンバルディアが教皇領から4領邦を得て和平。フランスがフリーになる。「写真主義美術」(国威+150)。825,000£の借款(利子275£/日)を微妙に返し始める。&br; 1860年6月、ベルギーに「地点防御システム」と300£を渡し、「投資銀行」を入手。研究ポイントが-7になるが「全然かまわない」。収支が+300£/日に復活したので、「ドイツは容易に次の行動を起こせるだろう」。「写真主義音楽」(国威+150)時代の先端を走る。『威信、産業は、大英帝国を抜いて世界一』となる。&br; 1860年8月、「完全な市民権」を重要視する社会主義者が6.8%にまで増える。&br; 1860年9月、エルハド・ビルマに交易所を建設。&br; 1860年12月、「経験主義」(国威+150)。アメリカ南部連合設立とともに即南北戦争開戦。&br; 1861年1月、「陸軍将校の意思決定」研究開始。「メキシコ介入」イギリス・フランスが開始。連鎖でスペインと両シチリアも介入。(後日スペインは正式介入)&br; 1861年2月、サルディーニャ、ロシアと現状復帰で和平。クリミア戦争終結。&br; **シュレスヴィヒ問題・イタリア統一戦争と第二次モロッコ侵攻 [#gf68da00] 1861年3月、スウェーデンと攻守同盟を更新。&br; 1861年7月、政党が5つに増えた中、保守党は20%を維持して踏みとどまる。与党へ。&br; 1861年9月、「再び我らの同胞に?」が発生し、南部連合降伏・併合。&br; 1861年10月、イギリスと防衛同盟を更新。&br; 1861年11月、「実用主義」(国威+150)。「機関銃」研究開始。&br; 1862年2月、ベルギーに「鉄製後装砲」を渡し、「歴史準拠理論」を入手。&br; 1862年6月、ベルギーと防衛同盟を更新。&br; 1862年7月、イギリスがフランスに植民地戦争を宣戦。フランスが動員令を出す。余っていた帆船で輸送船隊を1作成。&br; 1862年10月、「軍事統計」研究開始。&br; 1862年11月、直接税を貧:中:富で 0:9:13 に変更。急進性下降率-0.07〜-0.89。収支+400£/日(借金を返済し続けたことと、資本家・貴族の購買による関税収入の伸びでかえって増える)。防衛費と陸軍維持費をMAXに上げ、デンマーク国境部隊の兵士の補充を開始。収支+170£/日。&br; 1862年12月、サルディーニャがフランスと軍事同盟締結。ドイツに対して無効。&br; 1863年1月、デンマークに「シュレスヴィヒはデンマーク固有の領土」が発生するが、スウェーデンは前回同様に「スウェーデンからの支持が揺れる」であったため、予算を戻す。ベルギーに「機関銃」を渡し、「新古典主義と制度尊重主義」と3,300£を入手。&br; 1863年6月、「写実主義文学」(国威+150)&br; 1863年7月、ロシアから独立保証を受ける。&br; 1863年8月、モロッコへの陸軍通行権取り消し。防衛予算を50%として、第一陣を沿海に派遣。&br; 1863年9月、「現代的中央銀行制度」研究開始。&br; 1863年10月、英仏、現状復帰で和平。「統一か、死か!」発動。ロンバルディアの自由な人々も威信急落。&br; 1863年12月、モロッコに植民地戦争を宣戦布告。(国威→2391)&br; 1864年4月、ハンガリーからの密輸業者、見逃される。&br; 1864年8月、モロッコ全土を占領し、屈辱+首都以外割譲で一旦和平。続けて2回戦へ。(国威→2295)&br; 1864年9月、「金融監査委員会」研究開始。セリルチベスチに要塞建設。モロッコを併合し、衛星国化。(国威→2300。BBR15.79→3.79)防衛費はそのまま50%を維持。&br; 1864年12月、借款残額が50万£を切る。&br; 1865年3月、モロッコとの同盟を解消。プロイセンに「集産主義」を渡し、「鋼鉄の線路」と3,200£を入手。レベル4鉄道敷設開始。「一流の科学者が我国へ亡命」励起。「縦深防御システム」発見。素晴らしい。&br; 1865年6月、スロヴェニアから防衛同盟の申し出を受け、締結。&br; 1865年7月、スペインから「無効:イギリス、交戦中:サルディーニャ・フランス」で申し出を受けるが、黙殺。&br; 1865年9月、「内燃機関」研究開始。&br; 1866年1月、ロシアと防衛同盟締結。ロシア側の部隊を西へ移動させる。&br; 1866年4月、少数党がそれぞれ議席を伸ばす中、自由党が勝利。保守党が与党へ。&br; 1866年5月、スウェーデンから軍事同盟の申し出。締結。&br; 1866年7月、中国に侵攻していたロシア、アルタイと賠償金で和平。アイグン条約発動。AIにしては頭が良い。&br; 1866年8月、各国と現状復帰和平を行ったフランス、両シチリアと最後に和平し、フリーになる。&br; 1866年9月、「電気」研究開始。&br; 1866年10月、「イタリアの誕生」発生。イギリスとの軍事同盟が失効。直後に「交戦中の国:中国」で防衛同盟の申し出を受ける。受諾。&br; 1867年1月、プロイセンとの同盟を軍事同盟にしようと一旦切ったところ、先方から「軍事同盟、無効:ロシア」の申し出があり、承諾。&br; 1867年6月、ベルギーとの同盟が失効、即、防衛同盟を締結。&br; 1867年8月、ベルギーに「金融監査委員会」を渡し、「最先端治金学」と6,900£を入手。&br; 1867年9月、「流れ作業」研究開始。&br; 1868年1月、新たな借款を避けたレベル4鉄道の敷設が、着工中のものを含めて全土で完了。防衛費・陸軍維持費をMAXに上げ、兵の補充を開始。収支+270£/日。&br; 1868年4月、スウェーデンに「業務規則」を渡し、「奇襲艦隊ドクトリン」「汽船」を入手。&br; 1868年8月、首都で外交会議。スイスとの関係+10、オランダとの関係+25*2。ベルギーに「汽船」と1,700£を渡し、「統合鉄道システム」を入手。&br; 1868年9月、「経営戦略」研究開始。ジェラタに教会を建設。&br; 1869年1月、スウェーデンに「機械生産」を渡し、「火器管制システム」と2,700£を入手。&br; 1869年4月、動員令を発令。独伊国境へ20個師団。独仏国境へ20個師団。ベルギーとの国境へ60個師団を振り分ける。教育費51%。収支は約-240£/日。フランスも動員令をかける。&br; 1869年7月、電気工場の許可が下りる。&br; 1869年9月、「革命運動と反革命運動」研究開始。動員が早すぎて赤字がたまっていっても「全然かまわない」&br; 1869年11月、ベルギー国境の部隊をベルギー領内へ入れる。&br; そのような魔法はない → [[GER_UNI_3T_6]] 「ドイツ帝国に万歳三唱」
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