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[[VIPR翻訳]] ####### 111KAUSTRIA #######;;;;;;;;;;;X EVT111000N;ボスニアの法制改革;;;;;;;;;;X EVT111000D;自給自足せねばならないオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・\nヘルツェゴビナ統治政府は、ムスリムの反応を恐れていたので、\n新たな法体系が導入されたときに政治的・財政的現実に即した\n譲歩をした。政治的に無気力で経済的に無能な統治政府は、\n既存の体制を大きくは変更せず、イスラム法に従って学校制度や\n裁判制度を分けるといったミレット制に基く多くの制度を維持した。;;;;;;;;;;X ACT111000A;この地を奪うな!;;;;;;;;;;X ACT111000B;問答無用で近代的法制度を導入する!;;;;;;;;;;X EVT111001N;ボスニアの農地改革;;;;;;;;;;X EVT111001D;ボスニア・ヘルツェゴビナ農民では貧困が一般的だった。彼らは収入の\n半分以上を税にとられ土地に縛られた小作農か、家族を養うには\n小さすぎる農地しか持たない自作農だった。しかしハプスブルグ帝国は\n領主を怒らせることになるので土地改革を行うのを拒否した。\nまた、ボスニア・ヘルツェゴビナ農民に対する減税は\n自給自足せねばならない州政府の税収を脅かすことになった。;;;;;;;;;;X ACT111001A;現状を維持する!;;;;;;;;;;X ACT111001B;農地改革を強行する!;;;;;;;;;;X EVT111002N;フランツェ・プレシェーレン;;;;;;;;;;X EVT111002D;フランツェ・プレシェーレンはスロヴェニア民族主義の覚醒と\nドイツ語に替わるスロヴェニア語運動の象徴であった。\nスロヴェニア語が農民言葉として統治国オーストリアから\n無視され学校でも教えられなかった時代に、世界的な\n名詩をスロヴェニア語で書いたからだ。民族主義的・\n汎スラヴ的な内容ゆえに当時発禁とされ現在はスロヴェニア\n国歌である「ズドラヴリカ(乾杯の歌)」も彼の詩である。;;;;;;;;;;X EVT111003N;リュデヴィト・ガイ;;;;;;;;;;X EVT111003D;リュデヴィト・ガイはクロアチア国家再興の中心人物であった。\n彼は南スラブの文化的・政治的な独立と統一を訴える\nイリュリア主義を創始し、イリュリア党を設立した。イリュリア党は\n1843年にハンガリー政府によってイリュリアの名を禁止され\n国民党に名を変えてからもクロアチア政界の主流派であった。\nガイはまたクロアチア語の文章体および文字を改革し、\nクロアチア初の新聞も創刊した。;;;;;;;;;;X EVT111004N;フランティシェク・パラツキー;;;;;;;;;;X EVT111004D;近代チェコ国家の父と考えられているフランティシェク・パラツキーは、\nチェコの文化的・民族主義的再興で指導的役割を果たした。\n彼はハプスブルグ帝国の枠内でのスラヴ人の統一と自治を訴える\nオーストリア・スラヴ主義を創始したが、のちにはチェコの完全な\n独立のために活動した。彼はまたボヘミアの歴史をドイツ人と\nスラブ人の絶え間なき闘争として描きチェコの民族意識\n形成に多大な影響を与えた「ボヘミアの歴史」を著した。;;;;;;;;;;X EVT111005N;クロアチア・セルビア連合の指導者の裁判;;;;;;;;;;X EVT111005D;1905年、セルビア人とクロアチア人の政党の連合は、自治と言語権を\n求めるリエカ・ザダール議案を提出した。この宣言はまたクロアチア人と\nセルビア人が単一民族であると規定していた。この統一の動きは\n政府を警戒させ、1909年にクロアチア・セルビア連合の指導者達は、\n出来の悪い捏造文書に基くばかげた反逆罪で逮捕起訴された。;;;;;;;;;;X EVT111006N;第1回汎スラブ会議;;;;;;;;;;X EVT111006D;1848年「革命の年」の混乱の中、プラハの街で第1回汎スラヴ会議が\n開催され、オーストリア・スラヴ主義を推進するフランティシェク・パラツキーから\nオーストリア解体を求めるミハイル・バクーニンにいたるまで様々な主義\n主張の著名人が出席し、オーストリア国内のスラヴ人に訴えかけた。\n会議はウィンディッシュグレッツ将軍率いるオーストリア軍によって強制的に\n解散させられ、プラハ市街は鎮圧されて会議の出席者は投獄された。;;;;;;;;;;X EVT111007N;ユーゴスラビア主義;;;;;;;;;;X EVT111007D;1874年、クロアチアのヨシプ・ユライ・シュトロスマイエル司教は、\nユーゴスラビアの国民的・政治的統一についての自説を述べた\n宣言を出版し、これはユーゴスラビア主義の基礎となった。\nユーゴスラビア主義はイリュリア主義から発展し、独立国家としての\n南スラヴ人統一という同じ目標を持っていた。作者はクロアチア\n知識人であり、支持者は主に自由主義富裕層や若い急進\n主義者であったが、多くの政治家もまたこの主張に共鳴した。;;;;;;;;;;X EVT111008N;ポーランド一月蜂起;;;;;;;;;;X EVT111008D;ポーランド保守派の画策とロシアの蛮行は1863年1月22日に\nその効果を明らかにした。複数の急進主義集団がポーランドの\n多くの都市でロシア守備隊に対して武装蜂起した。彼らは数でも\n装備でも劣り、重要な都市はまったく奪うことができなかった。\n小規模な守備隊はいくつか武装解除できたが、反乱軍は\n総数わずか1万人ほどで、ロシア守備隊は10万人以上だった。\nしかし「赤党」はポーランド地下政府を結成し、農奴制廃止や\n身分によらない政治的平等などを含む革新的な社会・経済\n改革を宣言した。まもなく「赤党」に「白党」も合流して\n事態はより悪化した。ポーランドでのゲリラ戦が始まった。;;;;;;;;;;X EVT111009N;アルヴェンスレーベン協定;;;;;;;;;;X EVT111009D;ポーランドの反乱勢力が国外から武器や資金を入手するのを\n当初は防げなかったが、ロシアは過ちを修正しはじめた。\nまもなくロシア・プロイセン間の協定が提案された。ロシアは\nプロイセン領内での限定的な軍事通行権を求めた。これは\n逃亡・亡命する反乱者を追跡するのに必要なことだった。\n国境から25マイル内側まではロシア軍を入れるべきか?;;;;;;;;;;X EVT111012N;ボスニアでの徴兵制導入;;;;;;;;;;X EVT111012D;ボスニア・ヘルツェゴビナでの徴兵制導入は、1881年末に正教徒・ムスリムの暴動を引き起こし、この暴動は1882年5月まで打ち破ることもできず、完全に鎮圧されたのは1882年の夏だった。;;;;;;;;;;X ACT111012A;すぐに徴兵制を導入しろ!;;;;;;;;;;X ACT111012B;まだそのときではない;;;;;;;;;;X EVT111013N;二重帝国;;;;;;;;;;X EVT111013D;オーストリアのドイツでの影響力が限定されると、オーストリア政府は、\nハプスブルグ帝国がハンガリー人を味方にしない限り、安定した\n国家として存在することも列強の地位を保つこともできないと悟った。\nハンガリー人が広範な自治権と国内諸民族に対する優越権を\n得る代わりに、ハンガリーは国防と外交政策をハプスブルグ家に\n委譲し帝国予算の一部も負担する、という内容の\nアウスグライヒ(妥協)が締結された。;;;;;;;;;;X EVT111014D;オーストリアはドイツでの主導権を確保したとはいえ、本国では\nオーストリア政府によって、ハプスブルグ帝国がハンガリー人を味方にしない\n限り、安定した国家として存在することも列強の地位を保つ\nこともできないと再認識された。政治家たちは、ハンガリー人が広範な\n自治権と国内諸民族に対する優越権を得る代わりに、\nハンガリーは国防と外交政策をハプスブルグ帝国に委譲し\n帝国予算の一部も負担する、という内容の妥協案を提唱した。;;;;;;;;;;X EVT111015N;クロアチア・ハンガリー和解協定;;;;;;;;;;X EVT111015D;オーストリア・ハンガリー二重帝国を生むことになった妥協の後に、\nハンガリー政府は今後のクロアチアの立場について交渉した。\nクロアチアとの交渉は港湾都市リエカ(フィウメ)の帰属問題で\n行き詰った。しかしフランツ・ヨーゼフの署名を求めるために\n協定文書を届けたハンガリーの使者は、議論を説明する条項の\n部分に自分たちで書いた文面を切り貼りした。明らかな捏造が\n行われたにもかかわらず皇帝は署名し、協定文書は承認された。;;;;;;;;;;X EVT111016N;クロアチアの暴動;;;;;;;;;;X EVT111016D;1883年、クロアチア諸都市でクロアチア語とハンガリー語の\n二ヶ国語掲示が見られ始めたが、これはハンガリー・クロアチア\n和解協定では予想外のことだった。民衆がそれを撤去し始めると\n大暴動に発展し、クロアチア全土の反乱になるおそれもあった。\nクロアチア総督ペヤチェビッチが辞職させられ戒厳令が敷かれると、\nハンガリー政府は自分たちの軍だけでこの暴動に\n対処することはできないと悟り、オーストリア政府に支援を求めた。;;;;;;;;;;X ACT111016A;軍を派遣して反乱を粉砕する!;;;;;;;;;;X ACT111016B;仲裁してハンガリーを押さえる;;;;;;;;;;X EVT111017N;農奴制の廃止;;;;;;;;;;X EVT111017D;オーストリアは1848年の国内の相次ぐ反乱によって弱体化し、\n農奴の不満をなだめるため、農奴制を廃止する法令を公布した。\n地主は失った土地の地価の3分の2を補償された。\n補償金の半額は国庫から、残りの半額は農奴たち自身によって\n支払われた。農奴がそのような金を集めるのは困難だったため、\n実際にはゆるやかな自作農への転換を保証したに過ぎなかった。;;;;;;;;;;X ACT111017A;国家と農奴自身が補償金を支払う;;;;;;;;;;X ACT111017B;国庫だけで補償金を支払う;;;;;;;;;;X ACT111017C;地主への補償はしない!;;;;;;;;;;X ACT111017D;農奴解放はしない!;;;;;;;;;;X EVT111019N;ライヒシュタット協定;;;;;;;;;;X EVT111019D;オーストリア・ハンガリーとロシアの間のライヒシュタット協定が\nセルビア・トルコ開戦後に成立した。この協定では、セルビアが\n勝利してボスニアからオスマン帝国を排除したときにセルビアは\nボスニア・ヘルツェゴビナの一部だけを領有し、残りの地域は\nオーストリアのものになると定めていた。オーストリアは見返りに\nロシアがオスマン帝国と戦争する際に中立を保つことを保証した。;;;;;;;;;;X ACT111019A;ボスニアを領有主張する;;;;;;;;;;X ACT111019B;ボスニアをセルビアに持たせ続ける;;;;;;;;;;X EVT111020N;ブダペスト条約;;;;;;;;;;X EVT111020D;オスマン帝国との戦争は不可避と考え、皇帝アレクサンドル2世は\n列強諸国の紛争への不介入を確保しようとした。\nオーストリアの中立を得るため、ロシア勝利後もバルカン半島に\n大きな国家の設立はしないと約束した。\nロシアの提案を承諾して中立を守るべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT111022D;オスマン帝国軍の弱体化とロシアの休戦拒絶は、大英帝国に\nオスマン帝国側での介入を促した。ロシアがオスマン帝国に\n完全勝利を収めれば、われわれのバルカン権益に対する\n重大な脅威となるだろう。ロシアを交渉の席に着かせるため\n大英帝国に助力すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT111023D;オスマン帝国軍の弱体化とロシアの休戦拒絶は、われわれの\nバルカン権益に対する重大な脅威となった。大英帝国は\nバルカン半島をロシア支配から救うための介入はしないと\n決めたが、ロシアがバルカン半島全域を支配するのを防ぐため\nオスマン帝国を助けて介入すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT111024D;ベルリン会議での決定事項のひとつは、ボスニアをオスマン\n帝国領の名目でオーストリアに統治権を認めたことである。\nこの結果ボスニアは実質的にはオーストリアに支配され、\nロシアのバルカン支配と均衡を保つ手助けとなったが、\nオーストリアの統治はボスニア人民から温かくは迎えらなかった。;;;;;;;;;;X EVT111025N;コンコルダート(政教条約);;;;;;;;;;X EVT111025D;1855年、国王と教会と軍との伝統的同盟を復活させるため、\n皇帝フランツ・ヨーゼフはヨーゼフ2世の啓蒙的教会改革を覆した。\nローマ・カトリック教会は自治を認められ、ローマ・カトリック教会に\n大幅な活動の自由と教育への介入を認める協定も結ばれた。;;;;;;;;;;X EVT111026N;コンコルダートの停止;;;;;;;;;;X EVT111026D;1868年、ヴァチカンとの間の1855年の協定は取り消され、\nローマ・カトリック教会は教育への影響力を失い、国家の管理下におかれた。;;;;;;;;;;X EVT111027N;4月5日の法令;;;;;;;;;;X EVT111027D;オーストリア首相バーデニは1897年4月5日に、ボヘミアの全官庁で\nドイツ語とチェコ語の両方を公用語にすると布告した。実際には\nボヘミアの新規採用職員はドイツ度とチェコ語を両方話せなければ\nならないことを意味した。チェコ人は学校でドイツ語も学んでいたが\nドイツ人学校ではチェコ語を教えておらず、チェコ人が官僚の座を\n独占することになった。;;;;;;;;;;X EVT111028N;バーデニの失脚;;;;;;;;;;X EVT111028D;バーデニの4月5日の法令は国内のドイツ人を怒らせた。バーデニ\n自身と彼の言語令(ドイツ国民党首シェーネラーを激怒させた)\nに対する抗議は1848年自由主義革命以来見られなかったほどの\n規模となった。皇帝は1848年以来はじめてデモの要求に応じて\n首相を罷免してようやく抗議はやみ、シェーネラーは政界の\n傍流に戻った。だがバーデニの言語令はまだ効力を持っていた。;;;;;;;;;;X ACT111028A;バーデニを罷免する;;;;;;;;;;X ACT111028B;バーデニを首相として留任させる;;;;;;;;;;X EVT111029N;ツェリェのギムナジウム;;;;;;;;;;X EVT111029D;スロヴェニア人は1888年国会でチェコ人・ウクライナ人の支持を\n期待して、シュタイエルスカ地方の街ツェリェ(統計上スロヴェニア人が\n主流)のギムナジウムにスロヴェニア人学級を導入するよう要求した。\nそれ自体はさして重要な問題ではなかったが、各都市で同様に\n市街地へのスラブ人移住によりドイツ的性格が薄れつつある問題を\n象徴しており、オーストリアの政治的寿命の終止符を示す\nものだという激しい議論に拍車をかけた。;;;;;;;;;;X ACT111029A;スロヴェニア学級を導入する;;;;;;;;;;X ACT111029B;スロヴェニア人の要求を拒否する;;;;;;;;;;X EVT111030N;プロンビエール協定に対するオーストリアの対応;;;;;;;;;;X EVT111030D;プロンビエール協定とそれに続く挑発・交渉の結果、\nオーストリアはサルディニア・ピエモンテに対して\n1859年4月19日に最後通告を宣告し、一方的軍備縮小か開戦かを迫った。;;;;;;;;;;X EVT111031N;ヴィラフランカの休戦、ロンバルディアとの交渉;;;;;;;;;;X EVT111031D;われわれはマジェンタとソルフェリーノの戦いに敗れ、1859年\n7月11日にヴィラフランカで休戦条約が締結された。\nロンバルディアと引き換えに戦争を終わらせる選択肢もある。;;;;;;;;;;X EVT111032N;サルディニア・ピエモンテは和平案を承諾;;;;;;;;;;X EVT111032D;サルディニア・ピエモントはわが国との和平と引き換えに\n彼らの固有領土を手に入れた。;;;;;;;;;;X EVT111033N;サルディニア・ピエモンテは和平案を拒絶;;;;;;;;;;X EVT111033D;サルディニア・ピエモントはわれわれの和平案を拒絶し、\n戦い続けることを望んだ。;;;;;;;;;;X EVT111034N;リエカに関する議論;;;;;;;;;;X EVT111034D;ナゴドバ(ハンガリー・クロアチア協定)に皇帝が署名して条文が公式\n発表されると、クロアチア人たちはリエカがハンガリーの直接支配下に\n残ることに激怒した。クロアチア側の交渉者は、リエカに関する合意は\n成立しておらず皇帝に届けられた条文は偽文書だと公式表明した。\n彼らは皇帝にへの勅許を破棄するように求めたが、ハンガリー側は\nクロアチアの方が二枚舌だと主張し、クロアチアの要求を拒絶するよう\n皇帝に熱心に働きかけた。;;;;;;;;;;X ACT111034A;リエカをハンガリーの支配下に残す;;;;;;;;;;X ACT111034B;協定を破棄して再交渉を要求する;;;;;;;;;;X EVT111035D;ロシアは、バルカン半島で彼らが得た権益を修正する\nベルリン会議の結論を受け入れなかった。大英帝国は\nわれわれも一緒にロシアに承諾を強要するよう誘ってきた。\n大英帝国が失敗すればバルカン半島におけるロシアの\n優位は不動のものとなるだろう。戦いに参加すべきか?;;;;;;;;;;X EVT111036D;ロシアは、バルカン半島で彼らが得た権益を修正する\nベルリン会議の結論を受け入れなかった。大英帝国は\nロシアに承諾を強要することを拒絶した。われわれが\n行動しなければ、バルカン半島におけるロシアの\n優位は不動のものとなるだろう。どうすべきか?;;;;;;;;;;X EVT111037N;ボスニア・ヘルツェゴビナの併合;;;;;;;;;;X EVT111037D;オーストリア・ハンガリー帝国は1908年10月15日、ベルリン会議以来\n占領統治してきたボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると宣言した。\n帝国におけるスラブ系住民の更なる増加はハプスブルグ帝国における\n微妙な民族バランスを崩すことになるので、オーストリア・ハンガリーの\nいずれにも属さない独立した統治機関が作られた。\n同時にオーストリア・ハンガリーはサンジャク地方から撤兵した。;;;;;;;;;;X ACT111037A;併合を宣言する;;;;;;;;;;X ACT111037B;併合せずに属国を作る;;;;;;;;;;X EVT111038N;ボスニアの森林伐採;;;;;;;;;;X EVT111038D;ボスニアの最も重要な天然資源は樹木で、森林が国土の\n半分を覆っている。アオーストリア・ハンガリーがこの地を統治\nするようになってから、新領土の統治を任されたオーストリアの\n財務大臣はこの森林をウィーンの工場経営者に売却し、\n彼らは森林を容赦なく伐採した。これはボスニア民衆が\nオーストリア・ハンガリーの統治を恨む理由のひとつだった。;;;;;;;;;;X ACT111038A;森林を売り払う;;;;;;;;;;X ACT111038B;責任を持って森林を管理する;;;;;;;;;;X EVT111039N;ボスニア・ヘルツェゴビナの学校制度;;;;;;;;;;X EVT111039D;オーストリア・ハンガリー帝国政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナの\n発展のためにわずかな予算しか投じなかった。とりわけ教育\n制度への投資は少なく、政府は教育制度の充実よりも\n教師の経歴を調べて反対派を拘束するほうに熱心だった。\nその結果ボスニア・ヘルツェゴビナではほぼ同面積のセルビアより\n学校数が5倍も少なく、1918年まで識字率は5分の1だった。;;;;;;;;;;X ACT111039A;不要なことに浪費すべきではない;;;;;;;;;;X ACT111039B;教育にどしどし投資する;;;;;;;;;;X EVT111040N;プラハ条約;;;;;;;;;;X EVT111040D;プラハ条約(1866年8月27日)でプロイセンとオーストリアは、\nプロイセンの主導権を認め、ハノーファー、ヘッセ・カッセル、ナッサウ、\nフランクフルト、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン、ラウエンブルクが\nプロイセンに領有されることで合意した。;;;;;;;;;;X EVT111042N;イタリアが許しを請う;;;;;;;;;;X EVT111042D;オーストリアがオスマン帝国からボスニア地方を併合後、イタリアは\nアドリア海の安全と制海権に懸念を抱いた。両国の対立は\n続いており、イタリアはトリポリ問題でのオーストリア中立を\n通告・確認するようドイツに依頼した。ドイツの圧力を受けて\nオーストリアはしぶしぶイタリアの北アフリカ領有を承認した。;;;;;;;;;;X ACT111042A;承諾しようがすまいが起きることだ;;;;;;;;;;X ACT111042B;受け入れられない;;;;;;;;;;X EVT111043N;初飛行;;;;;;;;;;X EVT111043D;ルーマニア人発明家トラヤン・ヴイアはパリ近郊モンテソンで\n前プロペラ式単葉機の試験飛行に成功した。\n最長飛行距離は25メートル以上であった。;;;;;;;;;;X EVT111044N;初の女性パイロット;;;;;;;;;;X EVT111044D;リリー・シュタインシュナイダーは4級飛行士免許を取得した。\n飛行士資格を与えられた初の女性である。;;;;;;;;;;X EVT111045N;バルカン同盟の形成;;;;;;;;;;X EVT111045D;オスマン帝国がリビアでイタリアに敗北したのを見て、\nバルカン半島のキリスト教諸国は、自分たちが束になって戦えば\nオスマン帝国に勝ってルメリア地方を奪えるだろうと考え、\nセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャは同盟結成を宣言した。\n彼らに戦争を思いとどまらせるのは今しかないだろう。;;;;;;;;;;X ACT111045A;バルカン同盟が戦争に陥らないよう助力を求める;;;;;;;;;;X ACT111045B;セルビアもバルカン諸国も知ったことではない;;;;;;;;;;X EVT111046N;バルカン問題についてロンドンで会議?;;;;;;;;;;X EVT111046D;イギリスはバルカン戦争がヨーロッパ大戦につながることを恐れ、\nロンドンでの会議を提案した。我々も出席すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT111046A;ヨーロッパの平和維持のため出席する;;;;;;;;;;X ACT111046B;勝手に戦わせておけばいい;;;;;;;;;;X EVT111047N;ロンドン協定によってバルカン戦争が終結;;;;;;;;;;X EVT111047D;だらだらと交渉を繰り返した挙句に、バルカン問題についての合意が\n成立した。アルバニアはオーストリア保護下での独立を獲得し、マケドニア\n地方の残りとトラキア地方は停戦時の占領領域に従って分割された。;;;;;;;;;;X ACT111047A;バルカンに平和がずっと続きますように!;;;;;;;;;;X EVT111048N;バルカン戦争でのオーストリアの中立;;;;;;;;;;X EVT111051N;ヤクイ族がオーストリアに加わる;;;;;;;;;;X EVT111051D;オーストリアはメキシコ侵攻後、自治を約束してヤクイ族を再集結させた。;;;;;;;;;;X EVT111052N;アメリカ合衆国がモンロー主義を主張;;;;;;;;;;X EVT111052D;アメリカ合衆国はわれわれがメキシコから撤兵することを要求してきた。;;;;;;;;;;X ACT111052A;和平するのは良いことだ;;;;;;;;;;X ACT111052B;ポトマック川の軍隊など恐くない;;;;;;;;;;X EVT111053N;オーストリアはスペインを憂慮する;;;;;;;;;;X EVT111053D;オーストリアの皇帝と大臣たちは、スペインでの近代的思想の\n発達を憂慮しており、僣王カルロスにどうやって大義名分を\n持たせるか相談していたが、公式には沈黙していた。\nもしビルバオを占領できたときはドン・カルロスを全面的に\n支援しようということになった。;;;;;;;;;;X ACT111053A;秘密裏に支援せよ;;;;;;;;;;X ACT111053B;公式にカルロスを支持せよ;;;;;;;;;;X ACT111053C;知ったことではない;;;;;;;;;;X EVT111054N;ビルバオ陥落!;;;;;;;;;;X EVT111054D;ビルバオはカルロス軍の手に落ちた。オーストリアはカルロスを\n正当なスペイン王と認めているので、オーストリアの資本家から\n借金する権利、および補助金を与えよう。;;;;;;;;;;X EVT111055N;イタリアに中立を依頼するか?;;;;;;;;;;X EVT111055D;プロイセンとの戦争が始まった。イタリアとプロイセンの同盟は\n二つの戦線を作ることになるが、われわれには支えきれない。\n固有領土と引き換えにイタリアに中立を求めるのが最善の策だ。;;;;;;;;;;X EVT111056N;イタリアは承諾;;;;;;;;;;X EVT111056D;イタリアは承諾し、この紛争における中立を公式に宣言した。;;;;;;;;;;X EVT111057N;イタリアは拒絶;;;;;;;;;;X EVT111057D;イタリアはわれわれの提案を拒絶し、戦争は避けられない。;;;;;;;;;;X EVT111058N;イタリアにヴェネツィアを割譲;;;;;;;;;;X EVT111058D;プロイセンとイタリアの同盟により、イタリアはヴェネツィアを要求している。\nプロイセンの後ろ盾があるため、要求を呑む以外の選択肢はない。;;;;;;;;;;X EVT111059N;ハンガリー独立を認めるか?;;;;;;;;;;X EVT111059D;ハンガリーは彼ら自身の政府を結成した。われわれはどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT111059A;ハンガリーは帝国の一部だ;;;;;;;;;;X ACT111059B;ハンガリーの自由を認める;;;;;;;;;;X EVT111061D;われわれはイタリア軍との戦いに敗北を重ね、1859年\n7月11日にヴィラフランカで休戦条約が締結された。\nロンバルディアと引き換えに戦争を終わらせる選択肢もある。;;;;;;;;;;X EVT111064N;南ドイツ連邦がドイツの提案を承諾;;;;;;;;;;X EVT111064D;南ドイツ連邦は、ひとつの旗の下に統合するという\nドイツからの提案を承諾した。これはわが国に対する明らかな裏切りだ。;;;;;;;;;;X EVT111065N;ハンガリー革命;;;;;;;;;;X EVT111066N;ハンガリー革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111066D;われわれはハンガリー革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X ACT111066A;勝利!;;;;;;;;;;X EVT111067N;ハンガリー革命の終息、ハンガリー勝利;;;;;;;;;;X EVT111067D;われわれは敗れた…。ハンガリー共和国は自国領のすべてと\nクロアチア地方の一部(彼らはそこも自国領と考えている)\nを要求している。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111068N;イタリア革命;;;;;;;;;;X EVT111068D;自由主義革命はわが国をばらばらに破壊しつつある。国中に反乱また反乱が広がっている。今度はミラノとヴェネツィアのイタリア人たちが自由を要求しているが、許すわけにはいかない。;;;;;;;;;;X ACT111068B;ある程度の自由を与えよう;;;;;;;;;;X ACT111068C;われわれの手には負えない;;;;;;;;;;X EVT111069N;イタリア革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111069D;われわれはイタリア革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X EVT111070N;イタリア革命の終息、イタリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111070D;われわれは敗れた…。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111071N;ロシアからの援助;;;;;;;;;;X EVT111071D;わが友ロシア皇帝アレクサンドルは、\nハンガリー革命でわれわれを支援するために物資を送ってきた。;;;;;;;;;;X EVT111072N;プロイセンからの援助;;;;;;;;;;X EVT111072D;わが友プロイセン王ウィルヘルムは、\nハンガリー革命でわれわれを支援するために物資を送ってきた。;;;;;;;;;;X EVT111073N;クロアチア革命;;;;;;;;;;X EVT111073D;;わが軍に対するハンガリーの勝利によって、わが帝国の\n分裂は明らかとなった。帝国南部の飛び地では、\nクロアチアが帝国からの分離を要求している。;;;;;;;;;X EVT111074N;クロアチア革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111074D;われわれはクロアチア革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X EVT111075N;クロアチア革命の終息、セルビア勝利;;;;;;;;;;X EVT111075D;われわれは敗れた…。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111076N;革命後の兵士復員;;;;;;;;;;X EVT111076D;わが軍が戦わねばならなかった大きな戦いの後で、疲れ果てた兵士たちは家に送り返される。;;;;;;;;;;X EVT111077N;セルビア革命;;;;;;;;;;X EVT111077D;わが軍に対するハンガリーの勝利によって、わが帝国の\n分裂は明らかとなった。帝国南東部の飛び地では、\nセルビアが帝国からの分離を要求している。;;;;;;;;;;X ACT111077A;去るものは追わず;;;;;;;;;;X EVT111078N;セルビア革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111078D;われわれはセルビア革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X EVT111079N;セルビア革命の終息、セルビア勝利;;;;;;;;;;X EVT111079D;われわれは敗れた…。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111080N;皇帝アレクサンドルが一時的同盟を提案;;;;;;;;;;X EVT111080D;われらの友ロシア皇帝アレクサンドルは、\nハンガリーの脅威を滅ぼすための一時的同盟をわれわれに提案している。;;;;;;;;;;X EVT111081N;ロシアとの一時的同盟の終了;;;;;;;;;;X EVT111081D;革命は終息し、ロシア帝国との一時的同盟は解消された。;;;;;;;;;;X EVT111085N;バッハ方式;;;;;;;;;;X EVT111085D;1848〜1849年の激動が終わって帝国の安定が回復すると、\nバッハ男爵に率いられた新世代のオーストリア官僚たちは、\n法と秩序を維持し民族主義や自由主義を抑えて富国強兵を\n図るため、経済発展の重要性を訴え始めた。;;;;;;;;;;X ACT111085A;バッハにもっと大きな権限を与える;;;;;;;;;;X ACT111085B;今回は政府組織の変更はしない;;;;;;;;;;X EVT111090N;オロモウツの屈辱;;;;;;;;;;X EVT111090D;オーストリアは1848〜1849年の動乱を生き延び、中欧での覇権を\n維持すべく努力を重ねていた。1850年代後半プロイセンが北ドイツ\n諸国の統合計画を公式表明すると、オーストリアはドイツ問題で\nプロイセンに対する影響力を失う可能性に直面させられた。;;;;;;;;;;X ACT111090A;プロイセンに計画の撤回を要求する;;;;;;;;;;X ACT111090B;プロイセンのドイツでの優位は動かしがたい、支援するほうがいいだろう;;;;;;;;;;X EVT111091N;ドイツ主導権戦争の終結;;;;;;;;;;X EVT111091D;われわれはプロイセンとその同盟国を打ち破った。\nこちらの損害を彼らに賠償させよう。;;;;;;;;;;X EVT111092N;われわれは敗北した!;;;;;;;;;;X EVT111092D;われわれは大国プロイセンの前に敗れ去った。;;;;;;;;;;X ACT111093A;サルデーニャのイタリアでの挑発に抗議する!;;;;;;;;;;X EVT111094N;イタリア小国の併合に対するオーストリアの対応;;;;;;;;;;X EVT111094D;プロンビエール協定とそれに続く挑発・交渉の結果、\nオーストリアはサルディニア・ピエモンテに対して\n1859年4月19日に最後通告を宣告した。;;;;;;;;;;X EVT111095N;オーストリア軍クラクフ進駐;;;;;;;;;;X EVT111095D;1841年2月に退却した後、再び1846年にオーストリア陸軍がクラクフに\n進駐して、オーストリア義勇兵としての任務を負った。この動きはポーラ\nンド人社会の緊張を引き起こし、愛国者達が動員され暴動を起こす\n事となった。クラクフの暴動は9日間続き、暴動を指揮した人間の過激\nな思想がなければ、歴史上のさして重要ではない事件であっただろう。;;;;;;;;;;X EVT111096N;皇帝フランツ・ヨーゼフがオロモウツ憲法を制定;;;;;;;;;;X EVT111096D;皇帝フランツ・ヨーゼフは、「ハンガリーはオーストリア帝国の一部であり、いかなる特別な権利もない」とするオロモウツ憲法を制定した。;;;;;;;;;;X ACT111096A;彼らはわが国の一部だ!;;;;;;;;;;X ACT111097;ハンガリーは独立を宣言する;;;;;;;;;;X EVT111100N;民主主義ドイツの誕生;;;;;;;;;;X EVT111100D;人民の総意によってドイツが統一された。;;;;;;;;;;X ACT111100A;民主主義者どもとは相容れない!;;;;;;;;;;X ACT111101A;民主主義ドイツもそう悪いものではない。;;;;;;;;;;X EVT111102N;リエカに関する議論;;;;;;;;;;X EVT111104D;プロイセンはドイツを統一し、その過程で保守主義フランスを打ち破った。;;;;;;;;;;X ACT111104A;フン! だが反動主義者の同士討ちはざまあみろだ。;;;;;;;;;;X EVT111109D;われわれは勝利してシュレジエン地方を獲得するとともに、\nドイツの盟主は誰かを世界に示した。\nこれでわが旗の下にドイツを統一することができる。;;;;;;;;;;X EVT111113N;仏墺戦争;;;;;;;;;;X EVT111113D;フランスは南ドイツをわれわれから切り離そうと考えているが、\nこちらの事情に鼻を突っ込むなということを思い知らせてやろう!;;;;;;;;;;X EVT111114N;仏墺戦争に敗北;;;;;;;;;;X EVT111114D;われわれはドイツを統一しようとしたものの失敗に終わった。\nこの機会は二度と訪れないであろう。;;;;;;;;;;X EVT111115N;仏墺戦争に勝利;;;;;;;;;;X EVT111115D;勝利はわれらのもの!;;;;;;;;;;X EVT111116N;オーストリアの崩壊;;;;;;;;;;X EVT111117N;帝国の選択;;;;;;;;;;X EVT111117D;われわれはプロイセンを破りドイツの盟主となったが、南ドイツ諸邦を\n併合するか、それとも現在のバルカン半島政策を続けるかを\n決めなければならない。;;;;;;;;;;X ACT111117A;われわれはドイツ帝国となる!;;;;;;;;;;X ACT111117B;南ドイツ諸国を属国にする;;;;;;;;;;X ACT111117C;南ドイツ連邦を作る;;;;;;;;;;X EVT111118N;ドイツ南部の国境策定;;;;;;;;;;X EVT111118D;ドイツの主導権をめぐる争いで、\n同盟国のバーデンに遮られて飛び地になった領土が手に入った。\nこれらの領土をどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT111118A;彼らに割譲しよう;;;;;;;;;;X ACT111118B;このまま領有しよう;;;;;;;;;;X EVT111119D;ドイツの主導権をめぐる争いで、\n同盟国の南ドイツ連邦に遮られて飛び地になった領土が手に入った。\nこれらの領土をどうすべきか?;;;;;;;;;;X EVT111120N;ロシアが戦時賠償を要求;;;;;;;;;;X EVT111120D;フランスに敗れたので、その同盟者たるロシアにも領土を割譲しなければならない。;;;;;;;;;;X EVT111121N;ラインラントの将来;;;;;;;;;;X EVT111121D;我が国に領有権のある領土をプロイセンが占有している。そこはわれわれのものだ!;;;;;;;;;;X ACT111121A;ラインラントを要求する;;;;;;;;;;X EVT111122D;それならば力尽くで奪い取ろう!;;;;;;;;;;X EVT111123D;われわれは敗れた;;;;;;;;;;X EVT111124N;北ドイツの将来;;;;;;;;;;X EVT111124D;北ドイツ諸国をわれわれの傘下に収めよう。;;;;;;;;;;X ACT111124B;放っておく;;;;;;;;;;X EVT111125N;北ドイツの属国化;;;;;;;;;;X EVT111125D;北ドイツ連邦が成立した。;;;;;;;;;;X EVT111126N;南ドイツの属国化;;;;;;;;;;X EVT111126D;南ドイツ連邦が成立した。;;;;;;;;;;X EVT111127N;ドイツが平和的意図を表明;;;;;;;;;;X EVT111127D;ドイツ統一がヨーロッパの勢力均衡を劇的に変えることを理解している\nドイツ宰相は、ドイツがヨーロッパの平和維持のために尽力するだろうと\n述べ、隣国にはいかなる領土主張もしないと宣言した。;;;;;;;;;;X ACT111128A;ドイツが約束を守ることを期待しよう;;;;;;;;;;X ACT111128B;ドイツは信用できない;;;;;;;;;;X EVT111131N;サルデーニャがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111131D;サルデーニャ政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111132N;両シチリアがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111132D;両シチリア政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111133N;ロンバルディアがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111133D;ロンバルディア反乱政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111134N;ヴェネツィアがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111134D;ヴェネツィア反乱政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111200N;ルーマニア民族主義がトランシルヴァニアに広がる;;;;;;;;;;X EVT111200D;モルダヴィアとワラキアでの民族主義の広がりはルーマニア人がひとつの\n国家を作るべきだという考えにつながった。両国に刺激された\nトランシルヴァニア地方の民族主義者は、わが帝国内の住民まで含めた\n全ルーマニア人による統一国家の独立を要求し始めた。;;;;;;;;;;X EVT111201D;サン・ステファノ条約における親露的「大ブルガリア公国」の成立は、\nオーストリアにとってはバルカン半島政策および欧州の勢力均衡に\n対する直接的脅威とみなされた。既に大英帝国はロシアの動きに\n異議を唱えている。ブルガリア国境について国際裁定に従うよう、\nわれわれも一緒になってロシアに要求すべきだろうか。;;;;;;;;;;X EVT111203D;バルカン問題についてのベルリン国際会議はわれわれの望んだ\nとおりに成し遂げられた。ロシアはブルガリアの縮小を承認し、\nオスマン帝国のマケドニア支配は維持され、ロシアのバルカン\n進出に対抗してわが国はボスニアの統治権を得た。うまくいった。;;;;;;;;;;X EVT111204D;イギリス政府は、モロッコ問題について討議するための会議を開くよう要\n求してきた。モロッコ政府は、西洋列強が雇った当地の小間使いについ\nて、それに保護を与える慣習を廃止するのを望んでおり、その目標達成\nのためなら何らかの譲歩を与える用意があるとしている。オーストリアはモ\nロッコと長年にわたり交易してきた関係にあり、会議に出席しなければ、\nモロッコ市場への参入が妨げられることになるだろう。;;;;;;;;;;X EVT111204D;イギリス政府は、モロッコ問題について討議するための会議を開くよう要\n求してきた。モロッコ政府は、西洋列強が雇った当地の小間使いについ\nて、それに保護を与える慣習を廃止することを望んでおり、その目標達成\nのためなら何らかの譲歩を与える用意があるとしている。オーストリアはモ\nロッコと長年にわたり交易してきた関係にあり、会議に出席しなければ、\nモロッコ市場への参入が妨げられることになるだろう。;;;;;;;;;;X EVT111600N;ウィーン条約;;;;;;;;;;X EVT111600D;われわれはデンマークを完膚なきまでに打ち破り、\n彼らはシュレスヴィヒを放棄した。;;;;;;;;;;X ACT111600A;勝利!;;;;;;;;;;X EVT111602N;フランツ・ヨーゼフ帝の即位60周年;;;;;;;;;;X EVT111602D;1908年12月2日、フランツ・ヨーゼフI世は即位60周年を迎えた。\nドイツ語圏住民のほとんどはウイーンで即位記念日を祝ったが、\nハンガリーは(二重帝国としてハンガリー王に即位したのは\n1867年だったので)これを無視し、\nスラブ系住民はプラハやリュブリャナでドイツ人支配に抗議した。;;;;;;;;;;X ACT111602A;忘れられない日だ;;;;;;;;;;X EVT111603D;1908年12月2日、フランツ・ヨーゼフI世は即位60周年を迎えた。\nドイツ語圏住民のほとんどはウイーンで即位記念日を祝ったが、\n帝国内の非ドイツ系住民はこれを\nドイツ人支配を祝うものと見なして憤慨していた。;;;;;;;;;;X EVT111999N;ハンガリーとの戦いを続ける?;;;;;;;;;;X EVT111999D;ロシアが戦いを止めたことによって、我々はハンガリーの反乱軍と\n単独で戦わなければならなくなった。戦いを続けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X
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[[VIPR翻訳]] ####### 111KAUSTRIA #######;;;;;;;;;;;X EVT111000N;ボスニアの法制改革;;;;;;;;;;X EVT111000D;自給自足せねばならないオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・\nヘルツェゴビナ統治政府は、ムスリムの反応を恐れていたので、\n新たな法体系が導入されたときに政治的・財政的現実に即した\n譲歩をした。政治的に無気力で経済的に無能な統治政府は、\n既存の体制を大きくは変更せず、イスラム法に従って学校制度や\n裁判制度を分けるといったミレット制に基く多くの制度を維持した。;;;;;;;;;;X ACT111000A;この地を奪うな!;;;;;;;;;;X ACT111000B;問答無用で近代的法制度を導入する!;;;;;;;;;;X EVT111001N;ボスニアの農地改革;;;;;;;;;;X EVT111001D;ボスニア・ヘルツェゴビナ農民では貧困が一般的だった。彼らは収入の\n半分以上を税にとられ土地に縛られた小作農か、家族を養うには\n小さすぎる農地しか持たない自作農だった。しかしハプスブルグ帝国は\n領主を怒らせることになるので土地改革を行うのを拒否した。\nまた、ボスニア・ヘルツェゴビナ農民に対する減税は\n自給自足せねばならない州政府の税収を脅かすことになった。;;;;;;;;;;X ACT111001A;現状を維持する!;;;;;;;;;;X ACT111001B;農地改革を強行する!;;;;;;;;;;X EVT111002N;フランツェ・プレシェーレン;;;;;;;;;;X EVT111002D;フランツェ・プレシェーレンはスロヴェニア民族主義の覚醒と\nドイツ語に替わるスロヴェニア語運動の象徴であった。\nスロヴェニア語が農民言葉として統治国オーストリアから\n無視され学校でも教えられなかった時代に、世界的な\n名詩をスロヴェニア語で書いたからだ。民族主義的・\n汎スラヴ的な内容ゆえに当時発禁とされ現在はスロヴェニア\n国歌である「ズドラヴリカ(乾杯の歌)」も彼の詩である。;;;;;;;;;;X EVT111003N;リュデヴィト・ガイ;;;;;;;;;;X EVT111003D;リュデヴィト・ガイはクロアチア国家再興の中心人物であった。\n彼は南スラブの文化的・政治的な独立と統一を訴える\nイリュリア主義を創始し、イリュリア党を設立した。イリュリア党は\n1843年にハンガリー政府によってイリュリアの名を禁止され\n国民党に名を変えてからもクロアチア政界の主流派であった。\nガイはまたクロアチア語の文章体および文字を改革し、\nクロアチア初の新聞も創刊した。;;;;;;;;;;X EVT111004N;フランティシェク・パラツキー;;;;;;;;;;X EVT111004D;近代チェコ国家の父と考えられているフランティシェク・パラツキーは、\nチェコの文化的・民族主義的再興で指導的役割を果たした。\n彼はハプスブルグ帝国の枠内でのスラヴ人の統一と自治を訴える\nオーストリア・スラヴ主義を創始したが、のちにはチェコの完全な\n独立のために活動した。彼はまたボヘミアの歴史をドイツ人と\nスラブ人の絶え間なき闘争として描きチェコの民族意識\n形成に多大な影響を与えた「ボヘミアの歴史」を著した。;;;;;;;;;;X EVT111005N;クロアチア・セルビア連合の指導者の裁判;;;;;;;;;;X EVT111005D;1905年、セルビア人とクロアチア人の政党の連合は、自治と言語権を\n求めるリエカ・ザダール議案を提出した。この宣言はまたクロアチア人と\nセルビア人が単一民族であると規定していた。この統一の動きは\n政府を警戒させ、1909年にクロアチア・セルビア連合の指導者達は、\n出来の悪い捏造文書に基くばかげた反逆罪で逮捕起訴された。;;;;;;;;;;X EVT111006N;第1回汎スラブ会議;;;;;;;;;;X EVT111006D;1848年「革命の年」の混乱の中、プラハの街で第1回汎スラヴ会議が\n開催され、オーストリア・スラヴ主義を推進するフランティシェク・パラツキーから\nオーストリア解体を求めるミハイル・バクーニンにいたるまで様々な主義\n主張の著名人が出席し、オーストリア国内のスラヴ人に訴えかけた。\n会議はウィンディッシュグレッツ将軍率いるオーストリア軍によって強制的に\n解散させられ、プラハ市街は鎮圧されて会議の出席者は投獄された。;;;;;;;;;;X EVT111007N;ユーゴスラビア主義;;;;;;;;;;X EVT111007D;1874年、クロアチアのヨシプ・ユライ・シュトロスマイエル司教は、\nユーゴスラビアの国民的・政治的統一についての自説を述べた\n宣言を出版し、これはユーゴスラビア主義の基礎となった。\nユーゴスラビア主義はイリュリア主義から発展し、独立国家としての\n南スラヴ人統一という同じ目標を持っていた。作者はクロアチア\n知識人であり、支持者は主に自由主義富裕層や若い急進\n主義者であったが、多くの政治家もまたこの主張に共鳴した。;;;;;;;;;;X EVT111008N;ポーランド一月蜂起;;;;;;;;;;X EVT111008D;ポーランド保守派の画策とロシアの蛮行は1863年1月22日に\nその効果を明らかにした。複数の急進主義集団がポーランドの\n多くの都市でロシア守備隊に対して武装蜂起した。彼らは数でも\n装備でも劣り、重要な都市はまったく奪うことができなかった。\n小規模な守備隊はいくつか武装解除できたが、反乱軍は\n総数わずか1万人ほどで、ロシア守備隊は10万人以上だった。\nしかし「赤党」はポーランド地下政府を結成し、農奴制廃止や\n身分によらない政治的平等などを含む革新的な社会・経済\n改革を宣言した。まもなく「赤党」に「白党」も合流して\n事態はより悪化した。ポーランドでのゲリラ戦が始まった。;;;;;;;;;;X EVT111009N;アルヴェンスレーベン協定;;;;;;;;;;X EVT111009D;ポーランドの反乱勢力が国外から武器や資金を入手するのを\n当初は防げなかったが、ロシアは過ちを修正しはじめた。\nまもなくロシア・プロイセン間の協定が提案された。ロシアは\nプロイセン領内での限定的な軍事通行権を求めた。これは\n逃亡・亡命する反乱者を追跡するのに必要なことだった。\n国境から25マイル内側まではロシア軍を入れるべきか?;;;;;;;;;;X EVT111012N;ボスニアでの徴兵制導入;;;;;;;;;;X EVT111012D;ボスニア・ヘルツェゴビナでの徴兵制導入は、1881年末に正教徒・ムスリムの暴動を引き起こし、この暴動は1882年5月まで打ち破ることもできず、完全に鎮圧されたのは1882年の夏だった。;;;;;;;;;;X ACT111012A;すぐに徴兵制を導入しろ!;;;;;;;;;;X ACT111012B;まだそのときではない;;;;;;;;;;X EVT111013N;二重帝国;;;;;;;;;;X EVT111013D;オーストリアのドイツでの影響力が限定されると、オーストリア政府は、\nハプスブルグ帝国がハンガリー人を味方にしない限り、安定した\n国家として存在することも列強の地位を保つこともできないと悟った。\nハンガリー人が広範な自治権と国内諸民族に対する優越権を\n得る代わりに、ハンガリーは国防と外交政策をハプスブルグ家に\n委譲し帝国予算の一部も負担する、という内容の\nアウスグライヒ(妥協)が締結された。;;;;;;;;;;X EVT111014D;オーストリアはドイツでの主導権を確保したとはいえ、本国では\nオーストリア政府によって、ハプスブルグ帝国がハンガリー人を味方にしない\n限り、安定した国家として存在することも列強の地位を保つ\nこともできないと再認識された。政治家たちは、ハンガリー人が広範な\n自治権と国内諸民族に対する優越権を得る代わりに、\nハンガリーは国防と外交政策をハプスブルグ帝国に委譲し\n帝国予算の一部も負担する、という内容の妥協案を提唱した。;;;;;;;;;;X EVT111015N;クロアチア・ハンガリー和解協定;;;;;;;;;;X EVT111015D;オーストリア・ハンガリー二重帝国を生むことになった妥協の後に、\nハンガリー政府は今後のクロアチアの立場について交渉した。\nクロアチアとの交渉は港湾都市リエカ(フィウメ)の帰属問題で\n行き詰った。しかしフランツ・ヨーゼフの署名を求めるために\n協定文書を届けたハンガリーの使者は、議論を説明する条項の\n部分に自分たちで書いた文面を切り貼りした。明らかな捏造が\n行われたにもかかわらず皇帝は署名し、協定文書は承認された。;;;;;;;;;;X EVT111016N;クロアチアの暴動;;;;;;;;;;X EVT111016D;1883年、クロアチア諸都市でクロアチア語とハンガリー語の\n二ヶ国語掲示が見られ始めたが、これはハンガリー・クロアチア\n和解協定では予想外のことだった。民衆がそれを撤去し始めると\n大暴動に発展し、クロアチア全土の反乱になるおそれもあった。\nクロアチア総督ペヤチェビッチが辞職させられ戒厳令が敷かれると、\nハンガリー政府は自分たちの軍だけでこの暴動に\n対処することはできないと悟り、オーストリア政府に支援を求めた。;;;;;;;;;;X ACT111016A;軍を派遣して反乱を粉砕する!;;;;;;;;;;X ACT111016B;仲裁してハンガリーを押さえる;;;;;;;;;;X EVT111017N;農奴制の廃止;;;;;;;;;;X EVT111017D;オーストリアは1848年の国内の相次ぐ反乱によって弱体化し、\n農奴の不満をなだめるため、農奴制を廃止する法令を公布した。\n地主は失った土地の地価の3分の2を補償された。\n補償金の半額は国庫から、残りの半額は農奴たち自身によって\n支払われた。農奴がそのような金を集めるのは困難だったため、\n実際にはゆるやかな自作農への転換を保証したに過ぎなかった。;;;;;;;;;;X ACT111017A;国家と農奴自身が補償金を支払う;;;;;;;;;;X ACT111017B;国庫だけで補償金を支払う;;;;;;;;;;X ACT111017C;地主への補償はしない!;;;;;;;;;;X ACT111017D;農奴解放はしない!;;;;;;;;;;X EVT111019N;ライヒシュタット協定;;;;;;;;;;X EVT111019D;オーストリア・ハンガリーとロシアの間のライヒシュタット協定が\nセルビア・トルコ開戦後に成立した。この協定では、セルビアが\n勝利してボスニアからオスマン帝国を排除したときにセルビアは\nボスニア・ヘルツェゴビナの一部だけを領有し、残りの地域は\nオーストリアのものになると定めていた。オーストリアは見返りに\nロシアがオスマン帝国と戦争する際に中立を保つことを保証した。;;;;;;;;;;X ACT111019A;ボスニアを領有主張する;;;;;;;;;;X ACT111019B;ボスニアをセルビアに持たせ続ける;;;;;;;;;;X EVT111020N;ブダペスト条約;;;;;;;;;;X EVT111020D;オスマン帝国との戦争は不可避と考え、皇帝アレクサンドル2世は\n列強諸国の紛争への不介入を確保しようとした。\nオーストリアの中立を得るため、ロシア勝利後もバルカン半島に\n大きな国家の設立はしないと約束した。\nロシアの提案を承諾して中立を守るべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT111022D;オスマン帝国軍の弱体化とロシアの休戦拒絶は、大英帝国に\nオスマン帝国側での介入を促した。ロシアがオスマン帝国に\n完全勝利を収めれば、われわれのバルカン権益に対する\n重大な脅威となるだろう。ロシアを交渉の席に着かせるため\n大英帝国に助力すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT111023D;オスマン帝国軍の弱体化とロシアの休戦拒絶は、われわれの\nバルカン権益に対する重大な脅威となった。大英帝国は\nバルカン半島をロシア支配から救うための介入はしないと\n決めたが、ロシアがバルカン半島全域を支配するのを防ぐため\nオスマン帝国を助けて介入すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT111024D;ベルリン会議での決定事項のひとつは、ボスニアをオスマン\n帝国領の名目でオーストリアに統治権を認めたことである。\nこの結果ボスニアは実質的にはオーストリアに支配され、\nロシアのバルカン支配と均衡を保つ手助けとなったが、\nオーストリアの統治はボスニア人民から温かくは迎えらなかった。;;;;;;;;;;X EVT111025N;コンコルダート(政教条約);;;;;;;;;;X EVT111025D;1855年、国王と教会と軍との伝統的同盟を復活させるため、\n皇帝フランツ・ヨーゼフはヨーゼフ2世の啓蒙的教会改革を覆した。\nローマ・カトリック教会は自治を認められ、ローマ・カトリック教会に\n大幅な活動の自由と教育への介入を認める協定も結ばれた。;;;;;;;;;;X EVT111026N;コンコルダートの停止;;;;;;;;;;X EVT111026D;1868年、ヴァチカンとの間の1855年の協定は取り消され、\nローマ・カトリック教会は教育への影響力を失い、国家の管理下におかれた。;;;;;;;;;;X EVT111027N;4月5日の法令;;;;;;;;;;X EVT111027D;オーストリア首相バーデニは1897年4月5日に、ボヘミアの全官庁で\nドイツ語とチェコ語の両方を公用語にすると布告した。実際には\nボヘミアの新規採用職員はドイツ度とチェコ語を両方話せなければ\nならないことを意味した。チェコ人は学校でドイツ語も学んでいたが\nドイツ人学校ではチェコ語を教えておらず、チェコ人が官僚の座を\n独占することになった。;;;;;;;;;;X EVT111028N;バーデニの失脚;;;;;;;;;;X EVT111028D;バーデニの4月5日の法令は国内のドイツ人を怒らせた。バーデニ\n自身と彼の言語令(ドイツ国民党首シェーネラーを激怒させた)\nに対する抗議は1848年自由主義革命以来見られなかったほどの\n規模となった。皇帝は1848年以来はじめてデモの要求に応じて\n首相を罷免してようやく抗議はやみ、シェーネラーは政界の\n傍流に戻った。だがバーデニの言語令はまだ効力を持っていた。;;;;;;;;;;X ACT111028A;バーデニを罷免する;;;;;;;;;;X ACT111028B;バーデニを首相として留任させる;;;;;;;;;;X EVT111029N;ツェリェのギムナジウム;;;;;;;;;;X EVT111029D;スロヴェニア人は1888年国会でチェコ人・ウクライナ人の支持を\n期待して、シュタイエルスカ地方の街ツェリェ(統計上スロヴェニア人が\n主流)のギムナジウムにスロヴェニア人学級を導入するよう要求した。\nそれ自体はさして重要な問題ではなかったが、各都市で同様に\n市街地へのスラブ人移住によりドイツ的性格が薄れつつある問題を\n象徴しており、オーストリアの政治的寿命の終止符を示す\nものだという激しい議論に拍車をかけた。;;;;;;;;;;X ACT111029A;スロヴェニア学級を導入する;;;;;;;;;;X ACT111029B;スロヴェニア人の要求を拒否する;;;;;;;;;;X EVT111030N;プロンビエール協定に対するオーストリアの対応;;;;;;;;;;X EVT111030D;プロンビエール協定とそれに続く挑発・交渉の結果、\nオーストリアはサルディニア・ピエモンテに対して\n1859年4月19日に最後通告を宣告し、一方的軍備縮小か開戦かを迫った。;;;;;;;;;;X EVT111031N;ヴィラフランカの休戦、ロンバルディアとの交渉;;;;;;;;;;X EVT111031D;われわれはマジェンタとソルフェリーノの戦いに敗れ、1859年\n7月11日にヴィラフランカで休戦条約が締結された。\nロンバルディアと引き換えに戦争を終わらせる選択肢もある。;;;;;;;;;;X EVT111032N;サルディニア・ピエモンテは和平案を承諾;;;;;;;;;;X EVT111032D;サルディニア・ピエモントはわが国との和平と引き換えに\n彼らの固有領土を手に入れた。;;;;;;;;;;X EVT111033N;サルディニア・ピエモンテは和平案を拒絶;;;;;;;;;;X EVT111033D;サルディニア・ピエモントはわれわれの和平案を拒絶し、\n戦い続けることを望んだ。;;;;;;;;;;X EVT111034N;リエカに関する議論;;;;;;;;;;X EVT111034D;ナゴドバ(ハンガリー・クロアチア協定)に皇帝が署名して条文が公式\n発表されると、クロアチア人たちはリエカがハンガリーの直接支配下に\n残ることに激怒した。クロアチア側の交渉者は、リエカに関する合意は\n成立しておらず皇帝に届けられた条文は偽文書だと公式表明した。\n彼らは皇帝にへの勅許を破棄するように求めたが、ハンガリー側は\nクロアチアの方が二枚舌だと主張し、クロアチアの要求を拒絶するよう\n皇帝に熱心に働きかけた。;;;;;;;;;;X ACT111034A;リエカをハンガリーの支配下に残す;;;;;;;;;;X ACT111034B;協定を破棄して再交渉を要求する;;;;;;;;;;X EVT111035D;ロシアは、バルカン半島で彼らが得た権益を修正する\nベルリン会議の結論を受け入れなかった。大英帝国は\nわれわれも一緒にロシアに承諾を強要するよう誘ってきた。\n大英帝国が失敗すればバルカン半島におけるロシアの\n優位は不動のものとなるだろう。戦いに参加すべきか?;;;;;;;;;;X EVT111036D;ロシアは、バルカン半島で彼らが得た権益を修正する\nベルリン会議の結論を受け入れなかった。大英帝国は\nロシアに承諾を強要することを拒絶した。われわれが\n行動しなければ、バルカン半島におけるロシアの\n優位は不動のものとなるだろう。どうすべきか?;;;;;;;;;;X EVT111037N;ボスニア・ヘルツェゴビナの併合;;;;;;;;;;X EVT111037D;オーストリア・ハンガリー帝国は1908年10月15日、ベルリン会議以来\n占領統治してきたボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると宣言した。\n帝国におけるスラブ系住民の更なる増加はハプスブルグ帝国における\n微妙な民族バランスを崩すことになるので、オーストリア・ハンガリーの\nいずれにも属さない独立した統治機関が作られた。\n同時にオーストリア・ハンガリーはサンジャク地方から撤兵した。;;;;;;;;;;X ACT111037A;併合を宣言する;;;;;;;;;;X ACT111037B;併合せずに属国を作る;;;;;;;;;;X EVT111038N;ボスニアの森林伐採;;;;;;;;;;X EVT111038D;ボスニアの最も重要な天然資源は樹木で、森林が国土の\n半分を覆っている。アオーストリア・ハンガリーがこの地を統治\nするようになってから、新領土の統治を任されたオーストリアの\n財務大臣はこの森林をウィーンの工場経営者に売却し、\n彼らは森林を容赦なく伐採した。これはボスニア民衆が\nオーストリア・ハンガリーの統治を恨む理由のひとつだった。;;;;;;;;;;X ACT111038A;森林を売り払う;;;;;;;;;;X ACT111038B;責任を持って森林を管理する;;;;;;;;;;X EVT111039N;ボスニア・ヘルツェゴビナの学校制度;;;;;;;;;;X EVT111039D;オーストリア・ハンガリー帝国政府は、ボスニア・ヘルツェゴビナの\n発展のためにわずかな予算しか投じなかった。とりわけ教育\n制度への投資は少なく、政府は教育制度の充実よりも\n教師の経歴を調べて反対派を拘束するほうに熱心だった。\nその結果ボスニア・ヘルツェゴビナではほぼ同面積のセルビアより\n学校数が5倍も少なく、1918年まで識字率は5分の1だった。;;;;;;;;;;X ACT111039A;不要なことに浪費すべきではない;;;;;;;;;;X ACT111039B;教育にどしどし投資する;;;;;;;;;;X EVT111040N;プラハ条約;;;;;;;;;;X EVT111040D;プラハ条約(1866年8月27日)でプロイセンとオーストリアは、\nプロイセンの主導権を認め、ハノーファー、ヘッセ・カッセル、ナッサウ、\nフランクフルト、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン、ラウエンブルクが\nプロイセンに領有されることで合意した。;;;;;;;;;;X EVT111042N;イタリアが許しを請う;;;;;;;;;;X EVT111042D;オーストリアがオスマン帝国からボスニア地方を併合後、イタリアは\nアドリア海の安全と制海権に懸念を抱いた。両国の対立は\n続いており、イタリアはトリポリ問題でのオーストリア中立を\n通告・確認するようドイツに依頼した。ドイツの圧力を受けて\nオーストリアはしぶしぶイタリアの北アフリカ領有を承認した。;;;;;;;;;;X ACT111042A;承諾しようがすまいが起きることだ;;;;;;;;;;X ACT111042B;受け入れられない;;;;;;;;;;X EVT111043N;初飛行;;;;;;;;;;X EVT111043D;ルーマニア人発明家トラヤン・ヴイアはパリ近郊モンテソンで\n前プロペラ式単葉機の試験飛行に成功した。\n最長飛行距離は25メートル以上であった。;;;;;;;;;;X EVT111044N;初の女性パイロット;;;;;;;;;;X EVT111044D;リリー・シュタインシュナイダーは4級飛行士免許を取得した。\n飛行士資格を与えられた初の女性である。;;;;;;;;;;X EVT111045N;バルカン同盟の形成;;;;;;;;;;X EVT111045D;オスマン帝国がリビアでイタリアに敗北したのを見て、\nバルカン半島のキリスト教諸国は、自分たちが束になって戦えば\nオスマン帝国に勝ってルメリア地方を奪えるだろうと考え、\nセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャは同盟結成を宣言した。\n彼らに戦争を思いとどまらせるのは今しかないだろう。;;;;;;;;;;X ACT111045A;バルカン同盟が戦争に陥らないよう助力を求める;;;;;;;;;;X ACT111045B;セルビアもバルカン諸国も知ったことではない;;;;;;;;;;X EVT111046N;バルカン問題についてロンドンで会議?;;;;;;;;;;X EVT111046D;イギリスはバルカン戦争がヨーロッパ大戦につながることを恐れ、\nロンドンでの会議を提案した。我々も出席すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT111046A;ヨーロッパの平和維持のため出席する;;;;;;;;;;X ACT111046B;勝手に戦わせておけばいい;;;;;;;;;;X EVT111047N;ロンドン協定によってバルカン戦争が終結;;;;;;;;;;X EVT111047D;だらだらと交渉を繰り返した挙句に、バルカン問題についての合意が\n成立した。アルバニアはオーストリア保護下での独立を獲得し、マケドニア\n地方の残りとトラキア地方は停戦時の占領領域に従って分割された。;;;;;;;;;;X ACT111047A;バルカンに平和がずっと続きますように!;;;;;;;;;;X EVT111048N;バルカン戦争でのオーストリアの中立;;;;;;;;;;X EVT111051N;ヤクイ族がオーストリアに加わる;;;;;;;;;;X EVT111051D;オーストリアはメキシコ侵攻後、自治を約束してヤクイ族を再集結させた。;;;;;;;;;;X EVT111052N;アメリカ合衆国がモンロー主義を主張;;;;;;;;;;X EVT111052D;アメリカ合衆国はわれわれがメキシコから撤兵することを要求してきた。;;;;;;;;;;X ACT111052A;和平するのは良いことだ;;;;;;;;;;X ACT111052B;ポトマック川の軍隊など恐くない;;;;;;;;;;X EVT111053N;オーストリアはスペインを憂慮する;;;;;;;;;;X EVT111053D;オーストリアの皇帝と大臣たちは、スペインでの近代的思想の\n発達を憂慮しており、僣王カルロスにどうやって大義名分を\n持たせるか相談していたが、公式には沈黙していた。\nもしビルバオを占領できたときはドン・カルロスを全面的に\n支援しようということになった。;;;;;;;;;;X ACT111053A;秘密裏に支援せよ;;;;;;;;;;X ACT111053B;公式にカルロスを支持せよ;;;;;;;;;;X ACT111053C;知ったことではない;;;;;;;;;;X EVT111054N;ビルバオ陥落!;;;;;;;;;;X EVT111054D;ビルバオはカルロス軍の手に落ちた。オーストリアはカルロスを\n正当なスペイン王と認めているので、オーストリアの資本家から\n借金する権利、および補助金を与えよう。;;;;;;;;;;X EVT111055N;イタリアに中立を依頼するか?;;;;;;;;;;X EVT111055D;プロイセンとの戦争が始まった。イタリアとプロイセンの同盟は\n二つの戦線を作ることになるが、われわれには支えきれない。\n固有領土と引き換えにイタリアに中立を求めるのが最善の策だ。;;;;;;;;;;X EVT111056N;イタリアは承諾;;;;;;;;;;X EVT111056D;イタリアは承諾し、この紛争における中立を公式に宣言した。;;;;;;;;;;X EVT111057N;イタリアは拒絶;;;;;;;;;;X EVT111057D;イタリアはわれわれの提案を拒絶し、戦争は避けられない。;;;;;;;;;;X EVT111058N;イタリアにヴェネツィアを割譲;;;;;;;;;;X EVT111058D;プロイセンとイタリアの同盟により、イタリアはヴェネツィアを要求している。\nプロイセンの後ろ盾があるため、要求を呑む以外の選択肢はない。;;;;;;;;;;X EVT111059N;ハンガリー独立を認めるか?;;;;;;;;;;X EVT111059D;ハンガリーは彼ら自身の政府を結成した。われわれはどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT111059A;ハンガリーは帝国の一部だ;;;;;;;;;;X ACT111059B;ハンガリーの自由を認める;;;;;;;;;;X EVT111061D;われわれはイタリア軍との戦いに敗北を重ね、1859年\n7月11日にヴィラフランカで休戦条約が締結された。\nロンバルディアと引き換えに戦争を終わらせる選択肢もある。;;;;;;;;;;X EVT111064N;南ドイツ連邦がドイツの提案を承諾;;;;;;;;;;X EVT111064D;南ドイツ連邦は、ひとつの旗の下に統合するという\nドイツからの提案を承諾した。これはわが国に対する明らかな裏切りだ。;;;;;;;;;;X EVT111065N;ハンガリー革命;;;;;;;;;;X EVT111066N;ハンガリー革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111066D;われわれはハンガリー革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X ACT111066A;勝利!;;;;;;;;;;X EVT111067N;ハンガリー革命の終息、ハンガリー勝利;;;;;;;;;;X EVT111067D;われわれは敗れた…。ハンガリー共和国は自国領のすべてと\nクロアチア地方の一部(彼らはそこも自国領と考えている)\nを要求している。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111068N;イタリア革命;;;;;;;;;;X EVT111068D;自由主義革命はわが国をばらばらに破壊しつつある。国中に反乱また反乱が広がっている。今度はミラノとヴェネツィアのイタリア人たちが自由を要求しているが、許すわけにはいかない。;;;;;;;;;;X ACT111068B;ある程度の自由を与えよう;;;;;;;;;;X ACT111068C;われわれの手には負えない;;;;;;;;;;X EVT111069N;イタリア革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111069D;われわれはイタリア革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X EVT111070N;イタリア革命の終息、イタリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111070D;われわれは敗れた…。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111071N;ロシアからの援助;;;;;;;;;;X EVT111071D;わが友ロシア皇帝アレクサンドルは、\nハンガリー革命でわれわれを支援するために物資を送ってきた。;;;;;;;;;;X EVT111072N;プロイセンからの援助;;;;;;;;;;X EVT111072D;わが友プロイセン王ウィルヘルムは、\nハンガリー革命でわれわれを支援するために物資を送ってきた。;;;;;;;;;;X EVT111073N;クロアチア革命;;;;;;;;;;X EVT111073D;;わが軍に対するハンガリーの勝利によって、わが帝国の\n分裂は明らかとなった。帝国南部の飛び地では、\nクロアチアが帝国からの分離を要求している。;;;;;;;;;X EVT111074N;クロアチア革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111074D;われわれはクロアチア革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X EVT111075N;クロアチア革命の終息、セルビア勝利;;;;;;;;;;X EVT111075D;われわれは敗れた…。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111076N;革命後の兵士復員;;;;;;;;;;X EVT111076D;わが軍が戦わねばならなかった大きな戦いの後で、疲れ果てた兵士たちは家に送り返される。;;;;;;;;;;X EVT111077N;セルビア革命;;;;;;;;;;X EVT111077D;わが軍に対するハンガリーの勝利によって、わが帝国の\n分裂は明らかとなった。帝国南東部の飛び地では、\nセルビアが帝国からの分離を要求している。;;;;;;;;;;X ACT111077A;去るものは追わず;;;;;;;;;;X EVT111078N;セルビア革命の終息、オーストリア勝利;;;;;;;;;;X EVT111078D;われわれはセルビア革命を制圧した。\n彼らは再び寛大なるわが帝国の一員となる。;;;;;;;;;;X EVT111079N;セルビア革命の終息、セルビア勝利;;;;;;;;;;X EVT111079D;われわれは敗れた…。今は偉大なわが国を再建するときだ…。;;;;;;;;;;X EVT111080N;皇帝アレクサンドルが一時的同盟を提案;;;;;;;;;;X EVT111080D;われらの友ロシア皇帝アレクサンドルは、\nハンガリーの脅威を滅ぼすための一時的同盟をわれわれに提案している。;;;;;;;;;;X EVT111081N;ロシアとの一時的同盟の終了;;;;;;;;;;X EVT111081D;革命は終息し、ロシア帝国との一時的同盟は解消された。;;;;;;;;;;X EVT111085N;バッハ方式;;;;;;;;;;X EVT111085D;1848〜1849年の激動が終わって帝国の安定が回復すると、\nバッハ男爵に率いられた新世代のオーストリア官僚たちは、\n法と秩序を維持し民族主義や自由主義を抑えて富国強兵を\n図るため、経済発展の重要性を訴え始めた。;;;;;;;;;;X ACT111085A;バッハにもっと大きな権限を与える;;;;;;;;;;X ACT111085B;今回は政府組織の変更はしない;;;;;;;;;;X EVT111090N;オロモウツの屈辱;;;;;;;;;;X EVT111090D;オーストリアは1848〜1849年の動乱を生き延び、中欧での覇権を\n維持すべく努力を重ねていた。1850年代後半プロイセンが北ドイツ\n諸国の統合計画を公式表明すると、オーストリアはドイツ問題で\nプロイセンに対する影響力を失う可能性に直面させられた。;;;;;;;;;;X ACT111090A;プロイセンに計画の撤回を要求する;;;;;;;;;;X ACT111090B;プロイセンのドイツでの優位は動かしがたい、支援するほうがいいだろう;;;;;;;;;;X EVT111091N;ドイツ主導権戦争の終結;;;;;;;;;;X EVT111091D;われわれはプロイセンとその同盟国を打ち破った。\nこちらの損害を彼らに賠償させよう。;;;;;;;;;;X EVT111092N;われわれは敗北した!;;;;;;;;;;X EVT111092D;われわれは大国プロイセンの前に敗れ去った。;;;;;;;;;;X ACT111093A;サルデーニャのイタリアでの挑発に抗議する!;;;;;;;;;;X EVT111094N;イタリア小国の併合に対するオーストリアの対応;;;;;;;;;;X EVT111094D;プロンビエール協定とそれに続く挑発・交渉の結果、\nオーストリアはサルディニア・ピエモンテに対して\n1859年4月19日に最後通告を宣告した。;;;;;;;;;;X EVT111095N;オーストリア軍クラクフ進駐;;;;;;;;;;X EVT111095D;1841年2月に退却した後、再び1846年にオーストリア陸軍がクラクフに\n進駐して、オーストリア義勇兵としての任務を負った。この動きはポーラ\nンド人社会の緊張を引き起こし、愛国者達が動員され暴動を起こす\n事となった。クラクフの暴動は9日間続き、暴動を指揮した人間の過激\nな思想がなければ、歴史上のさして重要ではない事件であっただろう。;;;;;;;;;;X EVT111096N;皇帝フランツ・ヨーゼフがオロモウツ憲法を制定;;;;;;;;;;X EVT111096D;皇帝フランツ・ヨーゼフは、「ハンガリーはオーストリア帝国の一部であり、いかなる特別な権利もない」とするオロモウツ憲法を制定した。;;;;;;;;;;X ACT111096A;彼らはわが国の一部だ!;;;;;;;;;;X ACT111097;ハンガリーは独立を宣言する;;;;;;;;;;X EVT111100N;民主主義ドイツの誕生;;;;;;;;;;X EVT111100D;人民の総意によってドイツが統一された。;;;;;;;;;;X ACT111100A;民主主義者どもとは相容れない!;;;;;;;;;;X ACT111101A;民主主義ドイツもそう悪いものではない。;;;;;;;;;;X EVT111102N;リエカに関する議論;;;;;;;;;;X EVT111104D;プロイセンはドイツを統一し、その過程で保守主義フランスを打ち破った。;;;;;;;;;;X ACT111104A;フン! だが反動主義者の同士討ちはざまあみろだ。;;;;;;;;;;X EVT111109D;われわれは勝利してシュレジエン地方を獲得するとともに、\nドイツの盟主は誰かを世界に示した。\nこれでわが旗の下にドイツを統一することができる。;;;;;;;;;;X EVT111113N;仏墺戦争;;;;;;;;;;X EVT111113D;フランスは南ドイツをわれわれから切り離そうと考えているが、\nこちらの事情に鼻を突っ込むなということを思い知らせてやろう!;;;;;;;;;;X EVT111114N;仏墺戦争に敗北;;;;;;;;;;X EVT111114D;われわれはドイツを統一しようとしたものの失敗に終わった。\nこの機会は二度と訪れないであろう。;;;;;;;;;;X EVT111115N;仏墺戦争に勝利;;;;;;;;;;X EVT111115D;勝利はわれらのもの!;;;;;;;;;;X EVT111116N;オーストリアの崩壊;;;;;;;;;;X EVT111117N;帝国の選択;;;;;;;;;;X EVT111117D;われわれはプロイセンを破りドイツの盟主となったが、南ドイツ諸邦を\n併合するか、それとも現在のバルカン半島政策を続けるかを\n決めなければならない。;;;;;;;;;;X ACT111117A;われわれはドイツ帝国となる!;;;;;;;;;;X ACT111117B;南ドイツ諸国を属国にする;;;;;;;;;;X ACT111117C;南ドイツ連邦を作る;;;;;;;;;;X EVT111118N;ドイツ南部の国境策定;;;;;;;;;;X EVT111118D;ドイツの主導権をめぐる争いで、\n同盟国のバーデンに遮られて飛び地になった領土が手に入った。\nこれらの領土をどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT111118A;彼らに割譲しよう;;;;;;;;;;X ACT111118B;このまま領有しよう;;;;;;;;;;X EVT111119D;ドイツの主導権をめぐる争いで、\n同盟国の南ドイツ連邦に遮られて飛び地になった領土が手に入った。\nこれらの領土をどうすべきか?;;;;;;;;;;X EVT111120N;ロシアが戦時賠償を要求;;;;;;;;;;X EVT111120D;フランスに敗れたので、その同盟者たるロシアにも領土を割譲しなければならない。;;;;;;;;;;X EVT111121N;ラインラントの将来;;;;;;;;;;X EVT111121D;我が国に領有権のある領土をプロイセンが占有している。そこはわれわれのものだ!;;;;;;;;;;X ACT111121A;ラインラントを要求する;;;;;;;;;;X EVT111122D;それならば力尽くで奪い取ろう!;;;;;;;;;;X EVT111123D;われわれは敗れた;;;;;;;;;;X EVT111124N;北ドイツの将来;;;;;;;;;;X EVT111124D;北ドイツ諸国をわれわれの傘下に収めよう。;;;;;;;;;;X ACT111124B;放っておく;;;;;;;;;;X EVT111125N;北ドイツの属国化;;;;;;;;;;X EVT111125D;北ドイツ連邦が成立した。;;;;;;;;;;X EVT111126N;南ドイツの属国化;;;;;;;;;;X EVT111126D;南ドイツ連邦が成立した。;;;;;;;;;;X EVT111127N;ドイツが平和的意図を表明;;;;;;;;;;X EVT111127D;ドイツ統一がヨーロッパの勢力均衡を劇的に変えることを理解している\nドイツ宰相は、ドイツがヨーロッパの平和維持のために尽力するだろうと\n述べ、隣国にはいかなる領土主張もしないと宣言した。;;;;;;;;;;X ACT111128A;ドイツが約束を守ることを期待しよう;;;;;;;;;;X ACT111128B;ドイツは信用できない;;;;;;;;;;X EVT111131N;サルデーニャがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111131D;サルデーニャ政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111132N;両シチリアがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111132D;両シチリア政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111133N;ロンバルディアがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111133D;ロンバルディア反乱政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111134N;ヴェネツィアがイタリアの革命勢力を支援!;;;;;;;;;;X EVT111134D;ヴェネツィア反乱政府は、\nロンバルディアとヴェネツィアの革命勢力に対する\n公式支援を宣言し、武力介入のため軍を動員した。;;;;;;;;;;X EVT111200N;ルーマニア民族主義がトランシルヴァニアに広がる;;;;;;;;;;X EVT111200D;モルダヴィアとワラキアでの民族主義の広がりはルーマニア人がひとつの\n国家を作るべきだという考えにつながった。両国に刺激された\nトランシルヴァニア地方の民族主義者は、わが帝国内の住民まで含めた\n全ルーマニア人による統一国家の独立を要求し始めた。;;;;;;;;;;X EVT111201D;サン・ステファノ条約における親露的「大ブルガリア公国」の成立は、\nオーストリアにとってはバルカン半島政策および欧州の勢力均衡に\n対する直接的脅威とみなされた。既に大英帝国はロシアの動きに\n異議を唱えている。ブルガリア国境について国際裁定に従うよう、\nわれわれも一緒になってロシアに要求すべきだろうか。;;;;;;;;;;X EVT111203D;バルカン問題についてのベルリン国際会議はわれわれの望んだ\nとおりに成し遂げられた。ロシアはブルガリアの縮小を承認し、\nオスマン帝国のマケドニア支配は維持され、ロシアのバルカン\n進出に対抗してわが国はボスニアの統治権を得た。うまくいった。;;;;;;;;;;X EVT111204D;イギリス政府は、モロッコ問題について討議するための会議を開くよう要\n求してきた。モロッコ政府は、西洋列強が雇った当地の小間使いについ\nて、それに保護を与える慣習を廃止するのを望んでおり、その目標達成\nのためなら何らかの譲歩を与える用意があるとしている。オーストリアはモ\nロッコと長年にわたり交易してきた関係にあり、会議に出席しなければ、\nモロッコ市場への参入が妨げられることになるだろう。;;;;;;;;;;X EVT111204D;イギリス政府は、モロッコ問題について討議するための会議を開くよう要\n求してきた。モロッコ政府は、西洋列強が雇った当地の小間使いについ\nて、それに保護を与える慣習を廃止することを望んでおり、その目標達成\nのためなら何らかの譲歩を与える用意があるとしている。オーストリアはモ\nロッコと長年にわたり交易してきた関係にあり、会議に出席しなければ、\nモロッコ市場への参入が妨げられることになるだろう。;;;;;;;;;;X EVT111600N;ウィーン条約;;;;;;;;;;X EVT111600D;われわれはデンマークを完膚なきまでに打ち破り、\n彼らはシュレスヴィヒを放棄した。;;;;;;;;;;X ACT111600A;勝利!;;;;;;;;;;X EVT111602N;フランツ・ヨーゼフ帝の即位60周年;;;;;;;;;;X EVT111602D;1908年12月2日、フランツ・ヨーゼフI世は即位60周年を迎えた。\nドイツ語圏住民のほとんどはウイーンで即位記念日を祝ったが、\nハンガリーは(二重帝国としてハンガリー王に即位したのは\n1867年だったので)これを無視し、\nスラブ系住民はプラハやリュブリャナでドイツ人支配に抗議した。;;;;;;;;;;X ACT111602A;忘れられない日だ;;;;;;;;;;X EVT111603D;1908年12月2日、フランツ・ヨーゼフI世は即位60周年を迎えた。\nドイツ語圏住民のほとんどはウイーンで即位記念日を祝ったが、\n帝国内の非ドイツ系住民はこれを\nドイツ人支配を祝うものと見なして憤慨していた。;;;;;;;;;;X EVT111999N;ハンガリーとの戦いを続ける?;;;;;;;;;;X EVT111999D;ロシアが戦いを止めたことによって、我々はハンガリーの反乱軍と\n単独で戦わなければならなくなった。戦いを続けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X
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