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[[VIPR翻訳]] ######278K - TUNISIA########;;;;;;;;;;;X EVT278000N;オスマン帝国のチュニジア介入;;;;;;;;;;X EVT278000D;ムスタファ・ベイは、1835年に父のフサインが死去したことを受けて\nチュニジアの統治者たる地位を承継したが、あくまで形式上である。\n実質的にベイたるにはオスマン帝国政府による認証が必要だった。\nオスマン帝国側はベイ(太守)について、あくまで帝国の官吏にすぎず\nスルタンの盟邦たる独立国家の統治者という訳ではないとの見方を\nほのめかしつつ年次の貢納を求めている。オスマン帝国の要求に従い\n貢納すべきだろうか?それとも帝国がチュニジアを自国の枠組みに\n含めようとすることについて、西欧諸国に助けを求めるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278000A;オスマン帝国の要求には屈せず、フランスに助けを請う;;;;;;;;;;X ACT278000B;オスマン帝国の要求に応じて貢納する;;;;;;;;;;X EVT278001N;フランスがチュニジアを見捨てる;;;;;;;;;;X EVT278001D;オスマン帝国はチュニジアに対し、完全な統制をかけようとしている。\n我々はこれに懸命に抵抗しているが、\nフランスはこれを支援するつもりはないと言ってきた。\nオスマン帝国の要求を呑まず、引き続き抵抗すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278001B;引き続きオスマン帝国の要求に抵抗しよう;;;;;;;;;;X EVT278002N;アフマド・ベイが太守を継ぐ;;;;;;;;;;X EVT278002D;1837年の10月、ムスタファ・ベイが死去した。\nベイの地位は息子のアフマドが名目上は継ぐことになったが、\n正式にベイとして認められるためにはオスマン帝国の承認が必要だ。\nイスタンブールに使節を送り、叙任書を受け取らねばならないのだ。\nオスマン帝国がチュニジアに対して無理やり直接支配を及ぼそうとしても、\nフランスはこれを認めないと保証してくれている。;;;;;;;;;;X ACT278002;イスタンブールに使節を送ろう;;;;;;;;;;X EVT278003D;オスマン帝国はムハンマド・アリーに対処するにあたって、西欧諸国の\n支持を継続的に得ようとし、その対価としてギュルハネ勅令を\n発布することになった。これはムスリムであるか否かを問わず、\n全ての帝国臣民に法の下の平等を認めるものだ。\n帝国のスルタンはチュニジアもこの改革を施行するよう求めている。\nだがこれはオスマン帝国の法律が我が国でも有効なものであると、\nひいてはチュニジアが帝国の一州であると認めることになりえよう。;;;;;;;;;;X ACT278003B;オスマン帝国の求めに応じ、ギュルハネ勅令を施行しよう;;;;;;;;;;X EVT278005N;バルドー軍事学校;;;;;;;;;;X EVT278005D;チュニジアの独立は依然不安定なままにあり、そこから脱却するには\n少なくとも伝統的な方針によって組織された軍隊のままではいけない。\nアフマド・ベイはそれを理解し、諸改革の一環としてバルドー宮殿に\n軍事学校を設けた。そこでは講師にヨーロッパ人を雇い、西欧の\n軍事理論に則って次世代の将校が育てられた。これは当時の\nチュニジアにおける、西洋型カリキュラムを用いた最初の学校だった。;;;;;;;;;;X ACT278005A;軍事学校の創設を支援しよう;;;;;;;;;;X ACT278005B;今のところそこを改善する余裕はない;;;;;;;;;;X EVT278006N;チュニジアがクリミア戦争に協力;;;;;;;;;;X EVT278006D;チュニジア経済は1850年代半ば、ひどい苦境にあった。しかし\nアフマド・ベイはオスマン帝国との関係を維持するため、ロシアとの\n攻防に際して実際に行動に出ることで貢献を示さねばならないと信じ\n私有の宝石を売って追加召集した部隊の装備に充てたりもした。\nこうした彼のパフォーマンスにより、イギリスやフランスは\nチュニジアを支援する方向へと傾くことになる。;;;;;;;;;;X ACT278006A;必要とあらばカリフを助けよう;;;;;;;;;;X ACT278006B;スルタンを支援する立場にないさ;;;;;;;;;;X EVT278007N;ニザーム軍の創設;;;;;;;;;;X EVT278007D;チュニジアの独立は依然不安定なままにあり、そこから脱却するには\n少なくとも伝統的な方針に則って組織された軍隊のままではいけない。\nアフマド・ベイはそう理解し、またムハンマド・アリーによるエジプト統治の\n影響もあって、西欧式の教練を受けた軍隊を創設することで\nチュニジアで権力を握っているのがベイであることを示そうとした。\nこの部隊はニザーム軍と呼ばれ、人員は徴兵で賄われることになった。\n従来の募兵方法は部族の協力に頼るところが大きく、民衆からの\n不満もあった。そこから比べると大きな進歩である。;;;;;;;;;;X ACT278007A;新制軍を組織せよ;;;;;;;;;;X ACT278007B;伝統的な軍隊で十分だ;;;;;;;;;;X EVT278008N;アフマド・ベイの改革に伴う財政負担;;;;;;;;;;X EVT278008D;アフマド・ベイはチュニジアに西欧式の軍事・経済制度を導入しようと\n試みたが、これは多額の資金を必要とした割りに、あまり効果を\n挙げたわけでもなかった。ベイが新たな西欧式の宮殿に\n多くの金をつぎ込んでいたことも相まって、国家破産から逃れるためには\n増税など、経済に大きな負担を強いる必要が出てしまった。;;;;;;;;;;X ACT278008A;破産しては困る。税を上げよう;;;;;;;;;;X ACT278008B;反乱を考慮すればとても無理な話だ;;;;;;;;;;X EVT278009N;チュニス奴隷市場の閉鎖;;;;;;;;;;X EVT278009D;アフマド・ベイは、列強の駐チュニス領事らの関心事について\n実に鋭敏だった。19世紀、イギリスは奴隷制を廃止する国家とこそ\n良好な関係を持つべきだ、と積極的に主張してまわっていたのを受け、\n1841年、アフマド・ベイはチュニスの奴隷市場を閉鎖させた。\n北アフリカ最大級の奴隷市場を閉鎖することで、外交面でイギリスの\n支援が得られると踏んだのだ。しかしチュニジアの保守層からは、\nコーランでも認められている問題のない慣行をなぜ否定するのか、\nと怒りを買うことになってしまった。;;;;;;;;;;X ACT278009A;奴隷市場を閉鎖しよう;;;;;;;;;;X ACT278009B;閉鎖する必要は無い;;;;;;;;;;X EVT278010N;チュニジアの奴隷制度撤廃;;;;;;;;;;X EVT278010D;1841年に奴隷の売買停止を布告するや、イギリス領事はチュニジアでの\n奴隷制廃止を含め、ベイにさらなる行動を求めてきた。\nそしてアフマド・ベイは1846年、チュニジアにおいて\n奴隷制はもはや有効ではないと公示した。;;;;;;;;;;X ACT278010A;奴隷制を廃止しよう;;;;;;;;;;X ACT278010B;この慣行を維持しよう;;;;;;;;;;X EVT278011N;ムハンマド・ベイの承継;;;;;;;;;;X EVT278011D;1855年の5月、アフマド・ベイが死去した。ベイの地位は息子の\nムハンマドが名目上は継ぐことになったが、正式にベイとして\n認められるためにはオスマン帝国の承認が必要である。\nそのためイスタンブールに使節を送り、叙任書を受け取らねばならない。\nオスマン帝国がチュニジアに対して無理やり直接支配を及ぼそうとしても\nフランスはこれを認めないと保証してくれている。;;;;;;;;;;X EVT278012N;チュニジアとハットゥ・ヒュマユーン;;;;;;;;;;X EVT278012D;対ロシアでの支援を引き続き西欧諸国から得るため、オスマン帝国は\nハットゥ・ヒュマユーン(直筆勅書)を発布した。これはムスリムであるか\n否かを問わず、全ての臣民に法の下の平等を確約するものだ。\n帝国のスルタンはチュニジアもこの改革を施行するよう求めている。\nだがこれはオスマン帝国の法律が我が国でも有効なものであると、\nひいてはチュニジアが帝国の一州であると認めることになりえよう。;;;;;;;;;;X ACT278012B;オスマン帝国の求めに応じ、勅書を施行する;;;;;;;;;;X EVT278014N;ムハンマド・ベイの緊縮財政;;;;;;;;;;X EVT278014D;ムハンマド・ベイは、アフマド・ベイの税制を含めた諸改革がチュニジアの\n経済を苦しめていると考え、1857年の初旬に税制を改めた。\nアフマドの設けた各種の新税を廃し、マジバ税に一本化したのだ。\nこのマジバとはチュニジアの全ムスリムに納税義務のある人頭税で、\nアフマド・ベイの税金より税率も低く抑えられた。短期的にチュニジアの\n税収は減少したものの、1850年代に入ると農業分野で\n著しい経済状況の改善がみられ、歳入も安定するようになった。;;;;;;;;;;X ACT278014;オスマン帝国の求めに応じ、勅書を施行する;;;;;;;;;;X EVT278015N;バトー・スフェーズ事件;;;;;;;;;;X EVT278015D;チュニジア経済におけるヨーロッパの影響が強まり、チュニジア人でも\n西欧諸国の領事が雇った者ならば、外交官特権を享受できると\n表明されるまでになっている。そんな中、1857年にベイと\nムスリム高官の間で起こった諍いからある事件が発生した。\n高官の下で働いていたユダヤ人のバトー・スフェーズが、イスラームを\n冒涜したのだ。彼自身は列強の保護を受けていたわけではなかったため\nイスラム法により処罰されることになったが、\n法解釈によって鞭打ちか死刑かという差が出てしまった。\nイスラームの聖職者は処刑せよと言っており、\nヨーロッパの領事らはスフェーズを処刑しないようベイに警告してきた。;;;;;;;;;;X ACT278015A;神を冒涜する者は死罪だ!;;;;;;;;;;X ACT278015B;命だけは大目に見てやろう;;;;;;;;;;X EVT278016N;アフド・アラマーン;;;;;;;;;;X EVT278016D;バトー・スフェーズを処刑したことで、イギリスとフランスの\n公使は、法制度と経済システムを改革するよう求めてきた。\n1856年にオスマン帝国で布告されたハットゥ・ヒュマユーンのような\n改革を打ち出さなければ、内政に介入するとまで脅してきている。\nヨーロッパ人とその取り巻きらを審理するための法廷を設け、\nまた彼らにチュニジアでの土地所有権を与えるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278016A;アフド・アラマーンを布告しよう;;;;;;;;;;X ACT278016B;ヨーロッパ人どもは内政に干渉しすぎだ。追放してしまえ!;;;;;;;;;;X EVT278017N;ムハンマド・アッサーディクの即位;;;;;;;;;;X EVT278017D;1859年の9月、ムハンマド・ベイが死去した。ベイの地位は息子の\nムハンマド・アッサーディクが名目上は継ぐことになったが、\n正式にベイとして認められるためにはオスマン帝国の承認が必要である。\nそのためイスタンブールに使節を送り、叙任書を受け取らねばならない。\nもしオスマン帝国がチュニジアに対して無理やり直接支配を及ぼそうとしても\nフランスとイギリスはこれを認めないと保証してくれている。;;;;;;;;;;X EVT278018N;1861年ドゥストゥール(憲法);;;;;;;;;;X EVT278018D;アフド・アラマーンは、チュニジアが改革を行ううえでいわば青写真の\n役割を果たすよう期待された。しかしムハンマド・ベイの時代、多くの\n員会が開かれ憲法草案について論が交わされたが、時勢が立憲制へ\n傾くことはなかったのだ。だがムハンマド・アッサーディクはベイとなるや、\n憲法を公布することでこれが自身の地位を守ってくれると考え、\n立憲制への流れを完遂させるよう仕向けることになる。\n民主主義からは程遠かったが、かくしてベイや大土地所有者が任命した\n60人の議員からなるマジュリス(議会)が設けられ、またベイの宰相らは\nこのマジュリスに対して責任を負うこととなった。統治者の権力濫用を\n食い止めるという点で、1860年憲法はアラブ諸国初の憲法である。;;;;;;;;;;X ACT278018;憲法を公布せよ;;;;;;;;;;X EVT278019N;ハイルッディーンとチュニジアの改革;;;;;;;;;;X EVT278019D;1850年代も後半にはいると、ヨーロッパ流の発想にさらされた\n新らしい世代のチュニジア人が現れだした。チュニジアの近代化を\nさらに進めていくことを望む彼ら改革派は、ハイルッディーンを\n中心として憲法制定で設けられたマジュリスでも過半を窺うようになった。\nベイのような政治改革で既得権益が脅かされる階層に対し、\n彼らは引き続き改革を進めていこうとしている。;;;;;;;;;;X EVT278020N;エルランジェ債;;;;;;;;;;X EVT278020D;1860年代の初頭になると、チュニジア政府は新たな計画を立てる際、\n現地資本だけでは十分な資金を集められなくなった。\n計画の杜撰さから、また政権の腐敗も相まって、地元の貸付業者は\n政府に融資するのをためらうようになっていたのである。\nそこで当時ムスタファ・カズナダールが長らく宰相の地位にあったのだが、\nその側近のレバノン人、ラシード・アッダフダーフがパリのエルランジェ銀行と\n折衝し、チュニジア政府も借款を受けることができるようにしたのだった。\nおかげで政府は臨時収入を得ることができたが、\n利率はかつて利用していた土着の業者より高く、実務に差し障る部分も\n出ている。ともかくこれで政府は新たな財源を見つけたことになり、\nチュニジアの近代化も推し進めることもできそうだ。;;;;;;;;;;X ACT278020A;融資契約を結ぼう;;;;;;;;;;X ACT278020B;条件が厳しすぎる;;;;;;;;;;X EVT278021N;イギリス−チュニジア協定;;;;;;;;;;X EVT278021D;1861年憲法に始まる一連の流れにおいて、チュニジアの\n近代化論者にはある目標があった。すなわち、たとえ列強の臣民や\n被保護民であろうとも、チュニジアに住むものはみなチュニジアの法に\nよって裁かれるという原則を列強諸国に確約させることである。\nそれを受けてイギリス領事のリチャード・ウッドは、\nイギリス人に土地保有を認めないとする規制を撤廃すれば、\n治外法権の廃止を検討してみなくもない、と内々に伝えてきた。;;;;;;;;;;X ACT278021A;イギリスに条約締結を申し出る;;;;;;;;;;X ACT278021B;イギリスの案を蹴る;;;;;;;;;;X EVT278022N;汚職と腐敗によるチュニジアの改革への悪影響;;;;;;;;;;X EVT278022D;マジュリスの権能のひとつに、ベイの宰相らを監督することがあった。\nしかしこれはあくまで憲法の条文上の話であって、実行には\n多大な困難が伴った。アフマド・ベイの時代から大宰相を務めてきた\nムスタファ・カズナダールは、官僚組織をその末端に至るまで\n自身の影響下におき、しかもその影響力を彼とその取り巻きらが\n私腹を肥やすために使っていた。そして1863年、\n借款を担当する官吏の調査によってエルランジェ債に由来する資金の\n4割近くが着服されていたことが判明する。カズナダールは\n穏便に収めるためマジバの税率を倍にするほかないと主張したが、\nマジュリスでは内治を脅かすに違いないと反対意見が渦巻いている。;;;;;;;;;;X ACT278022;税額を上げるほかない;;;;;;;;;;X EVT278023N;アリー・イブン・ガザーヒムの反乱;;;;;;;;;;X EVT278023D;マジバの税率倍加はチュニジア国内で広く怒りを買い、1864年には\n部族の長であるアリー・イブン・ガザーヒムが反乱を起こした。\n彼は税の撤廃を求めたが、それに加えて政治改革を含む\nチュニジアを革新をめざす運動をすべからく中止せよとも主張した。\n反乱はチュニジアの大都市を瞬く間に席巻し、治安回復が\n滞れば武力介入も辞さないとヨーロッパ諸国から脅しがきている。;;;;;;;;;;X EVT278024D;チュニジアでの状況悪化がヨーロッパの介入を招くのではと心配した\nオスマン帝国のスルタンが、秩序の回復に充てるように、と\nムハンマド・アッサーディクへ軍事的、財政的援助を送ってくれた。;;;;;;;;;;X EVT278025N;チュニジア立憲制の試みの終焉;;;;;;;;;;X EVT278025D;1864年の反乱について、チュニジアの指導層の多くは、その責任を\n1861年憲法の施行に求めた。なぜならこれは多くのチュニジア人から、\n伝統を否定し、チュニジアに対して西欧諸国が影響力を強めるのに\n関与しているとみられていたためだ。そこへフランス領事の\nジャン・ガニアージュが立憲政治をやめてみては、と話を持ちかけてきた。\n彼は立憲君主制が、少なくとも短期的には、チュニジアへの影響力をめぐる\n争いにおいて、フランスよりもイギリスを利するように働くと考えていたのだ。。;;;;;;;;;;X ACT278025;かつてのベイの権力を復活させよう;;;;;;;;;;X EVT278026N;イタリア−チュニジア協定;;;;;;;;;;X EVT278026D;イギリス−チュニジア協定が1863年に無事締結されたことで、\n他の西欧諸国も徐々に考えを改め、チュニジアの市場への参加規模を\n大きくしたければ、治外法権に関するチュニジアの要求に応じるほかないと\n考えるようになった。1868年にはイタリアの領事も、イタリアの臣民が\nチュニジアの土地を所有できるようにするならば、本国政府も\nイギリスと同様の条約を結ぶ方向に傾くだろうと言ってきた。;;;;;;;;;;X ACT278026A;イタリアに条約締結を申し出る;;;;;;;;;;X ACT278026B;イタリアの案を蹴る;;;;;;;;;;X EVT278027N;ムスタファ・カズナダールの放漫な借入れ;;;;;;;;;;X EVT278027D;立憲制が終わりを迎えたことで、誰も古参の大宰相である\nムスタファ・カズナダールによる借財を縛ることができなくなった。\n彼はベイに仕える立場をもって広い権限が与えられ、\n国の内外を問わず融資者を募って借款を組み続けた。\nそして1866年末、ついに利払いがチュニジアの年始予算を上回った。\n債務者は利息を償還せよと口々に言い出し、\nチュニジアは深刻な経済危機に突入することとなる。;;;;;;;;;;X EVT278028N;チュニジア債務危機へのフランスの介入;;;;;;;;;;X EVT278028D;ムハンマド・アッサーディクは1868年、対外債務の\n利払いができなくなったとしてこれを停止した。\nそれを受けてフランス政府が要求してきたところによれば、\nチュニジアの財政はフランス人顧問の管理下に置かれ、\nまたフランスの投資家に対する借款返済を保証するために\n予算も編成しなおされることになる。\nこの要求を蹴れば、フランスはきっと軍事的に介入してくるだろう。;;;;;;;;;;X ACT278028A;仕方ない。チュニジア経済をフランスの管理下におこう;;;;;;;;;;X ACT278028B;フランスの要求は主権侵害だ。拒否せよ!;;;;;;;;;;X EVT278029N;チュニジアの負債に関する国際委員会;;;;;;;;;;X EVT278029D;チュニジア債務危機を解決するための委員会がフランス主導で\nつくられることに対し、ヨーロッパ諸国から反対の声が上がった。\nそのためイギリス、フランス、イタリア、チュニジアの代表からなる\n国際組織が作られることになり、チュニジア代表の首班には\nハイルッディーンが当たることになった。\nこの組織による監督が受け入れられない時には、\nヨーロッパ諸国が直接チュニジアに介入してくることが予想される。;;;;;;;;;;X ACT278029;負債委員会の創設を認める;;;;;;;;;;X EVT278030D;イタリア人が管理していた地所のひとつにアルジャディーダがあったが、\nその管理人とイスラーム聖職者の間で、土地の所有権と\n使用方法に関して諍いが起こった。イタリア人はこれを利用して、\nチュニジアでの権益をさらに拡大しようと目論んでいる。\nイギリス、フランスの領事もこれを止めさせるそぶりを見せていない。\nこれに抵抗すればイタリアの侵略を受けることになるかもしれない。;;;;;;;;;;X ACT278030;イタリアの要求を呑もう;;;;;;;;;;X EVT278031N;オスマン帝国の1871年勅令;;;;;;;;;;X EVT278031D;チュニジアの権益をめぐるイタリアの動きは激しくなる一方、フランスは\n1870年の普仏戦争敗戦からすっかりおとなしくなってしまった。\nこれを受けてイギリスは、イタリアを牽制するために\nオスマン帝国ともっと緊密にしてみては、と\nムハンマド・アッサーディクに忠告してきた。この案を実行に移せば、\nチュニジアは独立国家としての行動をとりにくくなることが考えられる。\nしかしイタリア勢力の増長に釘を刺してくれる者が増え、\nまたイギリスからさらなる支援を得やすくなるという利点もあるだろう。;;;;;;;;;;X ACT278031B;邪魔なオスマン帝国抜きに、列強のバランスをとろう;;;;;;;;;;X EVT278032N;グレット・バルドー間の鉄道権益;;;;;;;;;;X EVT278032D;オスマン帝国の1871年勅令の以後、チュニジア国内で最も影響力の\nある外国人の座はイギリス領事のリチャード・ウッドに移っていた。\nそれを受けて彼はベイに、イギリス企業に権益を与える形での\n開発構想をいくつか提示してきている。なかでも目を引くのが\nチュニジア初の鉄道建設計画だ。利益の保証をチュニジア政府が行う\n必要があるものの、チュニジア政府には自力で鉄道建設を行う余裕はない。\nそして何より鉄道は近代化に必要不可欠のものとみられているのだ。;;;;;;;;;;X ACT278032A;鉄道建設の権益を認めよう;;;;;;;;;;X ACT278032B;ヨーロッパ人どもにわが国の経済は支配させない!;;;;;;;;;;X EVT278033N;ムスタファ・カズナダールの失権;;;;;;;;;;X EVT278033D;大宰相カズナダールはアフマド・ベイの時代からチュニジアに仕えてきた。\nしかし彼はその地位にあるのをいいことに、自身と取り巻きの懐を\n肥やし続け、その有様は今なお語り草になっているほどである。\n負債問題を扱う国際委員会が発足してからも、カズナダールは\n何とかして不正蓄財を続けられないかと策を弄し続け、その結果\nチュニジア側委員の首班であるハイルッディーン、そしてフランス側委員の\nヴィクトール・ヴィレットと衝突することになった。そうこうするうちに1873年、\nカズナダールがその地位を国際委員会の足を引っ張るために\n悪用しているとする、明白な証拠をヴィレットが発見した。\nフランス領事はこれを受けてカズナダールの罷免を求めてきた。;;;;;;;;;;X ACT278033A;カズナダールはお荷物だ。追い出してしまえ!;;;;;;;;;;X ACT278033B;フランス人は分かっていない。汚職まみれでも彼こそが宰相だ;;;;;;;;;;X EVT278034N;ハイルッディーンが大宰相に就任;;;;;;;;;;X EVT278034D;ハイルッディーンは立憲制時代にマジュリスの長を務め、負債問題に\n関する国際委員会が開かれたときにはチュニジア代表団の首班であった。\n彼はカズナダール失脚後のチュニジアで働く官僚のなかでも、\nチュニジアに財政の安定化や近代化をもたらしてくれそうな\n本命馬とみられていた。イギリス、フランス、イタリアの3国とも\n諸手をあげて賛成しているなか、ムハンマド・アッサーディクが\nヨーロッパの支持を得るためには、ハイルッディーンを宰相とするほかない。;;;;;;;;;;X ACT278034;ハイルッディーンを宰相にしよう;;;;;;;;;;X EVT278035N;ハイルッディーンの経済改革;;;;;;;;;;X EVT278035D;国際委員会で決められたチュニジア側の義務を履行するには、\nそもそも経済状態が健全なものでなければならない。ハイルッディーンは\nこのことに気付き、行政機関にはびこっていた深刻な汚職を一掃、\nそして裕福な地主層が脱税に使っていた宗教財団の監督体制を整えた。\nこれで1870年代中期には、チュニジア経済も堅実な回復基調にのるだろう。;;;;;;;;;;X EVT278036N;サーディキーヤ学院;;;;;;;;;;X EVT278036D;ハイルッディーンは次世代のチュニジアを担う人材を教育するにあたり、\nイスラームの伝統に則ったものに加え、ヨーロッパの科学技術や\n外国語も教科に含めなければならないと確信していた。\n彼が1875年に創設したサーディキーヤ学院ではその思想が生かされ、\nヨーロッパの語学と科学の講座が開かれることになった。現在に至っても\nチュニジアでサーディキーヤ学院は、一流の教育機関の地位にある。;;;;;;;;;;X EVT278037N;グレット〜ゲルマ間の鉄道権益;;;;;;;;;;X EVT278037D;フランスの企業が、グレットからアルジェリアのゲルマに延びる\n鉄道を建設したいと、許可を求めてきた。これが完成すれば\nわが国と仏領アルジェリアが繋がる事になる。フランス領事のルースタンは\nこれに強く賛同しているが、政府内からは\nフランスがチュニジアを侵略する際に使うのでは、との懸念もある。\nまたイギリスとイタリアの領事もこの計画を快く思っていない。;;;;;;;;;;X EVT278038N;ハイルッディーンの失権;;;;;;;;;;X EVT278038D;大宰相ハイルッディーンはその在任中、イギリス、フランス、イタリアの\n3ヶ国がお互いに争うよう試みてきた。しかしグレット〜ゲルマ間の\n鉄道権益をめぐる争いで、フランスは彼を疎ましく思うようになってしまう。\nフランス領事のルースタンはハイルッディーンを失脚させようと動きだすが、\nイギリスもイタリアも救いの手を差し伸べることはなく、1877年7月には\nフランスから彼を解任するよう執拗な要求が来るまでになった。;;;;;;;;;;X ACT278038A;彼を罷免せよ;;;;;;;;;;X ACT278038B;誰が宰相たるべきか、フランス人にはお分かりでないようだ;;;;;;;;;;X EVT278039D;フランス領事のルースタンは新たな条約を提案してきた。これに\n合意すればフランス軍はチュニジア領内に自由に立ち入ることができ、\nまたわが国の内政はフランスの監督下におかれることになる。\nこの条約はフランスがチュニジアを傀儡とするためのものであり、\n他のヨーロッパ諸国の領事も\nわが国が拒絶するなら支援しようと言ってくれている。;;;;;;;;;;X EVT278040N;ムスタファ・イブン・イスマーイールが宰相に;;;;;;;;;;X EVT278040D;ハイルッディーンの失脚を受けてフランス領事は、次の宰相に\nムハンマド・アッサーディクの側近である\nムハンマド・イブン・イスマーイールを推薦してきた。彼は\nムスタファ・カズナダールと同様不正にまみれた人物で、\nそうした勢力の復権は、チュニジア政治におけるかつての改革路線が\n元の木阿弥になってしまったことを如実に表していた。;;;;;;;;;;X EVT278041D;フランス軍がチュニスに進駐してきた!フランス領事はチュニジアに対し、\n国境地帯の統治をフランス軍に委ね、またフランス人顧問に\n内政を監督させるよう求める条約の締結を迫っている。\nわが国の軍事力ではフランスに抵抗することは到底不可能で、\n他国の領事もフランスの突然の行為にあっけをとられた格好だ。;;;;;;;;;;X EVT278042D;フランスのチュニジア進駐を受けて、フランス支配に反対するかたちでの\n国際紛争が発生し、フランスは交戦状態に陥った。\nバルドー条約においてフランスは、チュニジアの内政を完全に管理下に\nおくよう規定されているが、我々はこの主権喪失を受諾すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278042A;もはや断れない。受諾しよう(ゲームオーバー);;;;;;;;;;X ACT278042B;主権を完全に失うなどとんでもない!抵抗しよう!;;;;;;;;;;X EVT278043N;アリー・ベイの承継;;;;;;;;;;X EVT278043D;ムハンマド・アッサーディク・ベイも1882年10月に死去し、弟のアリーが\n次のベイとなった。しかしこれは名目上の話であり、正式に\nベイとなるにはフランス政府の許可が必要である。\nそこで叙任書を受け取るため、パリへ使節団が送られた。;;;;;;;;;;X ACT278043;パリに使節団を送ろう;;;;;;;;;;X EVT278044D;アリー・ベイが太守位について間も空かぬうちに、彼はラ・マルサ協定に\n調印した。これはチュニジアの債務をフランス政府が\n肩代わりするものだが、そのかわりチュニジアの統治はフランスの監督下に\nおかれる事になった。ベイは国家元首の地位を約束され、\nまたムスリムらの宗教問題についての介入も否定されたが、\n実質的にはチュニジアの独立が終焉を迎えることになった。;;;;;;;;;;X
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[[VIPR翻訳]] ######278K - TUNISIA########;;;;;;;;;;;X EVT278000N;オスマン帝国のチュニジア介入;;;;;;;;;;X EVT278000D;ムスタファ・ベイは、1835年に父のフサインが死去したことを受けて\nチュニジアの統治者たる地位を承継したが、あくまで形式上である。\n実質的にベイたるにはオスマン帝国政府による認証が必要だった。\nオスマン帝国側はベイ(太守)について、あくまで帝国の官吏にすぎず\nスルタンの盟邦たる独立国家の統治者という訳ではないとの見方を\nほのめかしつつ年次の貢納を求めている。オスマン帝国の要求に従い\n貢納すべきだろうか?それとも帝国がチュニジアを自国の枠組みに\n含めようとすることについて、西欧諸国に助けを求めるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278000A;オスマン帝国の要求には屈せず、フランスに助けを請う;;;;;;;;;;X ACT278000B;オスマン帝国の要求に応じて貢納する;;;;;;;;;;X EVT278001N;フランスがチュニジアを見捨てる;;;;;;;;;;X EVT278001D;オスマン帝国はチュニジアに対し、完全な統制をかけようとしている。\n我々はこれに懸命に抵抗しているが、\nフランスはこれを支援するつもりはないと言ってきた。\nオスマン帝国の要求を呑まず、引き続き抵抗すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278001B;引き続きオスマン帝国の要求に抵抗しよう;;;;;;;;;;X EVT278002N;アフマド・ベイが太守を継ぐ;;;;;;;;;;X EVT278002D;1837年の10月、ムスタファ・ベイが死去した。\nベイの地位は息子のアフマドが名目上は継ぐことになったが、\n正式にベイとして認められるためにはオスマン帝国の承認が必要だ。\nイスタンブールに使節を送り、叙任書を受け取らねばならないのだ。\nオスマン帝国がチュニジアに対して無理やり直接支配を及ぼそうとしても、\nフランスはこれを認めないと保証してくれている。;;;;;;;;;;X ACT278002;イスタンブールに使節を送ろう;;;;;;;;;;X EVT278003D;オスマン帝国はムハンマド・アリーに対処するにあたって、西欧諸国の\n支持を継続的に得ようとし、その対価としてギュルハネ勅令を\n発布することになった。これはムスリムであるか否かを問わず、\n全ての帝国臣民に法の下の平等を認めるものだ。\n帝国のスルタンはチュニジアもこの改革を施行するよう求めている。\nだがこれはオスマン帝国の法律が我が国でも有効なものであると、\nひいてはチュニジアが帝国の一州であると認めることになりえよう。;;;;;;;;;;X ACT278003B;オスマン帝国の求めに応じ、ギュルハネ勅令を施行しよう;;;;;;;;;;X EVT278005N;バルドー軍事学校;;;;;;;;;;X EVT278005D;チュニジアの独立は依然不安定なままにあり、そこから脱却するには\n少なくとも伝統的な方針によって組織された軍隊のままではいけない。\nアフマド・ベイはそれを理解し、諸改革の一環としてバルドー宮殿に\n軍事学校を設けた。そこでは講師にヨーロッパ人を雇い、西欧の\n軍事理論に則って次世代の将校が育てられた。これは当時の\nチュニジアにおける、西洋型カリキュラムを用いた最初の学校だった。;;;;;;;;;;X ACT278005A;軍事学校の創設を支援しよう;;;;;;;;;;X ACT278005B;今のところそこを改善する余裕はない;;;;;;;;;;X EVT278006N;チュニジアがクリミア戦争に協力;;;;;;;;;;X EVT278006D;チュニジア経済は1850年代半ば、ひどい苦境にあった。しかし\nアフマド・ベイはオスマン帝国との関係を維持するため、ロシアとの\n攻防に際して実際に行動に出ることで貢献を示さねばならないと信じ\n私有の宝石を売って追加召集した部隊の装備に充てたりもした。\nこうした彼のパフォーマンスにより、イギリスやフランスは\nチュニジアを支援する方向へと傾くことになる。;;;;;;;;;;X ACT278006A;必要とあらばカリフを助けよう;;;;;;;;;;X ACT278006B;スルタンを支援する立場にないさ;;;;;;;;;;X EVT278007N;ニザーム軍の創設;;;;;;;;;;X EVT278007D;チュニジアの独立は依然不安定なままにあり、そこから脱却するには\n少なくとも伝統的な方針に則って組織された軍隊のままではいけない。\nアフマド・ベイはそう理解し、またムハンマド・アリーによるエジプト統治の\n影響もあって、西欧式の教練を受けた軍隊を創設することで\nチュニジアで権力を握っているのがベイであることを示そうとした。\nこの部隊はニザーム軍と呼ばれ、人員は徴兵で賄われることになった。\n従来の募兵方法は部族の協力に頼るところが大きく、民衆からの\n不満もあった。そこから比べると大きな進歩である。;;;;;;;;;;X ACT278007A;新制軍を組織せよ;;;;;;;;;;X ACT278007B;伝統的な軍隊で十分だ;;;;;;;;;;X EVT278008N;アフマド・ベイの改革に伴う財政負担;;;;;;;;;;X EVT278008D;アフマド・ベイはチュニジアに西欧式の軍事・経済制度を導入しようと\n試みたが、これは多額の資金を必要とした割りに、あまり効果を\n挙げたわけでもなかった。ベイが新たな西欧式の宮殿に\n多くの金をつぎ込んでいたことも相まって、国家破産から逃れるためには\n増税など、経済に大きな負担を強いる必要が出てしまった。;;;;;;;;;;X ACT278008A;破産しては困る。税を上げよう;;;;;;;;;;X ACT278008B;反乱を考慮すればとても無理な話だ;;;;;;;;;;X EVT278009N;チュニス奴隷市場の閉鎖;;;;;;;;;;X EVT278009D;アフマド・ベイは、列強の駐チュニス領事らの関心事について\n実に鋭敏だった。19世紀、イギリスは奴隷制を廃止する国家とこそ\n良好な関係を持つべきだ、と積極的に主張してまわっていたのを受け、\n1841年、アフマド・ベイはチュニスの奴隷市場を閉鎖させた。\n北アフリカ最大級の奴隷市場を閉鎖することで、外交面でイギリスの\n支援が得られると踏んだのだ。しかしチュニジアの保守層からは、\nコーランでも認められている問題のない慣行をなぜ否定するのか、\nと怒りを買うことになってしまった。;;;;;;;;;;X ACT278009A;奴隷市場を閉鎖しよう;;;;;;;;;;X ACT278009B;閉鎖する必要は無い;;;;;;;;;;X EVT278010N;チュニジアの奴隷制度撤廃;;;;;;;;;;X EVT278010D;1841年に奴隷の売買停止を布告するや、イギリス領事はチュニジアでの\n奴隷制廃止を含め、ベイにさらなる行動を求めてきた。\nそしてアフマド・ベイは1846年、チュニジアにおいて\n奴隷制はもはや有効ではないと公示した。;;;;;;;;;;X ACT278010A;奴隷制を廃止しよう;;;;;;;;;;X ACT278010B;この慣行を維持しよう;;;;;;;;;;X EVT278011N;ムハンマド・ベイの承継;;;;;;;;;;X EVT278011D;1855年の5月、アフマド・ベイが死去した。ベイの地位は息子の\nムハンマドが名目上は継ぐことになったが、正式にベイとして\n認められるためにはオスマン帝国の承認が必要である。\nそのためイスタンブールに使節を送り、叙任書を受け取らねばならない。\nオスマン帝国がチュニジアに対して無理やり直接支配を及ぼそうとしても\nフランスはこれを認めないと保証してくれている。;;;;;;;;;;X EVT278012N;チュニジアとハットゥ・ヒュマユーン;;;;;;;;;;X EVT278012D;対ロシアでの支援を引き続き西欧諸国から得るため、オスマン帝国は\nハットゥ・ヒュマユーン(直筆勅書)を発布した。これはムスリムであるか\n否かを問わず、全ての臣民に法の下の平等を確約するものだ。\n帝国のスルタンはチュニジアもこの改革を施行するよう求めている。\nだがこれはオスマン帝国の法律が我が国でも有効なものであると、\nひいてはチュニジアが帝国の一州であると認めることになりえよう。;;;;;;;;;;X ACT278012B;オスマン帝国の求めに応じ、勅書を施行する;;;;;;;;;;X EVT278014N;ムハンマド・ベイの緊縮財政;;;;;;;;;;X EVT278014D;ムハンマド・ベイは、アフマド・ベイの税制を含めた諸改革がチュニジアの\n経済を苦しめていると考え、1857年の初旬に税制を改めた。\nアフマドの設けた各種の新税を廃し、マジバ税に一本化したのだ。\nこのマジバとはチュニジアの全ムスリムに納税義務のある人頭税で、\nアフマド・ベイの税金より税率も低く抑えられた。短期的にチュニジアの\n税収は減少したものの、1850年代に入ると農業分野で\n著しい経済状況の改善がみられ、歳入も安定するようになった。;;;;;;;;;;X ACT278014;オスマン帝国の求めに応じ、勅書を施行する;;;;;;;;;;X EVT278015N;バトー・スフェーズ事件;;;;;;;;;;X EVT278015D;チュニジア経済におけるヨーロッパの影響が強まり、チュニジア人でも\n西欧諸国の領事が雇った者ならば、外交官特権を享受できると\n表明されるまでになっている。そんな中、1857年にベイと\nムスリム高官の間で起こった諍いからある事件が発生した。\n高官の下で働いていたユダヤ人のバトー・スフェーズが、イスラームを\n冒涜したのだ。彼自身は列強の保護を受けていたわけではなかったため\nイスラム法により処罰されることになったが、\n法解釈によって鞭打ちか死刑かという差が出てしまった。\nイスラームの聖職者は処刑せよと言っており、\nヨーロッパの領事らはスフェーズを処刑しないようベイに警告してきた。;;;;;;;;;;X ACT278015A;神を冒涜する者は死罪だ!;;;;;;;;;;X ACT278015B;命だけは大目に見てやろう;;;;;;;;;;X EVT278016N;アフド・アラマーン;;;;;;;;;;X EVT278016D;バトー・スフェーズを処刑したことで、イギリスとフランスの\n公使は、法制度と経済システムを改革するよう求めてきた。\n1856年にオスマン帝国で布告されたハットゥ・ヒュマユーンのような\n改革を打ち出さなければ、内政に介入するとまで脅してきている。\nヨーロッパ人とその取り巻きらを審理するための法廷を設け、\nまた彼らにチュニジアでの土地所有権を与えるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278016A;アフド・アラマーンを布告しよう;;;;;;;;;;X ACT278016B;ヨーロッパ人どもは内政に干渉しすぎだ。追放してしまえ!;;;;;;;;;;X EVT278017N;ムハンマド・アッサーディクの即位;;;;;;;;;;X EVT278017D;1859年の9月、ムハンマド・ベイが死去した。ベイの地位は息子の\nムハンマド・アッサーディクが名目上は継ぐことになったが、\n正式にベイとして認められるためにはオスマン帝国の承認が必要である。\nそのためイスタンブールに使節を送り、叙任書を受け取らねばならない。\nもしオスマン帝国がチュニジアに対して無理やり直接支配を及ぼそうとしても\nフランスとイギリスはこれを認めないと保証してくれている。;;;;;;;;;;X EVT278018N;1861年ドゥストゥール(憲法);;;;;;;;;;X EVT278018D;アフド・アラマーンは、チュニジアが改革を行ううえでいわば青写真の\n役割を果たすよう期待された。しかしムハンマド・ベイの時代、多くの\n員会が開かれ憲法草案について論が交わされたが、時勢が立憲制へ\n傾くことはなかったのだ。だがムハンマド・アッサーディクはベイとなるや、\n憲法を公布することでこれが自身の地位を守ってくれると考え、\n立憲制への流れを完遂させるよう仕向けることになる。\n民主主義からは程遠かったが、かくしてベイや大土地所有者が任命した\n60人の議員からなるマジュリス(議会)が設けられ、またベイの宰相らは\nこのマジュリスに対して責任を負うこととなった。統治者の権力濫用を\n食い止めるという点で、1860年憲法はアラブ諸国初の憲法である。;;;;;;;;;;X ACT278018;憲法を公布せよ;;;;;;;;;;X EVT278019N;ハイルッディーンとチュニジアの改革;;;;;;;;;;X EVT278019D;1850年代も後半にはいると、ヨーロッパ流の発想にさらされた\n新らしい世代のチュニジア人が現れだした。チュニジアの近代化を\nさらに進めていくことを望む彼ら改革派は、ハイルッディーンを\n中心として憲法制定で設けられたマジュリスでも過半を窺うようになった。\nベイのような政治改革で既得権益が脅かされる階層に対し、\n彼らは引き続き改革を進めていこうとしている。;;;;;;;;;;X EVT278020N;エルランジェ債;;;;;;;;;;X EVT278020D;1860年代の初頭になると、チュニジア政府は新たな計画を立てる際、\n現地資本だけでは十分な資金を集められなくなった。\n計画の杜撰さから、また政権の腐敗も相まって、地元の貸付業者は\n政府に融資するのをためらうようになっていたのである。\nそこで当時ムスタファ・カズナダールが長らく宰相の地位にあったのだが、\nその側近のレバノン人、ラシード・アッダフダーフがパリのエルランジェ銀行と\n折衝し、チュニジア政府も借款を受けることができるようにしたのだった。\nおかげで政府は臨時収入を得ることができたが、\n利率はかつて利用していた土着の業者より高く、実務に差し障る部分も\n出ている。ともかくこれで政府は新たな財源を見つけたことになり、\nチュニジアの近代化も推し進めることもできそうだ。;;;;;;;;;;X ACT278020A;融資契約を結ぼう;;;;;;;;;;X ACT278020B;条件が厳しすぎる;;;;;;;;;;X EVT278021N;イギリス−チュニジア協定;;;;;;;;;;X EVT278021D;1861年憲法に始まる一連の流れにおいて、チュニジアの\n近代化論者にはある目標があった。すなわち、たとえ列強の臣民や\n被保護民であろうとも、チュニジアに住むものはみなチュニジアの法に\nよって裁かれるという原則を列強諸国に確約させることである。\nそれを受けてイギリス領事のリチャード・ウッドは、\nイギリス人に土地保有を認めないとする規制を撤廃すれば、\n治外法権の廃止を検討してみなくもない、と内々に伝えてきた。;;;;;;;;;;X ACT278021A;イギリスに条約締結を申し出る;;;;;;;;;;X ACT278021B;イギリスの案を蹴る;;;;;;;;;;X EVT278022N;汚職と腐敗によるチュニジアの改革への悪影響;;;;;;;;;;X EVT278022D;マジュリスの権能のひとつに、ベイの宰相らを監督することがあった。\nしかしこれはあくまで憲法の条文上の話であって、実行には\n多大な困難が伴った。アフマド・ベイの時代から大宰相を務めてきた\nムスタファ・カズナダールは、官僚組織をその末端に至るまで\n自身の影響下におき、しかもその影響力を彼とその取り巻きらが\n私腹を肥やすために使っていた。そして1863年、\n借款を担当する官吏の調査によってエルランジェ債に由来する資金の\n4割近くが着服されていたことが判明する。カズナダールは\n穏便に収めるためマジバの税率を倍にするほかないと主張したが、\nマジュリスでは内治を脅かすに違いないと反対意見が渦巻いている。;;;;;;;;;;X ACT278022;税額を上げるほかない;;;;;;;;;;X EVT278023N;アリー・イブン・ガザーヒムの反乱;;;;;;;;;;X EVT278023D;マジバの税率倍加はチュニジア国内で広く怒りを買い、1864年には\n部族の長であるアリー・イブン・ガザーヒムが反乱を起こした。\n彼は税の撤廃を求めたが、それに加えて政治改革を含む\nチュニジアを革新をめざす運動をすべからく中止せよとも主張した。\n反乱はチュニジアの大都市を瞬く間に席巻し、治安回復が\n滞れば武力介入も辞さないとヨーロッパ諸国から脅しがきている。;;;;;;;;;;X EVT278024D;チュニジアでの状況悪化がヨーロッパの介入を招くのではと心配した\nオスマン帝国のスルタンが、秩序の回復に充てるように、と\nムハンマド・アッサーディクへ軍事的、財政的援助を送ってくれた。;;;;;;;;;;X EVT278025N;チュニジア立憲制の試みの終焉;;;;;;;;;;X EVT278025D;1864年の反乱について、チュニジアの指導層の多くは、その責任を\n1861年憲法の施行に求めた。なぜならこれは多くのチュニジア人から、\n伝統を否定し、チュニジアに対して西欧諸国が影響力を強めるのに\n関与しているとみられていたためだ。そこへフランス領事の\nジャン・ガニアージュが立憲政治をやめてみては、と話を持ちかけてきた。\n彼は立憲君主制が、少なくとも短期的には、チュニジアへの影響力をめぐる\n争いにおいて、フランスよりもイギリスを利するように働くと考えていたのだ。。;;;;;;;;;;X ACT278025;かつてのベイの権力を復活させよう;;;;;;;;;;X EVT278026N;イタリア−チュニジア協定;;;;;;;;;;X EVT278026D;イギリス−チュニジア協定が1863年に無事締結されたことで、\n他の西欧諸国も徐々に考えを改め、チュニジアの市場への参加規模を\n大きくしたければ、治外法権に関するチュニジアの要求に応じるほかないと\n考えるようになった。1868年にはイタリアの領事も、イタリアの臣民が\nチュニジアの土地を所有できるようにするならば、本国政府も\nイギリスと同様の条約を結ぶ方向に傾くだろうと言ってきた。;;;;;;;;;;X ACT278026A;イタリアに条約締結を申し出る;;;;;;;;;;X ACT278026B;イタリアの案を蹴る;;;;;;;;;;X EVT278027N;ムスタファ・カズナダールの放漫な借入れ;;;;;;;;;;X EVT278027D;立憲制が終わりを迎えたことで、誰も古参の大宰相である\nムスタファ・カズナダールによる借財を縛ることができなくなった。\n彼はベイに仕える立場をもって広い権限が与えられ、\n国の内外を問わず融資者を募って借款を組み続けた。\nそして1866年末、ついに利払いがチュニジアの年始予算を上回った。\n債務者は利息を償還せよと口々に言い出し、\nチュニジアは深刻な経済危機に突入することとなる。;;;;;;;;;;X EVT278028N;チュニジア債務危機へのフランスの介入;;;;;;;;;;X EVT278028D;ムハンマド・アッサーディクは1868年、対外債務の\n利払いができなくなったとしてこれを停止した。\nそれを受けてフランス政府が要求してきたところによれば、\nチュニジアの財政はフランス人顧問の管理下に置かれ、\nまたフランスの投資家に対する借款返済を保証するために\n予算も編成しなおされることになる。\nこの要求を蹴れば、フランスはきっと軍事的に介入してくるだろう。;;;;;;;;;;X ACT278028A;仕方ない。チュニジア経済をフランスの管理下におこう;;;;;;;;;;X ACT278028B;フランスの要求は主権侵害だ。拒否せよ!;;;;;;;;;;X EVT278029N;チュニジアの負債に関する国際委員会;;;;;;;;;;X EVT278029D;チュニジア債務危機を解決するための委員会がフランス主導で\nつくられることに対し、ヨーロッパ諸国から反対の声が上がった。\nそのためイギリス、フランス、イタリア、チュニジアの代表からなる\n国際組織が作られることになり、チュニジア代表の首班には\nハイルッディーンが当たることになった。\nこの組織による監督が受け入れられない時には、\nヨーロッパ諸国が直接チュニジアに介入してくることが予想される。;;;;;;;;;;X ACT278029;負債委員会の創設を認める;;;;;;;;;;X EVT278030D;イタリア人が管理していた地所のひとつにアルジャディーダがあったが、\nその管理人とイスラーム聖職者の間で、土地の所有権と\n使用方法に関して諍いが起こった。イタリア人はこれを利用して、\nチュニジアでの権益をさらに拡大しようと目論んでいる。\nイギリス、フランスの領事もこれを止めさせるそぶりを見せていない。\nこれに抵抗すればイタリアの侵略を受けることになるかもしれない。;;;;;;;;;;X ACT278030;イタリアの要求を呑もう;;;;;;;;;;X EVT278031N;オスマン帝国の1871年勅令;;;;;;;;;;X EVT278031D;チュニジアの権益をめぐるイタリアの動きは激しくなる一方、フランスは\n1870年の普仏戦争敗戦からすっかりおとなしくなってしまった。\nこれを受けてイギリスは、イタリアを牽制するために\nオスマン帝国ともっと緊密にしてみては、と\nムハンマド・アッサーディクに忠告してきた。この案を実行に移せば、\nチュニジアは独立国家としての行動をとりにくくなることが考えられる。\nしかしイタリア勢力の増長に釘を刺してくれる者が増え、\nまたイギリスからさらなる支援を得やすくなるという利点もあるだろう。;;;;;;;;;;X ACT278031B;邪魔なオスマン帝国抜きに、列強のバランスをとろう;;;;;;;;;;X EVT278032N;グレット・バルドー間の鉄道権益;;;;;;;;;;X EVT278032D;オスマン帝国の1871年勅令の以後、チュニジア国内で最も影響力の\nある外国人の座はイギリス領事のリチャード・ウッドに移っていた。\nそれを受けて彼はベイに、イギリス企業に権益を与える形での\n開発構想をいくつか提示してきている。なかでも目を引くのが\nチュニジア初の鉄道建設計画だ。利益の保証をチュニジア政府が行う\n必要があるものの、チュニジア政府には自力で鉄道建設を行う余裕はない。\nそして何より鉄道は近代化に必要不可欠のものとみられているのだ。;;;;;;;;;;X ACT278032A;鉄道建設の権益を認めよう;;;;;;;;;;X ACT278032B;ヨーロッパ人どもにわが国の経済は支配させない!;;;;;;;;;;X EVT278033N;ムスタファ・カズナダールの失権;;;;;;;;;;X EVT278033D;大宰相カズナダールはアフマド・ベイの時代からチュニジアに仕えてきた。\nしかし彼はその地位にあるのをいいことに、自身と取り巻きの懐を\n肥やし続け、その有様は今なお語り草になっているほどである。\n負債問題を扱う国際委員会が発足してからも、カズナダールは\n何とかして不正蓄財を続けられないかと策を弄し続け、その結果\nチュニジア側委員の首班であるハイルッディーン、そしてフランス側委員の\nヴィクトール・ヴィレットと衝突することになった。そうこうするうちに1873年、\nカズナダールがその地位を国際委員会の足を引っ張るために\n悪用しているとする、明白な証拠をヴィレットが発見した。\nフランス領事はこれを受けてカズナダールの罷免を求めてきた。;;;;;;;;;;X ACT278033A;カズナダールはお荷物だ。追い出してしまえ!;;;;;;;;;;X ACT278033B;フランス人は分かっていない。汚職まみれでも彼こそが宰相だ;;;;;;;;;;X EVT278034N;ハイルッディーンが大宰相に就任;;;;;;;;;;X EVT278034D;ハイルッディーンは立憲制時代にマジュリスの長を務め、負債問題に\n関する国際委員会が開かれたときにはチュニジア代表団の首班であった。\n彼はカズナダール失脚後のチュニジアで働く官僚のなかでも、\nチュニジアに財政の安定化や近代化をもたらしてくれそうな\n本命馬とみられていた。イギリス、フランス、イタリアの3国とも\n諸手をあげて賛成しているなか、ムハンマド・アッサーディクが\nヨーロッパの支持を得るためには、ハイルッディーンを宰相とするほかない。;;;;;;;;;;X ACT278034;ハイルッディーンを宰相にしよう;;;;;;;;;;X EVT278035N;ハイルッディーンの経済改革;;;;;;;;;;X EVT278035D;国際委員会で決められたチュニジア側の義務を履行するには、\nそもそも経済状態が健全なものでなければならない。ハイルッディーンは\nこのことに気付き、行政機関にはびこっていた深刻な汚職を一掃、\nそして裕福な地主層が脱税に使っていた宗教財団の監督体制を整えた。\nこれで1870年代中期には、チュニジア経済も堅実な回復基調にのるだろう。;;;;;;;;;;X EVT278036N;サーディキーヤ学院;;;;;;;;;;X EVT278036D;ハイルッディーンは次世代のチュニジアを担う人材を教育するにあたり、\nイスラームの伝統に則ったものに加え、ヨーロッパの科学技術や\n外国語も教科に含めなければならないと確信していた。\n彼が1875年に創設したサーディキーヤ学院ではその思想が生かされ、\nヨーロッパの語学と科学の講座が開かれることになった。現在に至っても\nチュニジアでサーディキーヤ学院は、一流の教育機関の地位にある。;;;;;;;;;;X EVT278037N;グレット〜ゲルマ間の鉄道権益;;;;;;;;;;X EVT278037D;フランスの企業が、グレットからアルジェリアのゲルマに延びる\n鉄道を建設したいと、許可を求めてきた。これが完成すれば\nわが国と仏領アルジェリアが繋がる事になる。フランス領事のルースタンは\nこれに強く賛同しているが、政府内からは\nフランスがチュニジアを侵略する際に使うのでは、との懸念もある。\nまたイギリスとイタリアの領事もこの計画を快く思っていない。;;;;;;;;;;X EVT278038N;ハイルッディーンの失権;;;;;;;;;;X EVT278038D;大宰相ハイルッディーンはその在任中、イギリス、フランス、イタリアの\n3ヶ国がお互いに争うよう試みてきた。しかしグレット〜ゲルマ間の\n鉄道権益をめぐる争いで、フランスは彼を疎ましく思うようになってしまう。\nフランス領事のルースタンはハイルッディーンを失脚させようと動きだすが、\nイギリスもイタリアも救いの手を差し伸べることはなく、1877年7月には\nフランスから彼を解任するよう執拗な要求が来るまでになった。;;;;;;;;;;X ACT278038A;彼を罷免せよ;;;;;;;;;;X ACT278038B;誰が宰相たるべきか、フランス人にはお分かりでないようだ;;;;;;;;;;X EVT278039D;フランス領事のルースタンは新たな条約を提案してきた。これに\n合意すればフランス軍はチュニジア領内に自由に立ち入ることができ、\nまたわが国の内政はフランスの監督下におかれることになる。\nこの条約はフランスがチュニジアを傀儡とするためのものであり、\n他のヨーロッパ諸国の領事も\nわが国が拒絶するなら支援しようと言ってくれている。;;;;;;;;;;X EVT278040N;ムスタファ・イブン・イスマーイールが宰相に;;;;;;;;;;X EVT278040D;ハイルッディーンの失脚を受けてフランス領事は、次の宰相に\nムハンマド・アッサーディクの側近である\nムハンマド・イブン・イスマーイールを推薦してきた。彼は\nムスタファ・カズナダールと同様不正にまみれた人物で、\nそうした勢力の復権は、チュニジア政治におけるかつての改革路線が\n元の木阿弥になってしまったことを如実に表していた。;;;;;;;;;;X EVT278041D;フランス軍がチュニスに進駐してきた!フランス領事はチュニジアに対し、\n国境地帯の統治をフランス軍に委ね、またフランス人顧問に\n内政を監督させるよう求める条約の締結を迫っている。\nわが国の軍事力ではフランスに抵抗することは到底不可能で、\n他国の領事もフランスの突然の行為にあっけをとられた格好だ。;;;;;;;;;;X EVT278042D;フランスのチュニジア進駐を受けて、フランス支配に反対するかたちでの\n国際紛争が発生し、フランスは交戦状態に陥った。\nバルドー条約においてフランスは、チュニジアの内政を完全に管理下に\nおくよう規定されているが、我々はこの主権喪失を受諾すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT278042A;もはや断れない。受諾しよう(ゲームオーバー);;;;;;;;;;X ACT278042B;主権を完全に失うなどとんでもない!抵抗しよう!;;;;;;;;;;X EVT278043N;アリー・ベイの承継;;;;;;;;;;X EVT278043D;ムハンマド・アッサーディク・ベイも1882年10月に死去し、弟のアリーが\n次のベイとなった。しかしこれは名目上の話であり、正式に\nベイとなるにはフランス政府の許可が必要である。\nそこで叙任書を受け取るため、パリへ使節団が送られた。;;;;;;;;;;X ACT278043;パリに使節団を送ろう;;;;;;;;;;X EVT278044D;アリー・ベイが太守位について間も空かぬうちに、彼はラ・マルサ協定に\n調印した。これはチュニジアの債務をフランス政府が\n肩代わりするものだが、そのかわりチュニジアの統治はフランスの監督下に\nおかれる事になった。ベイは国家元首の地位を約束され、\nまたムスリムらの宗教問題についての介入も否定されたが、\n実質的にはチュニジアの独立が終焉を迎えることになった。;;;;;;;;;;X
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