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[[VIPR翻訳]] ####### 303K Uruguay ------##;;;;;;;;;;;X EVT303000N;リオグランデ共和国がピラティニ同盟を提案;;;;;;;;;;X EVT303000D;リオグランデ共和国が我々に防衛同盟を求めてきた。彼らは現在和平中\nであるが、実際のところブラジルの反乱軍である。しかしながら、この\n共和国は我々とブラジルの緩衝国として機能するかもしれないので、ブ\nラジルは我々の内政問題に干渉ができなくなる。;;;;;;;;;;X EVT303002N;リベラの最初のクーデターの試み;;;;;;;;;;X EVT303002D;リベラが大統領職にいる間、ラバリェハは3度にわたり反乱を組織し失\n敗した。リベラの後任の大統領にはオリベが就任したが、オリベがラバ\nリェハと彼の支持者がブラジルから帰国することを許可した後、リベラ\nは再び反抗を始めた。1836年、カルピンテリアの戦いによって初めて、\n政府軍は白を、リベラ軍は赤を使用した。;;;;;;;;;;X ACT303002A;リベラの勢力がモンテビデオで広がっている;;;;;;;;;;X EVT303003N;ロサスが助けを請う;;;;;;;;;;X EVT303003D;ロサスは我々を助けるためにアルゼンチンの師団を送ってきた。;;;;;;;;;;X EVT303004N;リベラの2回目のクーデターの試み;;;;;;;;;;X EVT303004D;政府軍は1836年9月19日にカルペンテリアの戦いで敗れた。リベラはよ\nり多くの軍隊を召集し、オリベに対して再びモンテビデオに進軍した。;;;;;;;;;;X EVT303005N;リベラのクーデター;;;;;;;;;;X EVT303005D;1838年6月、リベラのコロラド党はオリベのブランコ党を破り、オリベ\nはブエノスアイレスに追放された。;;;;;;;;;;X ACT303005A;コロラド党のクーデター!;;;;;;;;;;X ACT303006A;条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT303006B;外国に介入すべきではない;;;;;;;;;;X EVT303007N;カンゲ条約の破棄;;;;;;;;;;X EVT303007D;一旦共和国の大統領職を引き受けると、オリベ将軍は国際紛争の種にな\nらないように条約を無効にした。;;;;;;;;;;X ACT303007A;条約を無効にする;;;;;;;;;;X ACT303007B;良い条約であろう;;;;;;;;;;X EVT303008N;カンゲ条約が批准される;;;;;;;;;;X EVT303008D;リオグランデ共和国はカンゲ条約を締結することに同意し、ウルグアイ\nとファロウピラスの国境を制定して両国が互いの領土要求を取り下げた。;;;;;;;;;;X EVT303009N;ウルグアイがパラグアイの独立を承認;;;;;;;;;;X EVT303009D;1849年、ウルグアイ政府は最終的にパラグアイの独立を承認した。この\n承認により2つのラプラタの小国間の関係は改善し、パラグアイの影響\n力がこの地域で増加することを許容した。;;;;;;;;;;X ACT303009A;パラグアイの独立を承認する;;;;;;;;;;X ACT303009B;パラグアイの独立を承認しない;;;;;;;;;;X EVT303010N;オリベ・リベラの奴隷解放;;;;;;;;;;X EVT303010D;1842年、守備側のモンテビデオ政府は、軍隊に加入したものに限って適\n用される、奴隷制の部分的な廃止法案を制定した。一方、セリト政府の\n公布した廃止法案は、それよりも効力があるものであった。;;;;;;;;;;X ACT303010A;我々は人的資源を必要としている;;;;;;;;;;X EVT303011N;ガリバルディとイタリア外人部隊;;;;;;;;;;X EVT303011D;大戦争の要素のうちで際立ったものとして、ジュセッペ・ガリバルディの存\n在があげられる。彼はイタリア統一の英雄のひとりで「カミサス・ロハス(\n赤シャツ)」を身につけたイタリア人旅団の最前線に立ち、コロラド派の\n側に立って連邦派のロサスおよびブランコ派のオリベと戦った。;;;;;;;;;;X ACT303011A;ガリバルディと赤シャツ隊だ;;;;;;;;;;X EVT303012N;モンテビデオの要塞化;;;;;;;;;;X EVT303012D;オリベの軍隊が近づいてくるにつれ、防衛政府の権力者はこれに対抗\nすべく、モンテビデオ周辺の要塞化をすすめた。幾度かの戦闘の後、戦\n線は防壁からある程度離れたところで安定し、新鮮な食料を得るため\nの耕地を近辺に確保できるようになった。;;;;;;;;;;X ACT303012A;防衛力を強化しよう;;;;;;;;;;X ACT303012B;どこにそんな金が?;;;;;;;;;;X ACT303013A;ブラジルの支援を受ける;;;;;;;;;;X ACT303013B;我々は自分達でやっていける;;;;;;;;;;X EVT303014N;新トロイ戦争とセリト政府;;;;;;;;;;X EVT303014D;包囲の後、ウルグアイには長期間ホアキン・スアレスのモンテビデオ政\n府と内陸部を支配するオリベのセリト政府が並立していた。セリト政府\nは合法的にオリベを大統領に選出したが、リベラが辞職しなかったため\n軍隊によってリベラを追放した。;;;;;;;;;;X ACT303014A;オリベがセリトから統治する;;;;;;;;;;X EVT303015N;10月のラパス平和協定;;;;;;;;;;X EVT303015D;10月のラパス平和協定は「大戦争」の終わりの結果結ばれ、モンテビ\nデオ政府の正当性が確認された。またオリベは亡命し、セリト政府の全\nての行為が正当な手続きを経たものであると宣言され、両政府共に全て\nの関係者が戦争責任を問われないこととなり、法の下に平等とされた。\n政府は可能な限り早期の選挙を行うべきである。;;;;;;;;;;X ACT303015A;モンテビデオ政府が認められた;;;;;;;;;;X EVT303016N;ついに行われた選挙;;;;;;;;;;X EVT303016D;「大戦争」は経済的、社会的、政治的に大きな遺産を残した。国内の安\n定を得るための融合政策の模索は、1851年末の選挙の結果で顕著に現れ\nた。和合のために、政治的な合同が試みられた。;;;;;;;;;;X ACT303016A;選挙を行う;;;;;;;;;;X ACT303016B;権力をこの手に留める;;;;;;;;;;X EVT303017D;議会はエウヘネ・ガルソン将軍を望んでいたが、彼の突然の死により議\n員の論争がマヌエル・エレラ・イ・オベス派とフアン・フランシスコ・\nヒロ派の間で起きた。最終的には一方が満場一致で勝利したものの、完\n全に権限を委託されたわけではなかった。;;;;;;;;;;X ACT303017A;ブランコ党が権力に復帰;;;;;;;;;;X EVT303018N;フローレス・リベラ・ラバリェハの反乱;;;;;;;;;;X EVT303018D;コロラド党の反乱は1853年7月に、ウルグアイの債権国に支援されたマ\nルチョル・パチェコ・イ・オベスによって指揮され始まった。彼らの政\n治的要求は、ベナンシオ・フローレスがモンテビデオの政府首班に就任\nし、リベラとラバリェハで三頭政治を敷くことである。その直後にリベ\nラとラバリェハが死亡し、フローレス一人が残った。1854年5月、議会\nはヒロ大統領を辞任させ、フローレスを大統領に指名した。;;;;;;;;;;X ACT303018A;ブランコ党に対し反逆する;;;;;;;;;;X EVT303019N;十字架の解放者;;;;;;;;;;X EVT303019D;ベッロ大統領はブランコ党のクーデターに倒され、正常な選挙ができな\nいまま1864年5月にセナテ・アナスタシオ・アギーレが大統領に就任し\nた。1863年4月、ベナンシオ・フローレスはブランコ党に不信感を抱く\n連邦派バルトロメ・ミトレと共謀し、「十字架の解放者」としてアルゼ\nンチンから侵攻し始めた。ブラジルはこの反乱を支援を始めた。;;;;;;;;;;X ACT303019A;フローレスの勢力が広まっている;;;;;;;;;;X EVT303020N;フローレスが権力に復帰;;;;;;;;;;X EVT303020D;1865年2月、モンテビデオはフローレス軍とブラジル海軍によって包囲\nされ、上院議長トマス・ビラリェルバはモンテビデオの実質的な最高責\n任者となった。平和協定が結ばれ、モンテビデオは降伏し、憲法は停止\nされた。ベナンシオ・フローレスは1867年までには臨時大統領に就任し、\n後に国家を血みどろのパラグアイ戦争に巻き込むことになった。;;;;;;;;;;X ACT303020A;フローレスが首班に復帰;;;;;;;;;;X EVT303021D;1865年5月1日、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3ヵ国は、パラグア\nイに対する同盟を結んだ。この同盟はその目的として、ロペスによる独\n裁を止めさせること、パラナ川およびパラグアイ川の自由航行権を保証\nさせること、そしてブラジルが明らかに正当な領有権を有するパラグアイ\n北西部の一帯、ならびにアルゼンチンの領有主張があるパラグアイの東\n西地域を征服すること、の3点が掲げられた。;;;;;;;;;;X EVT303022N;戦勝!;;;;;;;;;;X EVT303022D;三国同盟に基づき、ウルグアイは包囲の一角を勤めた報酬を得る。;;;;;;;;;;X ACT303022A;戦利品だ;;;;;;;;;;X EVT303023N;三国同盟の調印;;;;;;;;;;X EVT303023D;1865年5月1日、国際社会の反発を恐れて秘密条約というかたちをと\nったものの、ブエノスアイレスにおいてアルゼンチンとブラジル、ウルグアイは\n同盟を結んだ。終戦ないし休戦をする際には、加盟国全体の合意が\nなければこれをすることができず、またパラグアイには実際の損害額を賠\n償金として払わせることが定められた。;;;;;;;;;;X EVT303024D;1865年5月1日、国際社会の反発を恐れて秘密条約というかたちをと\nったものの、モンテビデオにおいてウルグアイとブラジルは同盟を結んだ。\n終戦ないし休戦をする際には、加盟国全体の合意がなければこれをす\nることができず、またパラグアイには実際の損害額を賠償金として払わせ\nることが定められた。一方アルゼンチンは、単独で戦争を行い前線に立\nつことを決めた。;;;;;;;;;;X EVT303025D;ブエノスアイレスにおいて1865年5月1日、ウルグアイ、アルゼンチンは\n内外に対する影響を恐れ秘密裏に同盟を結んだ。二国間同盟である。こ\nの条約に基づき両国は妥協して休戦協定を結ぶ。パラグアイはすべての\n戦時被害を背負わされることになるのである。ブラジルは矢表にたって\n単独戦を行うことを選択した。;;;;;;;;;;X EVT303026N;移民の促進;;;;;;;;;;X EVT303026D;「大戦争」の後、政府は荒野を活用する目的で、移民する農民・労働者・\n工員に対し安定して多種の資金融資契約を結んだ。移民は増加し、主に\nスペインとイタリアからやってきたが、ブラジル人やイギリス人、ある\nいはバスク人もいくらかはやってきた。;;;;;;;;;;X ACT303026A;契約を結ぶ;;;;;;;;;;X ACT303026B;予算の都合が付かない;;;;;;;;;;X EVT303027N;田園の近代化;;;;;;;;;;X EVT303027D;「大戦争」ののち、牧畜は再び盛んになった。育種技術の改良と鉄線柵\nの導入や、ヨーロッパの需要からの刺激により、1860年の3千頭から\n1868年には1万7千頭に増加した。この要因である近代化に成功した地主\nは、その多くが外国人であった。;;;;;;;;;;X ACT303027A;法案を通す;;;;;;;;;;X ACT303027B;良くないアイディアだ;;;;;;;;;;X EVT303028N;植字工組合;;;;;;;;;;X EVT303028D;1870年に初の永続的な労働組織である植字工組合が創設されると、\nそれを皮切りに他の労働組合も相次いで結成された。;;;;;;;;;;X ACT303028A;合法化せよ;;;;;;;;;;X ACT303028B;非合法化せよ;;;;;;;;;;X EVT303029N;田園協会;;;;;;;;;;X EVT303029D;1871年、牧畜技術の改良のために田園協会が結成された。協会は地方の\n伝統を守り、彼らの要求は中央政界にも影響を及ぼすことになった。;;;;;;;;;;X EVT303030N;ロンドンリービッヒ食肉エキス社;;;;;;;;;;X EVT303030D;畜産業界の工業化を牽引していたのは、主に食肉塩蔵企業だった。\nしかし1865年、ヨーロッパの軍隊へ製品を供給することを目的として、ロ\nンドンリービッヒ食肉エキス社がフライベントスに工場を建設する。これに\nよりこの分野でも多様化が始まることになった。;;;;;;;;;;X EVT303031N;田園規定;;;;;;;;;;X EVT303031D;ラトッレ大統領の下、地方の秩序は回復した。政府は農民と牧場主を保\n護し、犯罪や失業を抑制した。鉄線柵は大いに技術の近代化に役立った。\n1875年に地方協会の賛同によって田園規定が作成された。この規定によ\nり土地や家畜の所有権が確認され、社会の階層化をもたらした。;;;;;;;;;;X ACT303031A;承認する;;;;;;;;;;X EVT303032N;工業化への試み;;;;;;;;;;X EVT303032D;政府は国家の工業開発を促進するための多くの法案を採択した。最も重\n要なものは国内で製造できる産物の関税を上げる一連の法案であり、こ\nれにより国内の産業を保護した。また、ラトッレ政府は輸送と通信を改\n善し、鉄道建設に予算や特別措置を与えたことで、10年で鉄道網は倍増\nした。;;;;;;;;;;X ACT303032A;経済を改革する;;;;;;;;;;X ACT303032B;農業重視政策を維持する;;;;;;;;;;X EVT303033N;共和国大学;;;;;;;;;;X EVT303033D;モンテビデオ大学としても知られる共和国大学は1849年に設立され、\n1984年までは国内唯一の大学だった。;;;;;;;;;;X EVT303034N;教育改革;;;;;;;;;;X EVT303034D;バレーラにより起草され1877年のラトーレ政権下で施行された教育改\n革により、無償の初等義務教育が設けられた。改革は共和国大学に\nも波及し、医学と数学の両学部がそれぞれ1876年と1877年に設立さ\nれた。;;;;;;;;;;X EVT303035N;冷凍牛肉;;;;;;;;;;X EVT303035D;1903年に国内の投資家によって冷凍工場が設立され、1905年、そこで生\n産された冷凍牛肉の最初の輸出がロンドンに向けて行われた。ウルグア\nイはい今や冷凍技術の時代に入り、輸出製品の多様化の可能性と新たな\n販路を国家にもたらした。1909年の近代化されたモンテビデオ港の開港\nで、ウルグアイはこの地域の貿易の中心地としてブエノスアイレスと肩\nを並べることができた。;;;;;;;;;;X ACT303035A;事業を認可する;;;;;;;;;;X ACT303035B;さらに追加の出資をする;;;;;;;;;;X ACT303035C;事業を進める余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT303036N;工業経済の崩壊;;;;;;;;;;X EVT303036D;現在の経済周期の投機バブルは国家経済の信頼性の危機を招き、海外の\n投資家は損失を恐れて資産を引き揚げている。国内の投資家は破産し、\n失業が広まり、最終的には明らかに経済が統制できなくなる;;;;;;;;;;X ACT303036A;くそ!!!;;;;;;;;;;X EVT303037N;農業経済の崩壊;;;;;;;;;;X EVT303039N;国民党の暴動;;;;;;;;;;X EVT303039D;ロレンソ・バトリェ・イ・グラウ将軍(1868-72)による立憲政府は2年\n間続いた国民党の暴動を武力鎮圧した。最終的にはブランコ党は彼らの\n権利の一部を回復した。;;;;;;;;;;X EVT303040N;「共同参加」政策;;;;;;;;;;X EVT303040D;2年間の戦いの後、1872年に平和協定が結ばれ、国民党と政府機関を共\n同管理することと、4州について国民党の支配を認めることが確認され\nた。この「共同参加」政策は、政権党と反対党の共存に基づいた新たな\n妥協の模索の現れである。;;;;;;;;;;X ACT303040A;民主的な方法で;;;;;;;;;;X ACT303040B;権威主義的な方法で;;;;;;;;;;X EVT303041N;リベラがロサスに宣戦;;;;;;;;;;X EVT303041D;リベラはコリエンテス州と同盟協定を結んだ。アルゼンチンのロサスは\n未だにオリベ前大統領をウルグアイ大統領として承認し続けていたため、\nリベラがロサスに宣戦して「大戦争」が始まった。リベラはアルゼンチ\nンの連邦派の敵や英仏の支援を計算に入れていた。このヨーロッパ2国\nはロサスがウルグアイを併合することを恐れて、ブエノスアイレス政府\nによるパラナ川の航行権の独占のみで終結させることを望んでいた。;;;;;;;;;;X ACT303041A;ロサスに宣戦する;;;;;;;;;;X ACT303041B;ロサスを孤立させておく;;;;;;;;;;X
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[[VIPR翻訳]] ####### 303K Uruguay ------##;;;;;;;;;;;X EVT303000N;リオグランデ共和国がピラティニ同盟を提案;;;;;;;;;;X EVT303000D;リオグランデ共和国が我々に防衛同盟を求めてきた。彼らは現在和平中\nであるが、実際のところブラジルの反乱軍である。しかしながら、この\n共和国は我々とブラジルの緩衝国として機能するかもしれないので、ブ\nラジルは我々の内政問題に干渉ができなくなる。;;;;;;;;;;X EVT303002N;リベラの最初のクーデターの試み;;;;;;;;;;X EVT303002D;リベラが大統領職にいる間、ラバリェハは3度にわたり反乱を組織し失\n敗した。リベラの後任の大統領にはオリベが就任したが、オリベがラバ\nリェハと彼の支持者がブラジルから帰国することを許可した後、リベラ\nは再び反抗を始めた。1836年、カルピンテリアの戦いによって初めて、\n政府軍は白を、リベラ軍は赤を使用した。;;;;;;;;;;X ACT303002A;リベラの勢力がモンテビデオで広がっている;;;;;;;;;;X EVT303003N;ロサスが助けを請う;;;;;;;;;;X EVT303003D;ロサスは我々を助けるためにアルゼンチンの師団を送ってきた。;;;;;;;;;;X EVT303004N;リベラの2回目のクーデターの試み;;;;;;;;;;X EVT303004D;政府軍は1836年9月19日にカルペンテリアの戦いで敗れた。リベラはよ\nり多くの軍隊を召集し、オリベに対して再びモンテビデオに進軍した。;;;;;;;;;;X EVT303005N;リベラのクーデター;;;;;;;;;;X EVT303005D;1838年6月、リベラのコロラド党はオリベのブランコ党を破り、オリベ\nはブエノスアイレスに追放された。;;;;;;;;;;X ACT303005A;コロラド党のクーデター!;;;;;;;;;;X ACT303006A;条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT303006B;外国に介入すべきではない;;;;;;;;;;X EVT303007N;カンゲ条約の破棄;;;;;;;;;;X EVT303007D;一旦共和国の大統領職を引き受けると、オリベ将軍は国際紛争の種にな\nらないように条約を無効にした。;;;;;;;;;;X ACT303007A;条約を無効にする;;;;;;;;;;X ACT303007B;良い条約であろう;;;;;;;;;;X EVT303008N;カンゲ条約が批准される;;;;;;;;;;X EVT303008D;リオグランデ共和国はカンゲ条約を締結することに同意し、ウルグアイ\nとファロウピラスの国境を制定して両国が互いの領土要求を取り下げた。;;;;;;;;;;X EVT303009N;ウルグアイがパラグアイの独立を承認;;;;;;;;;;X EVT303009D;1849年、ウルグアイ政府は最終的にパラグアイの独立を承認した。この\n承認により2つのラプラタの小国間の関係は改善し、パラグアイの影響\n力がこの地域で増加することを許容した。;;;;;;;;;;X ACT303009A;パラグアイの独立を承認する;;;;;;;;;;X ACT303009B;パラグアイの独立を承認しない;;;;;;;;;;X EVT303010N;オリベ・リベラの奴隷解放;;;;;;;;;;X EVT303010D;1842年、守備側のモンテビデオ政府は、軍隊に加入したものに限って適\n用される、奴隷制の部分的な廃止法案を制定した。一方、セリト政府の\n公布した廃止法案は、それよりも効力があるものであった。;;;;;;;;;;X ACT303010A;我々は人的資源を必要としている;;;;;;;;;;X EVT303011N;ガリバルディとイタリア外人部隊;;;;;;;;;;X EVT303011D;大戦争の要素のうちで際立ったものとして、ジュセッペ・ガリバルディの存\n在があげられる。彼はイタリア統一の英雄のひとりで「カミサス・ロハス(\n赤シャツ)」を身につけたイタリア人旅団の最前線に立ち、コロラド派の\n側に立って連邦派のロサスおよびブランコ派のオリベと戦った。;;;;;;;;;;X ACT303011A;ガリバルディと赤シャツ隊だ;;;;;;;;;;X EVT303012N;モンテビデオの要塞化;;;;;;;;;;X EVT303012D;オリベの軍隊が近づいてくるにつれ、防衛政府の権力者はこれに対抗\nすべく、モンテビデオ周辺の要塞化をすすめた。幾度かの戦闘の後、戦\n線は防壁からある程度離れたところで安定し、新鮮な食料を得るため\nの耕地を近辺に確保できるようになった。;;;;;;;;;;X ACT303012A;防衛力を強化しよう;;;;;;;;;;X ACT303012B;どこにそんな金が?;;;;;;;;;;X ACT303013A;ブラジルの支援を受ける;;;;;;;;;;X ACT303013B;我々は自分達でやっていける;;;;;;;;;;X EVT303014N;新トロイ戦争とセリト政府;;;;;;;;;;X EVT303014D;包囲の後、ウルグアイには長期間ホアキン・スアレスのモンテビデオ政\n府と内陸部を支配するオリベのセリト政府が並立していた。セリト政府\nは合法的にオリベを大統領に選出したが、リベラが辞職しなかったため\n軍隊によってリベラを追放した。;;;;;;;;;;X ACT303014A;オリベがセリトから統治する;;;;;;;;;;X EVT303015N;10月のラパス平和協定;;;;;;;;;;X EVT303015D;10月のラパス平和協定は「大戦争」の終わりの結果結ばれ、モンテビ\nデオ政府の正当性が確認された。またオリベは亡命し、セリト政府の全\nての行為が正当な手続きを経たものであると宣言され、両政府共に全て\nの関係者が戦争責任を問われないこととなり、法の下に平等とされた。\n政府は可能な限り早期の選挙を行うべきである。;;;;;;;;;;X ACT303015A;モンテビデオ政府が認められた;;;;;;;;;;X EVT303016N;ついに行われた選挙;;;;;;;;;;X EVT303016D;「大戦争」は経済的、社会的、政治的に大きな遺産を残した。国内の安\n定を得るための融合政策の模索は、1851年末の選挙の結果で顕著に現れ\nた。和合のために、政治的な合同が試みられた。;;;;;;;;;;X ACT303016A;選挙を行う;;;;;;;;;;X ACT303016B;権力をこの手に留める;;;;;;;;;;X EVT303017D;議会はエウヘネ・ガルソン将軍を望んでいたが、彼の突然の死により議\n員の論争がマヌエル・エレラ・イ・オベス派とフアン・フランシスコ・\nヒロ派の間で起きた。最終的には一方が満場一致で勝利したものの、完\n全に権限を委託されたわけではなかった。;;;;;;;;;;X ACT303017A;ブランコ党が権力に復帰;;;;;;;;;;X EVT303018N;フローレス・リベラ・ラバリェハの反乱;;;;;;;;;;X EVT303018D;コロラド党の反乱は1853年7月に、ウルグアイの債権国に支援されたマ\nルチョル・パチェコ・イ・オベスによって指揮され始まった。彼らの政\n治的要求は、ベナンシオ・フローレスがモンテビデオの政府首班に就任\nし、リベラとラバリェハで三頭政治を敷くことである。その直後にリベ\nラとラバリェハが死亡し、フローレス一人が残った。1854年5月、議会\nはヒロ大統領を辞任させ、フローレスを大統領に指名した。;;;;;;;;;;X ACT303018A;ブランコ党に対し反逆する;;;;;;;;;;X EVT303019N;十字架の解放者;;;;;;;;;;X EVT303019D;ベッロ大統領はブランコ党のクーデターに倒され、正常な選挙ができな\nいまま1864年5月にセナテ・アナスタシオ・アギーレが大統領に就任し\nた。1863年4月、ベナンシオ・フローレスはブランコ党に不信感を抱く\n連邦派バルトロメ・ミトレと共謀し、「十字架の解放者」としてアルゼ\nンチンから侵攻し始めた。ブラジルはこの反乱を支援を始めた。;;;;;;;;;;X ACT303019A;フローレスの勢力が広まっている;;;;;;;;;;X EVT303020N;フローレスが権力に復帰;;;;;;;;;;X EVT303020D;1865年2月、モンテビデオはフローレス軍とブラジル海軍によって包囲\nされ、上院議長トマス・ビラリェルバはモンテビデオの実質的な最高責\n任者となった。平和協定が結ばれ、モンテビデオは降伏し、憲法は停止\nされた。ベナンシオ・フローレスは1867年までには臨時大統領に就任し、\n後に国家を血みどろのパラグアイ戦争に巻き込むことになった。;;;;;;;;;;X ACT303020A;フローレスが首班に復帰;;;;;;;;;;X EVT303021D;1865年5月1日、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3ヵ国は、パラグア\nイに対する同盟を結んだ。この同盟はその目的として、ロペスによる独\n裁を止めさせること、パラナ川およびパラグアイ川の自由航行権を保証\nさせること、そしてブラジルが明らかに正当な領有権を有するパラグアイ\n北西部の一帯、ならびにアルゼンチンの領有主張があるパラグアイの東\n西地域を征服すること、の3点が掲げられた。;;;;;;;;;;X EVT303022N;戦勝!;;;;;;;;;;X EVT303022D;三国同盟に基づき、ウルグアイは包囲の一角を勤めた報酬を得る。;;;;;;;;;;X ACT303022A;戦利品だ;;;;;;;;;;X EVT303023N;三国同盟の調印;;;;;;;;;;X EVT303023D;1865年5月1日、国際社会の反発を恐れて秘密条約というかたちをと\nったものの、ブエノスアイレスにおいてアルゼンチンとブラジル、ウルグアイは\n同盟を結んだ。終戦ないし休戦をする際には、加盟国全体の合意が\nなければこれをすることができず、またパラグアイには実際の損害額を賠\n償金として払わせることが定められた。;;;;;;;;;;X EVT303024D;1865年5月1日、国際社会の反発を恐れて秘密条約というかたちをと\nったものの、モンテビデオにおいてウルグアイとブラジルは同盟を結んだ。\n終戦ないし休戦をする際には、加盟国全体の合意がなければこれをす\nることができず、またパラグアイには実際の損害額を賠償金として払わせ\nることが定められた。一方アルゼンチンは、単独で戦争を行い前線に立\nつことを決めた。;;;;;;;;;;X EVT303025D;ブエノスアイレスにおいて1865年5月1日、ウルグアイ、アルゼンチンは\n内外に対する影響を恐れ秘密裏に同盟を結んだ。二国間同盟である。こ\nの条約に基づき両国は妥協して休戦協定を結ぶ。パラグアイはすべての\n戦時被害を背負わされることになるのである。ブラジルは矢表にたって\n単独戦を行うことを選択した。;;;;;;;;;;X EVT303026N;移民の促進;;;;;;;;;;X EVT303026D;「大戦争」の後、政府は荒野を活用する目的で、移民する農民・労働者・\n工員に対し安定して多種の資金融資契約を結んだ。移民は増加し、主に\nスペインとイタリアからやってきたが、ブラジル人やイギリス人、ある\nいはバスク人もいくらかはやってきた。;;;;;;;;;;X ACT303026A;契約を結ぶ;;;;;;;;;;X ACT303026B;予算の都合が付かない;;;;;;;;;;X EVT303027N;田園の近代化;;;;;;;;;;X EVT303027D;「大戦争」ののち、牧畜は再び盛んになった。育種技術の改良と鉄線柵\nの導入や、ヨーロッパの需要からの刺激により、1860年の3千頭から\n1868年には1万7千頭に増加した。この要因である近代化に成功した地主\nは、その多くが外国人であった。;;;;;;;;;;X ACT303027A;法案を通す;;;;;;;;;;X ACT303027B;良くないアイディアだ;;;;;;;;;;X EVT303028N;植字工組合;;;;;;;;;;X EVT303028D;1870年に初の永続的な労働組織である植字工組合が創設されると、\nそれを皮切りに他の労働組合も相次いで結成された。;;;;;;;;;;X ACT303028A;合法化せよ;;;;;;;;;;X ACT303028B;非合法化せよ;;;;;;;;;;X EVT303029N;田園協会;;;;;;;;;;X EVT303029D;1871年、牧畜技術の改良のために田園協会が結成された。協会は地方の\n伝統を守り、彼らの要求は中央政界にも影響を及ぼすことになった。;;;;;;;;;;X EVT303030N;ロンドンリービッヒ食肉エキス社;;;;;;;;;;X EVT303030D;畜産業界の工業化を牽引していたのは、主に食肉塩蔵企業だった。\nしかし1865年、ヨーロッパの軍隊へ製品を供給することを目的として、ロ\nンドンリービッヒ食肉エキス社がフライベントスに工場を建設する。これに\nよりこの分野でも多様化が始まることになった。;;;;;;;;;;X EVT303031N;田園規定;;;;;;;;;;X EVT303031D;ラトッレ大統領の下、地方の秩序は回復した。政府は農民と牧場主を保\n護し、犯罪や失業を抑制した。鉄線柵は大いに技術の近代化に役立った。\n1875年に地方協会の賛同によって田園規定が作成された。この規定によ\nり土地や家畜の所有権が確認され、社会の階層化をもたらした。;;;;;;;;;;X ACT303031A;承認する;;;;;;;;;;X EVT303032N;工業化への試み;;;;;;;;;;X EVT303032D;政府は国家の工業開発を促進するための多くの法案を採択した。最も重\n要なものは国内で製造できる産物の関税を上げる一連の法案であり、こ\nれにより国内の産業を保護した。また、ラトッレ政府は輸送と通信を改\n善し、鉄道建設に予算や特別措置を与えたことで、10年で鉄道網は倍増\nした。;;;;;;;;;;X ACT303032A;経済を改革する;;;;;;;;;;X ACT303032B;農業重視政策を維持する;;;;;;;;;;X EVT303033N;共和国大学;;;;;;;;;;X EVT303033D;モンテビデオ大学としても知られる共和国大学は1849年に設立され、\n1984年までは国内唯一の大学だった。;;;;;;;;;;X EVT303034N;教育改革;;;;;;;;;;X EVT303034D;バレーラにより起草され1877年のラトーレ政権下で施行された教育改\n革により、無償の初等義務教育が設けられた。改革は共和国大学に\nも波及し、医学と数学の両学部がそれぞれ1876年と1877年に設立さ\nれた。;;;;;;;;;;X EVT303035N;冷凍牛肉;;;;;;;;;;X EVT303035D;1903年に国内の投資家によって冷凍工場が設立され、1905年、そこで生\n産された冷凍牛肉の最初の輸出がロンドンに向けて行われた。ウルグア\nイはい今や冷凍技術の時代に入り、輸出製品の多様化の可能性と新たな\n販路を国家にもたらした。1909年の近代化されたモンテビデオ港の開港\nで、ウルグアイはこの地域の貿易の中心地としてブエノスアイレスと肩\nを並べることができた。;;;;;;;;;;X ACT303035A;事業を認可する;;;;;;;;;;X ACT303035B;さらに追加の出資をする;;;;;;;;;;X ACT303035C;事業を進める余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT303036N;工業経済の崩壊;;;;;;;;;;X EVT303036D;現在の経済周期の投機バブルは国家経済の信頼性の危機を招き、海外の\n投資家は損失を恐れて資産を引き揚げている。国内の投資家は破産し、\n失業が広まり、最終的には明らかに経済が統制できなくなる;;;;;;;;;;X ACT303036A;くそ!!!;;;;;;;;;;X EVT303037N;農業経済の崩壊;;;;;;;;;;X EVT303039N;国民党の暴動;;;;;;;;;;X EVT303039D;ロレンソ・バトリェ・イ・グラウ将軍(1868-72)による立憲政府は2年\n間続いた国民党の暴動を武力鎮圧した。最終的にはブランコ党は彼らの\n権利の一部を回復した。;;;;;;;;;;X EVT303040N;「共同参加」政策;;;;;;;;;;X EVT303040D;2年間の戦いの後、1872年に平和協定が結ばれ、国民党と政府機関を共\n同管理することと、4州について国民党の支配を認めることが確認され\nた。この「共同参加」政策は、政権党と反対党の共存に基づいた新たな\n妥協の模索の現れである。;;;;;;;;;;X ACT303040A;民主的な方法で;;;;;;;;;;X ACT303040B;権威主義的な方法で;;;;;;;;;;X EVT303041N;リベラがロサスに宣戦;;;;;;;;;;X EVT303041D;リベラはコリエンテス州と同盟協定を結んだ。アルゼンチンのロサスは\n未だにオリベ前大統領をウルグアイ大統領として承認し続けていたため、\nリベラがロサスに宣戦して「大戦争」が始まった。リベラはアルゼンチ\nンの連邦派の敵や英仏の支援を計算に入れていた。このヨーロッパ2国\nはロサスがウルグアイを併合することを恐れて、ブエノスアイレス政府\nによるパラナ川の航行権の独占のみで終結させることを望んでいた。;;;;;;;;;;X ACT303041A;ロサスに宣戦する;;;;;;;;;;X ACT303041B;ロサスを孤立させておく;;;;;;;;;;X
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