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[[VIPR翻訳]] ########330K - COLONIZATION EVENTS #####;;;;;;;;;;X EVT330000N;ベルギー王レオポルド二世がスタンレーを雇用;;;;;;;;;;X EVT330000D;レオポルドは海外植民地を持つ事が国家の偉大さを示すものだと熱烈\nに信じており、ベルギーが植民地を獲得するように尽力した。ベルギー\n国民も政府もこの事に関心を持っておらず、結局レオポルドは私有地と\nして植民地を獲得しようとしはじめた。アフリカやアジアの植民地取得に\n何度か失敗した後の1876年、国際学術・博愛協会に偽装した持株\n会社を設立した。1879年この持株会社の後援で、彼はコンゴ地域で\n植民地を建設する為にアメリカ人探検家ヘンリー・モートン・スタンリーを\n雇った。;;;;;;;;;;X ACT330000A;コンゴ建国のため彼を雇おう;;;;;;;;;;X ACT330000B;アフリカ植民地帝国に興味はない;;;;;;;;;;X EVT330001N;スタンリーが下コンゴに交易所を建設;;;;;;;;;;X EVT330001D;約半年の準備の後に1879年8月、スタンリーはコンゴ川河口に到達し\nヴィリに交易所を建設した。しかし、急峻なクリスタル山地を越える\n必要があるため、さらなる前進には数ヶ月はかかる見込みだ。\nスタンリーに任務を続けさせるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330001A;スタンリーに任務を続行させよう;;;;;;;;;;X ACT330001B;彼を帰国させよう、費用がかかりすぎる;;;;;;;;;;X EVT330002N;レオポルド王がフランスのコンゴ進出に警告;;;;;;;;;;X EVT330002D;ベルギー国王はコンゴ盆地への関心を強め、同地域の首長たちに\nスタンリーを遣わしてベルギー王との独占交易協定を結ばせた。\nわれわれもコンゴに探検隊を派遣して交易権を確保し、\nベルギーの独占を防ぐべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330002A;サヴォルニャン・ド・ブラザを派遣しよう;;;;;;;;;;X ACT330002B;ベルギーはコンゴの自由貿易を保障するだろう;;;;;;;;;;X EVT330003N;ド・ブラザがプール・マレボに到達;;;;;;;;;;X EVT330003D;ガボン内陸部探検の経験のあったド・ブラザは、リーブルヴィルの\nフランス拠点から見事にコンゴに到達し、プール・マレボより上流の\nコンゴ川流域でのフランス通行権協定をテケ族のマココ首長との\n間で結んだ。ド・ブラザの活動を認めるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330003A;ド・ブラザの結んだ協定を認めよう;;;;;;;;;;X ACT330003B;彼を召還する、コンゴに興味はない;;;;;;;;;;X EVT330004N;スタンリーがプール・マレボに到達;;;;;;;;;;X EVT330004D;ヘンリー・スタンリーはベルギー王の名代としてキンシャサに到着し、\nベルギー王の通商・交易所建設を認めるなら我々を保護するという\n提案をしてきた。フランスも我々の土地に関心を持っているようだが、\nベルギー王の提案を承諾すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330004A;協定を結ぶ;;;;;;;;;;X EVT330005D;スタンリーがついに山越えを成し遂げてプール・マレボに到達した。\nコンゴ川北岸の首長たちとは既にフランスが協定を結んでいたが、\n南岸の首長たちはまだフランスと接触しておらず、スタンリーは\nコンゴ川南岸でのベルギー交易権を保障する保護協定を結んだ。\nスタンリーの活動を認めるべきか、\nそれともフランスとの軋轢を避けるため引き下がるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330005A;協定を認め、スタンリーを奥地に前進させる;;;;;;;;;;X ACT330005B;わが国にフランスと敵対する力は無い;;;;;;;;;;X EVT330006N;スタンリーの地方首長との協定;;;;;;;;;;X EVT330006D;ヘンリー・スタンリーはベルギー王の名代として、コンゴ川流域の\n首長たちがベルギー王の通商・交易所建設を認めるかわりに\nフランスへの服属から保護するという協定を結んだ。\n我々のコンゴでの支配力は失われた。;;;;;;;;;;X EVT330007N;コンゴ国際協会の設立;;;;;;;;;;X EVT330007D;レオポルド二世のアフリカでの活動は、議会の予算案反対によって\n国策としてのアフリカ植民地化が制限されたため、国王の\n個人的活動であった。レオポルド二世は下コンゴ地方での\n諸協定を結ぶと、自分の活動が経済目的というより博愛主義に\nよるものであるという虚構を続けるため、彼の新しい私領が\nコンゴ国際協会の下で統治されるように見せかけた。;;;;;;;;;;X ACT330007A;協会を設立しよう;;;;;;;;;;X EVT330008N;コンゴでのフランスの立場;;;;;;;;;;X EVT330008D;ベルギー主導のコンゴ国際協会は、自らをコンゴ川南岸地域の唯一の\n支配組織と宣言した。ド・ブラザとテケ族との協定はまだフランス議会の\n批准を受けておらず、植民地主義者たちからはテケ族に対する\n保護領化宣言の要求が強まっていた。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330008A;テケ族の保護領化を宣言しよう;;;;;;;;;;X ACT330008B;コンゴがどうなるか知ったことではない;;;;;;;;;;X EVT330009N;スタンリーがコンゴに再派遣される;;;;;;;;;;X EVT330009D;スタンリーは任務を完了して1882年5月に帰国した。\nしかしフランスのテケ族に対する保護領化宣言は、\n同地域へのレオポルド王の影響力を脅かす可能性を示し、\n王はスタンリーをコンゴ川上流の首長たちのもとに再派遣し、\nコンゴ国際協会のためにさらなる領土を確保させることにした。;;;;;;;;;;X ACT330009A;スタンリーを再雇用してコンゴに戻らせよう;;;;;;;;;;X ACT330009B;スタンリープールでの現在の地位で十分だ;;;;;;;;;;X EVT330014N;ポルトガルのコンゴ権益;;;;;;;;;;X EVT330014D;ポルトガルのコンゴ盆地での権益は15世紀以来のものだった。\nポルトガルはカビンダに交易所を持っていたが、イギリスとフランスの\n商人がコンゴ川北方での交易を支配していたため、\nポルトガルの活動の中心はアンゴラに移っていた。\n1880年代にフランス・ベルギーがこの地域で新たな権益を持つと、\nポルトガルの歴史的な権益が脅かされた。ポルトガルは\nカビンダおよびコンゴ川河口の権益を主張すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330014A;カビンダのポルトガル権益は認められるべきだ;;;;;;;;;;X ACT330014B;我が帝国の興味は別のところにある;;;;;;;;;;X EVT330050N;ルーデリッツが現地首長からナミビアを購入;;;;;;;;;;X EVT330050D;アドルフ・ルーデリッツが現地首長からナミビアを購入した。\n彼は保護を求めてきている。我々はどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT330050A;ルーデリッツの活動を保護する;;;;;;;;;;X ACT330050B;我々に植民地は不要だ;;;;;;;;;;X EVT330051N;ナハティガルがカメルーンの植民地化を宣言;;;;;;;;;;X EVT330051D;カメルーン海岸はかねてからヨーロッパ貿易商の興味をひいてきた。186\n0年代から1870年代はイギリスが優勢にあったが、ドイツが統一されると\nドイツ商人や宣教師の活動が増えるようになった。そしてイギリスがこの\n地方を植民地としてしまうのではとの考えから、1884年7月、グスタフ・\nナハティガルがカメルーン海岸に派遣され、この地域がドイツの保護領と\nなる旨宣言された。;;;;;;;;;;X ACT330051A;協定締結のためナハティガルを派遣する;;;;;;;;;;X EVT330052N;ナハティガルが現地首長からトーゴランドを購入;;;;;;;;;;X EVT330052D;グスタフ・ナハティガルが現地首長からトーゴランドを購入した。\n彼らは保護を求めてきている。我々はどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT330052A;トーゴランドの保護領化を宣言する;;;;;;;;;;X EVT330053N;ドイツがトーゴランドの植民地化を宣言;;;;;;;;;;X EVT330053D;トーゴランド海岸はかねてからヨーロッパ貿易商の興味をひいてきた。18\n60年代から1870年代はイギリスが優勢にあったが、ドイツが統一される\nとドイツ商人や宣教師の活動が増えるようになった。そしてイギリスがこ\nの地方を植民地としてしまうのではとの考えから、トーゴランドがドイツの\n保護領となる旨宣言された。;;;;;;;;;;X ACT330053A;トーゴはドイツの国土である;;;;;;;;;;X ACT330053B;トーゴはフランスのものだ;;;;;;;;;;X ACT330053C;トーゴはイギリスのものだ;;;;;;;;;;X EVT330054N;ナミビアへのドイツ移民;;;;;;;;;;X EVT330054D;新たなドイツ人が植民地に到着した。;;;;;;;;;;X EVT330055N;ルーデリッツが南西アフリカの保護領化を宣言;;;;;;;;;;X EVT330055D;ベルリン会議が終わると、アフリカの植民地化にむけた取り決めも全て定\nまった。会議で決まった規定に従い、アフリカ内陸地方の支配を確保す\nるために保護領を設ける必要がある。;;;;;;;;;;X ACT330055A;南西アフリカに保護領を設ける;;;;;;;;;;X ACT330055B;沿岸部の支配で構わない;;;;;;;;;;X EVT330056N;カール・ペーテルスとタンガニーカのドイツ利権;;;;;;;;;;X EVT330056D;ドイツ植民会社の重鎮カール・ペーテルスは、\n自国が列強となる運命を信じるとともに、\n東アフリカはドイツの権益を伸長させる土地で\nあることも堅く信じていた。\n1884年、彼は東アフリカを旅し、タンガニカ外縁部の原住民に\nドイツは彼らの保護者であることを認識させ、\n礼遇を受けた。\n\nペーテルスの行動を認め、\n東アフリカの権益を主張するべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330056A;ドイツは、東アフリカに権益を持つ!;;;;;;;;;;X EVT330057N;東アフリカでのイギリス権益;;;;;;;;;;X EVT330057D;イギリスが東アフリカに有していた商業権益は、ザンジバルのスルタンとの\n密接な協力によって維持されてきた。しかし内陸のタンガニーカに対し\nてドイツが勢力圏とする旨宣言したことで、この地域でのイギリスの利権\nが危うくなるのではとの懸念が発生した。もしかすると、タンガニーカでの\nドイツ利権を承認することで、ケニアおよびザンジバルでのイギリス利権を\n承認させるような取引も可能かもしれない。;;;;;;;;;;X ACT330057A;ドイツに取引を提案する;;;;;;;;;;X ACT330057B;ドイツを東アフリカから締め出す;;;;;;;;;;X EVT330058N;イギリスが東アフリカ分割を提案;;;;;;;;;;X EVT330058D;ペータース条約を承認したことでイギリスとの関係は緊迫したものとなっ\nてしまった。だが緊張緩和のため、イギリスは東アフリカを英独でそれぞれ\nの地区に分割することを提案している。これが実行されればドイツはタン\nガニーカを獲得し、イギリスはケニアとザンジバルを得る。この申し出を受\nけるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330058A;イギリスの提案を呑む;;;;;;;;;;X ACT330058B;東アフリカ全域に支配を及ぼさねば;;;;;;;;;;X EVT330059N;イギリスの東アフリカでの取引をドイツが受容;;;;;;;;;;X EVT330059D;東アフリカ分割に向けた提案をドイツは受け入れ、この取引についてザ\nンジバルのスルタンにも伝えられた。この協定のうちザンジバルに関わる\n条項を拒むなら、列強の侵略を招くだろうと念を押していたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330060N;ザンジバル本土の分割;;;;;;;;;;X EVT330060D;英独両国はザンジバルの大陸領土について、これを彼らで分割すると\nいう協定に合意してしまった。ザンジバルの主権下に残されたのは、海\n岸に沿った幅10マイルしかない帯状の地域だけである。彼らは我々の\n政府に通知をよこし、領土喪失を拒むなら履行確保のため軍事介入\nを行うと言ってきた。;;;;;;;;;;X EVT330061N;東アフリカに関するドイツとの協定;;;;;;;;;;X EVT330061D;1886年にザンジバルの領土を分割した協定は、ドイツ・\nイギリス間に未解決の問題 〜 ザンジバルおよびウガンダ\n両王国の支配権の帰属問題 〜 を残すものであった。\n近年、ウガンダでカール・ペーテルスが\n活動していることは、その支配権を確立するために、\nドイツが何らかの手段を講じる可能性を示唆している。\nおそらくドイツ側は、イギリスのウガンダ統治権を\n承認する見返りとして、現在イギリス領である\n北海ハンブルグ沖のヘルゴランド島の\n返還をねらっているのだろう。;;;;;;;;;;X ACT330061A;ドイツに取引を持ちかけてみようか;;;;;;;;;;X ACT330061B;これでは問題の解決になるまい;;;;;;;;;;X EVT330062N;東アフリカに関するイギリスとの協定;;;;;;;;;;X EVT330062D;1886年にザンジバルの領土を分割した協定は、ドイツ・\nイギリス間に未解決の問題 〜 ザンジバルおよびウガンダ\n両王国の支配権の帰属問題 〜 を残すものであった。\n北海のヘルゴランドがイギリス領であり続けることは、\n我々の海軍が長く懸念を寄せてきた事柄である。\nイギリスは、このヘルゴランドと引き換えに、\nウガンダおよびザンジバルにおけるイギリスの統治権を\n認めよという取引を申し出てきた。\n受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330062A;イギリスとの取引に乗ろう;;;;;;;;;;X ACT330062B;取引をする意味など、なきに等しい;;;;;;;;;;X EVT330063N;1890年のヘルゴラント・ザンジバル条約;;;;;;;;;;X EVT330063D;ブガンダ問題について提案していた取引案を、ドイツは受け入れた。\nタンガニーカ地方はドイツの支配下に入り、また北海に浮かぶヘルゴ\nラント島もドイツ領となったが、イギリスがブガンダおよびザンジバルで\n支配的な地位に立つことに対し彼らの承認を得ることができた。;;;;;;;;;;X EVT330064N;東アフリカに関するフランスとの協定?;;;;;;;;;;X EVT330064D;ドイツと取引が交わされたものの、イギリスによるザンジバルへの支配確\n立に対して、依然フランスはこれを妨害できる列強のひとつであった。し\nかしフランスは長らくマダガスカルに利害を持っており、我々がマダガスカ\nルへのフランス支配を認めるならば、彼らもイギリスのザンジバル支配を\n認めてくれるかもしれない。;;;;;;;;;;X ACT330064A;フランスに取引を持ちかける;;;;;;;;;;X ACT330064B;マダガスカルへの影響力は維持せねば;;;;;;;;;;X EVT330065D;イギリスとフランスの両国は、長きにわたってザンジバルおよびマダガスカル\nへの影響力を巡り争ってきた。だがイギリスはこの紛争の解決に向け申\nし出てきている。それによればフランスはマダガスカルを、イギリスはザンジ\nバルをそれぞれ支配圏に組み込むことについて、お互い承認する形に\nなる。;;;;;;;;;;X EVT330066N;1890年の英仏協定;;;;;;;;;;X EVT330066D;東アフリカに関して我々が提案した取引案を、フランスは受け入れた。フ\nランスはマダガスカルを勢力下におくことになったが、その代わり彼らはイ\nギリスがザンジバルに対して支配的な立場にあることを承認することとな\nった。;;;;;;;;;;X EVT330067N;東アフリカについて、イタリアと交渉;;;;;;;;;;X EVT330067D;イタリアの東アフリカへの関心は主にエチオピアと\nソマリアに向けられているが、ケニヤ北部に入植した\nイタリア人の事も意識はしているようだ。\n我々のケニヤ支配権を固めるために、\nイタリアがエチオピアおよびソマリア沿岸部に\n手を出すことを認めるべきかも知れない。;;;;;;;;;;X ACT330067A;イタリアに取引を打診しよう;;;;;;;;;;X ACT330067B;話し合うことはない;;;;;;;;;;X EVT330068D;イギリスとイタリアは、これまではアフリカ東部における権益を\n互いに尊重することができた。\n今彼らが提案しているのは、エチオピアとソマリアを\n我々が影響下におくことを認め、その交換条件として\nケニヤをイギリスが支配することを認める、というものであった。\nこれは受けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT330069N;1890年の英伊協定;;;;;;;;;;X EVT330069D;東アフリカについての我々の取引案をイタリアが受け入れた。イタリアが\nエチオピアを勢力下におくのを認める代わりに、ケニアにおけるイギリスの\n支配的地位は承認された。;;;;;;;;;;X EVT330070N;ポルトガルが中央アフリカに勢力拡大;;;;;;;;;;X EVT330070D;ポルトガルはアンゴラとモザンビークの沿岸を基点として、内陸への進出\nをすすめてきた。そしてその結果、中央アフリカにまたがり一個のブロックと\nしてのポルトガル領が生まれたのである。こうした情勢により、帝国主義\n派の一部政治家が望むようなケープタウンからカイロにいたる一枚岩の\nイギリス勢力圏は、その誕生が見込めなくなりつつある。さらに近年、ポ\nルトガル人は我が国の勢力下にあるニヤサランドにまで進出してきた。\nポルトガル人どもに、この地域を牛耳っているのは誰かはっきりさせてや\nるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330070A;ポルトガルに撤退を求める;;;;;;;;;;X ACT330070B;この地方はポルトガルに掌握させておく;;;;;;;;;;X EVT330071N;中央アフリカ東部に関するイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT330071D;我が国がアフリカの内陸へと進出したことについて、イギリスはニヤサラン\nドから撤退するようにとの要求を突きつけてきた。それによれば、かの地\nはイギリスの勢力圏内だとのことだ。我々がこの要求を呑まなければ、\nイギリスは軍事力に訴えてでも支配を守ろうとするだろう。どうしようか?;;;;;;;;;;X ACT330071A;大英帝国とは争えない;;;;;;;;;;X ACT330071B;我々もバラ色の帝国を築こう!;;;;;;;;;;X EVT330072N;ポルトガルが要求を拒否!;;;;;;;;;;X EVT330072D;ポルトガル人どもは生意気にも我々の要求を拒み、ニヤサランドから撤\n退することはないと言ってきた。だがニヤサランドには、法的に見てもイギ\nリスの勢力圏が正当に及んでいる。軍事力に訴えてでも、ポルトガルに\nこの論点を受け入れさせるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330072A;ポルトガルに懲罰を与えねば;;;;;;;;;;X ACT330072B;この地方はポルトガルに掌握させておく;;;;;;;;;;X EVT330073N;グスタフ・ナハティガルがカメルーンで成功;;;;;;;;;;X EVT330073D;ナハティガル氏がカメルーン沿岸部のドゥアラの首長と保護協定を結ぶことに成功し、同地域でのわが国の主導的な立場を確実にした。;;;;;;;;;;X EVT330074N;カメルーンをドイツ植民地と宣言?;;;;;;;;;;X EVT330074D;ベルリン会議によって、アフリカの地域支配の主張が国際的に\n承認される基本条件として「実効支配の原理」が確立された。\n国際法顧問によれば、我々がドゥアラの首長と結んだ保護協定は\n実効的支配とはみなされず、他国がカメルーンの\n我々の支配圏に侵入することも不可能とは言い切れないらしい。\n彼らは公式にカメルーンをドイツ植民地と主張するよう求めている。;;;;;;;;;;X ACT330074A;カメルーンはドイツ領だ;;;;;;;;;;X ACT330074B;支配域を広げる必要は無い;;;;;;;;;;X EVT330075N;南西アフリカでドイツと協定?;;;;;;;;;;X EVT330075D;東アフリカでの勢力圏についての交渉中に、南アフリカの\n植民地担当官はオレンジ川南方ナマ地域でのイギリス権益を\nドイツに認めさせるよう求めた。ケープ植民地の国境線について\nイギリスはオレンジ川まで拡張すると定めていたが、同地域は\nドイツがナマの保護領化を宣言するまで実効支配できていなかった。\nオレンジ川南方のイギリス支配権をドイツに承認させるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330075A;ドイツにオレンジ川国境案を提示する;;;;;;;;;;X EVT330076N;イギリスがオレンジ川まで領有主張;;;;;;;;;;X EVT330076D;我々のナマ保護領化宣言を受けて、イギリスは彼らのケープ植民地が\n大西洋沿岸オレンジ川までのナマ族居住地も含むことを認めるよう\n要求してきた。顧問官は同地域の経済的な価値の低さを考えて、\nイギリスの要求を受け入れてこの地方の英独勢力圏に\nはっきりした地理的境界線を引くよう勧めている。;;;;;;;;;;X ACT330076B;ナマ全域はドイツの保護領だ;;;;;;;;;;X EVT330077N;ドイツがオレンジ川国境案を承認;;;;;;;;;;X EVT330077D;我々とドイツとの交渉は、オレンジ川がケープ植民地の北限だと\nドイツが承認することで合意に達した。;;;;;;;;;;X EVT330078D;ドイツが東アフリカでの影響力を確立すると、わが国の顧問官は\nポルトガルとドイツの支配地域の境界をロヴマ川から内陸に向かって\nニャサ湖までの線で提案するよう勧めてきた。これによって\nニャサ湖までの通行権をドイツに許すことになるが、モザンビーク\n沿岸地域でのポルトガルの歴史的な影響力は認められる。;;;;;;;;;;X ACT330078B;ポルトガルはヤオ全域で影響力を保持するべきだ;;;;;;;;;;X EVT330079N;東アフリカでポルトガルと協定?;;;;;;;;;;X EVT330079D;ポルトガルはロヴマ川からニャサ湖までを境界として彼らと我々の\n東アフリカにおける勢力圏を分割しようと提案してきた。\nこれまでポルトガルの影響力がロヴマ川北方のヤオ族に及んでおり\nわが国の商人はニャサ湖への通行権を得られなかったが、\nこれによって可能となる。ポルトガルの提案を承認すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330079A;ポルトガル案を承認する;;;;;;;;;;X ACT330079B;ポルトガル案では物足りない;;;;;;;;;;X EVT330100N;アフリカ分割会議の呼びかけ;;;;;;;;;;X EVT330100D;アフリカ分割は1880年代から第一次世界大戦開始までの期間であり\n、植民地帝国の獲得が地球上のどこよりも早く行われた。それは新し\nい帝国主義の最もたる例であった。19世紀後半は非公式な帝国の統\n治から経済支配による統治への変遷が見られ、1870年代からは領土\nを他国より先に自らの勢力下におこうとする獲得競争が見られた。;;;;;;;;;;X ACT330100A;全ての列強をベルリン会議に呼ぼう;;;;;;;;;;X ACT330100B;神の意志に委ねよう;;;;;;;;;;X EVT330101N;ベルリン会議;;;;;;;;;;X EVT330101D;1884〜85年のベルリン会議ではアフリカにおける欧州各国の植民地化\nと貿易について取り決められた。その結果、ベルリン会議の総括的な決\n議はしばしばアフリカ分割の形式化と見なされた。1870年代後半から\nのアフリカ植民について欧州列強はこの「競争の規則」を定義し作成す\nる事と、各国の利権の範囲を定める事に強い関心を持っていた。欧州\n各国の領土的野心によるコンゴ川下流領域の競争の件があり、アフリ\nカ分割について国際会議を開く事に各国は同意した。出席した国は、\nドイツ、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ベルギー、デンマーク、フラン\nス、大英帝国、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スペイン、ザンジバ\nル、スウェーデン=ノルウェー同君連合、オスマン帝国、アメリカ合衆国で\nあった。会議は1884年11月15日にベルリンで開始された。1885年2\n月26日まで延長された熟考の後に、会議に出席した全ての国の代表\nによる署名によって決議され、合衆国以外の国により批准された。この\n決議により6つの問題についての対処が成された。1.コンゴ流域での通\n商の自由。2.奴隷貿易。3.コンゴ流域領土の中立。4.コンゴの探検。5.\nニジェールの探検。6.アフリカ大陸沿岸での占有の規則。署名した各国\nは新しくアフリカ沿岸に先遣施設を建て領有する場合、あるいは保護\n国を持つ場合、他の署名した各国に通知する事が求められた。これに\nより沿岸を得ると更に内陸を占有する事が有効になった。また、勢力圏\nにおける義務に対する国際的な法令の最初の例がベルリン会議での\n決議に含まれているのも注目に値した。アフリカの国家にとってこの会議\nは独立の終焉の前兆であり、1890年代から1900年代の間に多くの独\n立国が消滅した。;;;;;;;;;;X EVT330150N;イタリア人投資家がジブチ購入を試みる;;;;;;;;;;X EVT330150D;イタリア人投資家が東アフリカを保持しようと試みている。彼らはジブチに\nある我国の植民地に対し、かなりの金額で購入を申し出ている。\n我々はどうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330150A;ジブチはエチオピアへの回廊だ!我々の物だ!;;;;;;;;;;X ACT330150B;イタリアにやってもいいだろう;;;;;;;;;;X EVT330152N;イタリアがジブチを保護領化;;;;;;;;;;X EVT330152D;イタリア人投資家が最近アフリカでジブチを購入し、\n権益保全のために同地の保護領化を求めてきた。;;;;;;;;;;X EVT330153N;イタリアがベナディールを保護領化?;;;;;;;;;;X EVT330153D;イタリア商人の権益は、モガディシオ周辺ソマリア沿岸地域である\nベナディールでの影響力を拡大してきた。\nイギリス・ドイツが南方での影響力を確保しようとすると、\n商人たちは政府がザンジバルのスルタンと交渉して\nベナディールでのイタリア権益を認めさせるよう要求してきた。;;;;;;;;;;X ACT330153A;ザンジバルのスルタンに協定を提案;;;;;;;;;;X EVT330154N;イタリアがベナディール購入を提案;;;;;;;;;;X EVT330154D;イタリアがベナディール(モガディシオ周辺地域)における我々の権益を\n購入したいと申し出てきた。この地域での我々の影響は歴史的に\nわずかなものだったが、イギリスとドイツの活動の後でも\n我々の影響が残っている本土地方のひとつだった。イギリスは\nイタリアの要求を支持すると表明している。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT330200N;アブシリの反乱;;;;;;;;;;X EVT330200D;アブシリ・ビン・サリームは、タンガ地方にあるスワヒリ社会の指導者である\nスワヒリが担ってきた内陸部との交易に対し、ヨーロッパの植民当局が\n関与を深めてきたため、アブシリは反乱軍を組織することとなった。その\n目的はヨーロッパ人をスワヒリ海岸から追い出し、ザンジバルのスルタンの\n権威を取り戻すことにある。;;;;;;;;;;X EVT330202N;マジ・マジの反乱;;;;;;;;;;X EVT330202D;植民地支配に抵抗する呪術師Kinjikitile Ngwaleは、\n信心ある者が飲めば白人の弾丸が効かなくなるという\n魔法の水(マジ)を授かったと高らかに宣言した。\n彼に影響され、タンガニーカ南部では\n1905年7月まで大規模な反乱が続いた。;;;;;;;;;;X EVT330203N;ブニョロの反乱;;;;;;;;;;X EVT330203D;大湖地方北部においてブガンダ王国と覇を競ったブニョロ王国の首長\nらは、近年進みつつある植民地支配について、これを独立維持へのよ\nいチャンスだと考えた。そして彼らは新しく敷かれた植民地秩序を拒み\nこの地方から入植者を追い出してしまおうとして反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330204N;カバカ・ムワンガの反乱;;;;;;;;;;X EVT330204D;ブガンダが植民地化される過程において、ヨーロッパ人が植民地政府と\nの調整役に選んだのはカバカ(ブガンダ王)ではなく、各地の首長らであ\nった。そのため政治権力は次第にカバカの手を離れ、彼ら首長へと移っ\nていくことになった。これに危機感を抱いたのは当時のカバカ、カバカ・ム\nワンガである。そこで彼は1897年に植民地当局に対して反乱を起こし\n王国の主権を取り戻そうとした。;;;;;;;;;;X EVT330205N;ニャンギレの反乱;;;;;;;;;;X EVT330205D;植民地当局は1890年代、ブニョロ平定を何度も試みたが、ブニョロ人\nが全面的に降伏することはなかった。そして植民地という社会構造、経\n済構造が浸透していったことにより、さらなる反乱を招くことになってしま\nった。反乱軍は「ニャンギレ(私は拒む)」を合言葉に、植民地化がもた\nらす経済的、社会的要求に屈することはないぞと決意を新たにしている。;;;;;;;;;;X EVT330206N;マズルイの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330206D;マズルイとは、古くからモンバサを治めてきた指導層のことである。当時の\nケニア沿岸一帯はザンジバルの勢力圏にあったのだが、マズルイは19世\n紀を通じて、彼らザンジバル人の支配強化に対し頑強に抵抗を続けて\nいたのだ。だがケニアが植民地化されたことで、マズルイの支配はさらに\n危ういものとなった。そこでムバラク・ビン・ラシードの指揮のもと、彼らは\n1895年11月に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330207N;キクユ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330207D;グレート・リフト・バレー(大地溝帯)地方は、ケニア西部の肥沃な一帯\nである。ここには古くからキクユ人が住んでいたが、白人入植者はプラン\nテーション建設のため、ここを「余りの土地」だとして領有権を主張した\nそのためキクユ人は1902年、植民地当局を追放せよとの声を挙げ、\n反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330208N;ナンディ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330208D;ヴィクトリア湖の東に広がる高原には、昔からナンディとよばれる民族が\n暮らしてきた。だがそこにも植民地支配の波がおよぶようになると、一帯\nに緊張が走り、そしてついに1905年、当地からの植民者追放をうたう\n反乱が発生してしまった。;;;;;;;;;;X EVT330209N;ヘヘ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330209D;タンガニーカ南方に住むヘヘ人はムクワワ王のもとで反乱を起こし、\nヨーロッパ人を追い出して父祖伝来の地の支配を取り戻そうとした。;;;;;;;;;;X EVT330220N;バウレ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330220D;象牙海岸にはかねてより植民地制を導入しようとの動きがあったが、こ\nれを妨げてきたのが、古くからこの地に住んできたバウレ人である。彼ら\nは植民地化を拒み、バウレ人のあいだに政治的な階層秩序がもたらさ\nれるのを拒絶した。そしてエティエン・コメナンの指揮のもとバウレ人は反\n乱を起こし、父祖伝来の地から植民者を追い出してしまおうとした。;;;;;;;;;;X EVT330221N;バウレ人が再び蜂起;;;;;;;;;;X EVT330221D;バウレ人を植民地体制に組み込もうとする動きが進んでいくなか、彼ら\nの住む象牙海岸には緊張が走るようになった。そして1894年9月には、\nクアシ・ブエケらによるバウレ人の徹底的な反抗を招くことになるのである。;;;;;;;;;;X EVT330222N;バウレ人が三たび蜂起;;;;;;;;;;X EVT330222D;象牙海岸に植民地制度を導入しようとの試みに対し、この地域に住\nむバウレ人は1890年代を通じ抵抗を続けた。そして以前から反西洋\n感情をあらわにしていたバウレ人首長のカティア・コフィが現地当局に処\n刑されると、1898年、バウレ人は三度目の反乱を起こすことになったの\nである。;;;;;;;;;;X EVT330223N;イジェブの反乱;;;;;;;;;;X EVT330223D;ヨーロッパの交易システムも宣教団も、ヨルバ人との付き合いは長いもの\nとなっており、この地を植民地化する際には彼らがその一助となっていた\nしかし、植民地化によって独立を失うという点については、必ずしも全\nてのヨルバ国家が喜んで受け入れたわけではなかった。その代表がイジ\nェブで、かの国は国境を閉ざして植民地当局との連絡を絶ってしまった\nそこで我が国が植民地体制下に入るよう強いたことで、イジェブの国王\nは植民地当局に対して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330224N;イツェキリ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330224D;イツェキリ人のナナ首長は、我々がニジェール川デルタに植民地制度を\n敷こうとしたことに対して反乱を起こし、これはこの地域で発生した反\n乱のなかでも最も厄介なものとなった。植民地政府の行政官がニジェー\nル川デルタでの交易を自由に行わせて欲しいと訴えたのに対して、ナナ\n首長は1894年にこれを拒否し、国境地帯で彼らに向かって発砲した\nのだ。;;;;;;;;;;X EVT330225N;ベニンの反乱;;;;;;;;;;X EVT330225D;1880年代から1890年代にかけてベニンの首長らは植民地制度に組\nみ込まれていった。そして90年代末になると植民地当局は、ベニンに\n人身御供のような風習があると知るようになる。彼らはこの風習を野蛮\nなものだとして止めさせようとし、そして1897年の1月、現地行政官が\n殺害されたことで抗争にまで発展してしまった。;;;;;;;;;;X EVT330226N;エクメクの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330226D;イボ人はヨーロッパ交易圏と古くからかかわりを持ってきた。だが彼らの住\nむイボランドに植民地化が及ぶにつれて、社会的、経済的そして文化\n的な緊張関係が生じるようになった。そしてこれが植民地当局への反\n抗となって立ち現れてくるのである。ヨーロッパ貿易商や植民地政府職\n員に攻撃を仕掛け、イボランド支配への脅威となった彼ら反乱軍は、\nエクメク、つまり「静かな者たち」と呼ばれた。;;;;;;;;;;X EVT330227N;小屋税の反乱;;;;;;;;;;X EVT330227D;小屋税とは植民地行政府が設けた人頭税の一種であるが、その目的\nは当局の収入源とすることだけではない。植民地化によって新しく諸産\n業が生まれて経済システムを形作るようになったが、現金収入をエサに\nしつつ、この体系へと土着住民を組み込むこともまた小屋税の目的の\nひとつだったのだ。だがこの小屋税を課すことで反乱を招く事例が多かっ\nた。そのなかでも苛烈をきわめたものといえば、1898年にシエラレオネで\n起こった、バイ・ブレを首領とする反乱だった。;;;;;;;;;;X EVT330228N;ヤー・アサンテワーの反乱;;;;;;;;;;X EVT330228D;アシャンティ王国は西アフリカ沿岸部の一帯でも有数の大国であり、王\n国が滅ぼされた現在でも旧王家はアシャンティ人から広汎な支持を集\nめている。つまりこのアシャンティを征服して植民地化してしまったことに\nより、かつての王族が反乱を起こす土壌はすでに形成されていたのだ。\nそして1900年、アシャンティ最後の君主、プレンペ王の妹であるヤー・ア\nサンテワーが植民地当局に叛旗を翻し、これに呼応した民衆がアシャン\nティ再興と植民地勢力の追放をとなえて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330229N;モシ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330229D;ボルタ川上流に広がる高原地帯には古くからモシ人が住んでいるが、\n彼らは18世紀後半になるとこの地に強大な王国を築くまでに発展して\nいた。よってこの地域に植民地を設けることでモシ人との接触、衝突が\n起こるのは当然の帰結でもある。そして20世紀初頭、植民地当局の\n実効支配が強くまた広くなるにつれて、モシ人はかつての王国を再興し\nようと反乱に走るようになった。;;;;;;;;;;X EVT330230N;フォデ・カバの反乱;;;;;;;;;;X EVT330230D;セネガル南部のカザマンス地方でも、今や着々と植民地化が進んでい\nる。だがこの地に住むジュラ人のイスラム法学者であるフォデ・カバ・ドゥン\nビアは、これに反抗するようになった。植民地支配の強制に耐えかねた\nフォデ・カバは民衆を救うために抵抗運動を起こし、1910年にこの運動\nは反乱にまで発展した。;;;;;;;;;;X EVT330231N;バウレ人が四たび蜂起;;;;;;;;;;X EVT330231D;現地政府が収入増のために一連の新税を導入すると決めたことに\nよって、バウレ国内に新たな騒動が起きた。コキ・ヤオ・アオウノウは\n1909年に新たな蜂起軍を組織し、蜂起は地域全体に拡大した。;;;;;;;;;;X EVT330240N;ンデベレ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330240D;ンデベレ国家を崩壊においやって植民地化を強制したことで、ンデベレ\n人のあいだに列強への敵意が募るようになっていった。そして1896年に\n小屋税が課されることが決まると、ンデベレ人は国家再興をはかり反乱\nを起こした。;;;;;;;;;;X EVT330241N;ショナ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330241D;ンデベレ人の反乱が近隣に住むショナ人にも飛び火した。\n「ここは我々の土地だ。植民地など跳ね除けてしまえ」と\nする動きがショナ人の間にも広まりつつある。;;;;;;;;;;X EVT330242N;ヘレロ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330242D;カオコランドに住むヘレロ人はかつてナマ人に支配されており、この地に\n植民地化が及びつつあった当初もナマ人から抜け出そうと躍起になって\nいた。こうした事情により、連合してナマ人と戦ってくれるのではないかと\nの期待から、植民地が設けられた初めのうちはヘレロ人も当局を歓迎\nしていたのだ。だが当局による貢納要求はヘレロ人の怒りを買い、20世\n紀を迎えたころになると彼らも植民地からの解放を望むようになっていっ\nた。そして1904年1月、ヘレロ人はサミュエル・マハレロの指揮のもと団\n結し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330243N;チオコの反乱;;;;;;;;;;X EVT330243D;植民地支配の波がモザンビークにまで及ぶと、現地人の多くは、18世\n紀にザンベジ川下流域を支配していたモノモタパ王国こそが自分たちの\n伝統的な暮らしを守ってくれるのだと考え、モノモタパの残存勢力がその\n旗振り役となってくれないかと期待を高めるようになった。そして1897年\nザンベジ中流域の住民はチオコに率いられて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330244N;メナベの反乱;;;;;;;;;;X EVT330244D;かつてマダガスカルはメリナ王国により全島的に統治されてきたが、この\n王国政府が打倒され崩壊したことでマラガシーの集団やその支配地域\nも細分化され、植民地当局はマダガスカル島の支配を維持していくた\nめに、全土に散らばる彼らの相手をしなければならなくなった。メナベ地\n方に居住するサカラヴァ族もそうしたマラガシーのひとつで、しかも彼らは\nメリナ時代からその支配に抵抗してきたのだった。そしてサカラヴァ族は\n1897年に植民地制への服従を拒み、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330245N;VVS団の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330245D;マダガスカルに君臨していたメリナ王国は崩壊してしまったが、決してマ\nラガシーのアイデンティティーまで消えうせた訳ではなかった。そして彼らは\n「よそ者の下におかれている」との意識も持ち続けていったのだった。その\n後1910年代になるとビ・バト・サケリカ(VVS団、「鉄・石・分枝」の意)\nという秘密結社が発足してマダガスカルの独立回復と植民地制度の撤\n廃を訴え、1915年には彼らVVS団の構成員らによる反乱がアンタナナ\nリボで発生した。;;;;;;;;;;X EVT330246N;ザンベジの反乱;;;;;;;;;;X EVT330246D;モザンビーク中部、ザンベジ川の下流にあたる地域にはショナ系の諸民\n族が暮らしている。だがこの地域が植民地化されるにあたって現地住\n民には貢納や賦役の義務が課されるようになり、彼らショナ人も不満を\n鬱積させていった。そして1917年にはこの一帯で大規模な反乱が発\n生した。当局はバルエ人を率いて蜂起したノングウェ・ノングウェに対し反\n植民地感情を煽ったかどで国外追放を命じたが、これは火に油を注ぐ\n結果に終わった。逆にモザンビーク中部での全面的な反乱を招いてし\nまったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330260N;クワニャマ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330260D;アンゴラの植民地化も内陸に及ぶにつれ、南部に広がる高原地帯では\n現地人との間に生じた軋轢が徐々に問題化していった。ムタヤカヴェラ\nが当局に対して反抗運動を繰り広げたのもこうした時流においてであっ\nた。彼の指揮のもとクワマト人とクワニャマ人は連合し、彼らの居住する\n一帯から植民地官吏を追い払ってしまおうとしたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330261N;バイルンダの反乱;;;;;;;;;;X EVT330261D;ヨーロッパ人はアンゴラの土地に次々と投資していったが、現地住民は\nこれに対し、自分たちが服属させられるのではないかと考え危機感を抱\nくようになった。そして1904年、植民地当局への反抗からバイルンダで\n反乱が発生した。;;;;;;;;;;X EVT330262N;ムシディの反乱;;;;;;;;;;X EVT330262D;カサイ地方の植民地化が始まった当初、この地域で栄えていたルンダ\n王国はこれに協力的だった。植民地当局の力を借りることで、近隣の\n敵対関係にある諸王国との勢力関係を埋め合わせようとしたのだ。だ\nが20世紀に入ると、植民地政府が要求してくる貢納や賦役の額は無\n視できないものとなっていき、そしてついにルンダ国王のムシディは植民\n地政府など追放してしまえと訴えて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330263N;シエテカラの反乱;;;;;;;;;;X EVT330263D;20世紀も初頭になると、アンゴラ南部でも植民地体制が確立されてい\nった。だが当局の要求する貢納や賦役には現地住民も怒りを募らせて\nゆき、植民地支配に対する抵抗運動が起こるようになっていく。そして1\n915年にはクワモト地方の住民がシエテカラの指揮のもと蜂起し、反乱\nを起こした。;;;;;;;;;;X EVT330264N;ベンバ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330264D;中央アフリカに住むングニ諸族のなかでも随一の勢力をもつ民族にベン\nバ人がある。彼らは自分達の土地がただ植民地とされるのを良しとせず\n1897年にはこれに抵抗して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330265N;トンガ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330265D;ニヤサランドに植民地支配が浸透していくにつれ、現地住民はしだいに\n当局に対し敵意を募らせていった。そんななか、当局はプランテーション\nでの労働力確保のために小屋税を導入する。これが決定打となって19\n09年に呪術師マルマのもとトンガ人が蜂起し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330266N;チレンベの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330266D;植民地政府の支配が確立したことで布教活動も進み、アフリカの現地\n住民の中にもキリスト教を受容するものが増えていったが、彼らの中に\nは、当局による圧政からの解放が聖書に書かれていると主張する者が\n現れるようにもなった。そして習合的なキリスト教運動がニヤサランドに\n広まってゆき、彼らはジョン・チレンベのもとで1915年に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330280N;アザンデの反乱;;;;;;;;;;X EVT330280D;アザンデ人はスーダン南部の丘陵地帯に居住する民族で、近年はヤン\nビオ王のもと国家を形成しその国力を高めていた。そして植民地化の\n波がこの一帯にまで及ぶと、当然のことながらアザンデ国家との衝突が\n発生した。ヤンビオ王に対して当局が派遣する顧問を受け入れるように\nと強硬な姿勢をとったことで、1905年の1月にヤンビオ率いるアザンデ人\nは当局に対して武器を取って立ち上がったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330281N;ヌバ山地で騒乱;;;;;;;;;;X EVT330281D;ヌバ山地には古来から様々な国家が支配を及ぼそうと画策してきた。\nだが現地住民はこれら外部による支配をことごとく跳ね除けてきたので\nある。そして今度も同様で、ヌバ山地の一帯に小屋税を課そうとしたこ\nとが発端となり、1906年に植民地当局に対する反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X EVT330282N;サイード・ムハンマドがソマリ人と反乱を起こす;;;;;;;;;;X EVT330282D;ソマリ人は以前から植民地制度に反抗的な姿勢をとってきたが、サイー\nド・ムハンマドの登場によってそれが反乱のかたちを成すようになった。イ\nスラム聖職者だった彼にはカリスマ的な指導力があり、そのため多くの氏\n族がサイード・ムハンマドのもとで結集して反植民地運動に身を投ずる\nことになったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330283N;トゥアットの反乱;;;;;;;;;;X EVT330283D;サハラ砂漠に植民地が拡大していくにつれ、以前から砂漠地帯で権\n勢を誇っていたトゥアレグ人との係わりかたが問題となっていった。伝統\n的な交易路の支配を握るためには、トゥアレグ人の支配下にあるいくつ\nものオアシス都市に植民地当局の支配を認めさせていく必要があった\nためだ。だが1900年、こうしたオアシス都市のひとつでモロッコ王国と深\nいかかわりを持ってきたトゥアットで、植民地機関を設けることへの反発\nから反乱が発生した。;;;;;;;;;;X
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[[VIPR翻訳]] ########330K - COLONIZATION EVENTS #####;;;;;;;;;;X EVT330000N;ベルギー王レオポルド二世がスタンレーを雇用;;;;;;;;;;X EVT330000D;レオポルドは海外植民地を持つ事が国家の偉大さを示すものだと熱烈\nに信じており、ベルギーが植民地を獲得するように尽力した。ベルギー\n国民も政府もこの事に関心を持っておらず、結局レオポルドは私有地と\nして植民地を獲得しようとしはじめた。アフリカやアジアの植民地取得に\n何度か失敗した後の1876年、国際学術・博愛協会に偽装した持株\n会社を設立した。1879年この持株会社の後援で、彼はコンゴ地域で\n植民地を建設する為にアメリカ人探検家ヘンリー・モートン・スタンリーを\n雇った。;;;;;;;;;;X ACT330000A;コンゴ建国のため彼を雇おう;;;;;;;;;;X ACT330000B;アフリカ植民地帝国に興味はない;;;;;;;;;;X EVT330001N;スタンリーが下コンゴに交易所を建設;;;;;;;;;;X EVT330001D;約半年の準備の後に1879年8月、スタンリーはコンゴ川河口に到達し\nヴィリに交易所を建設した。しかし、急峻なクリスタル山地を越える\n必要があるため、さらなる前進には数ヶ月はかかる見込みだ。\nスタンリーに任務を続けさせるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330001A;スタンリーに任務を続行させよう;;;;;;;;;;X ACT330001B;彼を帰国させよう、費用がかかりすぎる;;;;;;;;;;X EVT330002N;レオポルド王がフランスのコンゴ進出に警告;;;;;;;;;;X EVT330002D;ベルギー国王はコンゴ盆地への関心を強め、同地域の首長たちに\nスタンリーを遣わしてベルギー王との独占交易協定を結ばせた。\nわれわれもコンゴに探検隊を派遣して交易権を確保し、\nベルギーの独占を防ぐべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330002A;サヴォルニャン・ド・ブラザを派遣しよう;;;;;;;;;;X ACT330002B;ベルギーはコンゴの自由貿易を保障するだろう;;;;;;;;;;X EVT330003N;ド・ブラザがプール・マレボに到達;;;;;;;;;;X EVT330003D;ガボン内陸部探検の経験のあったド・ブラザは、リーブルヴィルの\nフランス拠点から見事にコンゴに到達し、プール・マレボより上流の\nコンゴ川流域でのフランス通行権協定をテケ族のマココ首長との\n間で結んだ。ド・ブラザの活動を認めるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330003A;ド・ブラザの結んだ協定を認めよう;;;;;;;;;;X ACT330003B;彼を召還する、コンゴに興味はない;;;;;;;;;;X EVT330004N;スタンリーがプール・マレボに到達;;;;;;;;;;X EVT330004D;ヘンリー・スタンリーはベルギー王の名代としてキンシャサに到着し、\nベルギー王の通商・交易所建設を認めるなら我々を保護するという\n提案をしてきた。フランスも我々の土地に関心を持っているようだが、\nベルギー王の提案を承諾すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330004A;協定を結ぶ;;;;;;;;;;X EVT330005D;スタンリーがついに山越えを成し遂げてプール・マレボに到達した。\nコンゴ川北岸の首長たちとは既にフランスが協定を結んでいたが、\n南岸の首長たちはまだフランスと接触しておらず、スタンリーは\nコンゴ川南岸でのベルギー交易権を保障する保護協定を結んだ。\nスタンリーの活動を認めるべきか、\nそれともフランスとの軋轢を避けるため引き下がるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330005A;協定を認め、スタンリーを奥地に前進させる;;;;;;;;;;X ACT330005B;わが国にフランスと敵対する力は無い;;;;;;;;;;X EVT330006N;スタンリーの地方首長との協定;;;;;;;;;;X EVT330006D;ヘンリー・スタンリーはベルギー王の名代として、コンゴ川流域の\n首長たちがベルギー王の通商・交易所建設を認めるかわりに\nフランスへの服属から保護するという協定を結んだ。\n我々のコンゴでの支配力は失われた。;;;;;;;;;;X EVT330007N;コンゴ国際協会の設立;;;;;;;;;;X EVT330007D;レオポルド二世のアフリカでの活動は、議会の予算案反対によって\n国策としてのアフリカ植民地化が制限されたため、国王の\n個人的活動であった。レオポルド二世は下コンゴ地方での\n諸協定を結ぶと、自分の活動が経済目的というより博愛主義に\nよるものであるという虚構を続けるため、彼の新しい私領が\nコンゴ国際協会の下で統治されるように見せかけた。;;;;;;;;;;X ACT330007A;協会を設立しよう;;;;;;;;;;X EVT330008N;コンゴでのフランスの立場;;;;;;;;;;X EVT330008D;ベルギー主導のコンゴ国際協会は、自らをコンゴ川南岸地域の唯一の\n支配組織と宣言した。ド・ブラザとテケ族との協定はまだフランス議会の\n批准を受けておらず、植民地主義者たちからはテケ族に対する\n保護領化宣言の要求が強まっていた。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330008A;テケ族の保護領化を宣言しよう;;;;;;;;;;X ACT330008B;コンゴがどうなるか知ったことではない;;;;;;;;;;X EVT330009N;スタンリーがコンゴに再派遣される;;;;;;;;;;X EVT330009D;スタンリーは任務を完了して1882年5月に帰国した。\nしかしフランスのテケ族に対する保護領化宣言は、\n同地域へのレオポルド王の影響力を脅かす可能性を示し、\n王はスタンリーをコンゴ川上流の首長たちのもとに再派遣し、\nコンゴ国際協会のためにさらなる領土を確保させることにした。;;;;;;;;;;X ACT330009A;スタンリーを再雇用してコンゴに戻らせよう;;;;;;;;;;X ACT330009B;スタンリープールでの現在の地位で十分だ;;;;;;;;;;X EVT330014N;ポルトガルのコンゴ権益;;;;;;;;;;X EVT330014D;ポルトガルのコンゴ盆地での権益は15世紀以来のものだった。\nポルトガルはカビンダに交易所を持っていたが、イギリスとフランスの\n商人がコンゴ川北方での交易を支配していたため、\nポルトガルの活動の中心はアンゴラに移っていた。\n1880年代にフランス・ベルギーがこの地域で新たな権益を持つと、\nポルトガルの歴史的な権益が脅かされた。ポルトガルは\nカビンダおよびコンゴ川河口の権益を主張すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330014A;カビンダのポルトガル権益は認められるべきだ;;;;;;;;;;X ACT330014B;我が帝国の興味は別のところにある;;;;;;;;;;X EVT330050N;ルーデリッツが現地首長からナミビアを購入;;;;;;;;;;X EVT330050D;アドルフ・ルーデリッツが現地首長からナミビアを購入した。\n彼は保護を求めてきている。我々はどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT330050A;ルーデリッツの活動を保護する;;;;;;;;;;X ACT330050B;我々に植民地は不要だ;;;;;;;;;;X EVT330051N;ナハティガルがカメルーンの植民地化を宣言;;;;;;;;;;X EVT330051D;カメルーン海岸はかねてからヨーロッパ貿易商の興味をひいてきた。186\n0年代から1870年代はイギリスが優勢にあったが、ドイツが統一されると\nドイツ商人や宣教師の活動が増えるようになった。そしてイギリスがこの\n地方を植民地としてしまうのではとの考えから、1884年7月、グスタフ・\nナハティガルがカメルーン海岸に派遣され、この地域がドイツの保護領と\nなる旨宣言された。;;;;;;;;;;X ACT330051A;協定締結のためナハティガルを派遣する;;;;;;;;;;X EVT330052N;ナハティガルが現地首長からトーゴランドを購入;;;;;;;;;;X EVT330052D;グスタフ・ナハティガルが現地首長からトーゴランドを購入した。\n彼らは保護を求めてきている。我々はどうすべきか?;;;;;;;;;;X ACT330052A;トーゴランドの保護領化を宣言する;;;;;;;;;;X EVT330053N;ドイツがトーゴランドの植民地化を宣言;;;;;;;;;;X EVT330053D;トーゴランド海岸はかねてからヨーロッパ貿易商の興味をひいてきた。18\n60年代から1870年代はイギリスが優勢にあったが、ドイツが統一される\nとドイツ商人や宣教師の活動が増えるようになった。そしてイギリスがこ\nの地方を植民地としてしまうのではとの考えから、トーゴランドがドイツの\n保護領となる旨宣言された。;;;;;;;;;;X ACT330053A;トーゴはドイツの国土である;;;;;;;;;;X ACT330053B;トーゴはフランスのものだ;;;;;;;;;;X ACT330053C;トーゴはイギリスのものだ;;;;;;;;;;X EVT330054N;ナミビアへのドイツ移民;;;;;;;;;;X EVT330054D;新たなドイツ人が植民地に到着した。;;;;;;;;;;X EVT330055N;ルーデリッツが南西アフリカの保護領化を宣言;;;;;;;;;;X EVT330055D;ベルリン会議が終わると、アフリカの植民地化にむけた取り決めも全て定\nまった。会議で決まった規定に従い、アフリカ内陸地方の支配を確保す\nるために保護領を設ける必要がある。;;;;;;;;;;X ACT330055A;南西アフリカに保護領を設ける;;;;;;;;;;X ACT330055B;沿岸部の支配で構わない;;;;;;;;;;X EVT330056N;カール・ペーテルスとタンガニーカのドイツ利権;;;;;;;;;;X EVT330056D;ドイツ植民会社の重鎮カール・ペーテルスは、\n自国が列強となる運命を信じるとともに、\n東アフリカはドイツの権益を伸長させる土地で\nあることも堅く信じていた。\n1884年、彼は東アフリカを旅し、タンガニカ外縁部の原住民に\nドイツは彼らの保護者であることを認識させ、\n礼遇を受けた。\n\nペーテルスの行動を認め、\n東アフリカの権益を主張するべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330056A;ドイツは、東アフリカに権益を持つ!;;;;;;;;;;X EVT330057N;東アフリカでのイギリス権益;;;;;;;;;;X EVT330057D;イギリスが東アフリカに有していた商業権益は、ザンジバルのスルタンとの\n密接な協力によって維持されてきた。しかし内陸のタンガニーカに対し\nてドイツが勢力圏とする旨宣言したことで、この地域でのイギリスの利権\nが危うくなるのではとの懸念が発生した。もしかすると、タンガニーカでの\nドイツ利権を承認することで、ケニアおよびザンジバルでのイギリス利権を\n承認させるような取引も可能かもしれない。;;;;;;;;;;X ACT330057A;ドイツに取引を提案する;;;;;;;;;;X ACT330057B;ドイツを東アフリカから締め出す;;;;;;;;;;X EVT330058N;イギリスが東アフリカ分割を提案;;;;;;;;;;X EVT330058D;ペータース条約を承認したことでイギリスとの関係は緊迫したものとなっ\nてしまった。だが緊張緩和のため、イギリスは東アフリカを英独でそれぞれ\nの地区に分割することを提案している。これが実行されればドイツはタン\nガニーカを獲得し、イギリスはケニアとザンジバルを得る。この申し出を受\nけるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330058A;イギリスの提案を呑む;;;;;;;;;;X ACT330058B;東アフリカ全域に支配を及ぼさねば;;;;;;;;;;X EVT330059N;イギリスの東アフリカでの取引をドイツが受容;;;;;;;;;;X EVT330059D;東アフリカ分割に向けた提案をドイツは受け入れ、この取引についてザ\nンジバルのスルタンにも伝えられた。この協定のうちザンジバルに関わる\n条項を拒むなら、列強の侵略を招くだろうと念を押していたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330060N;ザンジバル本土の分割;;;;;;;;;;X EVT330060D;英独両国はザンジバルの大陸領土について、これを彼らで分割すると\nいう協定に合意してしまった。ザンジバルの主権下に残されたのは、海\n岸に沿った幅10マイルしかない帯状の地域だけである。彼らは我々の\n政府に通知をよこし、領土喪失を拒むなら履行確保のため軍事介入\nを行うと言ってきた。;;;;;;;;;;X EVT330061N;東アフリカに関するドイツとの協定;;;;;;;;;;X EVT330061D;1886年にザンジバルの領土を分割した協定は、ドイツ・\nイギリス間に未解決の問題 〜 ザンジバルおよびウガンダ\n両王国の支配権の帰属問題 〜 を残すものであった。\n近年、ウガンダでカール・ペーテルスが\n活動していることは、その支配権を確立するために、\nドイツが何らかの手段を講じる可能性を示唆している。\nおそらくドイツ側は、イギリスのウガンダ統治権を\n承認する見返りとして、現在イギリス領である\n北海ハンブルグ沖のヘルゴランド島の\n返還をねらっているのだろう。;;;;;;;;;;X ACT330061A;ドイツに取引を持ちかけてみようか;;;;;;;;;;X ACT330061B;これでは問題の解決になるまい;;;;;;;;;;X EVT330062N;東アフリカに関するイギリスとの協定;;;;;;;;;;X EVT330062D;1886年にザンジバルの領土を分割した協定は、ドイツ・\nイギリス間に未解決の問題 〜 ザンジバルおよびウガンダ\n両王国の支配権の帰属問題 〜 を残すものであった。\n北海のヘルゴランドがイギリス領であり続けることは、\n我々の海軍が長く懸念を寄せてきた事柄である。\nイギリスは、このヘルゴランドと引き換えに、\nウガンダおよびザンジバルにおけるイギリスの統治権を\n認めよという取引を申し出てきた。\n受け入れるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330062A;イギリスとの取引に乗ろう;;;;;;;;;;X ACT330062B;取引をする意味など、なきに等しい;;;;;;;;;;X EVT330063N;1890年のヘルゴラント・ザンジバル条約;;;;;;;;;;X EVT330063D;ブガンダ問題について提案していた取引案を、ドイツは受け入れた。\nタンガニーカ地方はドイツの支配下に入り、また北海に浮かぶヘルゴ\nラント島もドイツ領となったが、イギリスがブガンダおよびザンジバルで\n支配的な地位に立つことに対し彼らの承認を得ることができた。;;;;;;;;;;X EVT330064N;東アフリカに関するフランスとの協定?;;;;;;;;;;X EVT330064D;ドイツと取引が交わされたものの、イギリスによるザンジバルへの支配確\n立に対して、依然フランスはこれを妨害できる列強のひとつであった。し\nかしフランスは長らくマダガスカルに利害を持っており、我々がマダガスカ\nルへのフランス支配を認めるならば、彼らもイギリスのザンジバル支配を\n認めてくれるかもしれない。;;;;;;;;;;X ACT330064A;フランスに取引を持ちかける;;;;;;;;;;X ACT330064B;マダガスカルへの影響力は維持せねば;;;;;;;;;;X EVT330065D;イギリスとフランスの両国は、長きにわたってザンジバルおよびマダガスカル\nへの影響力を巡り争ってきた。だがイギリスはこの紛争の解決に向け申\nし出てきている。それによればフランスはマダガスカルを、イギリスはザンジ\nバルをそれぞれ支配圏に組み込むことについて、お互い承認する形に\nなる。;;;;;;;;;;X EVT330066N;1890年の英仏協定;;;;;;;;;;X EVT330066D;東アフリカに関して我々が提案した取引案を、フランスは受け入れた。フ\nランスはマダガスカルを勢力下におくことになったが、その代わり彼らはイ\nギリスがザンジバルに対して支配的な立場にあることを承認することとな\nった。;;;;;;;;;;X EVT330067N;東アフリカについて、イタリアと交渉;;;;;;;;;;X EVT330067D;イタリアの東アフリカへの関心は主にエチオピアと\nソマリアに向けられているが、ケニヤ北部に入植した\nイタリア人の事も意識はしているようだ。\n我々のケニヤ支配権を固めるために、\nイタリアがエチオピアおよびソマリア沿岸部に\n手を出すことを認めるべきかも知れない。;;;;;;;;;;X ACT330067A;イタリアに取引を打診しよう;;;;;;;;;;X ACT330067B;話し合うことはない;;;;;;;;;;X EVT330068D;イギリスとイタリアは、これまではアフリカ東部における権益を\n互いに尊重することができた。\n今彼らが提案しているのは、エチオピアとソマリアを\n我々が影響下におくことを認め、その交換条件として\nケニヤをイギリスが支配することを認める、というものであった。\nこれは受けるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT330069N;1890年の英伊協定;;;;;;;;;;X EVT330069D;東アフリカについての我々の取引案をイタリアが受け入れた。イタリアが\nエチオピアを勢力下におくのを認める代わりに、ケニアにおけるイギリスの\n支配的地位は承認された。;;;;;;;;;;X EVT330070N;ポルトガルが中央アフリカに勢力拡大;;;;;;;;;;X EVT330070D;ポルトガルはアンゴラとモザンビークの沿岸を基点として、内陸への進出\nをすすめてきた。そしてその結果、中央アフリカにまたがり一個のブロックと\nしてのポルトガル領が生まれたのである。こうした情勢により、帝国主義\n派の一部政治家が望むようなケープタウンからカイロにいたる一枚岩の\nイギリス勢力圏は、その誕生が見込めなくなりつつある。さらに近年、ポ\nルトガル人は我が国の勢力下にあるニヤサランドにまで進出してきた。\nポルトガル人どもに、この地域を牛耳っているのは誰かはっきりさせてや\nるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330070A;ポルトガルに撤退を求める;;;;;;;;;;X ACT330070B;この地方はポルトガルに掌握させておく;;;;;;;;;;X EVT330071N;中央アフリカ東部に関するイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT330071D;我が国がアフリカの内陸へと進出したことについて、イギリスはニヤサラン\nドから撤退するようにとの要求を突きつけてきた。それによれば、かの地\nはイギリスの勢力圏内だとのことだ。我々がこの要求を呑まなければ、\nイギリスは軍事力に訴えてでも支配を守ろうとするだろう。どうしようか?;;;;;;;;;;X ACT330071A;大英帝国とは争えない;;;;;;;;;;X ACT330071B;我々もバラ色の帝国を築こう!;;;;;;;;;;X EVT330072N;ポルトガルが要求を拒否!;;;;;;;;;;X EVT330072D;ポルトガル人どもは生意気にも我々の要求を拒み、ニヤサランドから撤\n退することはないと言ってきた。だがニヤサランドには、法的に見てもイギ\nリスの勢力圏が正当に及んでいる。軍事力に訴えてでも、ポルトガルに\nこの論点を受け入れさせるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330072A;ポルトガルに懲罰を与えねば;;;;;;;;;;X ACT330072B;この地方はポルトガルに掌握させておく;;;;;;;;;;X EVT330073N;グスタフ・ナハティガルがカメルーンで成功;;;;;;;;;;X EVT330073D;ナハティガル氏がカメルーン沿岸部のドゥアラの首長と保護協定を結ぶことに成功し、同地域でのわが国の主導的な立場を確実にした。;;;;;;;;;;X EVT330074N;カメルーンをドイツ植民地と宣言?;;;;;;;;;;X EVT330074D;ベルリン会議によって、アフリカの地域支配の主張が国際的に\n承認される基本条件として「実効支配の原理」が確立された。\n国際法顧問によれば、我々がドゥアラの首長と結んだ保護協定は\n実効的支配とはみなされず、他国がカメルーンの\n我々の支配圏に侵入することも不可能とは言い切れないらしい。\n彼らは公式にカメルーンをドイツ植民地と主張するよう求めている。;;;;;;;;;;X ACT330074A;カメルーンはドイツ領だ;;;;;;;;;;X ACT330074B;支配域を広げる必要は無い;;;;;;;;;;X EVT330075N;南西アフリカでドイツと協定?;;;;;;;;;;X EVT330075D;東アフリカでの勢力圏についての交渉中に、南アフリカの\n植民地担当官はオレンジ川南方ナマ地域でのイギリス権益を\nドイツに認めさせるよう求めた。ケープ植民地の国境線について\nイギリスはオレンジ川まで拡張すると定めていたが、同地域は\nドイツがナマの保護領化を宣言するまで実効支配できていなかった。\nオレンジ川南方のイギリス支配権をドイツに承認させるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330075A;ドイツにオレンジ川国境案を提示する;;;;;;;;;;X EVT330076N;イギリスがオレンジ川まで領有主張;;;;;;;;;;X EVT330076D;我々のナマ保護領化宣言を受けて、イギリスは彼らのケープ植民地が\n大西洋沿岸オレンジ川までのナマ族居住地も含むことを認めるよう\n要求してきた。顧問官は同地域の経済的な価値の低さを考えて、\nイギリスの要求を受け入れてこの地方の英独勢力圏に\nはっきりした地理的境界線を引くよう勧めている。;;;;;;;;;;X ACT330076B;ナマ全域はドイツの保護領だ;;;;;;;;;;X EVT330077N;ドイツがオレンジ川国境案を承認;;;;;;;;;;X EVT330077D;我々とドイツとの交渉は、オレンジ川がケープ植民地の北限だと\nドイツが承認することで合意に達した。;;;;;;;;;;X EVT330078D;ドイツが東アフリカでの影響力を確立すると、わが国の顧問官は\nポルトガルとドイツの支配地域の境界をロヴマ川から内陸に向かって\nニャサ湖までの線で提案するよう勧めてきた。これによって\nニャサ湖までの通行権をドイツに許すことになるが、モザンビーク\n沿岸地域でのポルトガルの歴史的な影響力は認められる。;;;;;;;;;;X ACT330078B;ポルトガルはヤオ全域で影響力を保持するべきだ;;;;;;;;;;X EVT330079N;東アフリカでポルトガルと協定?;;;;;;;;;;X EVT330079D;ポルトガルはロヴマ川からニャサ湖までを境界として彼らと我々の\n東アフリカにおける勢力圏を分割しようと提案してきた。\nこれまでポルトガルの影響力がロヴマ川北方のヤオ族に及んでおり\nわが国の商人はニャサ湖への通行権を得られなかったが、\nこれによって可能となる。ポルトガルの提案を承認すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330079A;ポルトガル案を承認する;;;;;;;;;;X ACT330079B;ポルトガル案では物足りない;;;;;;;;;;X EVT330100N;アフリカ分割会議の呼びかけ;;;;;;;;;;X EVT330100D;アフリカ分割は1880年代から第一次世界大戦開始までの期間であり\n、植民地帝国の獲得が地球上のどこよりも早く行われた。それは新し\nい帝国主義の最もたる例であった。19世紀後半は非公式な帝国の統\n治から経済支配による統治への変遷が見られ、1870年代からは領土\nを他国より先に自らの勢力下におこうとする獲得競争が見られた。;;;;;;;;;;X ACT330100A;全ての列強をベルリン会議に呼ぼう;;;;;;;;;;X ACT330100B;神の意志に委ねよう;;;;;;;;;;X EVT330101N;ベルリン会議;;;;;;;;;;X EVT330101D;1884〜85年のベルリン会議ではアフリカにおける欧州各国の植民地化\nと貿易について取り決められた。その結果、ベルリン会議の総括的な決\n議はしばしばアフリカ分割の形式化と見なされた。1870年代後半から\nのアフリカ植民について欧州列強はこの「競争の規則」を定義し作成す\nる事と、各国の利権の範囲を定める事に強い関心を持っていた。欧州\n各国の領土的野心によるコンゴ川下流領域の競争の件があり、アフリ\nカ分割について国際会議を開く事に各国は同意した。出席した国は、\nドイツ、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ベルギー、デンマーク、フラン\nス、大英帝国、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スペイン、ザンジバ\nル、スウェーデン=ノルウェー同君連合、オスマン帝国、アメリカ合衆国で\nあった。会議は1884年11月15日にベルリンで開始された。1885年2\n月26日まで延長された熟考の後に、会議に出席した全ての国の代表\nによる署名によって決議され、合衆国以外の国により批准された。この\n決議により6つの問題についての対処が成された。1.コンゴ流域での通\n商の自由。2.奴隷貿易。3.コンゴ流域領土の中立。4.コンゴの探検。5.\nニジェールの探検。6.アフリカ大陸沿岸での占有の規則。署名した各国\nは新しくアフリカ沿岸に先遣施設を建て領有する場合、あるいは保護\n国を持つ場合、他の署名した各国に通知する事が求められた。これに\nより沿岸を得ると更に内陸を占有する事が有効になった。また、勢力圏\nにおける義務に対する国際的な法令の最初の例がベルリン会議での\n決議に含まれているのも注目に値した。アフリカの国家にとってこの会議\nは独立の終焉の前兆であり、1890年代から1900年代の間に多くの独\n立国が消滅した。;;;;;;;;;;X EVT330150N;イタリア人投資家がジブチ購入を試みる;;;;;;;;;;X EVT330150D;イタリア人投資家が東アフリカを保持しようと試みている。彼らはジブチに\nある我国の植民地に対し、かなりの金額で購入を申し出ている。\n我々はどうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT330150A;ジブチはエチオピアへの回廊だ!我々の物だ!;;;;;;;;;;X ACT330150B;イタリアにやってもいいだろう;;;;;;;;;;X EVT330152N;イタリアがジブチを保護領化;;;;;;;;;;X EVT330152D;イタリア人投資家が最近アフリカでジブチを購入し、\n権益保全のために同地の保護領化を求めてきた。;;;;;;;;;;X EVT330153N;イタリアがベナディールを保護領化?;;;;;;;;;;X EVT330153D;イタリア商人の権益は、モガディシオ周辺ソマリア沿岸地域である\nベナディールでの影響力を拡大してきた。\nイギリス・ドイツが南方での影響力を確保しようとすると、\n商人たちは政府がザンジバルのスルタンと交渉して\nベナディールでのイタリア権益を認めさせるよう要求してきた。;;;;;;;;;;X ACT330153A;ザンジバルのスルタンに協定を提案;;;;;;;;;;X EVT330154N;イタリアがベナディール購入を提案;;;;;;;;;;X EVT330154D;イタリアがベナディール(モガディシオ周辺地域)における我々の権益を\n購入したいと申し出てきた。この地域での我々の影響は歴史的に\nわずかなものだったが、イギリスとドイツの活動の後でも\n我々の影響が残っている本土地方のひとつだった。イギリスは\nイタリアの要求を支持すると表明している。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT330200N;アブシリの反乱;;;;;;;;;;X EVT330200D;アブシリ・ビン・サリームは、タンガ地方にあるスワヒリ社会の指導者である\nスワヒリが担ってきた内陸部との交易に対し、ヨーロッパの植民当局が\n関与を深めてきたため、アブシリは反乱軍を組織することとなった。その\n目的はヨーロッパ人をスワヒリ海岸から追い出し、ザンジバルのスルタンの\n権威を取り戻すことにある。;;;;;;;;;;X EVT330202N;マジ・マジの反乱;;;;;;;;;;X EVT330202D;植民地支配に抵抗する呪術師Kinjikitile Ngwaleは、\n信心ある者が飲めば白人の弾丸が効かなくなるという\n魔法の水(マジ)を授かったと高らかに宣言した。\n彼に影響され、タンガニーカ南部では\n1905年7月まで大規模な反乱が続いた。;;;;;;;;;;X EVT330203N;ブニョロの反乱;;;;;;;;;;X EVT330203D;大湖地方北部においてブガンダ王国と覇を競ったブニョロ王国の首長\nらは、近年進みつつある植民地支配について、これを独立維持へのよ\nいチャンスだと考えた。そして彼らは新しく敷かれた植民地秩序を拒み\nこの地方から入植者を追い出してしまおうとして反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330204N;カバカ・ムワンガの反乱;;;;;;;;;;X EVT330204D;ブガンダが植民地化される過程において、ヨーロッパ人が植民地政府と\nの調整役に選んだのはカバカ(ブガンダ王)ではなく、各地の首長らであ\nった。そのため政治権力は次第にカバカの手を離れ、彼ら首長へと移っ\nていくことになった。これに危機感を抱いたのは当時のカバカ、カバカ・ム\nワンガである。そこで彼は1897年に植民地当局に対して反乱を起こし\n王国の主権を取り戻そうとした。;;;;;;;;;;X EVT330205N;ニャンギレの反乱;;;;;;;;;;X EVT330205D;植民地当局は1890年代、ブニョロ平定を何度も試みたが、ブニョロ人\nが全面的に降伏することはなかった。そして植民地という社会構造、経\n済構造が浸透していったことにより、さらなる反乱を招くことになってしま\nった。反乱軍は「ニャンギレ(私は拒む)」を合言葉に、植民地化がもた\nらす経済的、社会的要求に屈することはないぞと決意を新たにしている。;;;;;;;;;;X EVT330206N;マズルイの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330206D;マズルイとは、古くからモンバサを治めてきた指導層のことである。当時の\nケニア沿岸一帯はザンジバルの勢力圏にあったのだが、マズルイは19世\n紀を通じて、彼らザンジバル人の支配強化に対し頑強に抵抗を続けて\nいたのだ。だがケニアが植民地化されたことで、マズルイの支配はさらに\n危ういものとなった。そこでムバラク・ビン・ラシードの指揮のもと、彼らは\n1895年11月に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330207N;キクユ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330207D;グレート・リフト・バレー(大地溝帯)地方は、ケニア西部の肥沃な一帯\nである。ここには古くからキクユ人が住んでいたが、白人入植者はプラン\nテーション建設のため、ここを「余りの土地」だとして領有権を主張した\nそのためキクユ人は1902年、植民地当局を追放せよとの声を挙げ、\n反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330208N;ナンディ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330208D;ヴィクトリア湖の東に広がる高原には、昔からナンディとよばれる民族が\n暮らしてきた。だがそこにも植民地支配の波がおよぶようになると、一帯\nに緊張が走り、そしてついに1905年、当地からの植民者追放をうたう\n反乱が発生してしまった。;;;;;;;;;;X EVT330209N;ヘヘ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330209D;タンガニーカ南方に住むヘヘ人はムクワワ王のもとで反乱を起こし、\nヨーロッパ人を追い出して父祖伝来の地の支配を取り戻そうとした。;;;;;;;;;;X EVT330220N;バウレ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330220D;象牙海岸にはかねてより植民地制を導入しようとの動きがあったが、こ\nれを妨げてきたのが、古くからこの地に住んできたバウレ人である。彼ら\nは植民地化を拒み、バウレ人のあいだに政治的な階層秩序がもたらさ\nれるのを拒絶した。そしてエティエン・コメナンの指揮のもとバウレ人は反\n乱を起こし、父祖伝来の地から植民者を追い出してしまおうとした。;;;;;;;;;;X EVT330221N;バウレ人が再び蜂起;;;;;;;;;;X EVT330221D;バウレ人を植民地体制に組み込もうとする動きが進んでいくなか、彼ら\nの住む象牙海岸には緊張が走るようになった。そして1894年9月には、\nクアシ・ブエケらによるバウレ人の徹底的な反抗を招くことになるのである。;;;;;;;;;;X EVT330222N;バウレ人が三たび蜂起;;;;;;;;;;X EVT330222D;象牙海岸に植民地制度を導入しようとの試みに対し、この地域に住\nむバウレ人は1890年代を通じ抵抗を続けた。そして以前から反西洋\n感情をあらわにしていたバウレ人首長のカティア・コフィが現地当局に処\n刑されると、1898年、バウレ人は三度目の反乱を起こすことになったの\nである。;;;;;;;;;;X EVT330223N;イジェブの反乱;;;;;;;;;;X EVT330223D;ヨーロッパの交易システムも宣教団も、ヨルバ人との付き合いは長いもの\nとなっており、この地を植民地化する際には彼らがその一助となっていた\nしかし、植民地化によって独立を失うという点については、必ずしも全\nてのヨルバ国家が喜んで受け入れたわけではなかった。その代表がイジ\nェブで、かの国は国境を閉ざして植民地当局との連絡を絶ってしまった\nそこで我が国が植民地体制下に入るよう強いたことで、イジェブの国王\nは植民地当局に対して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330224N;イツェキリ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330224D;イツェキリ人のナナ首長は、我々がニジェール川デルタに植民地制度を\n敷こうとしたことに対して反乱を起こし、これはこの地域で発生した反\n乱のなかでも最も厄介なものとなった。植民地政府の行政官がニジェー\nル川デルタでの交易を自由に行わせて欲しいと訴えたのに対して、ナナ\n首長は1894年にこれを拒否し、国境地帯で彼らに向かって発砲した\nのだ。;;;;;;;;;;X EVT330225N;ベニンの反乱;;;;;;;;;;X EVT330225D;1880年代から1890年代にかけてベニンの首長らは植民地制度に組\nみ込まれていった。そして90年代末になると植民地当局は、ベニンに\n人身御供のような風習があると知るようになる。彼らはこの風習を野蛮\nなものだとして止めさせようとし、そして1897年の1月、現地行政官が\n殺害されたことで抗争にまで発展してしまった。;;;;;;;;;;X EVT330226N;エクメクの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330226D;イボ人はヨーロッパ交易圏と古くからかかわりを持ってきた。だが彼らの住\nむイボランドに植民地化が及ぶにつれて、社会的、経済的そして文化\n的な緊張関係が生じるようになった。そしてこれが植民地当局への反\n抗となって立ち現れてくるのである。ヨーロッパ貿易商や植民地政府職\n員に攻撃を仕掛け、イボランド支配への脅威となった彼ら反乱軍は、\nエクメク、つまり「静かな者たち」と呼ばれた。;;;;;;;;;;X EVT330227N;小屋税の反乱;;;;;;;;;;X EVT330227D;小屋税とは植民地行政府が設けた人頭税の一種であるが、その目的\nは当局の収入源とすることだけではない。植民地化によって新しく諸産\n業が生まれて経済システムを形作るようになったが、現金収入をエサに\nしつつ、この体系へと土着住民を組み込むこともまた小屋税の目的の\nひとつだったのだ。だがこの小屋税を課すことで反乱を招く事例が多かっ\nた。そのなかでも苛烈をきわめたものといえば、1898年にシエラレオネで\n起こった、バイ・ブレを首領とする反乱だった。;;;;;;;;;;X EVT330228N;ヤー・アサンテワーの反乱;;;;;;;;;;X EVT330228D;アシャンティ王国は西アフリカ沿岸部の一帯でも有数の大国であり、王\n国が滅ぼされた現在でも旧王家はアシャンティ人から広汎な支持を集\nめている。つまりこのアシャンティを征服して植民地化してしまったことに\nより、かつての王族が反乱を起こす土壌はすでに形成されていたのだ。\nそして1900年、アシャンティ最後の君主、プレンペ王の妹であるヤー・ア\nサンテワーが植民地当局に叛旗を翻し、これに呼応した民衆がアシャン\nティ再興と植民地勢力の追放をとなえて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330229N;モシ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330229D;ボルタ川上流に広がる高原地帯には古くからモシ人が住んでいるが、\n彼らは18世紀後半になるとこの地に強大な王国を築くまでに発展して\nいた。よってこの地域に植民地を設けることでモシ人との接触、衝突が\n起こるのは当然の帰結でもある。そして20世紀初頭、植民地当局の\n実効支配が強くまた広くなるにつれて、モシ人はかつての王国を再興し\nようと反乱に走るようになった。;;;;;;;;;;X EVT330230N;フォデ・カバの反乱;;;;;;;;;;X EVT330230D;セネガル南部のカザマンス地方でも、今や着々と植民地化が進んでい\nる。だがこの地に住むジュラ人のイスラム法学者であるフォデ・カバ・ドゥン\nビアは、これに反抗するようになった。植民地支配の強制に耐えかねた\nフォデ・カバは民衆を救うために抵抗運動を起こし、1910年にこの運動\nは反乱にまで発展した。;;;;;;;;;;X EVT330231N;バウレ人が四たび蜂起;;;;;;;;;;X EVT330231D;現地政府が収入増のために一連の新税を導入すると決めたことに\nよって、バウレ国内に新たな騒動が起きた。コキ・ヤオ・アオウノウは\n1909年に新たな蜂起軍を組織し、蜂起は地域全体に拡大した。;;;;;;;;;;X EVT330240N;ンデベレ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330240D;ンデベレ国家を崩壊においやって植民地化を強制したことで、ンデベレ\n人のあいだに列強への敵意が募るようになっていった。そして1896年に\n小屋税が課されることが決まると、ンデベレ人は国家再興をはかり反乱\nを起こした。;;;;;;;;;;X EVT330241N;ショナ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330241D;ンデベレ人の反乱が近隣に住むショナ人にも飛び火した。\n「ここは我々の土地だ。植民地など跳ね除けてしまえ」と\nする動きがショナ人の間にも広まりつつある。;;;;;;;;;;X EVT330242N;ヘレロ人の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330242D;カオコランドに住むヘレロ人はかつてナマ人に支配されており、この地に\n植民地化が及びつつあった当初もナマ人から抜け出そうと躍起になって\nいた。こうした事情により、連合してナマ人と戦ってくれるのではないかと\nの期待から、植民地が設けられた初めのうちはヘレロ人も当局を歓迎\nしていたのだ。だが当局による貢納要求はヘレロ人の怒りを買い、20世\n紀を迎えたころになると彼らも植民地からの解放を望むようになっていっ\nた。そして1904年1月、ヘレロ人はサミュエル・マハレロの指揮のもと団\n結し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330243N;チオコの反乱;;;;;;;;;;X EVT330243D;植民地支配の波がモザンビークにまで及ぶと、現地人の多くは、18世\n紀にザンベジ川下流域を支配していたモノモタパ王国こそが自分たちの\n伝統的な暮らしを守ってくれるのだと考え、モノモタパの残存勢力がその\n旗振り役となってくれないかと期待を高めるようになった。そして1897年\nザンベジ中流域の住民はチオコに率いられて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330244N;メナベの反乱;;;;;;;;;;X EVT330244D;かつてマダガスカルはメリナ王国により全島的に統治されてきたが、この\n王国政府が打倒され崩壊したことでマラガシーの集団やその支配地域\nも細分化され、植民地当局はマダガスカル島の支配を維持していくた\nめに、全土に散らばる彼らの相手をしなければならなくなった。メナベ地\n方に居住するサカラヴァ族もそうしたマラガシーのひとつで、しかも彼らは\nメリナ時代からその支配に抵抗してきたのだった。そしてサカラヴァ族は\n1897年に植民地制への服従を拒み、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330245N;VVS団の蜂起;;;;;;;;;;X EVT330245D;マダガスカルに君臨していたメリナ王国は崩壊してしまったが、決してマ\nラガシーのアイデンティティーまで消えうせた訳ではなかった。そして彼らは\n「よそ者の下におかれている」との意識も持ち続けていったのだった。その\n後1910年代になるとビ・バト・サケリカ(VVS団、「鉄・石・分枝」の意)\nという秘密結社が発足してマダガスカルの独立回復と植民地制度の撤\n廃を訴え、1915年には彼らVVS団の構成員らによる反乱がアンタナナ\nリボで発生した。;;;;;;;;;;X EVT330246N;ザンベジの反乱;;;;;;;;;;X EVT330246D;モザンビーク中部、ザンベジ川の下流にあたる地域にはショナ系の諸民\n族が暮らしている。だがこの地域が植民地化されるにあたって現地住\n民には貢納や賦役の義務が課されるようになり、彼らショナ人も不満を\n鬱積させていった。そして1917年にはこの一帯で大規模な反乱が発\n生した。当局はバルエ人を率いて蜂起したノングウェ・ノングウェに対し反\n植民地感情を煽ったかどで国外追放を命じたが、これは火に油を注ぐ\n結果に終わった。逆にモザンビーク中部での全面的な反乱を招いてし\nまったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330260N;クワニャマ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330260D;アンゴラの植民地化も内陸に及ぶにつれ、南部に広がる高原地帯では\n現地人との間に生じた軋轢が徐々に問題化していった。ムタヤカヴェラ\nが当局に対して反抗運動を繰り広げたのもこうした時流においてであっ\nた。彼の指揮のもとクワマト人とクワニャマ人は連合し、彼らの居住する\n一帯から植民地官吏を追い払ってしまおうとしたのだ。;;;;;;;;;;X EVT330261N;バイルンダの反乱;;;;;;;;;;X EVT330261D;ヨーロッパ人はアンゴラの土地に次々と投資していったが、現地住民は\nこれに対し、自分たちが服属させられるのではないかと考え危機感を抱\nくようになった。そして1904年、植民地当局への反抗からバイルンダで\n反乱が発生した。;;;;;;;;;;X EVT330262N;ムシディの反乱;;;;;;;;;;X EVT330262D;カサイ地方の植民地化が始まった当初、この地域で栄えていたルンダ\n王国はこれに協力的だった。植民地当局の力を借りることで、近隣の\n敵対関係にある諸王国との勢力関係を埋め合わせようとしたのだ。だ\nが20世紀に入ると、植民地政府が要求してくる貢納や賦役の額は無\n視できないものとなっていき、そしてついにルンダ国王のムシディは植民\n地政府など追放してしまえと訴えて反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330263N;シエテカラの反乱;;;;;;;;;;X EVT330263D;20世紀も初頭になると、アンゴラ南部でも植民地体制が確立されてい\nった。だが当局の要求する貢納や賦役には現地住民も怒りを募らせて\nゆき、植民地支配に対する抵抗運動が起こるようになっていく。そして1\n915年にはクワモト地方の住民がシエテカラの指揮のもと蜂起し、反乱\nを起こした。;;;;;;;;;;X EVT330264N;ベンバ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330264D;中央アフリカに住むングニ諸族のなかでも随一の勢力をもつ民族にベン\nバ人がある。彼らは自分達の土地がただ植民地とされるのを良しとせず\n1897年にはこれに抵抗して反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330265N;トンガ人の反乱;;;;;;;;;;X EVT330265D;ニヤサランドに植民地支配が浸透していくにつれ、現地住民はしだいに\n当局に対し敵意を募らせていった。そんななか、当局はプランテーション\nでの労働力確保のために小屋税を導入する。これが決定打となって19\n09年に呪術師マルマのもとトンガ人が蜂起し、反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330266N;チレンベの蜂起;;;;;;;;;;X EVT330266D;植民地政府の支配が確立したことで布教活動も進み、アフリカの現地\n住民の中にもキリスト教を受容するものが増えていったが、彼らの中に\nは、当局による圧政からの解放が聖書に書かれていると主張する者が\n現れるようにもなった。そして習合的なキリスト教運動がニヤサランドに\n広まってゆき、彼らはジョン・チレンベのもとで1915年に反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT330280N;アザンデの反乱;;;;;;;;;;X EVT330280D;アザンデ人はスーダン南部の丘陵地帯に居住する民族で、近年はヤン\nビオ王のもと国家を形成しその国力を高めていた。そして植民地化の\n波がこの一帯にまで及ぶと、当然のことながらアザンデ国家との衝突が\n発生した。ヤンビオ王に対して当局が派遣する顧問を受け入れるように\nと強硬な姿勢をとったことで、1905年の1月にヤンビオ率いるアザンデ人\nは当局に対して武器を取って立ち上がったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330281N;ヌバ山地で騒乱;;;;;;;;;;X EVT330281D;ヌバ山地には古来から様々な国家が支配を及ぼそうと画策してきた。\nだが現地住民はこれら外部による支配をことごとく跳ね除けてきたので\nある。そして今度も同様で、ヌバ山地の一帯に小屋税を課そうとしたこ\nとが発端となり、1906年に植民地当局に対する反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X EVT330282N;サイード・ムハンマドがソマリ人と反乱を起こす;;;;;;;;;;X EVT330282D;ソマリ人は以前から植民地制度に反抗的な姿勢をとってきたが、サイー\nド・ムハンマドの登場によってそれが反乱のかたちを成すようになった。イ\nスラム聖職者だった彼にはカリスマ的な指導力があり、そのため多くの氏\n族がサイード・ムハンマドのもとで結集して反植民地運動に身を投ずる\nことになったのだ。;;;;;;;;;;X EVT330283N;トゥアットの反乱;;;;;;;;;;X EVT330283D;サハラ砂漠に植民地が拡大していくにつれ、以前から砂漠地帯で権\n勢を誇っていたトゥアレグ人との係わりかたが問題となっていった。伝統\n的な交易路の支配を握るためには、トゥアレグ人の支配下にあるいくつ\nものオアシス都市に植民地当局の支配を認めさせていく必要があった\nためだ。だが1900年、こうしたオアシス都市のひとつでモロッコ王国と深\nいかかわりを持ってきたトゥアットで、植民地機関を設けることへの反発\nから反乱が発生した。;;;;;;;;;;X
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