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####### 139K Colombia #######;;;;;;;;;;;X EVT139000N;修道院戦争;;;;;;;;;;X EVT139000D;当時のヌエバグラナダでは憲法上、大統領の権限が弱く抑えられており\n一方で地方の州知事には政治的な野心を抱くものもいた。そしてパスト\nにあるカトリック修道院が弾圧されたことがきっかけとなり、内戦が発生\nしたのである。だがこの内戦はペドロ・アルカンタラ・エラン将軍率いる\n政府軍の勝利に終わった。;;;;;;;;;;X ACT139000A;修道院を弾圧するとともに反乱軍は鎮圧せよ;;;;;;;;;;X ACT139000B;主張を引き下げる;;;;;;;;;;X EVT139001N;ペドロ・アルカンタラ・エラン;;;;;;;;;;X EVT139001D;情勢も落ち着き、次の選挙の時期がやってきた。対立関係にある保守\n派と自由派は差異化をはかり、それをより明確にするようつとめている。\nこのままいけば、内戦に勝利したエラン将軍がこれを理由に支持を集め\n1841年に行われる次の選挙では彼が大統領として選出される見込み\nである。;;;;;;;;;;X ACT139001A;偉大な英雄だ;;;;;;;;;;X ACT139001B;彼はばかだ;;;;;;;;;;X EVT139003N;ロペスの改革;;;;;;;;;;X EVT139003D;1849年に行われた選挙でホセ・イラリオ・ロペス将軍が勝利し、これが\nコロンビアにとってのターニングポイントとなった。主要政党間でその差異\nが際立ち、かつて個々人の政治家に重点を置いていたのが覆い隠さ\nれるようになったためである。そして1850年に行われた農地改革では、\n先住民保護地の売買に関する制限が撤廃された。インディオは地方を\n追いやられて都市に出、過剰な労働力を供給することになった。また\n1851年には教育制度を教会から取り上げ、各教区では住民選挙に\nより聖職者を出すようにした。;;;;;;;;;;X ACT139003A;改革を受け入れよう;;;;;;;;;;X ACT139003B;ロペスに出番を与えるな;;;;;;;;;;X EVT139004N;1853年のロペス憲法;;;;;;;;;;X EVT139004D;1853年5月、ロペスの起草による1853年憲法が議会において採決さ\nれた。これは自由主義的な内容を持った法規で、政教分離や信教の\n自由、男性普通選挙といった特筆すべき条項を含んでいた。また新憲\n法には新たに規定が置かれて大統領、国会議員、判事および知事が\n直接選挙で選出されることとなり、さらに地方の各州がもつ自治権も\n拡大された。;;;;;;;;;;X ACT139004A;新憲法だ;;;;;;;;;;X EVT139005N;国内の緊張関係が停滞の原因に;;;;;;;;;;X EVT139005D;保守党と自由党の間で、さらには自由党内でも内部抗争が発生して\nいる。これは国全体にわたり徐々に規模を大きくしており、この抗争が\nもたらす結果は決して好ましいものではないだろう。;;;;;;;;;;X ACT139005A;予想されるべきことだった;;;;;;;;;;X EVT139006N;バスケス・コボ・マルティンス条約;;;;;;;;;;X EVT139006D;ブラジルはコロンビアとの国境紛争を解決するため、両当事国によって\nその領有主張を効果的に承認することを内容とする、二国間条約の\n締結を申し出てきた。;;;;;;;;;;X ACT139006A;受諾する;;;;;;;;;;X ACT139006B;補償を求める;;;;;;;;;;X ACT139006C;拒否する;;;;;;;;;;X EVT139007N;ブラジルから補償支払い;;;;;;;;;;X EVT139007D;我が国はバスケス・コボ・マルティンス条約に調印し、ブラジルの領有主\n張を承認したが、その見返りとして、ブラジルが我が国に財政的補償を\n供与する旨同意してくれた。;;;;;;;;;;X ACT139007A;よし;;;;;;;;;;X EVT139008N;メロのクーデタ;;;;;;;;;;X EVT139008D;1853年憲法は自由主義者の利害を代表するものだったが、その内部\n派閥であるゴルゴタ派(自由貿易派)とドラコン派(保護貿易派)の両\n者の間では緊張関係が先鋭化していった。そしてドラコン派のオバンド\nー大統領がゴルゴタ派との歩み寄りを示そうとしたことを発端として、ホ\nセ・マリア・メロ将軍はクーデタを起こし、独裁官に就任するとともに議会\nを解散した。;;;;;;;;;;X ACT139008A;そうか;;;;;;;;;;X EVT139009N;メロの失権;;;;;;;;;;X EVT139009D;19世紀のコロンビアで唯一の軍事独裁体制であったメロ政権は、それ\nを8ヶ月間しか維持できなかった。ドラコン派での利害関係を集約する\nのはメロ将軍からしても不可能だったためだ。そしてゴルゴタ派と保守党\nの連合によって、メロは独裁官の座を追われることとなった。;;;;;;;;;;X ACT139009A;よし;;;;;;;;;;X EVT139010N;グラナダ連合;;;;;;;;;;X EVT139010D;1857年の大統領選挙で保守党のマリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが勝\n利し、彼は大統領となった。その政権下では連邦主義的な志向をもっ\nた1858年憲法が新たに起草、採択された。ここではすでに事実上存\n在していたものの法制化という事になるが、ヌエバグラナダは8州に分割\nされ、それを加盟州としたグラナダ連合の設立が宣言された。また副大\n統領は3名が議会の選出、指名によって出されることとなり、大統領の\n任期は4年と定められた。;;;;;;;;;;X ACT139010A;いい考えだ;;;;;;;;;;X ACT139010B;今はそのときでない;;;;;;;;;;X EVT139011N;モスケラと内戦;;;;;;;;;;X EVT139011D;トマス・シプリアーノ・デ・モスケラ将軍は、前大統領でカウカ州知事を務\nめた人物で、自由派の政治家のなかでも最重要人物として当時浮上\nしてきていた。彼は連邦主義のさらなる進展を唱え、保守派が進めよう\nとした中央集権化に対してカウカ州の脱退をちらつかせるなどしていた\nのだ。そして1860年、モスケラと他の州知事数名は保守党政府に対し\n内戦を布告した。1861年選挙は社会騒乱のため行われず、法務長\n官のバルトロメ・カルボが暫定大統領に就任した。;;;;;;;;;;X ACT139011A;自由派反乱軍の側に立つ;;;;;;;;;;X ACT139011B;中央政府の側に立つ;;;;;;;;;;X EVT139012N;自由派によるボゴタ陥落;;;;;;;;;;X EVT139012D;1861年7月、ボゴタはモスケラの手に落ちた。彼はカルボ暫定大統領を\n廃し、自ら暫定大統領と軍最高司令官の地位についた。そして同年\n9月、各州の軍事および民政指導者からそれぞれ選ばれた全権大使\nが暫定政府の招集に応じてボゴタに集まり、議会を開催するまでになっ\nた。しかし内戦自体はモスケラが1862年10月、アンティオキアの保守党\n抵抗勢力を最終的に鎮圧するまで続いた。;;;;;;;;;;X ACT139012A;ついにやった!;;;;;;;;;;X EVT139013N;モスケラのボゴタ入城;;;;;;;;;;X EVT139013D;1861年7月、ボゴタはモスケラの手に落ちた。彼はカルボ暫定大統領を\n廃し、自ら暫定大統領と軍最高司令官の地位についた。そして同年\n9月、各州の軍事および民政指導者からそれぞれ選ばれた全権大使\nが暫定政府の招集に応じてボゴタに集まり、議会を開催するまでになっ\nた。しかし内戦自体はモスケラが1862年10月、アンティオキアの保守党\n抵抗勢力を最終的に鎮圧するまで続いた。;;;;;;;;;;X ACT139013A;何ということだ;;;;;;;;;;X EVT139014N;コロンビア合衆国;;;;;;;;;;X EVT139014D;1863年2月に自由党の会合がリオネグロで開かれ、1863年憲法が採\n択された。この憲法は1866年まで効力を保つこととなったが、その条文\n内で国名もコロンビア合衆国と改められ、また連邦政府の所管とされ\nなかった権限は全て、武器取引権に至るまで各州に属するものとされ\nた。そして信教の自由といった個々人の自由については全面的に規定\nされ、またそれが保証されることも宣言された。政府は社会を規制する\n権限をほとんど持てなくなったのである。;;;;;;;;;;X ACT139014A;やった!;;;;;;;;;;X EVT139015N;自由派の敗北;;;;;;;;;;X EVT139015D;モスケラ軍はボゴタ制圧に失敗し、それどころかコロンビア全土にわたっ\nて保守党政府軍に大敗してしまった。こちらに有利な和平条約が締\n結されることとなったが、もし仮に何らかの譲歩が必要として、それを行\nうべきか否かについて政府は決定すべき時にある。;;;;;;;;;;X ACT139015A;譲歩しない;;;;;;;;;;X ACT139015B;幾分か譲歩する;;;;;;;;;;X EVT139016N;奴隷廃止の決定打;;;;;;;;;;X EVT139016D;1821年のククタ会議で「出生による解放」が布告されて以来、奴隷制\nの廃止は段階的に進展してきた。そしてホセ・イラリオ・ロペス将軍の政\n権下にあった1851年、残存していた奴隷の解放が宣言されたことに\nより、最終的にこの流れは終わりを迎えた。;;;;;;;;;;X ACT139016A;ついにやった!;;;;;;;;;;X ACT139016B;まだその時ではない;;;;;;;;;;X EVT139017N;保守派が譲歩?;;;;;;;;;;X EVT139017D;中央政府はモスケラ軍をなんとか破り、ボゴタの支配を守りぬいた。\nしかし保守党は平穏な社会を復活させるために、\nある程度の歩み寄りを示すことにした。;;;;;;;;;;X ACT139017A;自由派が受け入れる;;;;;;;;;;X ACT139017B;自由派が拒絶;;;;;;;;;;X EVT139018N;メロ政権の終焉 - モスケラ派のクーデター;;;;;;;;;;X EVT139018D;19世紀のコロンビアで唯一の軍事独裁体制であったメロ政権は、予想\nを超えて長期にわたりそれを維持することができた。将軍の権力の源泉\nだったドラコン派での利害関係集約を、彼は結局やってのけたためだ。\nしかし自由党の反主流派と少なからぬ数の保守党員がモスケラのもと\nで団結し、彼は政権を追われることとなってしまった。そしてこの国内不\n和は相当数の一般民衆にまで波及している。;;;;;;;;;;X ACT139018A;よし;;;;;;;;;;X EVT139019N;メロ政権の終焉 - 急進派のクーデター;;;;;;;;;;X EVT139019D;19世紀のコロンビアで唯一の軍事独裁体制であったメロ政権は、予想\nを超えて長期にわたりそれを維持することができた。将軍の権力の源泉\nだったドラコン派での利害関係集約を、彼は結局やってのけたためだ。\nしかし自由党内の急進派がモスケラ指揮下の保守党と結託し、彼は\n政権を追われることとなってしまった。そしてこの国内不和は相当数の\n一般民衆にまで波及している。;;;;;;;;;;X ACT139019A;よし;;;;;;;;;;X EVT139021N;エクアドルとの交渉;;;;;;;;;;X EVT139021D;エクアドルの外交官であるアントニオ・フローレス・ヒロンに促されて、両国\nの緊張関係は緩和され、キト政府との間で防衛協定が締結された。;;;;;;;;;;X ACT139021A;やった!;;;;;;;;;;X ACT139021B;いや、結構;;;;;;;;;;X EVT139025N;大コロンビア? - 征服;;;;;;;;;;X EVT139025D;エクアドルもベネズエラも、それぞれ領土を征服されて独立国家としての\n存在を終えた。そして今や、かつてシモン・ボリバルが建国した\nグラン・コロンビア(大コロンビア)の再建も現実味を帯びてきた。;;;;;;;;;;X ACT139025A;これは執り行わなければ!;;;;;;;;;;X ACT139025B;いや、そんなのは不可能だ;;;;;;;;;;X EVT139026N;グラン・コロンビアの復興;;;;;;;;;;X EVT139026D;グラン・コロンビアの復活が宣言された。\nついに我々は一つの国家となった!;;;;;;;;;;X ACT139026A;グラン・コロンビア万歳!;;;;;;;;;;X EVT139027N;グラン・コロンビアの首都;;;;;;;;;;X EVT139027D;グラン・コロンビアの建国は今や現実のものとなった。政庁をどこに\n置くべきか、いくつかの候補地から選ぶ必要がある。;;;;;;;;;;X ACT139027A;ボゴタ;;;;;;;;;;X ACT139027B;パナマ;;;;;;;;;;X ACT139027C;カラカス;;;;;;;;;;X ACT139027D;キト;;;;;;;;;;X EVT139031N;アメリカ合衆国の補償要求;;;;;;;;;;X EVT139031D;カリフォルニアでゴールドラッシュが発生し、パナマ地峡には一攫千金を\n求める多くの人々が鉄道でやってきた。彼らは始末に負えず大酒飲み\nで、武器を携帯している事も多々あった。そしてカリフォルニア行きの船を\n待つうち退屈を持て余すようになっていたのである。こうした旅行者のひ\nとりがコロン市の商店で果物をつまみ、そして代金支払いを拒んだこと\nで群衆はどちらかの肩を持って対立し、暴動が発生した。両方の側に\n死者が出たものの、アメリカ人の人命と財産が失われたことになってしま\nった。;;;;;;;;;;X ACT139031A;心からの謝罪を申し出る;;;;;;;;;;X ACT139031B;全く、賠償すればいいんだろう;;;;;;;;;;X EVT139032N;アメリカ合衆国が謝罪を受容;;;;;;;;;;X EVT139032D;我々の謝罪が受け入れられ、パナマ地峡にも\n平和な統治がもたらされた。;;;;;;;;;;X ACT139032A;やれやれ、スイカが戦争に発展するとは;;;;;;;;;;X ####### 139K Colombia Flavor #######;;;;;;;;;;;X EVT139002N;1843年憲法;;;;;;;;;;X EVT139002D;エラン政権は1843年、権力の中央集権化を規定する\n新憲法を制定した。;;;;;;;;;;X ACT139002A;新憲法だ;;;;;;;;;;X
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####### 139K Colombia #######;;;;;;;;;;;X EVT139000N;修道院戦争;;;;;;;;;;X EVT139000D;当時のヌエバグラナダでは憲法上、大統領の権限が弱く抑えられており\n一方で地方の州知事には政治的な野心を抱くものもいた。そしてパスト\nにあるカトリック修道院が弾圧されたことがきっかけとなり、内戦が発生\nしたのである。だがこの内戦はペドロ・アルカンタラ・エラン将軍率いる\n政府軍の勝利に終わった。;;;;;;;;;;X ACT139000A;修道院を弾圧するとともに反乱軍は鎮圧せよ;;;;;;;;;;X ACT139000B;主張を引き下げる;;;;;;;;;;X EVT139001N;ペドロ・アルカンタラ・エラン;;;;;;;;;;X EVT139001D;情勢も落ち着き、次の選挙の時期がやってきた。対立関係にある保守\n派と自由派は差異化をはかり、それをより明確にするようつとめている。\nこのままいけば、内戦に勝利したエラン将軍がこれを理由に支持を集め\n1841年に行われる次の選挙では彼が大統領として選出される見込み\nである。;;;;;;;;;;X ACT139001A;偉大な英雄だ;;;;;;;;;;X ACT139001B;彼はばかだ;;;;;;;;;;X EVT139003N;ロペスの改革;;;;;;;;;;X EVT139003D;1849年に行われた選挙でホセ・イラリオ・ロペス将軍が勝利し、これが\nコロンビアにとってのターニングポイントとなった。主要政党間でその差異\nが際立ち、かつて個々人の政治家に重点を置いていたのが覆い隠さ\nれるようになったためである。そして1850年に行われた農地改革では、\n先住民保護地の売買に関する制限が撤廃された。インディオは地方を\n追いやられて都市に出、過剰な労働力を供給することになった。また\n1851年には教育制度を教会から取り上げ、各教区では住民選挙に\nより聖職者を出すようにした。;;;;;;;;;;X ACT139003A;改革を受け入れよう;;;;;;;;;;X ACT139003B;ロペスに出番を与えるな;;;;;;;;;;X EVT139004N;1853年のロペス憲法;;;;;;;;;;X EVT139004D;1853年5月、ロペスの起草による1853年憲法が議会において採決さ\nれた。これは自由主義的な内容を持った法規で、政教分離や信教の\n自由、男性普通選挙といった特筆すべき条項を含んでいた。また新憲\n法には新たに規定が置かれて大統領、国会議員、判事および知事が\n直接選挙で選出されることとなり、さらに地方の各州がもつ自治権も\n拡大された。;;;;;;;;;;X ACT139004A;新憲法だ;;;;;;;;;;X EVT139005N;国内の緊張関係が停滞の原因に;;;;;;;;;;X EVT139005D;保守党と自由党の間で、さらには自由党内でも内部抗争が発生して\nいる。これは国全体にわたり徐々に規模を大きくしており、この抗争が\nもたらす結果は決して好ましいものではないだろう。;;;;;;;;;;X ACT139005A;予想されるべきことだった;;;;;;;;;;X EVT139006N;バスケス・コボ・マルティンス条約;;;;;;;;;;X EVT139006D;ブラジルはコロンビアとの国境紛争を解決するため、両当事国によって\nその領有主張を効果的に承認することを内容とする、二国間条約の\n締結を申し出てきた。;;;;;;;;;;X ACT139006A;受諾する;;;;;;;;;;X ACT139006B;補償を求める;;;;;;;;;;X ACT139006C;拒否する;;;;;;;;;;X EVT139007N;ブラジルから補償支払い;;;;;;;;;;X EVT139007D;我が国はバスケス・コボ・マルティンス条約に調印し、ブラジルの領有主\n張を承認したが、その見返りとして、ブラジルが我が国に財政的補償を\n供与する旨同意してくれた。;;;;;;;;;;X ACT139007A;よし;;;;;;;;;;X EVT139008N;メロのクーデタ;;;;;;;;;;X EVT139008D;1853年憲法は自由主義者の利害を代表するものだったが、その内部\n派閥であるゴルゴタ派(自由貿易派)とドラコン派(保護貿易派)の両\n者の間では緊張関係が先鋭化していった。そしてドラコン派のオバンド\nー大統領がゴルゴタ派との歩み寄りを示そうとしたことを発端として、ホ\nセ・マリア・メロ将軍はクーデタを起こし、独裁官に就任するとともに議会\nを解散した。;;;;;;;;;;X ACT139008A;そうか;;;;;;;;;;X EVT139009N;メロの失権;;;;;;;;;;X EVT139009D;19世紀のコロンビアで唯一の軍事独裁体制であったメロ政権は、それ\nを8ヶ月間しか維持できなかった。ドラコン派での利害関係を集約する\nのはメロ将軍からしても不可能だったためだ。そしてゴルゴタ派と保守党\nの連合によって、メロは独裁官の座を追われることとなった。;;;;;;;;;;X ACT139009A;よし;;;;;;;;;;X EVT139010N;グラナダ連合;;;;;;;;;;X EVT139010D;1857年の大統領選挙で保守党のマリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが勝\n利し、彼は大統領となった。その政権下では連邦主義的な志向をもっ\nた1858年憲法が新たに起草、採択された。ここではすでに事実上存\n在していたものの法制化という事になるが、ヌエバグラナダは8州に分割\nされ、それを加盟州としたグラナダ連合の設立が宣言された。また副大\n統領は3名が議会の選出、指名によって出されることとなり、大統領の\n任期は4年と定められた。;;;;;;;;;;X ACT139010A;いい考えだ;;;;;;;;;;X ACT139010B;今はそのときでない;;;;;;;;;;X EVT139011N;モスケラと内戦;;;;;;;;;;X EVT139011D;トマス・シプリアーノ・デ・モスケラ将軍は、前大統領でカウカ州知事を務\nめた人物で、自由派の政治家のなかでも最重要人物として当時浮上\nしてきていた。彼は連邦主義のさらなる進展を唱え、保守派が進めよう\nとした中央集権化に対してカウカ州の脱退をちらつかせるなどしていた\nのだ。そして1860年、モスケラと他の州知事数名は保守党政府に対し\n内戦を布告した。1861年選挙は社会騒乱のため行われず、法務長\n官のバルトロメ・カルボが暫定大統領に就任した。;;;;;;;;;;X ACT139011A;自由派反乱軍の側に立つ;;;;;;;;;;X ACT139011B;中央政府の側に立つ;;;;;;;;;;X EVT139012N;自由派によるボゴタ陥落;;;;;;;;;;X EVT139012D;1861年7月、ボゴタはモスケラの手に落ちた。彼はカルボ暫定大統領を\n廃し、自ら暫定大統領と軍最高司令官の地位についた。そして同年\n9月、各州の軍事および民政指導者からそれぞれ選ばれた全権大使\nが暫定政府の招集に応じてボゴタに集まり、議会を開催するまでになっ\nた。しかし内戦自体はモスケラが1862年10月、アンティオキアの保守党\n抵抗勢力を最終的に鎮圧するまで続いた。;;;;;;;;;;X ACT139012A;ついにやった!;;;;;;;;;;X EVT139013N;モスケラのボゴタ入城;;;;;;;;;;X EVT139013D;1861年7月、ボゴタはモスケラの手に落ちた。彼はカルボ暫定大統領を\n廃し、自ら暫定大統領と軍最高司令官の地位についた。そして同年\n9月、各州の軍事および民政指導者からそれぞれ選ばれた全権大使\nが暫定政府の招集に応じてボゴタに集まり、議会を開催するまでになっ\nた。しかし内戦自体はモスケラが1862年10月、アンティオキアの保守党\n抵抗勢力を最終的に鎮圧するまで続いた。;;;;;;;;;;X ACT139013A;何ということだ;;;;;;;;;;X EVT139014N;コロンビア合衆国;;;;;;;;;;X EVT139014D;1863年2月に自由党の会合がリオネグロで開かれ、1863年憲法が採\n択された。この憲法は1866年まで効力を保つこととなったが、その条文\n内で国名もコロンビア合衆国と改められ、また連邦政府の所管とされ\nなかった権限は全て、武器取引権に至るまで各州に属するものとされ\nた。そして信教の自由といった個々人の自由については全面的に規定\nされ、またそれが保証されることも宣言された。政府は社会を規制する\n権限をほとんど持てなくなったのである。;;;;;;;;;;X ACT139014A;やった!;;;;;;;;;;X EVT139015N;自由派の敗北;;;;;;;;;;X EVT139015D;モスケラ軍はボゴタ制圧に失敗し、それどころかコロンビア全土にわたっ\nて保守党政府軍に大敗してしまった。こちらに有利な和平条約が締\n結されることとなったが、もし仮に何らかの譲歩が必要として、それを行\nうべきか否かについて政府は決定すべき時にある。;;;;;;;;;;X ACT139015A;譲歩しない;;;;;;;;;;X ACT139015B;幾分か譲歩する;;;;;;;;;;X EVT139016N;奴隷廃止の決定打;;;;;;;;;;X EVT139016D;1821年のククタ会議で「出生による解放」が布告されて以来、奴隷制\nの廃止は段階的に進展してきた。そしてホセ・イラリオ・ロペス将軍の政\n権下にあった1851年、残存していた奴隷の解放が宣言されたことに\nより、最終的にこの流れは終わりを迎えた。;;;;;;;;;;X ACT139016A;ついにやった!;;;;;;;;;;X ACT139016B;まだその時ではない;;;;;;;;;;X EVT139017N;保守派が譲歩?;;;;;;;;;;X EVT139017D;中央政府はモスケラ軍をなんとか破り、ボゴタの支配を守りぬいた。\nしかし保守党は平穏な社会を復活させるために、\nある程度の歩み寄りを示すことにした。;;;;;;;;;;X ACT139017A;自由派が受け入れる;;;;;;;;;;X ACT139017B;自由派が拒絶;;;;;;;;;;X EVT139018N;メロ政権の終焉 - モスケラ派のクーデター;;;;;;;;;;X EVT139018D;19世紀のコロンビアで唯一の軍事独裁体制であったメロ政権は、予想\nを超えて長期にわたりそれを維持することができた。将軍の権力の源泉\nだったドラコン派での利害関係集約を、彼は結局やってのけたためだ。\nしかし自由党の反主流派と少なからぬ数の保守党員がモスケラのもと\nで団結し、彼は政権を追われることとなってしまった。そしてこの国内不\n和は相当数の一般民衆にまで波及している。;;;;;;;;;;X ACT139018A;よし;;;;;;;;;;X EVT139019N;メロ政権の終焉 - 急進派のクーデター;;;;;;;;;;X EVT139019D;19世紀のコロンビアで唯一の軍事独裁体制であったメロ政権は、予想\nを超えて長期にわたりそれを維持することができた。将軍の権力の源泉\nだったドラコン派での利害関係集約を、彼は結局やってのけたためだ。\nしかし自由党内の急進派がモスケラ指揮下の保守党と結託し、彼は\n政権を追われることとなってしまった。そしてこの国内不和は相当数の\n一般民衆にまで波及している。;;;;;;;;;;X ACT139019A;よし;;;;;;;;;;X EVT139021N;エクアドルとの交渉;;;;;;;;;;X EVT139021D;エクアドルの外交官であるアントニオ・フローレス・ヒロンに促されて、両国\nの緊張関係は緩和され、キト政府との間で防衛協定が締結された。;;;;;;;;;;X ACT139021A;やった!;;;;;;;;;;X ACT139021B;いや、結構;;;;;;;;;;X EVT139025N;大コロンビア? - 征服;;;;;;;;;;X EVT139025D;エクアドルもベネズエラも、それぞれ領土を征服されて独立国家としての\n存在を終えた。そして今や、かつてシモン・ボリバルが建国した\nグラン・コロンビア(大コロンビア)の再建も現実味を帯びてきた。;;;;;;;;;;X ACT139025A;これは執り行わなければ!;;;;;;;;;;X ACT139025B;いや、そんなのは不可能だ;;;;;;;;;;X EVT139026N;グラン・コロンビアの復興;;;;;;;;;;X EVT139026D;グラン・コロンビアの復活が宣言された。\nついに我々は一つの国家となった!;;;;;;;;;;X ACT139026A;グラン・コロンビア万歳!;;;;;;;;;;X EVT139027N;グラン・コロンビアの首都;;;;;;;;;;X EVT139027D;グラン・コロンビアの建国は今や現実のものとなった。政庁をどこに\n置くべきか、いくつかの候補地から選ぶ必要がある。;;;;;;;;;;X ACT139027A;ボゴタ;;;;;;;;;;X ACT139027B;パナマ;;;;;;;;;;X ACT139027C;カラカス;;;;;;;;;;X ACT139027D;キト;;;;;;;;;;X EVT139031N;アメリカ合衆国の補償要求;;;;;;;;;;X EVT139031D;カリフォルニアでゴールドラッシュが発生し、パナマ地峡には一攫千金を\n求める多くの人々が鉄道でやってきた。彼らは始末に負えず大酒飲み\nで、武器を携帯している事も多々あった。そしてカリフォルニア行きの船を\n待つうち退屈を持て余すようになっていたのである。こうした旅行者のひ\nとりがコロン市の商店で果物をつまみ、そして代金支払いを拒んだこと\nで群衆はどちらかの肩を持って対立し、暴動が発生した。両方の側に\n死者が出たものの、アメリカ人の人命と財産が失われたことになってしま\nった。;;;;;;;;;;X ACT139031A;心からの謝罪を申し出る;;;;;;;;;;X ACT139031B;全く、賠償すればいいんだろう;;;;;;;;;;X EVT139032N;アメリカ合衆国が謝罪を受容;;;;;;;;;;X EVT139032D;我々の謝罪が受け入れられ、パナマ地峡にも\n平和な統治がもたらされた。;;;;;;;;;;X ACT139032A;やれやれ、スイカが戦争に発展するとは;;;;;;;;;;X ####### 139K Colombia Flavor #######;;;;;;;;;;;X EVT139002N;1843年憲法;;;;;;;;;;X EVT139002D;エラン政権は1843年、権力の中央集権化を規定する\n新憲法を制定した。;;;;;;;;;;X ACT139002A;新憲法だ;;;;;;;;;;X
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