VIP-157K ENGLAND NORMAL
の編集
Top
/
VIP-157K ENGLAND NORMAL
[
トップ
] [
編集
|
差分
|
バックアップ
|
添付
|
リロード
] [
新規
|
一覧
|
検索
|
最終更新
|
ヘルプ
]
-- 雛形とするページ --
(no template pages)
下半分はハードコードです。 VIP_EVENT_157048_DESC VIP_EVENT_157049_DESC VIP_EVENT_157052_DESC 上記三つはイベントファイルに記載なし? EVT157032N;オーストラリアの独立!;;;;;;;;;;X EVT157032D;1900年7月にヴィクトリア女王によって憲法が承認された後、\nオーストラリア植民地は合併し、独立国となった。\n 1901年から、キャンベラが建設された1913年までの間、\nオーストラリア連邦議会はメルボルンに置かれた。;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_157048_DESC;1845年に、スペインの若きイザベラの結婚が、その国の近い将来の危\n機の1つにつながり、ヨーロッパの騒動に発展した。フランス政府の多くの\n人々がイザベラのブルボン家との結婚を見ることに関心を持っている間、\nイザベラはコーブルクとの結婚を求めていた。キゾーは、彼らの中の一人\nだった、彼は迷いから覚めパーマストン卿とともに彼らがスペインをフラン\nスの敵にしようとするかもしれない現実的可能性があると見なしていた。\nイギリス代表ヘンリー・ブルワー卿が不明瞭な意思表示をすると、状況\nは悪化し、この件におけるパーマストンのぎごちない外交によって、フラン\nスの関与継続に失敗した。1845年に、ギゾーはブルボン家の一員(特\n別魅力も無く不利な候補)と結婚したいという彼女の願望を利用し、\nスペイン女王に対する圧力をかけることに成功した。パーマストン卿(対\n外関係の大半の要素と内政は、疑い無く彼によるものだった)は、意地\n悪く反フランス的で、イザベラが結婚によりルイ・フィリップとの関係を\n手に入れる、あらゆる可能性を攻撃した。;;;;;;;;;;x VIP_EVENT_157049_DESC;ルイ・フィリップの大臣の忠告はまとまりがなく、大抵はそれ自体が誤解さ\nれた。ギゾーはフランスとスペインの間を往復し、危機を収束させるため\nに多くの時間を費やしたが、それは誤解以外の何物でもなかった。 それ\nは評判の問題(大陸の瀬戸際政策ゲームを引き起こした)になり、184\n5年の春、フランスは断固として、かつ議会の後ろ盾によって、ボルボーン\n王子とのイザベラの結婚を擁護すると答えた。統一された大陸に無視\nされたとき、パーマストン卿は引き下がることを余儀なくされ、\nこれは彼の外交の失敗の本当の発端の1つとなった。;;;;;;;;;;x VIP_EVENT_157052_DESC;1840年、フランスの大臣フランソワ・ギゾーがイギリスに到着した。彼はイ\nギリスのエリートに好感を持たれ、ヴィクトリア女王、アバディーン卿とロバ\nート・ピール卿との個人的関係を進展させ、ロンドンの知識人は彼の機\n知、魅力と知性を評価した。彼にはシェークスピアの趣味があり、話す\n英語も卓越していた - スコットランドのアバディーン卿の言によると - 大\n半のイギリス人よりも。フランソワ・ギゾーがイングランドでとった究極の目\n標は、フランスとイギリスの間の恒久同盟の創設にあった。彼は、これが\nフランスの将来の安全保障とフランスの自由を守るために必要であると\nの信念を持っていた。パーマストン卿はフランスがイギリスの破壊に全力\nを投じており、かつイギリスの植民地権益に深刻な打撃を与えることが\nできる唯一の国だと考えていて、そのような同盟にひどく反対した。保守\n的な外務大臣アバディーン卿(ギゾーと非常に緊密な関係があった)は\n、イギリス最大の関心事は協商にあり、世界の最も強い艦隊を合わせ\nた同盟によって、世界中のイギリス権益の確保をもたらされると考えて\nいた。ギゾーは、この重要な問題を議論するために、ロバート・ピール卿\nと女王との個人的会談を手配した。;;;;;;;;;;x EVT157091D;イギリスとオランダの間に交わされたこの条約は、いくつかの要素を持って\nいた。オランダは、アフリカのゴールドコーストからグレートブリテンに至るま\nでの(小さな)貿易拠点を譲る。加えてオランダは、ボルネオ北部へのイギ\nリスの関心を認識していた。オランダは、アチェでの自由行動と、インドか\nら蘭領ガイアナへ労働力の強制連行を認められる。;;;;;;;;;;X ACT157091A;オランダに条約を提案せよ;;;;;;;;;;X ACT157091B;やめておけ;;;;;;;;;;X EVT157092N;スマトラ条約が署名される;;;;;;;;;;X EVT157092D;オランダはイギリスの提案した条約に署名した。これは、イギリスがアフリカ\nのゴールドコーストを支配下に置き、ボルネオ北部で勢力範囲を増した\nことを意味する。その引き換えに、イギリスはオランダにアチェにおける自\n由行動を与え、インドから蘭領ガイアナへの労働力の強制連行を許可\nしなければならない。;;;;;;;;;;X EVT157093N;スマトラ条約が拒絶される;;;;;;;;;;X EVT157093D;オランダはイギリスの提案した条約の署名を拒絶した。これは、イギリス\nが今、第三国によってアチェに足場を築かれる危険の中にいることを意\n味する。また、ゴールドコーストとボルネオ北部の状況は改善を見ない。;;;;;;;;;;X ACT157093B;1824年の英蘭条約は白紙だ;;;;;;;;;;X EVT157139D;イギリス軍はボーア人の間で組織された抵抗を打ち破ることに成功、\n南アフリカにおける大英帝国の安全を確保した。;;;;;;;;;;X ACT157140A;ケープ植民地の新国家に加わるよう、ボーア人に打診する;;;;;;;;;;X ACT157140B;偉大なるケープ植民地は単独で統治せよ;;;;;;;;;;X EVT157141N;大英帝国によるネズパースの保護;;;;;;;;;;X EVT157141D;49度線以南のネズパース領が全てアメリカ合衆国の支配下にある今、\n大英帝国は49度線以北の部族の保護によって、アメリカの北方への\n拡張の可能性を阻止することを前提としなければならない。;;;;;;;;;;X ACT157141;保護国としよう;;;;;;;;;;X EVT157411N;ニュージーランド協会設立;;;;;;;;;;X EVT157411D;エドワード・ウェイクフィールドはイギリスの社会悪の解決策としての植民\nを主唱した。1837年に就任すると、破綻寸前の会社はニュージーラン\nドの土地取引に関与し、またイギリス政府に対して、ニュージーランドに\n対するイギリスの支配を確立し、島へのイギリス人の植民を促進するよう\n請願した。;;;;;;;;;;X ACT157411A;計画を支援しよう;;;;;;;;;;X ACT157411B;計画を抑止しよう;;;;;;;;;;X EVT157412N;ワイタンギ条約はニュージーランドにイギリスの主権を制定する;;;;;;;;;;X EVT157412D;ニュージーランドへのフランス権益の拡大と、イギリスの活動の増加の噂\nは、イギリス政府代表ジェームズ・バズビーをして、ニュージーランドを王\n室の植民地として確立する条約を締結し、マオリの権利が保護されると\nともに、イギリス人の植民のためにマオリの土地を購入する権利を王室\nが獲得し、イギリス政府が直接統治しなければならないとの\n結論を出さしめた。;;;;;;;;;;X ACT157412A;条約をマオリに提示しよう;;;;;;;;;;X ACT157412B;ニュージーランドは大英帝国とは無関係だ;;;;;;;;;;X EVT157413N;マオリ族がワイタンギ条約を受諾;;;;;;;;;;X EVT157413D;バズビーの交渉は成功し、いまやマオリはニュージーランドにおける\nイギリスの主権を受け入れた。;;;;;;;;;;X EVT157414N;マオリ族がワイタンギ条約を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157414D;バズビーの交渉は失敗し、\nニュージーランドにおけるイギリスの主権は認められなかった。;;;;;;;;;;X ACT157414A;そんなに貴重なものではあるまい!;;;;;;;;;;X ACT157414B;陛下が侮辱された! イギリスは島を獲得しなければならない!;;;;;;;;;;X EVT157415N;ニュージーランドでいかがわしい土地買収;;;;;;;;;;X EVT157415D;イギリスの植民地統治によりニュージーランドの開発が始まると、\n王室は、ニュージーランド会社の活動における、いかがわしい商慣行に\n気づいた。イギリスの移民は、ウエリントンの土地の品質に関する\n不正な主張とひどい組織について訴えた。王室は調査を命じ、\nウェリントンの入植地に規制が追いつく結果となった。;;;;;;;;;;X ACT157415A;ウェリントンを直轄支配しよう;;;;;;;;;;X ACT157415B;大英帝国にとってニュージーランドは重要な関心事ではない;;;;;;;;;;X EVT157416N;ニュージーランド会社が土地をイギリス王室に売却;;;;;;;;;;X EVT157416D;ニュージーランド会社によるニュージーランドへのイギリス人の植民を進め\nる試みは、会社の指導力のなさのため、全般的に不成功だった。1851\n年前半には、会社はニュージーランドでマオリから買った(しばしば疑わし\nい)100万エーカーの土地を王室に売却すると申し出た。土地の権利\nが、外国の買い手に売られる恐れがあり、王室は、売却を受け入れた。;;;;;;;;;;X ACT157416A;会社の土地を買い取ろう;;;;;;;;;;X ACT157416B;会社の破綻は王室とは無関係だ;;;;;;;;;;X EVT157418N;ホンヘケと第一次マオリ(旗竿)戦争;;;;;;;;;;X EVT157418D;ニュージーランド会社によるオークランド地域でのいかがわしい土地の購\n入は、マオリとイギリスの間に急速な緊張の高まりをもたらした。1844年\n8月、マオリ族長ホンヘケは、コノラレカでイギリス国旗を切り倒した。イギ\nリスは旗竿を二回元に戻し、ホンヘケ達はそれを切り倒すことで答えた。\nイギリス総督が軍隊を送り込んだとき、ベイ・オブ・アイランズのマオリの中\nで反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X ACT157418;オークランド周辺は制御できない状況だ;;;;;;;;;;X EVT157419N;ハットバレー戦役;;;;;;;;;;X EVT157419D;ワイラウ大虐殺と旗竿戦争によって、北ニュージーランドの南部のハット\nバレーのマオリと入植者との間の緊張が高まった。マオリはテランギヒータ\nの指揮の下、イギリスの入植者に抵抗した。戦闘の結果、軍事的には\n引き分けに終わったものの、マオリがハットバレーから立ち退くのを見る\nことになった。;;;;;;;;;;X ACT157419;マオリはニュージーランドにおけるイギリスの地位を脅かしている;;;;;;;;;;X EVT157420N;ワンガヌイ戦役;;;;;;;;;;X EVT157420D;ハットバレー戦役のあと、注目はワンガヌイ地域に移った。入植者とマオ\nリの間の緊張が高まったため、イギリスは守備隊を派遣し、入植者を守\nるするための柵を建設した。この刺激はマオリを激高させ、1847年4月、\n緊張は暴力的に爆発した。;;;;;;;;;;X ACT157420;ウェリントン周辺は制御できない状況だ;;;;;;;;;;X EVT157421N;ワンガヌイ協定;;;;;;;;;;X EVT157421D;ニュージーランドの緊張関係は高いままになっており、マオリはイギリス地\n方軍と対峙し、マオリの土地を保持していた。ワンガヌイ現地指揮官は\n、マオリ族長テママクに対し、マオリが社会的平和を維持するならば恩赦\nに浴する、という休戦を申し入れた。協定が受け入れられたにもかかわ\nらず、いまやイギリス人入植者の中には、唯一の解決法はこの地から恒\n久的にマオリを追放することだと信じる少数派が増え続けていた。;;;;;;;;;;X ACT157421;マオリとイギリス人は調和しなければならない;;;;;;;;;;X EVT157422N;キンギタンガ運動;;;;;;;;;;X EVT157422D;イギリス移民はニュージーランドに押し寄せ続け、植民地の政府がマオリ\nの権利を保護する役に立たないことをしばしば発見した、一部のマオリ\nはマオリの社会の大統一を呼びかけ始めた。このキンギタンガ運動は、\nキリスト教の教育に基づくマオリ共同体の福祉と、マオリの残りの土地所\n有の保護に対して責任がある最高の王の創造を必要とした。;;;;;;;;;;X ACT157422;それは、ニュージーランドの安定化を促進する助けになるだろう;;;;;;;;;;X EVT157423N;キンギタンガ運動が支持される;;;;;;;;;;X EVT157423D;北ニュージーランドのマオリの権利を保護するキンギタンガ運動の扇動は\n、1850年代に急速に成長した。1858年、この運動によりテウェロウェロ\nはポタタウ一世王と宣言され、植民地の集合のために投票権に賛成\nする世論を喚起し始めた。それはまだ、ニュージーランドにおけるイギリス\nの最終的な主権を認めていた。;;;;;;;;;;X ACT157423;この運動から眼を離すわけにはいかない;;;;;;;;;;X EVT157424N;第一次タラナキ戦争;;;;;;;;;;X EVT157424D;1859年、テタイラ(ニュープリマスのワイタラ地域のマオリ副族長)は、イギ\nリス人に一族の土地を売っていると発表した。ワイタラの族長とキンギタ\nンガのメンバー(ウィレムキンギ、テランギタケ)は、売却に同意することを拒\n否して、イギリス人の土地の測量を禁じた。植民地政府は、売却は合\n法であると主張した、マオリの土地が共有地として保留されるか、\n個人的に売却できるかという対立に発展した。;;;;;;;;;;X ACT157424A;対決を迫る - 土地はイギリス王室に帰属する;;;;;;;;;;X ACT157424B;マオリの領有主張を認める;;;;;;;;;;X EVT157425N;テアレイ停戦;;;;;;;;;;X EVT157425D;イギリス軍はタナラキ地域でほぼ1年間マオリと戦い、マオリの砦を制圧す\nるための犠牲の大きい包囲戦に引き付けられていた。戦争が継続する\nにつれ、北島の他の地域のマオリが反乱を起こす計画を立てているとい\nう噂が広まり始めた。1861年3月、イギリスはマオリに停戦を申し入れ、\n戦争のきっかけとなったテタイラ土地販売紛争の調査を約束した。;;;;;;;;;;X EVT157426N;ワイカト侵攻と第二次マオリ戦争;;;;;;;;;;X EVT157426D;タラナキの戦いのあと、ニュージーランドのイギリス政権は、キンギタンガ\n運動はニュージーランドにおけるイギリスの影響力に対する直接的な脅\n威だと考え始めた。計画は、キンギタンガ運動をその中核地帯(オーク\nランド南部のワイカト)で打ち砕いた。タラナキの熾烈な戦いのあと、抵\n抗は強くなっていたが、最終的には制圧された。;;;;;;;;;;X ACT157426B;マオリを放っておこう;;;;;;;;;;X EVT157427N;タウランガ戦役;;;;;;;;;;X EVT157427D;イギリスはワイカトにおける根強い抵抗に直面しており、北ニュージーラン\nドの北東海岸でタウランガ上陸作戦により第二戦線を開く計画が開\n始された。上陸作戦は、すぐに激しいマオリの抵抗に遭った、そして、\nイギリスはすぐにもう一つの反乱に直面していることに気づいた。;;;;;;;;;;X EVT157428N;ニュージーランド原住民の居留地法;;;;;;;;;;X EVT157428D;ニュージーランド北部全域で猛威を振るうマオリ反乱について、マオリ反\n乱への処罰の賛成者は、反乱に加わったマオリ共同体に属しているす\nべての土地の没収を提案した。植民地当局は、マオリ共同体がどれだ\nけイギリスに友好的であっても法律を適用し、ワイカト外部の地域でより\n大きな動乱を誘発した。;;;;;;;;;;X ACT157428;法律を制定しよう;;;;;;;;;;X EVT157429N;第二次タラナキ戦争;;;;;;;;;;X EVT157429D;北ニュージーランドの南部の、マオリとイギリスの間の緊張は、テアレイ停\n戦の後も高まったままだった。ワイカト侵攻と1863年のニュージーランド\n植民法の可決は、マオリがイギリス人を追放するか、または完全な破滅\nに直面するか、どちらかになることを、多くのマオリに示唆した。\nその結果、1864年4月に北ニュージーランド南部で反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X EVT157430N;オタゴでゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT157430D;1861年5月20日、ガブリエル・リード(カリフォルニア・ゴールドラッシュの第\n一人者)によって、トゥアペカで金が発見された。;;;;;;;;;;X EVT157431N;ウェストランドでゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT157431D;1864年10月1日、アーサー・ハントによってタラマカウ川で金が発見さ\nれ、ニュージーランドに3回目の10年間に渡る大ゴールドラッシュを誘発\nした。;;;;;;;;;;X EVT157432N;ネルソンでゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT157432D;1857年1月アオレレ周辺で金が発見された。\nニュージーランドに大きなゴールドラッシュを誘発した。;;;;;;;;;;X EVT157433N;ニュージーランドのゴールドラッシュが衰退;;;;;;;;;;X EVT157433D;1863年までに、新しい居住地に恒久的に住み着いた多くの鉱夫と\nニュージーランド南島の金鉱地は、決着がついた。;;;;;;;;;;X ACT157433;いつまでも続くものじゃない;;;;;;;;;;X EVT157434N;パイマリエ運動とハウハウの台頭;;;;;;;;;;X EVT157434D;マオリのキリスト教徒(ハロパペラ)は、自らをテウアハウメネと宣言して、\nパイマリエ(マオリとキリスト教の思想が融合したもの)の教義を説き始め\nた。1866年のハロパペラの死後、運動は急進的なものとなりハウハウへ\nと変化し、組織はイギリスに対するひたむきな闘争を続けた。;;;;;;;;;;X ACT157434;マオリの中で何かが起きている;;;;;;;;;;X EVT157435N;テコーチの反乱;;;;;;;;;;X EVT157435D;テコーチは、1860年代前半のマオリ戦争の間のイギリスの同盟者であっ\nた。しかし、汚職への関与を認められ、テコーチの逮捕と流刑(1866年\n、ダニディンからチャタム諸島へ)につながった。急進化したテコーチは、1\n868年7月に刑務所を脱獄し、王室に対する反乱を起こすためにネイ\nピアの故郷に戻った。;;;;;;;;;;X EVT157436N;チトコワルの反乱;;;;;;;;;;X EVT157436D;第二次タラナキ戦争のあと、ニュージーランド植民地政府は、\nマオリに対する大規模な土地没収運動を開始した。\n1867年、政府は没収終了を発表したが、1868年に没収を再開した。\nそして、緊張を増すことで、チトコワルの指導による反乱勃発を招いた。;;;;;;;;;;X ACT157437B;計画を支援しよう - それはニュージーランドにおけるフランスの影響力に対抗するものとなるだろう;;;;;;;;;;X EVT157480N;イギリスはブガンダを保護すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157480D;イギリス東アフリカ会社(BEAC)はブガンダにおける重要な利権を開発し\nたが、それはブガンダ王国特有の宗教紛争によって脅かされている。BE\nACはブガンダ王ムワンガに近いてブガンダへの支援を申し入れ、ブガンダ\nを事実上イギリスの従属国にしたがっている。イギリスは、BEACの行動\nを支持すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157480A;イギリス東アフリカ会社にムワンガを支援させる;;;;;;;;;;X ACT157480B;ブガンダ事件に関わることは出来ない;;;;;;;;;;X EVT157481N;ブガンダがイギリスの保護を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157481D;カバカ・ムワンガはイギリス東アフリカ会社の保護と支援の申し入れに\n同意し、ナイル川の源流におけるイギリスの利権を確保した;;;;;;;;;;X EVT157482N;イギリスがブガンダを直轄支配?;;;;;;;;;;X EVT157482D;イギリス東アフリカ会社のブガンダ業務の管理は、イギリス貿易を保証し\n、イギリスの戦略的利権を保護するための、ある種の安定をこの国で実\n現することに失敗した。支配者層とよばれる顧問の多くは、カバカを名\n目上の長とした直接統治を要求した。イギリスは、ブガンダに直接統治\nを強要しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157482A;ブガンダはイギリスの直接的な監督を必要としている;;;;;;;;;;X ACT157482B;ブガンダに自分の問題を解決させよう;;;;;;;;;;X EVT157483N;ブガンダがイギリスの支配を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157483D;カバカ・ムワンガは、イギリスのブガンダ直接管理の確立に同意した。;;;;;;;;;;X EVT157484N;イギリスがザンジバルを保護国とする;;;;;;;;;;X EVT157484D;ドイツとフランスの東アフリカに関する協定は、ザンジバルにイギリスより優\n勢な影響力を残した。多くの顧問はこの島に関するイギリスの利益のた\nめ、イギリス顧問によるスルタン宮廷の事実上の統治を確立し、イギリス\nの権益が守られることを保証することが必須であると論じた。ザンジバル\nのスルタンに、イギリスの顧問を受け入れるよう要求しなければならない\nのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157484A;国王バルガシュに要求を送る;;;;;;;;;;X EVT157485N;ザンジバルがイギリスの顧問を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157485D;ザンジバルのスルタンは、この国の政権内部にイギリス顧問を配置させる\nというイギリスの要請を受け入れた。島への影響力は確保された。;;;;;;;;;;X EVT157486N;ザンジバルがイギリスの顧問を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157486D;ザンジバルのスルタンは、この国の政権内部にイギリス顧問を配置させる\nというイギリスの要請を拒絶した。複数の消息筋が、スルタンが保護を\n受けるため、フランスに接触する計画を練っていることを示唆している。\nどうすればよいのだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157487N;ハリド・ビン・バルガシュがザンジバルの権力を掌握;;;;;;;;;;X EVT157487D;ザンジバルのスルタン、バルガシュの死により、孫のハリードが権力の座に\nついた。ハリードはイギリスとの顧問関係の終結を訴え、かつての大陸\n領土のイギリスからの返還を要求している。この新しいスルタンをどう取り\n扱えばよいのだろうか。;;;;;;;;;;X ACT157487A;奴を追放し、ザンジバルの支配権を握るのだ;;;;;;;;;;X EVT157488D;フランスはボルグのニッキ地方がフランスが長年の取引関係を持つ地域\nであると主張し、ニッキおけるフランスの権益を反映するために、西アフリ\nカ地域におけるフランスとイギリスの間の国境の改訂を要求している。\nどうすればよいのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157488A;ニッキをフランスに譲渡する;;;;;;;;;;X ACT157488B;ニッキに対するフランスの領有主張を拒絶する;;;;;;;;;;X EVT157489N;イギリスのチャド湖通行;;;;;;;;;;X EVT157489D;ソコトの征服によりチャド湖西岸へのイギリスの権利が高まった。歴史的\nにボルノの一部であった間、それはソコトのカリフによって主張されていた\n。伝えられるところでは中央アフリカで最も肥沃な農業地方の一つであ\nり、イギリスはチャド湖の通行について、フランスに交渉を要請しなければ\nならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157489A;フランスに交渉を求めよう;;;;;;;;;;X EVT157490N;チャド湖通行権取引;;;;;;;;;;X EVT157490D;フランスはソコト−カノ境界線以北のソコトの地と引きかえに、チャド湖\n西岸に沿いの領土を譲渡するつもりだ。イギリスの軍事顧問は良い取\n引だと確信している。そしてヨーロッパの緊張の高まりを考えると、フラン\nスとの友好関係は将来役に立つかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT157500N;クリミア戦争遂行のためのオスマン帝国への借款;;;;;;;;;;X EVT157500D;クリミア戦争の長期化により、オスマン帝国の歳出は歳入を大きく超過\nしはじめた。討論では戦争を遂行するための借款を得る為に、イギリスと\nフランスに近づくかどうかについて議論された。;;;;;;;;;;X EVT157501N;オスマン帝国は負債の免除を求めている;;;;;;;;;;X EVT157501D;19世紀半ば、民間銀行はオスマン帝国に近代化・西洋化計画の為の\n借款を始めた。 ロシアと先の戦争における敗北を受けて、オスマン帝国\nの財政は崩壊寸前となった。このためスルタンはオスマン帝国の負債とそ\nれを整理するために議論するように会議に要求してる。そうしなければオ\nスマン帝国はおそらく債務不履行となり、無価値なオスマン帝国債権を\n保有しているイギリスとフランスの多くの銀行に酷い打撃を与えるだろう。;;;;;;;;;;X ACT157501;オスマン帝国の負債についての協議を支援する;;;;;;;;;;X EVT157502N;オスマン帝国が公債を全て支払う;;;;;;;;;;X EVT157502D;ロシアによる敗北に刺激された結果、\n皇帝アブデュルハミト二世は帝国の経済の抜本的見直しに着手し、\nこれにより累積債務を返済することができた。;;;;;;;;;;X EVT157503N;オスマン帝国は借款の支払いを履行せず;;;;;;;;;;X EVT157503D;ロシアの手により挫折したあと、皇帝アブデュルハミト二世は財政的な\n崩壊に対処することができず、オスマン帝国のデフォルト(債務不履行)を\n宣言し、すべてのオスマン債券を無効であると宣言した。オスマン証券の\n価値を台無しにすることで、数十年前に作られた借金の担保として、\nイギリスの大銀行の支配下に置かれた。;;;;;;;;;;X ACT157503;オスマン帝国は債権者に償いをしなければならない;;;;;;;;;;X EVT157504N;オスマン帝国がヨーロッパの財政的な監督を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157504D;トルコ人は、オスマン帝国の負債の支払いを確実にするためのヨーロッパ\nの監督を受け入れた。これでイギリスの投資家は保護される。;;;;;;;;;;X EVT157505N;オスマン帝国がヨーロッパの財政的な監督を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157505D;トルコ人は、オスマン帝国の負債の支払いを確実にするためのヨーロッパ\nの監督を拒絶した。 イギリスが何もしなければ、数千人もの投資家が\n破滅するだろう。;;;;;;;;;;X EVT157527N;ロンドン議定書;;;;;;;;;;X EVT157527D;皇帝アレクサンドル二世は、オスマン帝国との戦争が避けられないと信\nじており、この闘争について、列強の中立を確保する必要があった。\n ロシアは、イギリスの中立を保証するため、\nロシアが勝利した場合にバルカン地方において、\nいかなる新しい大きい国家も建国しないことを約束した。 \nイギリスは、ロシアの約束を受け入れて、中立のままとどまるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157530N;ロシアがボスポラス海峡へ;;;;;;;;;;X EVT157530D;オスマン帝国軍が打ち破られ、ロシアは休戦交渉を拒否、\nロシアがトルコの海峡を獲得することもありそうに見えた。\nこれは、東地中海におけるイギリスの戦略上の権益に大打撃となり、\nさらにイギリスのインド支配を脅かす可能性もある。 \nイギリスは、ロシアによるコンスタンティノープル奪取を防ぐために\n介入すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157531N;サンステファノ条約の侵害;;;;;;;;;;X EVT157531D;サンステファノ条約における、親ロシアの「大ブルガリア」の建国は、\n東地中海におけるイギリスの権益と、ヨーロッパ全体の勢力均衡に対する\n無視できない直接的な脅威と見なされた。イギリスは、ロシアがイギリスの\n介入によりブルガリア国境についての国際的仲裁を受け入れるのを\n要求するべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157531;サンステファノ条約の修正を要求;;;;;;;;;;X EVT157532N;キプロス会議;;;;;;;;;;X EVT157532D;ロシアがバルカンの支配を確立しており、イギリスの戦略家は、キプロスの\nイギリスの占領が、将来、東地中海の力の均衡を維持するのに不可欠\nであると主張した。島は形式的にはオスマン帝国の一部だが、事実上\nはイギリスの支配下におかれることとなる。 イギリスはオスマン帝国の\n独立の保証と引き換えにキプロスの支配権を要求すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157532A;オスマン帝国に取引を提示しよう;;;;;;;;;;X ACT157532B;キプロスは、イギリスの防衛上必要なものではない;;;;;;;;;;X EVT157533D;ドイツが、サンステファノ条約によって生まれた紛争を調停する\n国際会議を提案すると、ロシアはこれを受け入れた。\nイギリスはベルリンで会議に出席すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157534D;オスマン帝国はキプロスでイギリスの申し出を受け入れた;;;;;;;;;;X EVT157535D;オスマン帝国はキプロスでイギリスの申し出を拒絶した;;;;;;;;;;X EVT157536N;ロシアがベルリン会議を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157536D;ロシアは、バルカンにおけるロシアの権益を修正するという\nベルリン会議の決定を受け入れることを拒否した。 \nイギリスは、バルカン半島におけるロシアの応諾を強制しなければ\nならないか、あるいはロシアの支配を受け入れなければならない。;;;;;;;;;;X EVT157537D;バルカン問題について、ベルリンの国際会議はイギリスが望んでいたこと\nを達成した。 ロシアはブルガリア領の大幅な減少を受け入れ、\nマケドニアにおけるオスマン帝国の支配は保持された。\nそして、オーストリアはボスニアを統治する権利を獲得し、\nイギリスのキプロス支配は認められた。良くやった。;;;;;;;;;;X EVT157540N;イスリー戦役;;;;;;;;;;X EVT157540D;フランス軍は裏切り者アブドゥル・カーディルの追撃中に、\nイスリーでモロッコ軍と交戦し、モロッコを大敗させた。\nモロッコの支配を確固たるものとすれば、\nフランスは西地中海において優位に立つだろう。\nモロッコの独立を維持するために、タンジールの代表に、\n当事者間の和解を働きかける権限を与えるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157540A;モロッコの独立を守るため、介入する;;;;;;;;;;X ACT157540B;モロッコをフランスに与えよう;;;;;;;;;;X EVT157541N;フランスがモロッコ紛争終結交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157541D;フランスは、モロッコ紛争を交渉によって解決するという\nイギリスの要請を拒絶し、更なる侵攻を続けている。\nイギリスはこれにどう答えるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157542N;モロッコがフランスの侵入を終わらせるための交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157542D;モロッコは、フランスとの闘争を交渉によって解決するというイギリスの要\n請を拒絶し、フランスに対しアブドゥ・アル・カディールの聖戦を支持する\n覚悟を決めている。 この危機に対しイギリスはどうこたえるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157543N;チュニジアが奴隷市場を閉鎖;;;;;;;;;;X EVT157543D;チュニジアのベイに対するイギリスの外交的圧力は\nベイにチュニスの奴隷市場を閉鎖するという決定をなさしめた。\nイギリスは奴隷制度の完全な廃止を約束させるために\nベイを外交的に支援するべきだろう。;;;;;;;;;;X EVT157544N;チュニジアが奴隷制度を廃止;;;;;;;;;;X EVT157544D;チュニジアのベイに対するイギリス領事の外交圧力は奴隷制度を撤廃\nするという決定をなさしめた。イギリスはアフリカ北部におけるイギリスの\n貿易の拡大を促進する為、また、この地方におけるフランスの影響力と\n均衡を図る為に、ベイへの外交的支援を続けるべきだろう。;;;;;;;;;;X EVT157545N;イギリス−モロッコ通商条約;;;;;;;;;;X EVT157545D;1844年以来のイギリスのタンジール領事であった、ジョン・ドラモンド・ハ\nイはイギリス王室の有能な代表であり、イギリスの影響力を確保するた\nめ、アフリカ北部戦略の一角で懸命に働いていた。モロッコと貿易条約\nを締結するためのジョン・ドラモンド・ハイの努力は1856年後半に実を\n結んだ。引き下げられた関税によりイギリスの輸出品がモロッコに流入し\n、モロッコ人によるモロッコ対外貿易の独占は撤廃された。この条約が\n批准されれば、モロッコにおけるイギリスの外交的地位を確保することと\nなろう。;;;;;;;;;;X ACT157545B;経済的、戦略的な必要性から言うと、モロッコはさほど関心がない;;;;;;;;;;X EVT157546N;スペイン−モロッコ間に緊張が高まる;;;;;;;;;;X EVT157546D;メリリャ周辺の保護地域を拡大するスペインの試みは、地元のモロッコの\n部族民との戦闘に至った。 イギリスの領事の忠告に対し、スルタンであ\nるムハンマド四世は抵抗する部族民を支援するために軍を急派した。ス\nペインはメリリャ周辺の安全を確保するために、武力行使させることを要\n求している。;;;;;;;;;;X ACT157546A;スペインに限定的な武力行使をさせ、スペイン人の安全を保証させよう;;;;;;;;;;X ACT157546B;モロッコはイギリスの勢力圏にある。スペインの要求は拒否する!;;;;;;;;;;X EVT157547N;1860年のスペイン−モロッコ戦争;;;;;;;;;;X EVT157547D;スペインはセウタとメリリャの周辺でモロッコ軍の撃破に成功した。\n地中海におけるイギリスの優位に挑むことができるジブラルタル海峡の\nモロッコ側において、スペインの軍事的存在感が強力になることは、\nイギリスの外交上大きな脅威となると憂慮された。\nイギリスの影響力を保持するために、\nスペインとモロッコの紛争を交渉によって解決すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157547A;モロッコとスペインの間の紛争の調停を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157547B;スペインにモロッコを保有させよ;;;;;;;;;;X EVT157548N;スペインはモロッコとの戦争を終結させるための交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157548D;スペインはモロッコ侵攻の終結を拒否し、\n西地中海におけるイギリスの戦略上の権益を脅かしている。;;;;;;;;;;X EVT157549N;モロッコはスペインとの戦争を終結させるための交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157549D;モロッコは、独立を保護するという親切な申し出にもかかわらず、\n和平交渉によるスペインとの北アフリカ紛争の終結を拒否した。;;;;;;;;;;X EVT157550D;1860年の北アフリカ紛争を終結させるウェッド・ラス条約の金銭的解決\nは、モロッコが実現することができないほど圧倒的なものであると判明し\nた。 モロッコは、スペインに再交渉の圧力をかけるようにイギリスに懇請し\nてきた。モロッコの反イギリス勢力は、戦争以来、成長している。これが\nイギリスの影響力を回復しスペインやフランスがイギリスに取って代わるの\nを防ぐ方法であろう。;;;;;;;;;;X ACT157550A;講和条約についての再交渉を要請するモロッコを支持する;;;;;;;;;;X ACT157550B;モロッコはモロッコ人のものだ;;;;;;;;;;X EVT157551N;サムサールに関するベクラード会議;;;;;;;;;;X EVT157551D;サムサールは、ヨーロッパの保護下にあるモロッコ人であった。\n初期の条約はモロッコのヨーロッパの領事が二人の住民に\n保護を与えることができるだけであると明記していたが、\n実際にはそれより多くの保護を提供された。\nモロッコ政府はフランスに不正の幇助に歯止めをかけることを要求し、\nフランスは同意した。イギリスが同意しないならば、\nモロッコはフランスの手に落ちるかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT157552N;モロッコは、サムサールについてイギリスの支援を懇請する;;;;;;;;;;X EVT157552D;ヨーロッパの保護下のモロッコ人サムサールとは、領事が二人の住民に\n保護を与えることができるだけだったという事実にもかかわらず、特権は\n濫用され続けた。モロッコ政府は、モロッコの安定性を徐々に蝕んでい\nる不正を終わらせるため、イギリスの外交的な支援を懇請した。イギリス\nはモロッコ人を支援しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157552A;他のヨーロッパ列強に会議を提案する;;;;;;;;;;X ACT157552B;そのような努力を必要とするほどの関心をモロッコに抱いていない;;;;;;;;;;X EVT157553D;1876年のモロッコのサムサールに関する合意を確保することに関する失\n敗は、スルタンの近代化の試みを大きく損なった。その時、ハッサン一世\nは、モロッコの問題を解決するために国際会議を催したいという要望を\n公表した。イギリスはモロッコ人を支援しなければならず、諸外国にモロッ\nコに関する会議に出席するよう要請しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157557N;アガディール危機;;;;;;;;;;X EVT157557D;モロッコへのフランスとスペインの介入の増大により、1911年、北アフリカ\nに対するドイツ利権が尊重されるべきだというドイツの要求を招いた。ヨ\nーロッパ戦争への大きな可能性があり、イギリスはそれがエスカレートする\n前に、この危機の解決のための交渉を試みなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157557A;解決の為に交渉を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157557B;ドイツが引き起こすかもしれない事件を起こそう;;;;;;;;;;X EVT157569D;チュニジア政府は、イスラムに対する冒涜の罪で、ユダヤ人(バトー・スフ\nェーズ)を処刑した。宗教に関わらず全ての在住者の安全はイギリスの\nチュニジア権益に関わることであり、チュニジア人の信仰に由来する差別\nと非人道的刑罰に反対する。イギリスは、オスマン大君とハットゥ・ヒュマ\nユーンによってすでに制定された、非ムスリムに対する法的保障を実行\nするよう、チュニジアに要求しなければならない。;;;;;;;;;;X ACT157569A;チュニジアが少数者の権利を保護するよう要求する;;;;;;;;;;X ACT157569B;そのような行動を必要とするほどの権益をチュニジアは持っていない;;;;;;;;;;X EVT157570D;チュニジア政府は、法律の前にすべての平等を確立し、ムスリムと非ムスリ\nムの間の紛争解決のために混成の法廷を創設し、チュニジアにおけるヨー\nロッパ人の土地所有を許すという、一連の改革(アフド・アラマーン)を発\n表した。イギリスのチュニジア権益は大いに確かなものなった。;;;;;;;;;;X ACT157570;チュニジア人を祝福し、外交的支援を与えよう;;;;;;;;;;X EVT157571N;1861年のチュニジア憲法;;;;;;;;;;X EVT157571D;チュニス政府は、法律の前にすべての平等を確立し、ムスリムと非ムスリ\nムの間の紛争解決のために混成の法廷を創設し、チュニジアにおけるヨー\nロッパ人の土地所有を許すという、一連の改革(アフド・アラマーン)を発\n表した。イギリスのチュニジア権益は大いに確かなものとなった。;;;;;;;;;;X EVT157572D;在チュニスイギリス領事(リチャード・ウッド)は、チュニジアへの投資と無\n制限の土地購入の権利と引きかえに、イギリス国民に対するチュニジア\n法廷の司法権を認める条約を協議した。この条約は、地中海の要衝\nにおけるイギリスの影響を大いに高めた。;;;;;;;;;;X EVT157573D;チュニジア政府は破産寸前だ。現在フランス政府は、フランス顧問によ\nるチュニジア財政の監督と、フランスの投資家から借り入れている負債\nの支払いを確実にするための予算の再編成を要求している。チュニジア\nにおけるフランスの一方的な行動をイギリスが許すなら、フランスはチュニ\nジア乗っ取りへの第一歩を確実なものとするこができる。;;;;;;;;;;X ACT157573;チュニジアの債務に対し、国際的監督を要求する;;;;;;;;;;X EVT157575D;在チュニスイギリス領事(リチャード・ウッド)は、イギリスの会社がチュニジ\nアの最初の鉄道を敷設するように手配した。このことは、チュニジアの市\n場にイギリスの権益を確保し、チュニジア政府に対するフランスとイタリア\nの影響力の削減に役立つ。;;;;;;;;;;X EVT157576D;イギリスのキプロス占領は、この地域における影響力の均衡に関する懸\n念をパリで引き起こした。フランスは、イギリスがチュニジアにおけるフランス\nの「優越的影響力」を認めるならば、イギリスのキプロス占領を受け入れ\nると通告してきた。ここ数年のいくつかのイギリスの投資計画の失敗によ\nり、チュニジアに対するイギリスの権益は取るに足りないものであり、そし\nて、この時期のフランスの外交的な支持は、イギリスの権益に対する将\n来のロシアの脅威を阻止するのに非常に有効なものとなりそうだ。;;;;;;;;;;X EVT157577N;エンフィダ事件;;;;;;;;;;X EVT157577D;エンフィダは、チュニジアの高官カイル・アルディンの私有地であった。188\n0年7月、カイル・アルディンはフランスの商業興信所にこの財産を売るこ\nとに決めた。チュニジア政府は、この売却によりチュニジアにおけるフラン\nスの支配力が更に大きく増大することを恐れて販売を取り消し、私有\n地は競売によりイギリスのユダヤ人(ジョセフ・レヴィ)によって購入された\n。フランス政府は、チュニス政府にフランス人への初めの売却を尊重する\nことを強要し、レヴィの購入が取り消されることを企てようとしている。イ\nギリスは、フランスがイギリス国民に対してチュニジアで土地を購入する法\n的権利を妨げることを許してよいものだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157577;レヴィの権利とイギリスのチュニジア権益を後押しせよ;;;;;;;;;;X EVT157578N;アラービーの反乱以後のイギリスのエジプト戦略;;;;;;;;;;X EVT157578D;イギリス軍がアラービー・パシャの軍に圧勝したせいで、エジプトについて\nのイギリスの姿勢が問題になった。エジプトへの干渉はエジプト総督の全\n権を回復するために行われたが、一部の顧問はイギリスがエジプトを完\n全に占領しなければならないと主張している。これはしかしオスマン帝国\nとフランスとの大きな国家間紛争を引き起こしかねない。そして、その顧\n問たちはますますエジプトのイギリスの軍隊のやり方を批判しだした。\nエジプトにおけるイギリスの達成目標はどうあるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157578A;カイロに親英政権を樹立しよう;;;;;;;;;;X ACT157578B;エジプトの全てを支配しなければならない;;;;;;;;;;X EVT157579N;エジプトがイギリスの監督を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157579D;エジプト総督は、エジプト政権内部へのイギリスの顧問の配置を受け入\nれた。いまやエジプトにおけるイギリスの地位は確かなものとなった。;;;;;;;;;;X EVT157580N;ラゴスを直轄支配;;;;;;;;;;X EVT157580D;イギリスはニジェール川デルタに対する権益を、商業的目的と、奴隷制\n度の廃止以来のこの地域の奴隷売買を抑える目的の双方のために\n長期間にわたって維持した。1850年代後半の一連の現地の騒乱の\n後、ヨルバ族の王子は、1861年にイギリスへラゴスの売却を申し出た。\nこの地域でのイギリスの勢力と影響力は大いに強化されるだろう。;;;;;;;;;;X ACT157580A;ラゴスを直轄植民地であると宣言する;;;;;;;;;;X ACT157580B;直接ラゴスを支配する必要はない;;;;;;;;;;X EVT157581N;ファンテ同盟;;;;;;;;;;X EVT157581D;イギリスは、長い間ゴールドコーストで交易相手としての存在感を維持\nした。1840年代初期に、内陸部のアサンテ王国が、海岸方面へとその\n勢力を拡大する試みを行い、ファンテ族はアサンテに対する独立維持を\n望んで、イギリスの支援を要請した。この条約は、イギリスの本格的な統\n治をアクラに確立した。;;;;;;;;;;X ACT157581A;ファンテとの条約に署名;;;;;;;;;;X ACT157581B;この地域にさほど関心はない;;;;;;;;;;X EVT157582N;アサンテとの国境紛争;;;;;;;;;;X EVT157582D;ゴールドコーストの交易所に関するオランダとの協定は、アサンテとの新し\nい紛争につながった。アサンテは海岸のアフリカ人に対する歴史的な大\n君主の地位を主張し、これはオランダによるアシャンティ族の最高支配\n者への貢物の支払いの形で認められていると主張した。;;;;;;;;;;X ACT157582A;アサンテが海岸地帯への領有権を放棄するよう要求する;;;;;;;;;;X ACT157582B;アサンテに全ての海岸を保有させる;;;;;;;;;;X EVT157583N;アサンテがイギリスの要求を拒否;;;;;;;;;;X EVT157583D;アシャンティ族の最高支配者はゴールドコーストの所有権に関する\nイギリスの要求を拒否し、軍隊が組織され紛争地帯に侵攻している。\nいかがいたしましょう?;;;;;;;;;;X EVT157584N;フォメナ条約;;;;;;;;;;X EVT157584D;アサンテに対するイギリスの軍事的勝利が疑いないうちに、閣僚の多くは\nアサンテ地域を植民地として統治するための費用を考えることをひどく\n嫌い、イギリスの監督の下、アサンテ国王の傀儡政権をつくることを求め\nた。イギリスはアサンテに保護国をつくり、紛争を終結させねばならないの\nだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157585N;アサンテがフォメナ条約を受諾;;;;;;;;;;X EVT157585D;アサンテは保護条約の提案を受け入れ、\nゴールドコースト沿岸地域へのイギリスの主権を認めた。;;;;;;;;;;X EVT157586N;クマシに遠征;;;;;;;;;;X EVT157586D;フォメナ条約はアサンテをイギリスの保護国に変え、今後20年間、アシャ\nンティ族の最高支配者はイギリスが勧告することを認めた。1890年代の\n西アフリカへのフランスの影響力の広がりは、アシャンティ族の最高支配\n者プレンペの試みと、イギリスの勧告に対する抵抗を招いた。1896年前\n半には、プレンペはイギリスの外交官を追い出して、フランスとの交渉を\n始めた。イギリスは、フォメナ条約を強制しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157586A;遠征軍をクマシに派遣する;;;;;;;;;;X ACT157586B;アサンテにさほど関心はない;;;;;;;;;;X EVT157587N;アサンテがイギリスの直接の支配下に入る;;;;;;;;;;X EVT157587D;イギリス軍はアシャンティ族の最高支配者プレンペを逮捕し、クマシにイ\nギリスの行政官を就任させた、イギリスのアサンテ支配は確立された。;;;;;;;;;;X EVT157588N;ボルグでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157588D;ニジェール南部でイギリスの支配権が確立されると、ソコトのカリフの支\n配地(ソコトの国内事情で事実上の自治管轄区域であり、無規律な\n徴税となっている)に注目が集まった。1893年、ラゴスのイギリス当局者\nは、ボルグのスルタンがフランスの保護国としての支配をボルグに確立す\nるための交渉を開始していたという報告を聞いた。イギリスは帝国のため\n、ニジェール北部国境沿いの地を守るため、代表団を派遣しなければ\nならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157588A;ボルグに使節団を派遣;;;;;;;;;;X ACT157588B;この地域にさほど関心はない;;;;;;;;;;X EVT157589N;ボルグがイギリスの直接の支配下に入る;;;;;;;;;;X EVT157589D;ボルグのスルタンはイギリスの保護提案を受け入れたが、スルタンの権力を\nイギリスの影響力が妨げることは、スルタンの権威に対する反乱を招いた。;;;;;;;;;;X EVT157590N;ヌペでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157590D;ヌペ族のスルタン(ソコト首長国のうちの1つ)は、ナイジェリアで奴隷売\n買を終えるというイギリスによる要求を一貫して拒否し、1897年前半か\nら、より多くの奴隷を求めてイギリス支配領域を襲撃し始めた。イギリス\n領への侵略行為に関してスルタンを処罰致しましょうか?;;;;;;;;;;X ACT157590A;使節団をヌペに派遣;;;;;;;;;;X EVT157591N;ヌペの支配を確立;;;;;;;;;;X EVT157591D;ソコトのカリフが臣下を支援する介入はしないと示唆した一方、\nヌペ族のスルタンは、ヌペへのイギリス支配の確立と、\nヌペの奴隷制度の終結を防ぐためのゲリラ作戦を開始した。;;;;;;;;;;X EVT157592N;ヨーラでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157592D;ヨーラ族のスルタン(ソコト首長国のうちの1つ)は、最近、イギリス商人\n(ソコトのカリフとの条約によって、ソコトでの活動を許可されていた。)の\n活動を妨げた。イギリスは、この地域のイギリス権益保護のため、介入し\nなければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157592A;使節団をヨーラに派遣;;;;;;;;;;X EVT157593N;ヨーラの支配を確立;;;;;;;;;;X EVT157593D;ソコトのカリフが臣下を支援する介入はしないと示唆した一方、ヨーラ族\nのスルタンは、ヨーラへのイギリス支配の確立を防ぐためにゲリラ作戦を\n開始した。;;;;;;;;;;X EVT157594N;バウチでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157594D;バウチ族のスルタン(ソコト首長国のうちの1つ)は、最近、イギリス商人(\nソコトのカリフとの条約によって、ソコトでの活動を許可されていた。)の\n活動を妨げ、ヌペとヨーラの前スルタンの玉座への復位を試みるという条\n件で、イギリス領で反乱を起こした組織を支援している。イギリスは、こ\nの地域のイギリス権益保護のため、介入しなければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157594A;使節団をバウチに派遣;;;;;;;;;;X EVT157595N;バウチの支配を確立;;;;;;;;;;X EVT157595D;ソコトのカリフが臣下を支援する介入はしないと示唆した一方、バウチ\n族のスルタンはバウチへのイギリス支配の確立を防ぐためにゲリラ作戦を\n開始した。;;;;;;;;;;X EVT157596N;ソコト問題の解決;;;;;;;;;;X EVT157596D;ニジェール南部とベヌエ川におけるイギリスの支配者集団が、イギリスの\nソコトとの関係という問題に取り組んだ結果、1800年代初期に強力だ\nったソコトは1880年以後紛争によって分裂し、その不安定性は他の列\n強(例えばドイツとフランス)のこの地域への介入を招き、この地域のイ\nギリス権益を損ないかねない脅威となっていた。イギリスはナイジェリアに\nおけるイギリスの地位を守るため、ソコトのカリフに保護国化を提案しな\nければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157596A;代表団をソコトに派遣;;;;;;;;;;X ACT157596B;ソコトへの外交的影響力は充分だ;;;;;;;;;;X EVT157597N;ソコトがイギリスの保護を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157597D;ソコト政府はイギリスによる保護国化の提案を拒絶し、報告によると\nソコトとフランスの間の接触によって、この地域へのフランスの介入を招く\n恐れがあるのみならず、イギリス市民および財産に対するさらなる攻撃も\n示唆されている。;;;;;;;;;;X ACT157597A;ソコトを大英帝国に組み込まねばならない!;;;;;;;;;;X EVT157598N;ソコトがイギリスの保護を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157598D;ソコト政府はイギリスによる保護国化の提案を受け入れ、\nこの地域はいまやイギリスの支配下にある。;;;;;;;;;;X EVT157599N;ロジをイギリスの保護国とすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157599D;ロジのレワニカ王は、ロジ王国がポルトガルやベルギーに侵略されること\nを恐れ、ロジをイギリスの保護国として確立するために、イギリス南アフリ\nカ会社に接触した。ロジの支配はザンベジ川上流におけるイギリス権益\nを保護し、これによってケープタウンからカイロに至る大英帝国の確固た\nる交通ルートが確保されることになる。;;;;;;;;;;X ACT157599A;イギリスがロジを保護国とする宣言を行う;;;;;;;;;;X EVT157721N;;新しいオーストラリア連邦へのシドニーの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157721D;新世紀の夜明けとともに、各植民地の市民がオーストラリア連邦の設立を祝い、\nオーストラリア全域が祝賀状態になった。;;;;;;;;;;X ACT157721;仲間を歓迎しよう!;;;;;;;;;;X EVT157722N;新しいオーストラリア連邦へのダーウィンの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157723N;新しいオーストラリア連邦へのブリスベンの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157724N;新しいオーストラリア連邦へのアデレードの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157725N;新しいオーストラリア連邦へのホーバートの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157726N;新しいオーストラリア連邦へのパースの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157810N;イギリスはクイーンアデレード州を放棄する;;;;;;;;;;X EVT157810D;白人入植者がケープ植民地の東に移動すると、コーサ族の大集団に\n遭遇し、土地の所有権をめぐる軋轢が生まれた。クイーンアデレード州\nのコーサ族の大きな抵抗のあと、コーサ族を追い払うという白人入植者\nの要求にもかかわらず、1835年12月、イギリス当局はこの地域からの\n撤退と、この地域を白人入植区域とコーサ族との緩衝地帯とすることを\n決定した。;;;;;;;;;;X ACT157810A;領土を明け渡そう;;;;;;;;;;X ACT157810B;問題を解決するため、イギリスはこの地を保持しなければならない;;;;;;;;;;X EVT157811N;グレートトレック;;;;;;;;;;X EVT157811D;1834年、大英帝国は奴隷制度の廃止を決定した。奴隷支配に拠っ\nた暮らしを失ったボーア人(南アフリカにおけるオランダ系移民の子孫)は\nこれに反発し、その大多数がイギリスの統治を離れるため1836年にケ\nープ植民地からオラニエ川北岸に移住。新しいボーア植民地を設立す\nることとなった。「グレートトレック」は南アフリカの歴史に、新たに劇的な\n歴史を刻むであろう。;;;;;;;;;;X ACT157811A;行きたいと言うなら行かせてやろう;;;;;;;;;;X ACT157811B;奴らの移住を阻止せよ!;;;;;;;;;;X EVT157812N;ボーア人のナタールに対するイギリスの姿勢;;;;;;;;;;X EVT157812D;1838年のボーア軍によるナタール建国は、ナタールにおけるイギリスの地\n位についての議論を呼んだ。ボーア人は形の上ではイギリス国民だが、\n彼らを継続的なズールー族の敵対行為から保護するコストは法外に高\nくつくと見られた。結局イギリスはボーア人を見捨て、もしズールー族が\n再度攻撃したなら、ナタールにおける彼ら自身の手で保護すると約束\nされただけだった。;;;;;;;;;;X ACT157812A;直接支配の負担なくボーア人を保護できよう;;;;;;;;;;X ACT157812B;ナタールを帝国に組み込まなくてはならない;;;;;;;;;;X EVT157813N;ナタールはアフリカ人全てを追放しようとしている;;;;;;;;;;X EVT157813D;アフリカ難民全てを追い出すというナタールによる提案は、土地の支配\nについてより多くの紛争を引き起こし、コーサ族の安定性と南アフリカに\nおけるイギリス領土を脅かすことになる。イギリスは、ナタールに対して止\nめるよう強制しなければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157813A;ナタールの出口を抑えるつもりだ;;;;;;;;;;X ACT157813B;ナタールの行動がどんな害になるというのだ?;;;;;;;;;;X ACT157814A;この地域を併合する;;;;;;;;;;X ACT157814B;イギリスはより火急の懸念を抱えている;;;;;;;;;;X ACT157815B;イギリスが直接支配した方が良いだろう;;;;;;;;;;X EVT157816D;1846年、コーサ族の囚人(白人移民から斧を盗んだ理由で逮捕された)\nを護送している白人移民をコーサ族の一団が殺すと、ケープ東部におけ\nるコーサ族と入植者の間の紛争は武力衝突に発展した。辺境地帯の\nコーサ族の族長は、殺人の責任者をイギリスに引き渡すことを拒否した。;;;;;;;;;;X EVT157817N;スミスの休戦;;;;;;;;;;X EVT157817D;激しい戦闘は、イギリス軍によるクイーンアデレード州の占領に至った。\nケープ総督(ハリー・スミス卿)は、クイーンアデレード州をイギリスに譲る\n換わりに、ケースカマ以東のコーサ族領土を不可分のものとして承認\nするという休戦を提案した。;;;;;;;;;;X EVT157818N;スミスの休戦が受け入れられた;;;;;;;;;;X EVT157818D;コーサが休戦の申し出を受け入れた;;;;;;;;;;X EVT157819N;オレンジ川に独立国を創設;;;;;;;;;;X EVT157819D;イギリスの官吏による直接管理がたとえ最小限だったとしても、トランス\nオレンジアのボーア人共同体の地位はイギリス国民だと見なされていた\n。コーサ族との和平を確立し、スミス総督は、南アフリカの内陸の安定\n性を確実にするために、ボーア人に対する王室の支配をより正式な地\n位とすることを提案した。;;;;;;;;;;X ACT157819A;ボーア人に対しイギリスの主権を宣言;;;;;;;;;;X EVT157820N;サンドリバー協定;;;;;;;;;;X EVT157820D;多くのボーア人が、オレンジ川独立国のイギリスの支配に憤慨していた。\nこれは、殊にヴァール川以北のボーア人の実情だった。トランスオレンジ\nアで動揺が増大しているため、イギリスはヴァール以北へのイギリスの関\n与の縮小に動いた。サンドリバー協定は、トランスヴァールの完全な独\n立を許可する。;;;;;;;;;;X ACT157820A;協定に署名し、トランスヴァールを解放する;;;;;;;;;;X ACT157820B;トランスヴァールにおけるイギリスの地位を保たねばならん;;;;;;;;;;X EVT157821N;ブルームフォンテーン協定;;;;;;;;;;X EVT157821D;イギリスの関与をヴァール川以南の地に縮小することは、ボーア人とアフリ\nカ人との間の平和維持問題の終結とはならなかった。ボーア人指導者\nとの交渉の後、ブルームフォンテーン協定が署名され、オレンジ自由州へ\nのイギリスの支配権の主張は終結した。それもまた、ヴァール以北のアフ\nリカ諸州に対するイギリスの責任を限定的なものとした。;;;;;;;;;;X ACT157821A;条約に署名し、オレンジの独立を承認する;;;;;;;;;;X ACT157821B;トランスオレンジアにおけるイギリスの地位を保たねばならん;;;;;;;;;;X EVT157822N;第一次アリワルノース条約;;;;;;;;;;X EVT157822D;オレンジのボーア人とソト族の間の戦争の勃発は、イギリスのケープ植民\n地を撹乱する影響があるとみなされた。1859年に戦争が膠着したとき、\nイギリスが紛争の終結を手配する機会が生まれた。;;;;;;;;;;X ACT157822A;紛争の調停を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157822B;奴らは最後まで戦うだろう;;;;;;;;;;X EVT157823N;オレンジがイギリスの調停の申し出を拒否;;;;;;;;;;X EVT157823D;オレンジのボーア人は、ソト族との紛争を終えることを拒否した。イギリス\nは、和解を余儀なくさせるよう介入しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157823A;強力なボーア人国家の存在はイギリスの利益とならない;;;;;;;;;;X ACT157823B;ボーア人にモショエショエを打ち負かさせよう;;;;;;;;;;X EVT157824N;ボーア人‐ソト間で緊張が高まる;;;;;;;;;;X EVT157824D;ソト族の急速な人口増加は、彼らの土地が人口過剰になっていること\nを意味した。ソト族の王モショエショエはイギリスに対し、国境を再検査\nして現在ボーア人の支配下にある、以前のソト族の土地を返還するよ\nうに嘆願した。;;;;;;;;;;X ACT157824A;ソト‐オレンジ国境紛争の再開を拒絶;;;;;;;;;;X ACT157824B;ソト‐オレンジ国境紛争の再開に同意;;;;;;;;;;X EVT157825N;第二次アリワルノース条約;;;;;;;;;;X EVT157825D;バストランドのタブ・ボシの砦は、トランスオレンジアの支配のための戦略\n的中心とみなされている。ボーア人の支配は、イギリスの力を南アフリカ\nの内陸に及ぼすことを非常に難しくしている。ソト族は、ボーア人による\nソト族の征服を防ぐためにイギリスの援助を求めた。イギリスは介入しな\nければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157825A;ソト‐オレンジ紛争の調停を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157825B;ボーア人にソトを壊滅させよう;;;;;;;;;;X EVT157826N;オレンジは第二次アリワルノース条約を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157826D;オレンジのボーア人は、ソト族とボーア人の紛争へのイギリスの仲裁を\n拒絶した。ソト族の国を滅ぼし、タブ・ボシを掌握する瀬戸際だ。;;;;;;;;;;X ACT157826A;軍事介入し、ボーア人の覇権を阻止する;;;;;;;;;;X EVT157827N;イギリスはバストランドの統治に責任を持つ;;;;;;;;;;X EVT157827D;第二次アリワルノース条約が当事者すべてによって受諾されるとともに、\nイギリスはソト国の残存勢力がボーア人の支配下に落ちることを阻止\nするため、ソト国の保護国化を宣言した。;;;;;;;;;;X ACT157827;バストランドはイギリスの保護国であると宣言する;;;;;;;;;;X EVT157828N;ウォーターボアはキンバリーのダイヤモンド鉱山の権利を主張;;;;;;;;;;X EVT157828D;キンバリーダイヤモンド鉱山は、グリカ族、オレンジとトランスヴァールによる\n領有主張が重なった係争地域にあった。鉱山の支配権獲得を望むケ\nープのイギリスの植民地当局は、この地へのグリカ族族長ウォーターボア\nの領有主張を支持し、ロンドンにこの試みについて支援を求めた。;;;;;;;;;;X ACT157828A;ウォーターボアの主張を支持しよう;;;;;;;;;;X ACT157828B;この地をボーア人に保有させよう;;;;;;;;;;X EVT157829N;オレンジはキンバリー鉱山についての仲裁を受け入れた;;;;;;;;;;X EVT157829D;キンバリー鉱山の所有権をめぐって南アフリカの緊張の高まると、\nナタールの総督は、係争中の所有権の仲裁をしようと提案した。\nオレンジは、この提案を受け入れた。;;;;;;;;;;X EVT157830N;オレンジはウォーターボアの主張を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157830D;ボーア人の政府は、キンバリーダイアモンド鉱山へのウォーターボア族長\nの領有主張を完全に拒絶した。いかが致しましょう?;;;;;;;;;;X EVT157832N;バートル・フリーアと南アフリカにおけるイギリスの至上権;;;;;;;;;;X EVT157832D;1870年代中頃までには、キンバリーダイアモンド鉱山は、厳しい人手不\n足に苦しんでいた。これの多くは、トランスヴァールの政策とズールー国\nによる鉱山への労働者移入の禁止のためだった。バートル・フリーアは、\nボーア人とズールー族へのイギリスの支配を確立するため、必要に応じ\n武力を行使することだけが南アフリカのイギリスの勢力の未来を確実に\nすると論じた。;;;;;;;;;;X ACT157832A;南アフリカの為にフリーアを高等弁務官に任命する;;;;;;;;;;X ACT157832B;南アフリカの現状を維持する;;;;;;;;;;X EVT157833N;トランスヴァールに対するイギリスの支配権;;;;;;;;;;X EVT157833D;1870年代中頃には、支配権をめぐって奮闘するさまざまなボーア人組\n織、ボーア人支配に対するアフリカ人のすさまじい抵抗と経済の安定性\nの欠如により、トランスヴァールは難局から難局へと、ひどく困難な状況\nとなった。フリーアは、トランスヴァールにイギリスの大君主の地位を受け\n入れることを余儀なくさせるか、強制的にそれを確立しておくためにトラ\nンスヴァールに代表団を派遣するよう提言した。;;;;;;;;;;X ACT157833A;代表団をトランスヴァールに派遣する;;;;;;;;;;X ACT157833B;今、ボーア戦争の危険を冒すことはできない;;;;;;;;;;X EVT157834N;トランスヴァールへのイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT157834D;トランスヴァールにイギリスの至上権を受け入れさせるという\nフリーアの決定は成功した。;;;;;;;;;;X EVT157835N;コーサ内戦;;;;;;;;;;X EVT157835D;ナンカウスの間違った予言のあと、コーサ族の地はムフェング族によって\n再植民された。彼らは概して親英的だった。1877年8月に、ムフェング\n族とコーサ族の間で紛争が勃発し、ムフェング族はイギリスの保護を要\n請した。フリーアは、これを帝国がコーサ族の地を確保する好機とみた。;;;;;;;;;;X EVT157836N;ケープ東部で反乱;;;;;;;;;;X EVT157836D;イギリス軍がコーサ族の地で秩序を確立するために動いたので、グリカ族\nとポンド族の共同体は共感から反乱に立ち上がり、ケープ植民地東部\n全域が燃え立った。;;;;;;;;;;X EVT157837N;ズールーへのイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT157837D;トランスヴァールにおけるイギリスの覇権は、ズールー族との関係悪化に\nつながった。高等弁務官フリーアは、イギリスによるズールーランド管理の\nみが、イギリスの恒久的なズールーランド支配を確実にすることができる\nと考えた。イギリスが選択するならば、ナタールのズールー族による軽微\nな国境侵犯を、ズールー族に服従を強いるために使うことができる。;;;;;;;;;;X ACT157837A;ズールーに最後通牒を送る;;;;;;;;;;X ACT157837B;ズールーと争う必要は無い;;;;;;;;;;X EVT157838N;ズールーがイギリスの最後通牒を受諾;;;;;;;;;;X EVT157838D;ズールーにイギリスの至上権を受け入れさせるという\nフリーアの決定は成功した。;;;;;;;;;;X EVT157839N;トランスヴァールが独立を要求;;;;;;;;;;X EVT157839D;1877年、トランスヴァールの多くのボーア人はイギリスの至上権確立を\n受け入れることを拒否した、そしてズールー族とコーサ族との戦争に関\n与したイギリスに対し、彼らのフラストレーションは増大した。1878年12\n月のウィンダーフォンテーンで、ボーア人出席者は、イギリスがトランスヴァ\nールの独立を完全に回復させるよう要求した。;;;;;;;;;;X EVT157840N;プレトリア協定;;;;;;;;;;X EVT157840D;トランスヴァールに対する影響力を回復しようとするイギリスの試みに対\nして、激しい抵抗を継続しているボーア人と、イギリスの多くの人々は、\nトランスヴァールを放棄するために、イギリス人を呼び出した。1881年8\n月3日、プレトリア協定に署名することで平和は回復され、トランスヴァ\nールの主権をイギリスが承認するとともに戦争は終結した。;;;;;;;;;;X EVT157841N;ドビーのタチ金鉱地採掘権;;;;;;;;;;X EVT157841D;1870年代のほとんどの間、ショナ王国のタチ採金地は、わずかに開発\nされただけだった。1880年、イギリスの複合企業は利益分配合意と\n引き換えに採金地の開発を提案した。;;;;;;;;;;X ACT157841A;ショナに取引を提案する;;;;;;;;;;X EVT157842N;エドワードのタチ金鉱地採掘権;;;;;;;;;;X EVT157842D;1880年代の間、イギリスの技師はショナ王国のタチ採金地を開発した\n。ウィットウォータースランド金礁の発見により、タチ領域は大規模な投\n資をしなければ採算が悪化する危険が迫り、鉱山の投資家のより大き\nな保護が必要となった。イギリス南アフリカ会社は、土地代金に加え採\n掘される金からの毎年の配当金と引き換えにタチ地域をロベングラから\n購入しようと申し出た。;;;;;;;;;;X EVT157843N;ラッドのマショナランド採掘権;;;;;;;;;;X EVT157843D;イギリス南アフリカ会社は、ショナ王ロベングラの信頼を得て、所有権を\n持つショナからマショナランド(古来のジンバブエ王国の金産地)開発の\nための鉱物採掘権を獲得した。;;;;;;;;;;X EVT157844N;王立イギリス南アフリカ会社を宣言;;;;;;;;;;X EVT157844D;ラッドの採掘権は、マショナランドでイギリス南アフリカ会社ができることに\nついて非常に幅広く記載された。これには、会社の取締役セシル・ロー\nズが、イギリス王室の名において新しい領域を管理するための勅許が故\n意に適用され、ロベングラをイギリスの操り人形にした。;;;;;;;;;;X ACT157844A;ローズに王室の特許状を与えよう;;;;;;;;;;X ACT157844B;これは契約書と協定の精神を越えている;;;;;;;;;;X EVT157845D;1872年のムパンデの死により、シャシワユが王座に就いた。ズールー族\nへのイギリスの影響力を保つためにシャシワユがうってつけだと信じ、テオ\nフィルス・シェプストンは1860年代の王位継承争いで、シャシワユを支援\nした。1873年、シャシワユはシェプストンに即位式の司会をつとめるよう\n求め、イギリスに対するシャシワユの忠誠を示した。;;;;;;;;;;X ACT157845;これはイギリスに対するズールーの好意を保つだろう;;;;;;;;;;X EVT157846N;マショナランドの反乱;;;;;;;;;;X EVT157846D;1893年7月のロベングラの宣戦布告は\nマショナランドのイギリス人に対して全面的な暴動を惹き起こした。;;;;;;;;;;X EVT157847N;イギリス人がナタールへ移住;;;;;;;;;;X EVT157847D;ナタール併合後、多くのボーア人は、イギリスの支配下に留まるよりオレ\nンジ地域へ立ち去ることを好んだ。1849年、入植者集団はジョセフ・バ\nーンに導かれ、この地域の経済を発展させるため、ナタールへのイギリス\n移民を促す運動を開始した。これはささやかな成功に終わったが、この\n地域のイギリスの支配を固めるのに役立った。;;;;;;;;;;X EVT157848N;ナタール人夫法:南アフリカのインド人労働者;;;;;;;;;;X EVT157848D;ナタールへの商業的な農業(サトウキビに基づく)の導入は、ヨーロッパ\n人所有地での生産のためにアフリカ人労働者を利用することが困難で\nあるために制限されていた。1859年、ナタール政府は労働危機に直\n面し、人手不足に対処するため、ナタールに年季奉公のインド人労働\n者を投入するナタール人夫法について討議した。その結果、南アフリカ\nのモザイク社会に新しい共同体が取り入れられた。;;;;;;;;;;X
タイムスタンプを変更しない
下半分はハードコードです。 VIP_EVENT_157048_DESC VIP_EVENT_157049_DESC VIP_EVENT_157052_DESC 上記三つはイベントファイルに記載なし? EVT157032N;オーストラリアの独立!;;;;;;;;;;X EVT157032D;1900年7月にヴィクトリア女王によって憲法が承認された後、\nオーストラリア植民地は合併し、独立国となった。\n 1901年から、キャンベラが建設された1913年までの間、\nオーストラリア連邦議会はメルボルンに置かれた。;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_157048_DESC;1845年に、スペインの若きイザベラの結婚が、その国の近い将来の危\n機の1つにつながり、ヨーロッパの騒動に発展した。フランス政府の多くの\n人々がイザベラのブルボン家との結婚を見ることに関心を持っている間、\nイザベラはコーブルクとの結婚を求めていた。キゾーは、彼らの中の一人\nだった、彼は迷いから覚めパーマストン卿とともに彼らがスペインをフラン\nスの敵にしようとするかもしれない現実的可能性があると見なしていた。\nイギリス代表ヘンリー・ブルワー卿が不明瞭な意思表示をすると、状況\nは悪化し、この件におけるパーマストンのぎごちない外交によって、フラン\nスの関与継続に失敗した。1845年に、ギゾーはブルボン家の一員(特\n別魅力も無く不利な候補)と結婚したいという彼女の願望を利用し、\nスペイン女王に対する圧力をかけることに成功した。パーマストン卿(対\n外関係の大半の要素と内政は、疑い無く彼によるものだった)は、意地\n悪く反フランス的で、イザベラが結婚によりルイ・フィリップとの関係を\n手に入れる、あらゆる可能性を攻撃した。;;;;;;;;;;x VIP_EVENT_157049_DESC;ルイ・フィリップの大臣の忠告はまとまりがなく、大抵はそれ自体が誤解さ\nれた。ギゾーはフランスとスペインの間を往復し、危機を収束させるため\nに多くの時間を費やしたが、それは誤解以外の何物でもなかった。 それ\nは評判の問題(大陸の瀬戸際政策ゲームを引き起こした)になり、184\n5年の春、フランスは断固として、かつ議会の後ろ盾によって、ボルボーン\n王子とのイザベラの結婚を擁護すると答えた。統一された大陸に無視\nされたとき、パーマストン卿は引き下がることを余儀なくされ、\nこれは彼の外交の失敗の本当の発端の1つとなった。;;;;;;;;;;x VIP_EVENT_157052_DESC;1840年、フランスの大臣フランソワ・ギゾーがイギリスに到着した。彼はイ\nギリスのエリートに好感を持たれ、ヴィクトリア女王、アバディーン卿とロバ\nート・ピール卿との個人的関係を進展させ、ロンドンの知識人は彼の機\n知、魅力と知性を評価した。彼にはシェークスピアの趣味があり、話す\n英語も卓越していた - スコットランドのアバディーン卿の言によると - 大\n半のイギリス人よりも。フランソワ・ギゾーがイングランドでとった究極の目\n標は、フランスとイギリスの間の恒久同盟の創設にあった。彼は、これが\nフランスの将来の安全保障とフランスの自由を守るために必要であると\nの信念を持っていた。パーマストン卿はフランスがイギリスの破壊に全力\nを投じており、かつイギリスの植民地権益に深刻な打撃を与えることが\nできる唯一の国だと考えていて、そのような同盟にひどく反対した。保守\n的な外務大臣アバディーン卿(ギゾーと非常に緊密な関係があった)は\n、イギリス最大の関心事は協商にあり、世界の最も強い艦隊を合わせ\nた同盟によって、世界中のイギリス権益の確保をもたらされると考えて\nいた。ギゾーは、この重要な問題を議論するために、ロバート・ピール卿\nと女王との個人的会談を手配した。;;;;;;;;;;x EVT157091D;イギリスとオランダの間に交わされたこの条約は、いくつかの要素を持って\nいた。オランダは、アフリカのゴールドコーストからグレートブリテンに至るま\nでの(小さな)貿易拠点を譲る。加えてオランダは、ボルネオ北部へのイギ\nリスの関心を認識していた。オランダは、アチェでの自由行動と、インドか\nら蘭領ガイアナへ労働力の強制連行を認められる。;;;;;;;;;;X ACT157091A;オランダに条約を提案せよ;;;;;;;;;;X ACT157091B;やめておけ;;;;;;;;;;X EVT157092N;スマトラ条約が署名される;;;;;;;;;;X EVT157092D;オランダはイギリスの提案した条約に署名した。これは、イギリスがアフリカ\nのゴールドコーストを支配下に置き、ボルネオ北部で勢力範囲を増した\nことを意味する。その引き換えに、イギリスはオランダにアチェにおける自\n由行動を与え、インドから蘭領ガイアナへの労働力の強制連行を許可\nしなければならない。;;;;;;;;;;X EVT157093N;スマトラ条約が拒絶される;;;;;;;;;;X EVT157093D;オランダはイギリスの提案した条約の署名を拒絶した。これは、イギリス\nが今、第三国によってアチェに足場を築かれる危険の中にいることを意\n味する。また、ゴールドコーストとボルネオ北部の状況は改善を見ない。;;;;;;;;;;X ACT157093B;1824年の英蘭条約は白紙だ;;;;;;;;;;X EVT157139D;イギリス軍はボーア人の間で組織された抵抗を打ち破ることに成功、\n南アフリカにおける大英帝国の安全を確保した。;;;;;;;;;;X ACT157140A;ケープ植民地の新国家に加わるよう、ボーア人に打診する;;;;;;;;;;X ACT157140B;偉大なるケープ植民地は単独で統治せよ;;;;;;;;;;X EVT157141N;大英帝国によるネズパースの保護;;;;;;;;;;X EVT157141D;49度線以南のネズパース領が全てアメリカ合衆国の支配下にある今、\n大英帝国は49度線以北の部族の保護によって、アメリカの北方への\n拡張の可能性を阻止することを前提としなければならない。;;;;;;;;;;X ACT157141;保護国としよう;;;;;;;;;;X EVT157411N;ニュージーランド協会設立;;;;;;;;;;X EVT157411D;エドワード・ウェイクフィールドはイギリスの社会悪の解決策としての植民\nを主唱した。1837年に就任すると、破綻寸前の会社はニュージーラン\nドの土地取引に関与し、またイギリス政府に対して、ニュージーランドに\n対するイギリスの支配を確立し、島へのイギリス人の植民を促進するよう\n請願した。;;;;;;;;;;X ACT157411A;計画を支援しよう;;;;;;;;;;X ACT157411B;計画を抑止しよう;;;;;;;;;;X EVT157412N;ワイタンギ条約はニュージーランドにイギリスの主権を制定する;;;;;;;;;;X EVT157412D;ニュージーランドへのフランス権益の拡大と、イギリスの活動の増加の噂\nは、イギリス政府代表ジェームズ・バズビーをして、ニュージーランドを王\n室の植民地として確立する条約を締結し、マオリの権利が保護されると\nともに、イギリス人の植民のためにマオリの土地を購入する権利を王室\nが獲得し、イギリス政府が直接統治しなければならないとの\n結論を出さしめた。;;;;;;;;;;X ACT157412A;条約をマオリに提示しよう;;;;;;;;;;X ACT157412B;ニュージーランドは大英帝国とは無関係だ;;;;;;;;;;X EVT157413N;マオリ族がワイタンギ条約を受諾;;;;;;;;;;X EVT157413D;バズビーの交渉は成功し、いまやマオリはニュージーランドにおける\nイギリスの主権を受け入れた。;;;;;;;;;;X EVT157414N;マオリ族がワイタンギ条約を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157414D;バズビーの交渉は失敗し、\nニュージーランドにおけるイギリスの主権は認められなかった。;;;;;;;;;;X ACT157414A;そんなに貴重なものではあるまい!;;;;;;;;;;X ACT157414B;陛下が侮辱された! イギリスは島を獲得しなければならない!;;;;;;;;;;X EVT157415N;ニュージーランドでいかがわしい土地買収;;;;;;;;;;X EVT157415D;イギリスの植民地統治によりニュージーランドの開発が始まると、\n王室は、ニュージーランド会社の活動における、いかがわしい商慣行に\n気づいた。イギリスの移民は、ウエリントンの土地の品質に関する\n不正な主張とひどい組織について訴えた。王室は調査を命じ、\nウェリントンの入植地に規制が追いつく結果となった。;;;;;;;;;;X ACT157415A;ウェリントンを直轄支配しよう;;;;;;;;;;X ACT157415B;大英帝国にとってニュージーランドは重要な関心事ではない;;;;;;;;;;X EVT157416N;ニュージーランド会社が土地をイギリス王室に売却;;;;;;;;;;X EVT157416D;ニュージーランド会社によるニュージーランドへのイギリス人の植民を進め\nる試みは、会社の指導力のなさのため、全般的に不成功だった。1851\n年前半には、会社はニュージーランドでマオリから買った(しばしば疑わし\nい)100万エーカーの土地を王室に売却すると申し出た。土地の権利\nが、外国の買い手に売られる恐れがあり、王室は、売却を受け入れた。;;;;;;;;;;X ACT157416A;会社の土地を買い取ろう;;;;;;;;;;X ACT157416B;会社の破綻は王室とは無関係だ;;;;;;;;;;X EVT157418N;ホンヘケと第一次マオリ(旗竿)戦争;;;;;;;;;;X EVT157418D;ニュージーランド会社によるオークランド地域でのいかがわしい土地の購\n入は、マオリとイギリスの間に急速な緊張の高まりをもたらした。1844年\n8月、マオリ族長ホンヘケは、コノラレカでイギリス国旗を切り倒した。イギ\nリスは旗竿を二回元に戻し、ホンヘケ達はそれを切り倒すことで答えた。\nイギリス総督が軍隊を送り込んだとき、ベイ・オブ・アイランズのマオリの中\nで反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X ACT157418;オークランド周辺は制御できない状況だ;;;;;;;;;;X EVT157419N;ハットバレー戦役;;;;;;;;;;X EVT157419D;ワイラウ大虐殺と旗竿戦争によって、北ニュージーランドの南部のハット\nバレーのマオリと入植者との間の緊張が高まった。マオリはテランギヒータ\nの指揮の下、イギリスの入植者に抵抗した。戦闘の結果、軍事的には\n引き分けに終わったものの、マオリがハットバレーから立ち退くのを見る\nことになった。;;;;;;;;;;X ACT157419;マオリはニュージーランドにおけるイギリスの地位を脅かしている;;;;;;;;;;X EVT157420N;ワンガヌイ戦役;;;;;;;;;;X EVT157420D;ハットバレー戦役のあと、注目はワンガヌイ地域に移った。入植者とマオ\nリの間の緊張が高まったため、イギリスは守備隊を派遣し、入植者を守\nるするための柵を建設した。この刺激はマオリを激高させ、1847年4月、\n緊張は暴力的に爆発した。;;;;;;;;;;X ACT157420;ウェリントン周辺は制御できない状況だ;;;;;;;;;;X EVT157421N;ワンガヌイ協定;;;;;;;;;;X EVT157421D;ニュージーランドの緊張関係は高いままになっており、マオリはイギリス地\n方軍と対峙し、マオリの土地を保持していた。ワンガヌイ現地指揮官は\n、マオリ族長テママクに対し、マオリが社会的平和を維持するならば恩赦\nに浴する、という休戦を申し入れた。協定が受け入れられたにもかかわ\nらず、いまやイギリス人入植者の中には、唯一の解決法はこの地から恒\n久的にマオリを追放することだと信じる少数派が増え続けていた。;;;;;;;;;;X ACT157421;マオリとイギリス人は調和しなければならない;;;;;;;;;;X EVT157422N;キンギタンガ運動;;;;;;;;;;X EVT157422D;イギリス移民はニュージーランドに押し寄せ続け、植民地の政府がマオリ\nの権利を保護する役に立たないことをしばしば発見した、一部のマオリ\nはマオリの社会の大統一を呼びかけ始めた。このキンギタンガ運動は、\nキリスト教の教育に基づくマオリ共同体の福祉と、マオリの残りの土地所\n有の保護に対して責任がある最高の王の創造を必要とした。;;;;;;;;;;X ACT157422;それは、ニュージーランドの安定化を促進する助けになるだろう;;;;;;;;;;X EVT157423N;キンギタンガ運動が支持される;;;;;;;;;;X EVT157423D;北ニュージーランドのマオリの権利を保護するキンギタンガ運動の扇動は\n、1850年代に急速に成長した。1858年、この運動によりテウェロウェロ\nはポタタウ一世王と宣言され、植民地の集合のために投票権に賛成\nする世論を喚起し始めた。それはまだ、ニュージーランドにおけるイギリス\nの最終的な主権を認めていた。;;;;;;;;;;X ACT157423;この運動から眼を離すわけにはいかない;;;;;;;;;;X EVT157424N;第一次タラナキ戦争;;;;;;;;;;X EVT157424D;1859年、テタイラ(ニュープリマスのワイタラ地域のマオリ副族長)は、イギ\nリス人に一族の土地を売っていると発表した。ワイタラの族長とキンギタ\nンガのメンバー(ウィレムキンギ、テランギタケ)は、売却に同意することを拒\n否して、イギリス人の土地の測量を禁じた。植民地政府は、売却は合\n法であると主張した、マオリの土地が共有地として保留されるか、\n個人的に売却できるかという対立に発展した。;;;;;;;;;;X ACT157424A;対決を迫る - 土地はイギリス王室に帰属する;;;;;;;;;;X ACT157424B;マオリの領有主張を認める;;;;;;;;;;X EVT157425N;テアレイ停戦;;;;;;;;;;X EVT157425D;イギリス軍はタナラキ地域でほぼ1年間マオリと戦い、マオリの砦を制圧す\nるための犠牲の大きい包囲戦に引き付けられていた。戦争が継続する\nにつれ、北島の他の地域のマオリが反乱を起こす計画を立てているとい\nう噂が広まり始めた。1861年3月、イギリスはマオリに停戦を申し入れ、\n戦争のきっかけとなったテタイラ土地販売紛争の調査を約束した。;;;;;;;;;;X EVT157426N;ワイカト侵攻と第二次マオリ戦争;;;;;;;;;;X EVT157426D;タラナキの戦いのあと、ニュージーランドのイギリス政権は、キンギタンガ\n運動はニュージーランドにおけるイギリスの影響力に対する直接的な脅\n威だと考え始めた。計画は、キンギタンガ運動をその中核地帯(オーク\nランド南部のワイカト)で打ち砕いた。タラナキの熾烈な戦いのあと、抵\n抗は強くなっていたが、最終的には制圧された。;;;;;;;;;;X ACT157426B;マオリを放っておこう;;;;;;;;;;X EVT157427N;タウランガ戦役;;;;;;;;;;X EVT157427D;イギリスはワイカトにおける根強い抵抗に直面しており、北ニュージーラン\nドの北東海岸でタウランガ上陸作戦により第二戦線を開く計画が開\n始された。上陸作戦は、すぐに激しいマオリの抵抗に遭った、そして、\nイギリスはすぐにもう一つの反乱に直面していることに気づいた。;;;;;;;;;;X EVT157428N;ニュージーランド原住民の居留地法;;;;;;;;;;X EVT157428D;ニュージーランド北部全域で猛威を振るうマオリ反乱について、マオリ反\n乱への処罰の賛成者は、反乱に加わったマオリ共同体に属しているす\nべての土地の没収を提案した。植民地当局は、マオリ共同体がどれだ\nけイギリスに友好的であっても法律を適用し、ワイカト外部の地域でより\n大きな動乱を誘発した。;;;;;;;;;;X ACT157428;法律を制定しよう;;;;;;;;;;X EVT157429N;第二次タラナキ戦争;;;;;;;;;;X EVT157429D;北ニュージーランドの南部の、マオリとイギリスの間の緊張は、テアレイ停\n戦の後も高まったままだった。ワイカト侵攻と1863年のニュージーランド\n植民法の可決は、マオリがイギリス人を追放するか、または完全な破滅\nに直面するか、どちらかになることを、多くのマオリに示唆した。\nその結果、1864年4月に北ニュージーランド南部で反乱が勃発した。;;;;;;;;;;X EVT157430N;オタゴでゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT157430D;1861年5月20日、ガブリエル・リード(カリフォルニア・ゴールドラッシュの第\n一人者)によって、トゥアペカで金が発見された。;;;;;;;;;;X EVT157431N;ウェストランドでゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT157431D;1864年10月1日、アーサー・ハントによってタラマカウ川で金が発見さ\nれ、ニュージーランドに3回目の10年間に渡る大ゴールドラッシュを誘発\nした。;;;;;;;;;;X EVT157432N;ネルソンでゴールドラッシュ;;;;;;;;;;X EVT157432D;1857年1月アオレレ周辺で金が発見された。\nニュージーランドに大きなゴールドラッシュを誘発した。;;;;;;;;;;X EVT157433N;ニュージーランドのゴールドラッシュが衰退;;;;;;;;;;X EVT157433D;1863年までに、新しい居住地に恒久的に住み着いた多くの鉱夫と\nニュージーランド南島の金鉱地は、決着がついた。;;;;;;;;;;X ACT157433;いつまでも続くものじゃない;;;;;;;;;;X EVT157434N;パイマリエ運動とハウハウの台頭;;;;;;;;;;X EVT157434D;マオリのキリスト教徒(ハロパペラ)は、自らをテウアハウメネと宣言して、\nパイマリエ(マオリとキリスト教の思想が融合したもの)の教義を説き始め\nた。1866年のハロパペラの死後、運動は急進的なものとなりハウハウへ\nと変化し、組織はイギリスに対するひたむきな闘争を続けた。;;;;;;;;;;X ACT157434;マオリの中で何かが起きている;;;;;;;;;;X EVT157435N;テコーチの反乱;;;;;;;;;;X EVT157435D;テコーチは、1860年代前半のマオリ戦争の間のイギリスの同盟者であっ\nた。しかし、汚職への関与を認められ、テコーチの逮捕と流刑(1866年\n、ダニディンからチャタム諸島へ)につながった。急進化したテコーチは、1\n868年7月に刑務所を脱獄し、王室に対する反乱を起こすためにネイ\nピアの故郷に戻った。;;;;;;;;;;X EVT157436N;チトコワルの反乱;;;;;;;;;;X EVT157436D;第二次タラナキ戦争のあと、ニュージーランド植民地政府は、\nマオリに対する大規模な土地没収運動を開始した。\n1867年、政府は没収終了を発表したが、1868年に没収を再開した。\nそして、緊張を増すことで、チトコワルの指導による反乱勃発を招いた。;;;;;;;;;;X ACT157437B;計画を支援しよう - それはニュージーランドにおけるフランスの影響力に対抗するものとなるだろう;;;;;;;;;;X EVT157480N;イギリスはブガンダを保護すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157480D;イギリス東アフリカ会社(BEAC)はブガンダにおける重要な利権を開発し\nたが、それはブガンダ王国特有の宗教紛争によって脅かされている。BE\nACはブガンダ王ムワンガに近いてブガンダへの支援を申し入れ、ブガンダ\nを事実上イギリスの従属国にしたがっている。イギリスは、BEACの行動\nを支持すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157480A;イギリス東アフリカ会社にムワンガを支援させる;;;;;;;;;;X ACT157480B;ブガンダ事件に関わることは出来ない;;;;;;;;;;X EVT157481N;ブガンダがイギリスの保護を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157481D;カバカ・ムワンガはイギリス東アフリカ会社の保護と支援の申し入れに\n同意し、ナイル川の源流におけるイギリスの利権を確保した;;;;;;;;;;X EVT157482N;イギリスがブガンダを直轄支配?;;;;;;;;;;X EVT157482D;イギリス東アフリカ会社のブガンダ業務の管理は、イギリス貿易を保証し\n、イギリスの戦略的利権を保護するための、ある種の安定をこの国で実\n現することに失敗した。支配者層とよばれる顧問の多くは、カバカを名\n目上の長とした直接統治を要求した。イギリスは、ブガンダに直接統治\nを強要しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157482A;ブガンダはイギリスの直接的な監督を必要としている;;;;;;;;;;X ACT157482B;ブガンダに自分の問題を解決させよう;;;;;;;;;;X EVT157483N;ブガンダがイギリスの支配を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157483D;カバカ・ムワンガは、イギリスのブガンダ直接管理の確立に同意した。;;;;;;;;;;X EVT157484N;イギリスがザンジバルを保護国とする;;;;;;;;;;X EVT157484D;ドイツとフランスの東アフリカに関する協定は、ザンジバルにイギリスより優\n勢な影響力を残した。多くの顧問はこの島に関するイギリスの利益のた\nめ、イギリス顧問によるスルタン宮廷の事実上の統治を確立し、イギリス\nの権益が守られることを保証することが必須であると論じた。ザンジバル\nのスルタンに、イギリスの顧問を受け入れるよう要求しなければならない\nのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157484A;国王バルガシュに要求を送る;;;;;;;;;;X EVT157485N;ザンジバルがイギリスの顧問を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157485D;ザンジバルのスルタンは、この国の政権内部にイギリス顧問を配置させる\nというイギリスの要請を受け入れた。島への影響力は確保された。;;;;;;;;;;X EVT157486N;ザンジバルがイギリスの顧問を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157486D;ザンジバルのスルタンは、この国の政権内部にイギリス顧問を配置させる\nというイギリスの要請を拒絶した。複数の消息筋が、スルタンが保護を\n受けるため、フランスに接触する計画を練っていることを示唆している。\nどうすればよいのだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157487N;ハリド・ビン・バルガシュがザンジバルの権力を掌握;;;;;;;;;;X EVT157487D;ザンジバルのスルタン、バルガシュの死により、孫のハリードが権力の座に\nついた。ハリードはイギリスとの顧問関係の終結を訴え、かつての大陸\n領土のイギリスからの返還を要求している。この新しいスルタンをどう取り\n扱えばよいのだろうか。;;;;;;;;;;X ACT157487A;奴を追放し、ザンジバルの支配権を握るのだ;;;;;;;;;;X EVT157488D;フランスはボルグのニッキ地方がフランスが長年の取引関係を持つ地域\nであると主張し、ニッキおけるフランスの権益を反映するために、西アフリ\nカ地域におけるフランスとイギリスの間の国境の改訂を要求している。\nどうすればよいのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157488A;ニッキをフランスに譲渡する;;;;;;;;;;X ACT157488B;ニッキに対するフランスの領有主張を拒絶する;;;;;;;;;;X EVT157489N;イギリスのチャド湖通行;;;;;;;;;;X EVT157489D;ソコトの征服によりチャド湖西岸へのイギリスの権利が高まった。歴史的\nにボルノの一部であった間、それはソコトのカリフによって主張されていた\n。伝えられるところでは中央アフリカで最も肥沃な農業地方の一つであ\nり、イギリスはチャド湖の通行について、フランスに交渉を要請しなければ\nならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157489A;フランスに交渉を求めよう;;;;;;;;;;X EVT157490N;チャド湖通行権取引;;;;;;;;;;X EVT157490D;フランスはソコト−カノ境界線以北のソコトの地と引きかえに、チャド湖\n西岸に沿いの領土を譲渡するつもりだ。イギリスの軍事顧問は良い取\n引だと確信している。そしてヨーロッパの緊張の高まりを考えると、フラン\nスとの友好関係は将来役に立つかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT157500N;クリミア戦争遂行のためのオスマン帝国への借款;;;;;;;;;;X EVT157500D;クリミア戦争の長期化により、オスマン帝国の歳出は歳入を大きく超過\nしはじめた。討論では戦争を遂行するための借款を得る為に、イギリスと\nフランスに近づくかどうかについて議論された。;;;;;;;;;;X EVT157501N;オスマン帝国は負債の免除を求めている;;;;;;;;;;X EVT157501D;19世紀半ば、民間銀行はオスマン帝国に近代化・西洋化計画の為の\n借款を始めた。 ロシアと先の戦争における敗北を受けて、オスマン帝国\nの財政は崩壊寸前となった。このためスルタンはオスマン帝国の負債とそ\nれを整理するために議論するように会議に要求してる。そうしなければオ\nスマン帝国はおそらく債務不履行となり、無価値なオスマン帝国債権を\n保有しているイギリスとフランスの多くの銀行に酷い打撃を与えるだろう。;;;;;;;;;;X ACT157501;オスマン帝国の負債についての協議を支援する;;;;;;;;;;X EVT157502N;オスマン帝国が公債を全て支払う;;;;;;;;;;X EVT157502D;ロシアによる敗北に刺激された結果、\n皇帝アブデュルハミト二世は帝国の経済の抜本的見直しに着手し、\nこれにより累積債務を返済することができた。;;;;;;;;;;X EVT157503N;オスマン帝国は借款の支払いを履行せず;;;;;;;;;;X EVT157503D;ロシアの手により挫折したあと、皇帝アブデュルハミト二世は財政的な\n崩壊に対処することができず、オスマン帝国のデフォルト(債務不履行)を\n宣言し、すべてのオスマン債券を無効であると宣言した。オスマン証券の\n価値を台無しにすることで、数十年前に作られた借金の担保として、\nイギリスの大銀行の支配下に置かれた。;;;;;;;;;;X ACT157503;オスマン帝国は債権者に償いをしなければならない;;;;;;;;;;X EVT157504N;オスマン帝国がヨーロッパの財政的な監督を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157504D;トルコ人は、オスマン帝国の負債の支払いを確実にするためのヨーロッパ\nの監督を受け入れた。これでイギリスの投資家は保護される。;;;;;;;;;;X EVT157505N;オスマン帝国がヨーロッパの財政的な監督を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157505D;トルコ人は、オスマン帝国の負債の支払いを確実にするためのヨーロッパ\nの監督を拒絶した。 イギリスが何もしなければ、数千人もの投資家が\n破滅するだろう。;;;;;;;;;;X EVT157527N;ロンドン議定書;;;;;;;;;;X EVT157527D;皇帝アレクサンドル二世は、オスマン帝国との戦争が避けられないと信\nじており、この闘争について、列強の中立を確保する必要があった。\n ロシアは、イギリスの中立を保証するため、\nロシアが勝利した場合にバルカン地方において、\nいかなる新しい大きい国家も建国しないことを約束した。 \nイギリスは、ロシアの約束を受け入れて、中立のままとどまるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157530N;ロシアがボスポラス海峡へ;;;;;;;;;;X EVT157530D;オスマン帝国軍が打ち破られ、ロシアは休戦交渉を拒否、\nロシアがトルコの海峡を獲得することもありそうに見えた。\nこれは、東地中海におけるイギリスの戦略上の権益に大打撃となり、\nさらにイギリスのインド支配を脅かす可能性もある。 \nイギリスは、ロシアによるコンスタンティノープル奪取を防ぐために\n介入すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157531N;サンステファノ条約の侵害;;;;;;;;;;X EVT157531D;サンステファノ条約における、親ロシアの「大ブルガリア」の建国は、\n東地中海におけるイギリスの権益と、ヨーロッパ全体の勢力均衡に対する\n無視できない直接的な脅威と見なされた。イギリスは、ロシアがイギリスの\n介入によりブルガリア国境についての国際的仲裁を受け入れるのを\n要求するべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157531;サンステファノ条約の修正を要求;;;;;;;;;;X EVT157532N;キプロス会議;;;;;;;;;;X EVT157532D;ロシアがバルカンの支配を確立しており、イギリスの戦略家は、キプロスの\nイギリスの占領が、将来、東地中海の力の均衡を維持するのに不可欠\nであると主張した。島は形式的にはオスマン帝国の一部だが、事実上\nはイギリスの支配下におかれることとなる。 イギリスはオスマン帝国の\n独立の保証と引き換えにキプロスの支配権を要求すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157532A;オスマン帝国に取引を提示しよう;;;;;;;;;;X ACT157532B;キプロスは、イギリスの防衛上必要なものではない;;;;;;;;;;X EVT157533D;ドイツが、サンステファノ条約によって生まれた紛争を調停する\n国際会議を提案すると、ロシアはこれを受け入れた。\nイギリスはベルリンで会議に出席すべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157534D;オスマン帝国はキプロスでイギリスの申し出を受け入れた;;;;;;;;;;X EVT157535D;オスマン帝国はキプロスでイギリスの申し出を拒絶した;;;;;;;;;;X EVT157536N;ロシアがベルリン会議を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157536D;ロシアは、バルカンにおけるロシアの権益を修正するという\nベルリン会議の決定を受け入れることを拒否した。 \nイギリスは、バルカン半島におけるロシアの応諾を強制しなければ\nならないか、あるいはロシアの支配を受け入れなければならない。;;;;;;;;;;X EVT157537D;バルカン問題について、ベルリンの国際会議はイギリスが望んでいたこと\nを達成した。 ロシアはブルガリア領の大幅な減少を受け入れ、\nマケドニアにおけるオスマン帝国の支配は保持された。\nそして、オーストリアはボスニアを統治する権利を獲得し、\nイギリスのキプロス支配は認められた。良くやった。;;;;;;;;;;X EVT157540N;イスリー戦役;;;;;;;;;;X EVT157540D;フランス軍は裏切り者アブドゥル・カーディルの追撃中に、\nイスリーでモロッコ軍と交戦し、モロッコを大敗させた。\nモロッコの支配を確固たるものとすれば、\nフランスは西地中海において優位に立つだろう。\nモロッコの独立を維持するために、タンジールの代表に、\n当事者間の和解を働きかける権限を与えるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157540A;モロッコの独立を守るため、介入する;;;;;;;;;;X ACT157540B;モロッコをフランスに与えよう;;;;;;;;;;X EVT157541N;フランスがモロッコ紛争終結交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157541D;フランスは、モロッコ紛争を交渉によって解決するという\nイギリスの要請を拒絶し、更なる侵攻を続けている。\nイギリスはこれにどう答えるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157542N;モロッコがフランスの侵入を終わらせるための交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157542D;モロッコは、フランスとの闘争を交渉によって解決するというイギリスの要\n請を拒絶し、フランスに対しアブドゥ・アル・カディールの聖戦を支持する\n覚悟を決めている。 この危機に対しイギリスはどうこたえるべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157543N;チュニジアが奴隷市場を閉鎖;;;;;;;;;;X EVT157543D;チュニジアのベイに対するイギリスの外交的圧力は\nベイにチュニスの奴隷市場を閉鎖するという決定をなさしめた。\nイギリスは奴隷制度の完全な廃止を約束させるために\nベイを外交的に支援するべきだろう。;;;;;;;;;;X EVT157544N;チュニジアが奴隷制度を廃止;;;;;;;;;;X EVT157544D;チュニジアのベイに対するイギリス領事の外交圧力は奴隷制度を撤廃\nするという決定をなさしめた。イギリスはアフリカ北部におけるイギリスの\n貿易の拡大を促進する為、また、この地方におけるフランスの影響力と\n均衡を図る為に、ベイへの外交的支援を続けるべきだろう。;;;;;;;;;;X EVT157545N;イギリス−モロッコ通商条約;;;;;;;;;;X EVT157545D;1844年以来のイギリスのタンジール領事であった、ジョン・ドラモンド・ハ\nイはイギリス王室の有能な代表であり、イギリスの影響力を確保するた\nめ、アフリカ北部戦略の一角で懸命に働いていた。モロッコと貿易条約\nを締結するためのジョン・ドラモンド・ハイの努力は1856年後半に実を\n結んだ。引き下げられた関税によりイギリスの輸出品がモロッコに流入し\n、モロッコ人によるモロッコ対外貿易の独占は撤廃された。この条約が\n批准されれば、モロッコにおけるイギリスの外交的地位を確保することと\nなろう。;;;;;;;;;;X ACT157545B;経済的、戦略的な必要性から言うと、モロッコはさほど関心がない;;;;;;;;;;X EVT157546N;スペイン−モロッコ間に緊張が高まる;;;;;;;;;;X EVT157546D;メリリャ周辺の保護地域を拡大するスペインの試みは、地元のモロッコの\n部族民との戦闘に至った。 イギリスの領事の忠告に対し、スルタンであ\nるムハンマド四世は抵抗する部族民を支援するために軍を急派した。ス\nペインはメリリャ周辺の安全を確保するために、武力行使させることを要\n求している。;;;;;;;;;;X ACT157546A;スペインに限定的な武力行使をさせ、スペイン人の安全を保証させよう;;;;;;;;;;X ACT157546B;モロッコはイギリスの勢力圏にある。スペインの要求は拒否する!;;;;;;;;;;X EVT157547N;1860年のスペイン−モロッコ戦争;;;;;;;;;;X EVT157547D;スペインはセウタとメリリャの周辺でモロッコ軍の撃破に成功した。\n地中海におけるイギリスの優位に挑むことができるジブラルタル海峡の\nモロッコ側において、スペインの軍事的存在感が強力になることは、\nイギリスの外交上大きな脅威となると憂慮された。\nイギリスの影響力を保持するために、\nスペインとモロッコの紛争を交渉によって解決すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157547A;モロッコとスペインの間の紛争の調停を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157547B;スペインにモロッコを保有させよ;;;;;;;;;;X EVT157548N;スペインはモロッコとの戦争を終結させるための交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157548D;スペインはモロッコ侵攻の終結を拒否し、\n西地中海におけるイギリスの戦略上の権益を脅かしている。;;;;;;;;;;X EVT157549N;モロッコはスペインとの戦争を終結させるための交渉を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157549D;モロッコは、独立を保護するという親切な申し出にもかかわらず、\n和平交渉によるスペインとの北アフリカ紛争の終結を拒否した。;;;;;;;;;;X EVT157550D;1860年の北アフリカ紛争を終結させるウェッド・ラス条約の金銭的解決\nは、モロッコが実現することができないほど圧倒的なものであると判明し\nた。 モロッコは、スペインに再交渉の圧力をかけるようにイギリスに懇請し\nてきた。モロッコの反イギリス勢力は、戦争以来、成長している。これが\nイギリスの影響力を回復しスペインやフランスがイギリスに取って代わるの\nを防ぐ方法であろう。;;;;;;;;;;X ACT157550A;講和条約についての再交渉を要請するモロッコを支持する;;;;;;;;;;X ACT157550B;モロッコはモロッコ人のものだ;;;;;;;;;;X EVT157551N;サムサールに関するベクラード会議;;;;;;;;;;X EVT157551D;サムサールは、ヨーロッパの保護下にあるモロッコ人であった。\n初期の条約はモロッコのヨーロッパの領事が二人の住民に\n保護を与えることができるだけであると明記していたが、\n実際にはそれより多くの保護を提供された。\nモロッコ政府はフランスに不正の幇助に歯止めをかけることを要求し、\nフランスは同意した。イギリスが同意しないならば、\nモロッコはフランスの手に落ちるかもしれない。;;;;;;;;;;X EVT157552N;モロッコは、サムサールについてイギリスの支援を懇請する;;;;;;;;;;X EVT157552D;ヨーロッパの保護下のモロッコ人サムサールとは、領事が二人の住民に\n保護を与えることができるだけだったという事実にもかかわらず、特権は\n濫用され続けた。モロッコ政府は、モロッコの安定性を徐々に蝕んでい\nる不正を終わらせるため、イギリスの外交的な支援を懇請した。イギリス\nはモロッコ人を支援しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157552A;他のヨーロッパ列強に会議を提案する;;;;;;;;;;X ACT157552B;そのような努力を必要とするほどの関心をモロッコに抱いていない;;;;;;;;;;X EVT157553D;1876年のモロッコのサムサールに関する合意を確保することに関する失\n敗は、スルタンの近代化の試みを大きく損なった。その時、ハッサン一世\nは、モロッコの問題を解決するために国際会議を催したいという要望を\n公表した。イギリスはモロッコ人を支援しなければならず、諸外国にモロッ\nコに関する会議に出席するよう要請しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157557N;アガディール危機;;;;;;;;;;X EVT157557D;モロッコへのフランスとスペインの介入の増大により、1911年、北アフリカ\nに対するドイツ利権が尊重されるべきだというドイツの要求を招いた。ヨ\nーロッパ戦争への大きな可能性があり、イギリスはそれがエスカレートする\n前に、この危機の解決のための交渉を試みなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157557A;解決の為に交渉を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157557B;ドイツが引き起こすかもしれない事件を起こそう;;;;;;;;;;X EVT157569D;チュニジア政府は、イスラムに対する冒涜の罪で、ユダヤ人(バトー・スフ\nェーズ)を処刑した。宗教に関わらず全ての在住者の安全はイギリスの\nチュニジア権益に関わることであり、チュニジア人の信仰に由来する差別\nと非人道的刑罰に反対する。イギリスは、オスマン大君とハットゥ・ヒュマ\nユーンによってすでに制定された、非ムスリムに対する法的保障を実行\nするよう、チュニジアに要求しなければならない。;;;;;;;;;;X ACT157569A;チュニジアが少数者の権利を保護するよう要求する;;;;;;;;;;X ACT157569B;そのような行動を必要とするほどの権益をチュニジアは持っていない;;;;;;;;;;X EVT157570D;チュニジア政府は、法律の前にすべての平等を確立し、ムスリムと非ムスリ\nムの間の紛争解決のために混成の法廷を創設し、チュニジアにおけるヨー\nロッパ人の土地所有を許すという、一連の改革(アフド・アラマーン)を発\n表した。イギリスのチュニジア権益は大いに確かなものなった。;;;;;;;;;;X ACT157570;チュニジア人を祝福し、外交的支援を与えよう;;;;;;;;;;X EVT157571N;1861年のチュニジア憲法;;;;;;;;;;X EVT157571D;チュニス政府は、法律の前にすべての平等を確立し、ムスリムと非ムスリ\nムの間の紛争解決のために混成の法廷を創設し、チュニジアにおけるヨー\nロッパ人の土地所有を許すという、一連の改革(アフド・アラマーン)を発\n表した。イギリスのチュニジア権益は大いに確かなものとなった。;;;;;;;;;;X EVT157572D;在チュニスイギリス領事(リチャード・ウッド)は、チュニジアへの投資と無\n制限の土地購入の権利と引きかえに、イギリス国民に対するチュニジア\n法廷の司法権を認める条約を協議した。この条約は、地中海の要衝\nにおけるイギリスの影響を大いに高めた。;;;;;;;;;;X EVT157573D;チュニジア政府は破産寸前だ。現在フランス政府は、フランス顧問によ\nるチュニジア財政の監督と、フランスの投資家から借り入れている負債\nの支払いを確実にするための予算の再編成を要求している。チュニジア\nにおけるフランスの一方的な行動をイギリスが許すなら、フランスはチュニ\nジア乗っ取りへの第一歩を確実なものとするこができる。;;;;;;;;;;X ACT157573;チュニジアの債務に対し、国際的監督を要求する;;;;;;;;;;X EVT157575D;在チュニスイギリス領事(リチャード・ウッド)は、イギリスの会社がチュニジ\nアの最初の鉄道を敷設するように手配した。このことは、チュニジアの市\n場にイギリスの権益を確保し、チュニジア政府に対するフランスとイタリア\nの影響力の削減に役立つ。;;;;;;;;;;X EVT157576D;イギリスのキプロス占領は、この地域における影響力の均衡に関する懸\n念をパリで引き起こした。フランスは、イギリスがチュニジアにおけるフランス\nの「優越的影響力」を認めるならば、イギリスのキプロス占領を受け入れ\nると通告してきた。ここ数年のいくつかのイギリスの投資計画の失敗によ\nり、チュニジアに対するイギリスの権益は取るに足りないものであり、そし\nて、この時期のフランスの外交的な支持は、イギリスの権益に対する将\n来のロシアの脅威を阻止するのに非常に有効なものとなりそうだ。;;;;;;;;;;X EVT157577N;エンフィダ事件;;;;;;;;;;X EVT157577D;エンフィダは、チュニジアの高官カイル・アルディンの私有地であった。188\n0年7月、カイル・アルディンはフランスの商業興信所にこの財産を売るこ\nとに決めた。チュニジア政府は、この売却によりチュニジアにおけるフラン\nスの支配力が更に大きく増大することを恐れて販売を取り消し、私有\n地は競売によりイギリスのユダヤ人(ジョセフ・レヴィ)によって購入された\n。フランス政府は、チュニス政府にフランス人への初めの売却を尊重する\nことを強要し、レヴィの購入が取り消されることを企てようとしている。イ\nギリスは、フランスがイギリス国民に対してチュニジアで土地を購入する法\n的権利を妨げることを許してよいものだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157577;レヴィの権利とイギリスのチュニジア権益を後押しせよ;;;;;;;;;;X EVT157578N;アラービーの反乱以後のイギリスのエジプト戦略;;;;;;;;;;X EVT157578D;イギリス軍がアラービー・パシャの軍に圧勝したせいで、エジプトについて\nのイギリスの姿勢が問題になった。エジプトへの干渉はエジプト総督の全\n権を回復するために行われたが、一部の顧問はイギリスがエジプトを完\n全に占領しなければならないと主張している。これはしかしオスマン帝国\nとフランスとの大きな国家間紛争を引き起こしかねない。そして、その顧\n問たちはますますエジプトのイギリスの軍隊のやり方を批判しだした。\nエジプトにおけるイギリスの達成目標はどうあるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157578A;カイロに親英政権を樹立しよう;;;;;;;;;;X ACT157578B;エジプトの全てを支配しなければならない;;;;;;;;;;X EVT157579N;エジプトがイギリスの監督を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157579D;エジプト総督は、エジプト政権内部へのイギリスの顧問の配置を受け入\nれた。いまやエジプトにおけるイギリスの地位は確かなものとなった。;;;;;;;;;;X EVT157580N;ラゴスを直轄支配;;;;;;;;;;X EVT157580D;イギリスはニジェール川デルタに対する権益を、商業的目的と、奴隷制\n度の廃止以来のこの地域の奴隷売買を抑える目的の双方のために\n長期間にわたって維持した。1850年代後半の一連の現地の騒乱の\n後、ヨルバ族の王子は、1861年にイギリスへラゴスの売却を申し出た。\nこの地域でのイギリスの勢力と影響力は大いに強化されるだろう。;;;;;;;;;;X ACT157580A;ラゴスを直轄植民地であると宣言する;;;;;;;;;;X ACT157580B;直接ラゴスを支配する必要はない;;;;;;;;;;X EVT157581N;ファンテ同盟;;;;;;;;;;X EVT157581D;イギリスは、長い間ゴールドコーストで交易相手としての存在感を維持\nした。1840年代初期に、内陸部のアサンテ王国が、海岸方面へとその\n勢力を拡大する試みを行い、ファンテ族はアサンテに対する独立維持を\n望んで、イギリスの支援を要請した。この条約は、イギリスの本格的な統\n治をアクラに確立した。;;;;;;;;;;X ACT157581A;ファンテとの条約に署名;;;;;;;;;;X ACT157581B;この地域にさほど関心はない;;;;;;;;;;X EVT157582N;アサンテとの国境紛争;;;;;;;;;;X EVT157582D;ゴールドコーストの交易所に関するオランダとの協定は、アサンテとの新し\nい紛争につながった。アサンテは海岸のアフリカ人に対する歴史的な大\n君主の地位を主張し、これはオランダによるアシャンティ族の最高支配\n者への貢物の支払いの形で認められていると主張した。;;;;;;;;;;X ACT157582A;アサンテが海岸地帯への領有権を放棄するよう要求する;;;;;;;;;;X ACT157582B;アサンテに全ての海岸を保有させる;;;;;;;;;;X EVT157583N;アサンテがイギリスの要求を拒否;;;;;;;;;;X EVT157583D;アシャンティ族の最高支配者はゴールドコーストの所有権に関する\nイギリスの要求を拒否し、軍隊が組織され紛争地帯に侵攻している。\nいかがいたしましょう?;;;;;;;;;;X EVT157584N;フォメナ条約;;;;;;;;;;X EVT157584D;アサンテに対するイギリスの軍事的勝利が疑いないうちに、閣僚の多くは\nアサンテ地域を植民地として統治するための費用を考えることをひどく\n嫌い、イギリスの監督の下、アサンテ国王の傀儡政権をつくることを求め\nた。イギリスはアサンテに保護国をつくり、紛争を終結させねばならないの\nだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157585N;アサンテがフォメナ条約を受諾;;;;;;;;;;X EVT157585D;アサンテは保護条約の提案を受け入れ、\nゴールドコースト沿岸地域へのイギリスの主権を認めた。;;;;;;;;;;X EVT157586N;クマシに遠征;;;;;;;;;;X EVT157586D;フォメナ条約はアサンテをイギリスの保護国に変え、今後20年間、アシャ\nンティ族の最高支配者はイギリスが勧告することを認めた。1890年代の\n西アフリカへのフランスの影響力の広がりは、アシャンティ族の最高支配\n者プレンペの試みと、イギリスの勧告に対する抵抗を招いた。1896年前\n半には、プレンペはイギリスの外交官を追い出して、フランスとの交渉を\n始めた。イギリスは、フォメナ条約を強制しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157586A;遠征軍をクマシに派遣する;;;;;;;;;;X ACT157586B;アサンテにさほど関心はない;;;;;;;;;;X EVT157587N;アサンテがイギリスの直接の支配下に入る;;;;;;;;;;X EVT157587D;イギリス軍はアシャンティ族の最高支配者プレンペを逮捕し、クマシにイ\nギリスの行政官を就任させた、イギリスのアサンテ支配は確立された。;;;;;;;;;;X EVT157588N;ボルグでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157588D;ニジェール南部でイギリスの支配権が確立されると、ソコトのカリフの支\n配地(ソコトの国内事情で事実上の自治管轄区域であり、無規律な\n徴税となっている)に注目が集まった。1893年、ラゴスのイギリス当局者\nは、ボルグのスルタンがフランスの保護国としての支配をボルグに確立す\nるための交渉を開始していたという報告を聞いた。イギリスは帝国のため\n、ニジェール北部国境沿いの地を守るため、代表団を派遣しなければ\nならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157588A;ボルグに使節団を派遣;;;;;;;;;;X ACT157588B;この地域にさほど関心はない;;;;;;;;;;X EVT157589N;ボルグがイギリスの直接の支配下に入る;;;;;;;;;;X EVT157589D;ボルグのスルタンはイギリスの保護提案を受け入れたが、スルタンの権力を\nイギリスの影響力が妨げることは、スルタンの権威に対する反乱を招いた。;;;;;;;;;;X EVT157590N;ヌペでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157590D;ヌペ族のスルタン(ソコト首長国のうちの1つ)は、ナイジェリアで奴隷売\n買を終えるというイギリスによる要求を一貫して拒否し、1897年前半か\nら、より多くの奴隷を求めてイギリス支配領域を襲撃し始めた。イギリス\n領への侵略行為に関してスルタンを処罰致しましょうか?;;;;;;;;;;X ACT157590A;使節団をヌペに派遣;;;;;;;;;;X EVT157591N;ヌペの支配を確立;;;;;;;;;;X EVT157591D;ソコトのカリフが臣下を支援する介入はしないと示唆した一方、\nヌペ族のスルタンは、ヌペへのイギリス支配の確立と、\nヌペの奴隷制度の終結を防ぐためのゲリラ作戦を開始した。;;;;;;;;;;X EVT157592N;ヨーラでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157592D;ヨーラ族のスルタン(ソコト首長国のうちの1つ)は、最近、イギリス商人\n(ソコトのカリフとの条約によって、ソコトでの活動を許可されていた。)の\n活動を妨げた。イギリスは、この地域のイギリス権益保護のため、介入し\nなければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157592A;使節団をヨーラに派遣;;;;;;;;;;X EVT157593N;ヨーラの支配を確立;;;;;;;;;;X EVT157593D;ソコトのカリフが臣下を支援する介入はしないと示唆した一方、ヨーラ族\nのスルタンは、ヨーラへのイギリス支配の確立を防ぐためにゲリラ作戦を\n開始した。;;;;;;;;;;X EVT157594N;バウチでのイギリスの介入;;;;;;;;;;X EVT157594D;バウチ族のスルタン(ソコト首長国のうちの1つ)は、最近、イギリス商人(\nソコトのカリフとの条約によって、ソコトでの活動を許可されていた。)の\n活動を妨げ、ヌペとヨーラの前スルタンの玉座への復位を試みるという条\n件で、イギリス領で反乱を起こした組織を支援している。イギリスは、こ\nの地域のイギリス権益保護のため、介入しなければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157594A;使節団をバウチに派遣;;;;;;;;;;X EVT157595N;バウチの支配を確立;;;;;;;;;;X EVT157595D;ソコトのカリフが臣下を支援する介入はしないと示唆した一方、バウチ\n族のスルタンはバウチへのイギリス支配の確立を防ぐためにゲリラ作戦を\n開始した。;;;;;;;;;;X EVT157596N;ソコト問題の解決;;;;;;;;;;X EVT157596D;ニジェール南部とベヌエ川におけるイギリスの支配者集団が、イギリスの\nソコトとの関係という問題に取り組んだ結果、1800年代初期に強力だ\nったソコトは1880年以後紛争によって分裂し、その不安定性は他の列\n強(例えばドイツとフランス)のこの地域への介入を招き、この地域のイ\nギリス権益を損ないかねない脅威となっていた。イギリスはナイジェリアに\nおけるイギリスの地位を守るため、ソコトのカリフに保護国化を提案しな\nければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157596A;代表団をソコトに派遣;;;;;;;;;;X ACT157596B;ソコトへの外交的影響力は充分だ;;;;;;;;;;X EVT157597N;ソコトがイギリスの保護を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157597D;ソコト政府はイギリスによる保護国化の提案を拒絶し、報告によると\nソコトとフランスの間の接触によって、この地域へのフランスの介入を招く\n恐れがあるのみならず、イギリス市民および財産に対するさらなる攻撃も\n示唆されている。;;;;;;;;;;X ACT157597A;ソコトを大英帝国に組み込まねばならない!;;;;;;;;;;X EVT157598N;ソコトがイギリスの保護を受け入れる;;;;;;;;;;X EVT157598D;ソコト政府はイギリスによる保護国化の提案を受け入れ、\nこの地域はいまやイギリスの支配下にある。;;;;;;;;;;X EVT157599N;ロジをイギリスの保護国とすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT157599D;ロジのレワニカ王は、ロジ王国がポルトガルやベルギーに侵略されること\nを恐れ、ロジをイギリスの保護国として確立するために、イギリス南アフリ\nカ会社に接触した。ロジの支配はザンベジ川上流におけるイギリス権益\nを保護し、これによってケープタウンからカイロに至る大英帝国の確固た\nる交通ルートが確保されることになる。;;;;;;;;;;X ACT157599A;イギリスがロジを保護国とする宣言を行う;;;;;;;;;;X EVT157721N;;新しいオーストラリア連邦へのシドニーの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157721D;新世紀の夜明けとともに、各植民地の市民がオーストラリア連邦の設立を祝い、\nオーストラリア全域が祝賀状態になった。;;;;;;;;;;X ACT157721;仲間を歓迎しよう!;;;;;;;;;;X EVT157722N;新しいオーストラリア連邦へのダーウィンの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157723N;新しいオーストラリア連邦へのブリスベンの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157724N;新しいオーストラリア連邦へのアデレードの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157725N;新しいオーストラリア連邦へのホーバートの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157726N;新しいオーストラリア連邦へのパースの加盟を祝おう;;;;;;;;;;X EVT157810N;イギリスはクイーンアデレード州を放棄する;;;;;;;;;;X EVT157810D;白人入植者がケープ植民地の東に移動すると、コーサ族の大集団に\n遭遇し、土地の所有権をめぐる軋轢が生まれた。クイーンアデレード州\nのコーサ族の大きな抵抗のあと、コーサ族を追い払うという白人入植者\nの要求にもかかわらず、1835年12月、イギリス当局はこの地域からの\n撤退と、この地域を白人入植区域とコーサ族との緩衝地帯とすることを\n決定した。;;;;;;;;;;X ACT157810A;領土を明け渡そう;;;;;;;;;;X ACT157810B;問題を解決するため、イギリスはこの地を保持しなければならない;;;;;;;;;;X EVT157811N;グレートトレック;;;;;;;;;;X EVT157811D;1834年、大英帝国は奴隷制度の廃止を決定した。奴隷支配に拠っ\nた暮らしを失ったボーア人(南アフリカにおけるオランダ系移民の子孫)は\nこれに反発し、その大多数がイギリスの統治を離れるため1836年にケ\nープ植民地からオラニエ川北岸に移住。新しいボーア植民地を設立す\nることとなった。「グレートトレック」は南アフリカの歴史に、新たに劇的な\n歴史を刻むであろう。;;;;;;;;;;X ACT157811A;行きたいと言うなら行かせてやろう;;;;;;;;;;X ACT157811B;奴らの移住を阻止せよ!;;;;;;;;;;X EVT157812N;ボーア人のナタールに対するイギリスの姿勢;;;;;;;;;;X EVT157812D;1838年のボーア軍によるナタール建国は、ナタールにおけるイギリスの地\n位についての議論を呼んだ。ボーア人は形の上ではイギリス国民だが、\n彼らを継続的なズールー族の敵対行為から保護するコストは法外に高\nくつくと見られた。結局イギリスはボーア人を見捨て、もしズールー族が\n再度攻撃したなら、ナタールにおける彼ら自身の手で保護すると約束\nされただけだった。;;;;;;;;;;X ACT157812A;直接支配の負担なくボーア人を保護できよう;;;;;;;;;;X ACT157812B;ナタールを帝国に組み込まなくてはならない;;;;;;;;;;X EVT157813N;ナタールはアフリカ人全てを追放しようとしている;;;;;;;;;;X EVT157813D;アフリカ難民全てを追い出すというナタールによる提案は、土地の支配\nについてより多くの紛争を引き起こし、コーサ族の安定性と南アフリカに\nおけるイギリス領土を脅かすことになる。イギリスは、ナタールに対して止\nめるよう強制しなければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157813A;ナタールの出口を抑えるつもりだ;;;;;;;;;;X ACT157813B;ナタールの行動がどんな害になるというのだ?;;;;;;;;;;X ACT157814A;この地域を併合する;;;;;;;;;;X ACT157814B;イギリスはより火急の懸念を抱えている;;;;;;;;;;X ACT157815B;イギリスが直接支配した方が良いだろう;;;;;;;;;;X EVT157816D;1846年、コーサ族の囚人(白人移民から斧を盗んだ理由で逮捕された)\nを護送している白人移民をコーサ族の一団が殺すと、ケープ東部におけ\nるコーサ族と入植者の間の紛争は武力衝突に発展した。辺境地帯の\nコーサ族の族長は、殺人の責任者をイギリスに引き渡すことを拒否した。;;;;;;;;;;X EVT157817N;スミスの休戦;;;;;;;;;;X EVT157817D;激しい戦闘は、イギリス軍によるクイーンアデレード州の占領に至った。\nケープ総督(ハリー・スミス卿)は、クイーンアデレード州をイギリスに譲る\n換わりに、ケースカマ以東のコーサ族領土を不可分のものとして承認\nするという休戦を提案した。;;;;;;;;;;X EVT157818N;スミスの休戦が受け入れられた;;;;;;;;;;X EVT157818D;コーサが休戦の申し出を受け入れた;;;;;;;;;;X EVT157819N;オレンジ川に独立国を創設;;;;;;;;;;X EVT157819D;イギリスの官吏による直接管理がたとえ最小限だったとしても、トランス\nオレンジアのボーア人共同体の地位はイギリス国民だと見なされていた\n。コーサ族との和平を確立し、スミス総督は、南アフリカの内陸の安定\n性を確実にするために、ボーア人に対する王室の支配をより正式な地\n位とすることを提案した。;;;;;;;;;;X ACT157819A;ボーア人に対しイギリスの主権を宣言;;;;;;;;;;X EVT157820N;サンドリバー協定;;;;;;;;;;X EVT157820D;多くのボーア人が、オレンジ川独立国のイギリスの支配に憤慨していた。\nこれは、殊にヴァール川以北のボーア人の実情だった。トランスオレンジ\nアで動揺が増大しているため、イギリスはヴァール以北へのイギリスの関\n与の縮小に動いた。サンドリバー協定は、トランスヴァールの完全な独\n立を許可する。;;;;;;;;;;X ACT157820A;協定に署名し、トランスヴァールを解放する;;;;;;;;;;X ACT157820B;トランスヴァールにおけるイギリスの地位を保たねばならん;;;;;;;;;;X EVT157821N;ブルームフォンテーン協定;;;;;;;;;;X EVT157821D;イギリスの関与をヴァール川以南の地に縮小することは、ボーア人とアフリ\nカ人との間の平和維持問題の終結とはならなかった。ボーア人指導者\nとの交渉の後、ブルームフォンテーン協定が署名され、オレンジ自由州へ\nのイギリスの支配権の主張は終結した。それもまた、ヴァール以北のアフ\nリカ諸州に対するイギリスの責任を限定的なものとした。;;;;;;;;;;X ACT157821A;条約に署名し、オレンジの独立を承認する;;;;;;;;;;X ACT157821B;トランスオレンジアにおけるイギリスの地位を保たねばならん;;;;;;;;;;X EVT157822N;第一次アリワルノース条約;;;;;;;;;;X EVT157822D;オレンジのボーア人とソト族の間の戦争の勃発は、イギリスのケープ植民\n地を撹乱する影響があるとみなされた。1859年に戦争が膠着したとき、\nイギリスが紛争の終結を手配する機会が生まれた。;;;;;;;;;;X ACT157822A;紛争の調停を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157822B;奴らは最後まで戦うだろう;;;;;;;;;;X EVT157823N;オレンジがイギリスの調停の申し出を拒否;;;;;;;;;;X EVT157823D;オレンジのボーア人は、ソト族との紛争を終えることを拒否した。イギリス\nは、和解を余儀なくさせるよう介入しなければならないのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157823A;強力なボーア人国家の存在はイギリスの利益とならない;;;;;;;;;;X ACT157823B;ボーア人にモショエショエを打ち負かさせよう;;;;;;;;;;X EVT157824N;ボーア人‐ソト間で緊張が高まる;;;;;;;;;;X EVT157824D;ソト族の急速な人口増加は、彼らの土地が人口過剰になっていること\nを意味した。ソト族の王モショエショエはイギリスに対し、国境を再検査\nして現在ボーア人の支配下にある、以前のソト族の土地を返還するよ\nうに嘆願した。;;;;;;;;;;X ACT157824A;ソト‐オレンジ国境紛争の再開を拒絶;;;;;;;;;;X ACT157824B;ソト‐オレンジ国境紛争の再開に同意;;;;;;;;;;X EVT157825N;第二次アリワルノース条約;;;;;;;;;;X EVT157825D;バストランドのタブ・ボシの砦は、トランスオレンジアの支配のための戦略\n的中心とみなされている。ボーア人の支配は、イギリスの力を南アフリカ\nの内陸に及ぼすことを非常に難しくしている。ソト族は、ボーア人による\nソト族の征服を防ぐためにイギリスの援助を求めた。イギリスは介入しな\nければならないだろうか?;;;;;;;;;;X ACT157825A;ソト‐オレンジ紛争の調停を申し出る;;;;;;;;;;X ACT157825B;ボーア人にソトを壊滅させよう;;;;;;;;;;X EVT157826N;オレンジは第二次アリワルノース条約を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157826D;オレンジのボーア人は、ソト族とボーア人の紛争へのイギリスの仲裁を\n拒絶した。ソト族の国を滅ぼし、タブ・ボシを掌握する瀬戸際だ。;;;;;;;;;;X ACT157826A;軍事介入し、ボーア人の覇権を阻止する;;;;;;;;;;X EVT157827N;イギリスはバストランドの統治に責任を持つ;;;;;;;;;;X EVT157827D;第二次アリワルノース条約が当事者すべてによって受諾されるとともに、\nイギリスはソト国の残存勢力がボーア人の支配下に落ちることを阻止\nするため、ソト国の保護国化を宣言した。;;;;;;;;;;X ACT157827;バストランドはイギリスの保護国であると宣言する;;;;;;;;;;X EVT157828N;ウォーターボアはキンバリーのダイヤモンド鉱山の権利を主張;;;;;;;;;;X EVT157828D;キンバリーダイヤモンド鉱山は、グリカ族、オレンジとトランスヴァールによる\n領有主張が重なった係争地域にあった。鉱山の支配権獲得を望むケ\nープのイギリスの植民地当局は、この地へのグリカ族族長ウォーターボア\nの領有主張を支持し、ロンドンにこの試みについて支援を求めた。;;;;;;;;;;X ACT157828A;ウォーターボアの主張を支持しよう;;;;;;;;;;X ACT157828B;この地をボーア人に保有させよう;;;;;;;;;;X EVT157829N;オレンジはキンバリー鉱山についての仲裁を受け入れた;;;;;;;;;;X EVT157829D;キンバリー鉱山の所有権をめぐって南アフリカの緊張の高まると、\nナタールの総督は、係争中の所有権の仲裁をしようと提案した。\nオレンジは、この提案を受け入れた。;;;;;;;;;;X EVT157830N;オレンジはウォーターボアの主張を拒絶;;;;;;;;;;X EVT157830D;ボーア人の政府は、キンバリーダイアモンド鉱山へのウォーターボア族長\nの領有主張を完全に拒絶した。いかが致しましょう?;;;;;;;;;;X EVT157832N;バートル・フリーアと南アフリカにおけるイギリスの至上権;;;;;;;;;;X EVT157832D;1870年代中頃までには、キンバリーダイアモンド鉱山は、厳しい人手不\n足に苦しんでいた。これの多くは、トランスヴァールの政策とズールー国\nによる鉱山への労働者移入の禁止のためだった。バートル・フリーアは、\nボーア人とズールー族へのイギリスの支配を確立するため、必要に応じ\n武力を行使することだけが南アフリカのイギリスの勢力の未来を確実に\nすると論じた。;;;;;;;;;;X ACT157832A;南アフリカの為にフリーアを高等弁務官に任命する;;;;;;;;;;X ACT157832B;南アフリカの現状を維持する;;;;;;;;;;X EVT157833N;トランスヴァールに対するイギリスの支配権;;;;;;;;;;X EVT157833D;1870年代中頃には、支配権をめぐって奮闘するさまざまなボーア人組\n織、ボーア人支配に対するアフリカ人のすさまじい抵抗と経済の安定性\nの欠如により、トランスヴァールは難局から難局へと、ひどく困難な状況\nとなった。フリーアは、トランスヴァールにイギリスの大君主の地位を受け\n入れることを余儀なくさせるか、強制的にそれを確立しておくためにトラ\nンスヴァールに代表団を派遣するよう提言した。;;;;;;;;;;X ACT157833A;代表団をトランスヴァールに派遣する;;;;;;;;;;X ACT157833B;今、ボーア戦争の危険を冒すことはできない;;;;;;;;;;X EVT157834N;トランスヴァールへのイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT157834D;トランスヴァールにイギリスの至上権を受け入れさせるという\nフリーアの決定は成功した。;;;;;;;;;;X EVT157835N;コーサ内戦;;;;;;;;;;X EVT157835D;ナンカウスの間違った予言のあと、コーサ族の地はムフェング族によって\n再植民された。彼らは概して親英的だった。1877年8月に、ムフェング\n族とコーサ族の間で紛争が勃発し、ムフェング族はイギリスの保護を要\n請した。フリーアは、これを帝国がコーサ族の地を確保する好機とみた。;;;;;;;;;;X EVT157836N;ケープ東部で反乱;;;;;;;;;;X EVT157836D;イギリス軍がコーサ族の地で秩序を確立するために動いたので、グリカ族\nとポンド族の共同体は共感から反乱に立ち上がり、ケープ植民地東部\n全域が燃え立った。;;;;;;;;;;X EVT157837N;ズールーへのイギリスの最後通牒;;;;;;;;;;X EVT157837D;トランスヴァールにおけるイギリスの覇権は、ズールー族との関係悪化に\nつながった。高等弁務官フリーアは、イギリスによるズールーランド管理の\nみが、イギリスの恒久的なズールーランド支配を確実にすることができる\nと考えた。イギリスが選択するならば、ナタールのズールー族による軽微\nな国境侵犯を、ズールー族に服従を強いるために使うことができる。;;;;;;;;;;X ACT157837A;ズールーに最後通牒を送る;;;;;;;;;;X ACT157837B;ズールーと争う必要は無い;;;;;;;;;;X EVT157838N;ズールーがイギリスの最後通牒を受諾;;;;;;;;;;X EVT157838D;ズールーにイギリスの至上権を受け入れさせるという\nフリーアの決定は成功した。;;;;;;;;;;X EVT157839N;トランスヴァールが独立を要求;;;;;;;;;;X EVT157839D;1877年、トランスヴァールの多くのボーア人はイギリスの至上権確立を\n受け入れることを拒否した、そしてズールー族とコーサ族との戦争に関\n与したイギリスに対し、彼らのフラストレーションは増大した。1878年12\n月のウィンダーフォンテーンで、ボーア人出席者は、イギリスがトランスヴァ\nールの独立を完全に回復させるよう要求した。;;;;;;;;;;X EVT157840N;プレトリア協定;;;;;;;;;;X EVT157840D;トランスヴァールに対する影響力を回復しようとするイギリスの試みに対\nして、激しい抵抗を継続しているボーア人と、イギリスの多くの人々は、\nトランスヴァールを放棄するために、イギリス人を呼び出した。1881年8\n月3日、プレトリア協定に署名することで平和は回復され、トランスヴァ\nールの主権をイギリスが承認するとともに戦争は終結した。;;;;;;;;;;X EVT157841N;ドビーのタチ金鉱地採掘権;;;;;;;;;;X EVT157841D;1870年代のほとんどの間、ショナ王国のタチ採金地は、わずかに開発\nされただけだった。1880年、イギリスの複合企業は利益分配合意と\n引き換えに採金地の開発を提案した。;;;;;;;;;;X ACT157841A;ショナに取引を提案する;;;;;;;;;;X EVT157842N;エドワードのタチ金鉱地採掘権;;;;;;;;;;X EVT157842D;1880年代の間、イギリスの技師はショナ王国のタチ採金地を開発した\n。ウィットウォータースランド金礁の発見により、タチ領域は大規模な投\n資をしなければ採算が悪化する危険が迫り、鉱山の投資家のより大き\nな保護が必要となった。イギリス南アフリカ会社は、土地代金に加え採\n掘される金からの毎年の配当金と引き換えにタチ地域をロベングラから\n購入しようと申し出た。;;;;;;;;;;X EVT157843N;ラッドのマショナランド採掘権;;;;;;;;;;X EVT157843D;イギリス南アフリカ会社は、ショナ王ロベングラの信頼を得て、所有権を\n持つショナからマショナランド(古来のジンバブエ王国の金産地)開発の\nための鉱物採掘権を獲得した。;;;;;;;;;;X EVT157844N;王立イギリス南アフリカ会社を宣言;;;;;;;;;;X EVT157844D;ラッドの採掘権は、マショナランドでイギリス南アフリカ会社ができることに\nついて非常に幅広く記載された。これには、会社の取締役セシル・ロー\nズが、イギリス王室の名において新しい領域を管理するための勅許が故\n意に適用され、ロベングラをイギリスの操り人形にした。;;;;;;;;;;X ACT157844A;ローズに王室の特許状を与えよう;;;;;;;;;;X ACT157844B;これは契約書と協定の精神を越えている;;;;;;;;;;X EVT157845D;1872年のムパンデの死により、シャシワユが王座に就いた。ズールー族\nへのイギリスの影響力を保つためにシャシワユがうってつけだと信じ、テオ\nフィルス・シェプストンは1860年代の王位継承争いで、シャシワユを支援\nした。1873年、シャシワユはシェプストンに即位式の司会をつとめるよう\n求め、イギリスに対するシャシワユの忠誠を示した。;;;;;;;;;;X ACT157845;これはイギリスに対するズールーの好意を保つだろう;;;;;;;;;;X EVT157846N;マショナランドの反乱;;;;;;;;;;X EVT157846D;1893年7月のロベングラの宣戦布告は\nマショナランドのイギリス人に対して全面的な暴動を惹き起こした。;;;;;;;;;;X EVT157847N;イギリス人がナタールへ移住;;;;;;;;;;X EVT157847D;ナタール併合後、多くのボーア人は、イギリスの支配下に留まるよりオレ\nンジ地域へ立ち去ることを好んだ。1849年、入植者集団はジョセフ・バ\nーンに導かれ、この地域の経済を発展させるため、ナタールへのイギリス\n移民を促す運動を開始した。これはささやかな成功に終わったが、この\n地域のイギリスの支配を固めるのに役立った。;;;;;;;;;;X EVT157848N;ナタール人夫法:南アフリカのインド人労働者;;;;;;;;;;X EVT157848D;ナタールへの商業的な農業(サトウキビに基づく)の導入は、ヨーロッパ\n人所有地での生産のためにアフリカ人労働者を利用することが困難で\nあるために制限されていた。1859年、ナタール政府は労働危機に直\n面し、人手不足に対処するため、ナタールに年季奉公のインド人労働\n者を投入するナタール人夫法について討議した。その結果、南アフリカ\nのモザイク社会に新しい共同体が取り入れられた。;;;;;;;;;;X
テキスト整形のルールを表示する