VIP-162K FRANCE
の編集
Top
/
VIP-162K FRANCE
[
トップ
] [
編集
|
差分
|
バックアップ
|
添付
|
リロード
] [
新規
|
一覧
|
検索
|
最終更新
|
ヘルプ
]
-- 雛形とするページ --
(no template pages)
ハードコード八割。未使用のイベントは別に添付。読み込みの負荷を考えるevent_text.csvには含めない方向で。 EVT162000N、ペイストリー(菓子)戦争に対する記述を詳細に。突然起きると意味がわからんかったため。3/31 一月蜂起イベント微修正 ####### 162K FRANCE #######;;;;;;;;;;;X,,,, EVT162001N;六月革命;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162001_DESC;ルイ・フィリップ退位においてパリの労働者層は重要な役割を演じた。ゆ\nえに、新政府による経済的、社会的な改革が失敗に終わると彼らは\n大いに幻滅した。つけくわえて、経済の不調により多くの労働者が職を\n失い、窮乏においこまれた。政府は雇用問題を軽減するため、国立作\n業所などの仕組みを提案したが、政府は充分な援助を与えることはで\nきなかった。多少の雇用は獲得できたもの効果はすぐになくなり、パリの\n労働者たちは蜂起をはじめた。;;;;;;;;;;X ACT162001A;反逆者を撃退する!;;;;;;;;;;X ACT162001B;社会主義的な新フランスを目ざそう!;;;;;;;;;;X ACT162001C;ルイ・フイリップを復位させる絶好の機会ではないか!;;;;;;;;;;X ACT162001D;ブルボン家が復権するための絶好の機会ではないか!;;;;;;;;;;X EVT162002N;フランスにおける防諜;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162002_DESC;フランス政府が防諜の罪に問われていたわれわれのスパイを放免した。\nスパイは任務を継続することができる。;;;;;;;;;;x,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ACT162002A;すばらしい!;;;;;;;;;;X EVT162003N;フランスにおける防諜;;;;;;;;;;X ACT162003A;すばらしい!;;;;;;;;;;X EVT162004N;ラマルティーヌの改革;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162004_DESC;ラマルティーヌの業績は、国立作業所の設立、奴隷制および死刑の廃\n止などである。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ACT162004A;革命政府バンザイ!;;;;;;;;;;X EVT162005N;国立作業所は共和政に対する危機か?;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162005_DESC;第二共和政は、雇用問題に関して社会主義者の主張をうけいれ、か\nつ市民の要望を満たすために特徴ある試みを行った。労働大臣マリー\nの発案による国立作業所の設立である。雇用に対して慈善的にでなく\n社会的な意図をもって干渉する試みであり、 かつ一般経済の利益に\n貢献する形もとっていた。かくて、国立作業所システムは1848年2月26\n日に開始。ラマルティーヌと財務大臣のデフォールは企業からの援助を\nあてに鉄道の建設を再開することができると考えていた。国家による一\n時的な財政援助をもとに、不定期な一連の作業により開通したパリ=リ\nヨン線のようなケースを考えていたのだ。労働条件の改善とワークシェア\nリングの確立を目的として法は施行され、1848年3月2日、一日あたり\nの労働時間はパリにおいて11時間から10時間まで削減、地方におい\nても12時間から11時間と定められることとなった。先進的なグループは1\n930年代でいうところの「巨視的な視点からの危惧」をあげ、また即興\n的な妥協案ではあったもの、この先進的な考えは同時に実際的なもの\nではあった。だが下院において鉄道、道路建設における雇用を大幅に\n増大することとなる建設計画の不定期化は否決され、給与額の総量\nは限定されたままとなった。事実として、これは寛大さの精神と社会と\n折り合う精神を合わせた考えである。政治と社会における緊張により、\n最初のフラタニティ(友愛団体)としての存在は軽視され、国民の悪意を\n和らげることが優先されていた。国立作業所のポリシーがどうあるべきか\nはこの件において最大の論点であった。これは金の無駄遣いか、それと\nも単なる口実であろうか?疑問の残るプロジェクトに対し数万の大都\n市の失業者をあてるべきだろうか?パリの国立作業所による雇用者は1\n848年3月には6,000人、月末には25,000人、五月には90,000人、七\n月末には117,000人にまで膨らんだ。;;;;;;;;;;X,,,,,, ACT162005A;うむ、廃止しよう!;;;;;;;;;;X ACT162005B;このままで行こう;;;;;;;;;;X EVT162006N;政教分離;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162006_DESC;第三共和政の期間、共和主義者たちはカトリック教会の権力を公的\nに抑制することにつとめた。教会は王権派に連なるものと見なされてお\nり、束縛されるべき共和主義者のもう一個の敵であった。いずれ分裂す\nることとはなるものの、共和主義者たちはそれを望んではいなかった。彼\nらは1801年ナポオレン一世により結ばれたコンコルダート(政教条約)を\n志向していた。カトリック教が信仰を集める代償として政府による支配\nを教会が受ける型式である。しかしバチカンは、このとき政教分離による\n宗教の俗化に悩まされており、またイタリアによるローマ教皇国の併合\nに対する保護をフランスに拒否された経緯から、フランス国内の教会に\n対する権威を再度宣言した。共和主義者は教皇のこの行動に対して\n憤り、フランス政府による政教分離を宣言、1905年法令を公布した。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,, ACT162006A;分離を!;;;;;;;;;;X ACT162006B;このままで行こう;;;;;;;;;;X EVT162008N;ブーランジェ危機;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162008_DESC;1886年さきの将軍ジョルジュ・アーネスト・ブーランジェが陸軍大臣に就\n任、しばらくして友人や賛美者とともに極度に国粋的集団を築いた。そ\nの動向から過激な集団とみなされ1887年彼はポストを追われた。権\n力は失われたものの彼には影響力が残された。王家による独裁に対す\nる志向はなかったが、彼は王権派の支援をとりつけはじめた。1888年\n陸軍を除隊されると選挙事務所を構え、1889年代議士として当選。\n政府は革命を恐れ反逆罪の名目で逮捕状を発行した。ブーランジェは\nベルギーに亡命さらに地方へと逃れたが、1891年自殺した。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,, ACT162008A;ブーランジェを捕縛せよ!;;;;;;;;;;X ACT162008B;ブーランジェを支援せよ!;;;;;;;;;;X ACT162008C;ブーランジェとその後援者を捕縛せよ!;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162013_NAME;ポーランドの一月蜂起;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, VIP_EVENT_162013_DESC;保守派とロシアの暴虐による専制政治に対し、1863年1月22日蜂起\nが発生した。ポーランド各地の都市で過激派のポーランド人が武器を\n取りロシア人守備隊と交戦した。彼らは数は多かったものの装備は貧\n弱であり、戦略的重要な都市を獲得することもできなかった。守備隊の\nうちいくらかを武装解除においこんだものの、反乱軍は一万人程\n度\nであり、ロシア人守備隊は10万人におよんだ。しかしながら「赤軍」によ\nりポーランド地下政府が組織されることにより事態は最悪の方向へ向\nかう。彼らは過激な社会経済改革を叫び、農奴解放と万人の政治的\n平等を宣言した。これに「白軍」王権派が合流、ポーランドにおける\n \nゲリラ戦が開始した。その後すぐ、ヨーロッパ各地で団結のデモ集会が行\nわれるようになり、最大のものはロンドンとパリにおいて開催された。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ACTIONNAME162013A;経緯を見守ることとしよう;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162018D;バルカン諸国に対しフランスの直接的な興味が限定的なものであったこ\nとで、ヨーロッパ諸国の勢力バランスは維持されていた。ロシアのバルカン\n半島における優勢はこの均衡を打ち破った。われれはイギリスとともにロ\nシアに対しバルカン半島における和平を強要すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162019D;バルカン諸国に対しフランスの直接的な興味が限定的なものであったこ\nとで、ヨーロッパ諸国の勢力バランスは維持されていた。ロシアのバルカン\n半島における優勢はこの均衡を打ち破った。われれはオーストリアととも\nにロシアに対しバルカン半島における和平を強要すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162020D;バルカン諸国に対しフランスの直接的な興味が限定的なものであったこ\nとで、ヨーロッパ諸国の勢力バランスは維持されていた。ロシアのバルカン\n半島における優勢はこの均衡を打ち破った。われれはイギリスや干渉を\n拒否するオーストリアとともにロシアに対しバルカン半島における和平を\n強要すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162021D;サンステファノ条約によるロシア人による「大ブルガリア」の建国はフランス\nのバルカン半島における権益に対しての脅威であり、ヨーロッパ列強の\n勢力バランスを崩すものであった。イギリスとオーストリアはすでにロシアの\n行動に対して反旗を翻している。彼らに加わりロシアに対し、ブルガリア\n国境の国際裁判における仲裁を要求すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162023D;バルカン問題に対する、ベルリンの国際会議は望みどおりに進んだ。ロ\nシアはブルガリアに対する支配を弱めることを認め、オスマントルコのマケ\nドニアに対する支配は保持された。オーストリアにはボスニアの統治が認\nめられバルカン半島におけるロシアの影響は調整された。チュニジアにお\nける権益を我が国に認めるかわりに、イギリスはキプロスに対する支配権\nを得た。上々の結末である。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162281D;レバノンに諸国が寄せる権益確保の動きは苦い宗教的対立を生みだ\nし社会政治的な闘争へと発展した。ギリシア正教とギリシアカトリックの\n対立を再現するかのように、絶頂期の1860年にはキリスト教マロン派の\n約一万人の人々がイスラム教ドルージ派に虐殺された。マロン派は長\nい間フランスの支援を受けていたが、今回もレバノンに対する直接的な\n介入を行い闘争の鎮圧を要求する声があがった。オスマントルコは、フラ\nンスの介入を最小限にするべくレバノン山脈を保護国化することを認め\nた。;;;;;;;;;;X EVT162500D;ロシアはベルリン会議における決定の受諾を拒否、バルカンにおける権\n益の改定を目論んでいる。イギリスはロシアを屈服させるべくフランスに対\nして同盟をよびかけている。もしこの試みが敗れればバルカン半島にお\nけるロシアの支配権は恒久的なものとなるだろう。戦争に参加すべきだ\nろうか?;;;;;;;;;;X,, EVT162501D;ロシアはベルリン会議における決定の受諾を拒否、バルカンにおける権\n益の改定を目論んでいる。オーストリアはロシアを屈服させるべくフランス\nに対して同盟をよびかけている。もしこの試みが敗れればバルカン半島\nにおけるロシアの支配権は恒久的なものとなるだろう。戦争に参加すべ\nきだろうか?;;;;;;;;;;X,, EVT162502D;ロシアはベルリン会議における決定の受諾を拒否、バルカンにおける権\n益の改定を目論んでいる。イギリスもオーストリアもロシアの暴虐にたいし\n行動を起こす気はないようだ。もし行動をおこさなければ、バルカン半島\nにおけるロシアの支配権は恒久的なものとなるだろう。われわれはどうす\nべきだろうか?;;;;;;;;;;X,, EVT162600N;ニュージーランドにおけるフランスの権益;;;;;;;;;;X,,, EVT162600D;19世紀初頭、フランス人交易商はニュージーランドのマオリ族と交易を\n開始した。国民のうちいくらかはこの島々を南太平洋においてフランスが\n影響力を広げるべき新しい地域と考えていた。イギリスはすでに小さい\nが直接的な権益をこの島々に獲得している。この島々に対するフランス\nの支配権を明らかにしておくべきだろうか?;;;;;;;;;;X,, ACT162600A;これらの島々に戦略的意味はない;;;;;;;;;;X,,, ACT162600B;フランスの影響力を広げる機会を見逃す必要はないな;;;;;;;;;;X,,, EVT162601N;ニュージーランドにおけるフランス人植民地;;;;;;;;;;X,,, EVT162601D;1830年代のニュージーランドにおいてその支配に関心をよせた列強はイ\nギリスだけではなかった。フランス人交易商はこの島々を潜在的な市場\nと見なし、多くの人々は列強におけるフランスの地位復権のため獲得す\nべき潜在的な目標と考えていた。1839年ニュージーランドに対しフラン\nス人入植を認めるよう交渉したことからみても、この島々に対しフランス\nが権益を求めたのは明らかである。;;;;;;;;;;X,, ACT162601A;ニュージーランドのフランス人植民地建設を支援;;;;;;;;;;X,,, ACT162601B;限りある資源は他の場所で影響力を増すことに利用しよう;;;;;;;;;;X,,, EVT162602N;イギリスがニュージーランドにおける主権を宣言した;;;;;;;;;;X,,, EVT162602D;フランス人がニュージーランドにおける権益に興味を増したことにもかかわ\nらず、いやおそらく興味を増したことにより、イギリスはこの島々における\n主権獲得を主張した。フランスはどのように対応すべきだろうか。;;;;;;;;;;X ACT162602A;ニュージーランドにおけるイギリスの支配的地位を認めよう;;;;;;;;;;X,,, ACT162602B;ニュージーランドはフランスの領域であり、我らはその地位を守る;;;;;;;;;;X,,, EVT162603N;イギリス、ニュージーランドから撤退;;;;;;;;;;X,,, EVT162603D;イギリスがニュージーランドにおける権益を求めないことを宣言、フランス\nはこの島々における地位を高める機会を得た。どのように行動すべきだ\nろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,, ACT162603A;この島々を保護国としよう;;;;;;;;;;X,,,,,,, ACT162603B;この島々を直接の植民地としよう;;;;;;;;;;X,,,,,,, ACT162603C;この群島はこのままにしておこう;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT162621N;クローゼルのトレムセン侵略;;;;;;;;;;X EVT162621D;アブドゥルカーディルに率いられた不満分子が、盟約にもとづきトレムセ\nンを根城として、オラン周辺のフランス領を襲撃している。これらの扇動\n者を根絶するために市街地へフランス軍を派遣すべきだとクローゼル提\n督は要求してきた。これによりアブドゥルカーディルと戦争になる可能性\nはあるが、何もしなければアラブ系住民に対し、フランスはアルジェリアに\n統治を敷くつもりが無いというシグナルを送ることになる。;;;;;;;;;;X EVT162622N;クローゼルのコンスタンティーヌ遠征;;;;;;;;;;X EVT162622D;トレムセンを占領したことで仏領アルジェリアの西部には安定がもたらさ\nれた。そこでクローゼル提督は、いまだオスマンの太守であるアフマド・ベ\nイの支配下にあって、フランスの覇権を認めようとしないコンスタンティーヌ\nに対しても、同様の占領計画をすべきだと訴えた。しかし提督の高圧\n的な手法やトレムセンでの弾圧により、世論は彼に否定的な見方をす\nるようになった。コンスタンティーヌ制圧に向けた彼の計画を支援すべき\nだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162622A;クローゼルの計画を却下する;;;;;;;;;;X ACT162622B;クローゼルの計画を支援する;;;;;;;;;;X EVT162623N;クローゼルのコンスタンティーヌ攻撃が失敗;;;;;;;;;;X EVT162623D;クローゼル提督は1836年11月、政府から行わないよう明言されたのを\n無視して、コンスタンティーヌ攻撃を実行した。山岳部では予期せぬ暴\n風雪に阻まれ、クローゼルの軍隊は戦闘する前に著しく弱体化し、わず\nかな時間に包囲攻撃を加えただけで多くの死者を伴ってアルジェに撤\n退することになった。これはアルジェリアにおいてフランス軍が敗れた主な\n戦闘であり、これをうけて先住民の間に動揺が広がった。;;;;;;;;;;X EVT162624N;クローゼルの命令違反が戦争の引き金に;;;;;;;;;;X EVT162624D;クローゼル提督は政府から行わないよう明言されていたにもかかわらず、\nコンスタンティーヌ攻撃を実行した。アブドゥルカーディルはこれをデミッシェ\nル条約の破棄だととらえ、アルジェリアでの戦闘再開を宣言した。;;;;;;;;;;X ACT162624;クローゼルは何てことをしてくれたんだ!;;;;;;;;;;X EVT162625N;タフナ協定;;;;;;;;;;X EVT162625D;クローゼルが独断で行ったコンスタンティーヌ侵略に端を発するアルジェリ\nア東部の動乱を受けて、ダムルモン総督はビュジョー将軍に対し、フラン\nスとアブドゥルカーディルの関係に一定の形を与える条約を提案する権\n限を与えた。これにより沿岸部におけるフランスの主権が承認され、そ\nれと引き換えにトレムセンから撤退、そしてアブドゥルカーディルを内陸部\n統治の代行者として承認することになる。;;;;;;;;;;X ACT162625A;アブドゥルカーディルに条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT162625B;ムスリム抵抗軍の長と話し合うことは無い;;;;;;;;;;X EVT162626N;アブドゥルカーディルがタフナ協定を受諾;;;;;;;;;;X EVT162626D;ビュジョー将軍とアブドゥルカーディルの交渉は成功した。アルジェリア西\n部では予期せぬ事態を防ぐために安定性が確保されることになり、アル\nジェリア東部でも治安維持のためにフランス軍を置くことが認められた。;;;;;;;;;;X EVT162627N;アブドゥルカーディルがタフナ協定を拒絶;;;;;;;;;;X EVT162627D;ビュジョー将軍とアブドゥルカーディルの交渉は決裂し、アミールはアルジェ\nリア全土のフランス支配からの解放を目指してジハードを宣言した。;;;;;;;;;;X EVT162628N;ビバン峠;;;;;;;;;;X EVT162628D;フランスが支配下においている都市の間を移動する際、フランス軍がアブ\nドゥルカーディルの支配している領域を通ってよいか否かという問題に関\nして、タフナ条約の文言は不明瞭なままだった。例えばアルジェ・コンスタ\nンティーヌ間を移動する時は、ビバン峠を使うことでその時間を縮められ\nる。だがビバン峠の通行許可をめぐる交渉は失敗し、ヴァレー総督もこ\nれを受けてその条項を認証した。しかし1839年の10月、フランス国王\nの息子であるオルレアン公に率いられた一隊が、お構い無しに峠を越え\nてしまったのだ。;;;;;;;;;;X ACT162628A;軍隊にビバン峠の使用を認める;;;;;;;;;;X ACT162628B;アブドゥルカーディルのビバン峠支配を尊重する;;;;;;;;;;X EVT162629N;アブドゥルカーディルがジハードを宣言;;;;;;;;;;X EVT162629D;フランス軍がビバン峠を通行してしまったのを知り、アブドゥルカーディルは\nタフナ協定の破棄とジハードを宣言した。こうしてアルジェ周辺の平原に\nおいてムスリムの一大蜂起が発生したのである。;;;;;;;;;;X ACT162629;アルジェリアのフランス支配へのムスリム反乱を粉砕しよう!;;;;;;;;;;X EVT162630N;ビュジョーがアルジェリア総督に任命される;;;;;;;;;;X EVT162630D;アブドゥルカーディルの対仏抵抗運動も長年にわたって繰り広げられ、\n都市を離れるとムスリムの非正規兵からかく乱を受けるという事態が続\nいた。そのためビュジョー将軍は1840年12月、総督に任命された。彼\nはムスリムの抵抗を根絶するため、その後背を焦土作戦によって壊滅さ\nせるよう軍を動かした。地方では大規模な破壊が行われたが、これによ\nりムスリムの抵抗も弱体化していったのである。;;;;;;;;;;X ACT162630;必要に応じあらゆる手段で反乱を鎮圧しよう;;;;;;;;;;X EVT162631N;アブドゥルカーディルがモロッコに逃亡;;;;;;;;;;X EVT162631D;アブドゥルカーディルはモロッコに逃亡し、現地のモロッコ人有力者から庇\n護を受けている。ビュジョーの主張に従い、モロッコ国境を越えてアブドゥ\nルカーディルを追跡すべきだろうか?それとも、モロッコとの国境線を尊重\nすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162631A;モロッコを攻めアブドゥルカーディルを捕縛しよう;;;;;;;;;;X ACT162631B;モロッコの領土主権は尊重せねば;;;;;;;;;;X EVT162632D;ビュジョーの軍隊はイスリーでモロッコ人の抵抗部隊を粉砕した。そして\n現在はアブドゥルカーディルの追跡を続けている。しかしイギリスから横槍\nが入り、紛争解決に向けて協議すること、モロッコの領土保全を尊重す\nる協定を結ぶことを求めてきた。モロッコにおける進軍を続けるべきだろう\nか?;;;;;;;;;;X ACT162632A;モロッコと和解に向け協議するよう認める;;;;;;;;;;X ACT162632B;イギリスにはお構い無しにモロッコで進軍する;;;;;;;;;;X EVT162633N;タンジール条約;;;;;;;;;;X EVT162633D;イスリーの戦いを受けてフランスとモロッコによる協議が、タンジールにおい\nてイギリスの仲介で行われ、タンジール条約が結ばれた。これによりフラ\nンスはモロッコ領内から撤兵し、モロッコの領土保全を承認すること、その\n一方でモロッコはアブドゥルカーディルへの支援を打ち切り、自国経済を\nヨーロッパの交易圏に開放することが決められた。;;;;;;;;;;X EVT162634N;ブー・マアザの反乱;;;;;;;;;;X EVT162634D;1844年にモロッコでアブドゥルカーディルを捕らえられなかったことで、アル\nジェリアのムスリム住民の間にフランス支配に抵抗する気風が広がってい\nった。1846年には増税を理由に、ベルベル人の指導者であるブー・マア\nザが自身の共同体を率いて、フランスに叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X EVT162635N;アブドゥルカーディルのアルジェリア帰還;;;;;;;;;;X EVT162635D;タンジール条約の後もアブドゥルカーディルはモロッコ北部に潜伏し、モロ\nッコ政府も彼を捕縛することができなかった。しかし1846年の初頭、タフ\nナ峡谷で新たな反乱軍を組織するため、アブドゥルカーディルはアルジェ\nリアに忍び込んだ。そして同年5月、反乱軍が蜂起し、瞬く間に仏領ア\nルジェリア全土へと広がっていった。;;;;;;;;;;X EVT162636N;アブドゥルカーディルの降伏;;;;;;;;;;X EVT162636D;反フランス活動を続けていくうえでの拠点とすべく、モロッコのリーフ地方\nで新国家建設にむけて現地部族の反乱を率いたアブドゥルカーディル\nだったが、そのせいでモロッコのスルタンに拘束されてしまう可能性が高ま\nってしまった。そのためアブドゥルカーディルは自身の目標が達成できない\nことを悟り、1847年の12月、彼はエジプトへの護送を条件にフランスへ\n投降した。こうしてフランスはアミールを1852年まで投獄し、そして釈放\n時にはオスマン帝国への国外追放を認めることになる。;;;;;;;;;;X ACT162636;アルジェリアでのフランス支配が確定した;;;;;;;;;;X EVT162637N;アブドゥルカーディルがゲリラ戦術を始める;;;;;;;;;;X EVT162637D;アブドゥルカーディルの国家は1840年末時点で、フランスの手により壊\n滅させられていたが、アミールはアルジェリア奥地の山岳地帯で抵抗を\n続けた。彼はフランス軍に散発的な攻撃を仕掛け、またフランスに協力\nした集落を攻撃していくうち、フランスはアルジェリアにおいてゲリラ戦争に\n陥っていくことになったのである。;;;;;;;;;;X EVT162638D;アブドゥルカーディルは1842年も引き続きフランス軍から巧みに逃げ回り、\nアルジェリア全土の遊牧部族らの抵抗運動を後押しして回った。;;;;;;;;;;X EVT162639D;アブドゥルカーディルは1843年も引き続きフランス軍から巧みに逃げ回り、\nアルジェリア全土の遊牧部族らの抵抗運動を後押しして回った。;;;;;;;;;;X EVT162640N;アラブ局の再編;;;;;;;;;;X EVT162640D;アラブ局は1830年代に設立された機関だが、その本来の業務はフラン\nス人指揮官の通訳支援にあった。これをビュジョー総督は1844年に、\nアルジェリアでムスリムを支配するための行政組織へと再編した。アラブ\n局のムスリムに対する扱いは家父長的なものとなる傾向が強かったが、\nフランスの入植者からムスリムの土地を守るためには安定が第一だと、ア\nラブ局自身は信じていたのだ。そのためにアラブ局は、アルジェリアに増え\n行く入植者集団から憎まれることになっていった。;;;;;;;;;;X ACT162640;宣撫工作と秩序維持の両立は難しい;;;;;;;;;;X EVT162641N;アルジェリアへの民政の導入;;;;;;;;;;X EVT162641D;1830年にフランス支配が始まって以降、アルジェリアは軍の司令官によ\nって、軍法にもとづいた領域統治が行われていた。この「サーベル制」に\nおいて入植地獲得の個々人の自由と権利は制限を受けたため、日々\n増加するフランス人入植者からは疎まれるようになっていった。そこで18\n45年4月にアルジェリアの統治制度が再編され、ヨーロッパ人の入植地\nは別のものとして、そこでは民政が敷かれることになった。しかし大多数\nを占めるムスリムの領域では、引き続き軍政が残ることにもなった。;;;;;;;;;;X ACT162641A;フランス市民は民主的統制の下におかれるべきだ;;;;;;;;;;X ACT162641B;アルジェリア情勢は軍による秩序維持を必要としている;;;;;;;;;;X EVT162642D;先代のベイであるフサインが1835年に死去したことを受けて、その息子\nであるムスタファ・ベイが新たにチュニジアの太守位を承継することになっ\nた。しかしこれにはオスマン政府の承認が必要である。オスマン帝国は年\n次の貢納を求めてきたが、それはベイが単なるオスマンの知事に過ぎず、\n独立国の支配者ではないとの見方を暗に含むものだった。こうした侮辱\nをやめさせようと、ムスタファは我々に助けを求めてきた。オスマン帝国の\n支配が強まれば、アルジェリアでのフランス支配の確立に悪影響が出\nるだろう。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162642A;オスマンの要求に対するチュニジアの抵抗を支援する;;;;;;;;;;X ACT162642B;チュニジアをその運命に委ねる;;;;;;;;;;X EVT162643N;オスマン帝国のチュニジア侵略;;;;;;;;;;X EVT162643D;我々はオスマン帝国に対し、チュニジアに介入しないよう警告してきた。\nしかし彼らはチュニスのムスタファ・ベイに支配権を行使しようと動き出し\nた。この問題に対するイギリスの立場は不透明だ。しかし我々がチュニ\nジアに介入することで、イギリスがオスマン帝国の側に立って支援する可\n能性がある。どうしようか?;;;;;;;;;;X ACT162643A;チュニジアでの権益保全のため介入する;;;;;;;;;;X ACT162643B;オスマン帝国のチュニジア直接統治を認めよう;;;;;;;;;;X EVT162644N;チュニジアに対するオスマン帝国の圧力;;;;;;;;;;X EVT162644D;オスマン帝国はチュニジアのアフマド・ベイに対し、オスマンの改革を施行\nせよと無理強いしている。これはアフマド・ベイが単なるオスマンの知事に\n過ぎず、独立国の支配者ではないとの見方を暗に含むものだった。こう\nした侮辱をやめさせようと、アフマドは我々に助けを求めてきた。オスマン\n帝国の支配が強まれば、アルジェリアでのフランス支配の確立に悪影響\nが出るだろう。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT162645D;我々はオスマン帝国に対し、チュニジアに介入しないよう警告してきた。\nしかし彼らはチュニスのアフマド・ベイに支配権を行使しようと動き出し\nた。この問題に対するイギリスの立場は不透明だ。しかし我々がチュニ\nジアに介入することで、イギリスがオスマン帝国の側に立って支援する\n可能性がある。どうしようか?;;;;;;;;;;X EVT162646N;サレ事件;;;;;;;;;;X EVT162646D;1851年、モロッコのサレ付近の沿岸で2隻のフランス商船が難破し、旱\n魃に苦しめられていた現地部族はこれ幸いと難破船を略奪した。商船\nの所有者はモロッコに対し、部族民の略奪によって生じた船の損害を\n補償するよう求めたが、これまでのところその要求は拒否されている。そ\nこで彼らはフランス政府に、自分たちにかわってモロッコ政府に補償を求\nめるよう依頼してきた。;;;;;;;;;;X ACT162646A;補償を求め、サレに砲艦を派遣する;;;;;;;;;;X ACT162646B;モロッコ権益にむしろ悪影響がでる;;;;;;;;;;X EVT162647D;サレで商船が難破し略奪を受けたことに関してその所有者が補償を要\n求し、フランス軍艦とモロッコの港湾守備隊の間でスタンドオフ砲撃(射\n程距離外からの砲撃)が繰り広げられたが、モロッコ政府はこれを拒絶\nし続けた。これについてイギリスは、我々が紛争をこれ以上深刻化させ\nるならモロッコ側に立って介入するとほのめかしてきた。;;;;;;;;;;X ACT162647A;モロッコでの緊張をこれ以上強めてはならない;;;;;;;;;;X ACT162647B;フランスの名誉にかけてモロッコに懲罰を与える;;;;;;;;;;X EVT162648N;モロッコがサムサール問題へのフランスの支援を要請;;;;;;;;;;X EVT162648D;サムサールとはヨーロッパ諸国の庇護下におかれたモロッコ人を指す語で\nある。当初は条約によりヨーロッパの領事が保護を与えられる現地人の\n数は2人までと定められていたが、のちにこの慣習は広汎に濫用され\nた。こうした制度濫用によりモロッコの安定性は根底から揺るいでおり、\nモロッコ政府はこの問題を解決するに当たって我々に外交的支援を\n求めてきた。モロッコを助けてやるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162648A;イギリスとスペインに協定を提案する;;;;;;;;;;X ACT162648B;我々のモロッコ権益にそんな苦労は必要ない;;;;;;;;;;X EVT162649N;イギリスがタンジールでの会議を提唱;;;;;;;;;;X EVT162649D;サムサール問題を議論できるよう、イギリス政府はタンジールで会議を開\nいてはと提案してきた。西欧列強が現地担当者に外交保護を与えて\nきたこの慣行を、モロッコ政府は廃止するよう望んでいる。この会議によ\nり我々のモロッコにおける権益は著しく弱められ、その代わりイギリスが主\n導的立場にたつのを暗黙のうちに認めることとなるだろう。;;;;;;;;;;X ACT162649A;他の列強が出席する場合に限る;;;;;;;;;;X ACT162649B;会議の提案を受け入れる;;;;;;;;;;X ACT162649C;会議の提案を拒む;;;;;;;;;;X EVT162650N;モロッコに関する国際会議?;;;;;;;;;;X EVT162650D;サムサール問題を議論できるよう、イギリス政府はタンジールで会議を開\nいてはと提案してきた。西欧列強が現地担当者に外交保護を与えて\nきたこの慣行を、モロッコ政府は廃止するよう望んでおり、目標達成のた\nめなら譲歩する用意があるとしている。これを拒否すれば、モロッコはイギ\nリスの手中に収まることになるだろう。;;;;;;;;;;X EVT162652D;モロッコ政府は借款を受けようと、フランスの銀行のいくつかに接近した。\nこれはモロッコに支配権を確立する絶好のチャンスである。チュニジアに\n対してやったように、担保の設定を通じてモロッコ経済をより深く支配で\nきるよう、銀行にお膳立てさせればよいだけの話だ。この機を逸すれば\n他国がモロッコ支配の主導権を握り、フランスの損失となるおそれがある。;;;;;;;;;;X ACT162652A;モロッコとの協定をまとめよう;;;;;;;;;;X EVT162653N;サンルネ・タイヤンディエ使節団;;;;;;;;;;X EVT162653D;モロッコは今や、フランスの銀行に対して多額の債務を抱えている。190\n5年1月になると、機は熟しておりモロッコを保護国にすべきだ、との声が\nフランス政府の中でもあがった。そうしてモロッコに対しその財政と軍事は\nフランスの支配下におかれるという条約案を携え、サンルネ・タイヤンディ\nエを筆頭とした使節団が出発した。;;;;;;;;;;X ACT162653A;彼をモロッコに送れ;;;;;;;;;;X EVT162654N;サンルネ・タイヤンディエ使節団の成功;;;;;;;;;;X EVT162654D;スルタンのアブドゥルアズィーズは、モロッコが財政、軍事面で\nフランスの監督に服することを求める条約を受諾した。\n我々のモロッコにおける地位は安泰だ。;;;;;;;;;;X EVT162655D;オスマン帝国はチュニジアのムハンマド・ベイに対し、オスマンの改革を施\n行せよと無理強いしている。これはムハンマド・ベイが単なるオスマンの知\n事に過ぎず、独立国の支配者ではないとの見方を暗に含むものだった。\nこうした侮辱をやめさせようと、ムハンマドは我々に助けを求めてきた。\nオスマン帝国の支配が強まれば、アルジェリアでのフランス支配の確立に\n悪影響が出るだろう。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT162659N;チュニジア負債危機;;;;;;;;;;X EVT162659D;1860年代のチュニジア政府にとって、フランスの銀行は唯一にして最大\nの外国資本の供給源だった。そしてフランス政府はこの借款を、チュニジ\nアにおいてフランスの影響力を拡大する手段だとみなしてきたのである。\nそして1868年の初頭、フランスの銀行とチュニジア国債の債権者にとっ\nては不幸なことだったが、チュニジア政府はこの時もはや利子の支払い\nすらできなくなってしまった。これまでの投資が水の泡となってしまう、そう\n考えた3万人のチュニジア国債保有者はフランス政府に対し、チュニジア\nが国家破産を宣言してしまう前に投資を回収できるよう、軍事介入す\nべきだと要求してきた。;;;;;;;;;;X ACT162659A;債権保全のため、チュニジアに介入しよう;;;;;;;;;;X ACT162659B;自己責任だというのに、愚かな投資家だ;;;;;;;;;;X EVT162660N;負債危機へのフランスの介入をチュニジアが拒否;;;;;;;;;;X EVT162660D;負債危機を立て直せとする我々の要求を、チュニジア政府は拒否した。\nイギリスやイタリアもチュニジアに強い利害関係をもっているため、何として\nでもチュニジアに国際的な監督を受け入れさせる必要がある。;;;;;;;;;;X ACT162660A;チュニジア負債危機にイギリスの支援を要請する;;;;;;;;;;X EVT162661N;チュニジア負債危機に対するヨーロッパの利害;;;;;;;;;;X EVT162661D;チュニジアに強い利害をもっている他のヨーロッパ諸国も、チュニジアに\n国際的な監督を受け入れさせ、債権を保証してもらうために介入\nするなら、それに参加させよと求めている。;;;;;;;;;;X ACT162661A;国際負債委員会の創設を認める;;;;;;;;;;X ACT162661B;投資家には申し訳ないが、国際問題になればフランスの権益が危ない。;;;;;;;;;;X EVT162662N;チュニジアが国際負債委員会を承認;;;;;;;;;;X EVT162662D;チュニジア政府は負債危機を受けて、チュニジア財政の建て直しに向け\nた国債負債委員会の設立を受諾した。フランス、イギリス、イタリアそし\nてチュニジアの代表からなる国際組織により、チュニジアが以前に設定\nした借款は債権者に満額返済されることが保証された。;;;;;;;;;;X EVT162663D;チュニジアの鉄道をゲルマまで延伸し、アルジェリアの鉄道網に接続する\nという事業に特許を与えるよう、フランス領事のルースタンは求めてきた\nが、チュニジア政府はこれを拒絶した。チュニジア側は安全保障上の問\n題があると述べ、また国内における西欧の利害関係を均衡させる必要\nがあるとしている。;;;;;;;;;;X ACT162663;影響力維持のため、もっと効率の良い方法を探さねば;;;;;;;;;;X EVT162664N;ベルリン会議とチュニジア問題;;;;;;;;;;X EVT162664D;フランスはベルリン会議で多くの問題を解決したいと考えていたが、その\nひとつにチュニジアでの支配的地位について、というものがあった。当時\nイギリスはキプロスを掌握しようとしていたが、これはフランスの交渉担当\n者からすれば取引材料に見えた。すなわちキプロスでのイギリス支配を\n支持する代わりに、チュニジアから手を引くよう求めたのである。この主\n張には、フランスが自国の権益保護のため必要に応じ占領行為に出\nても、イギリスが関知しないことも含まれていた。;;;;;;;;;;X ACT162664;イギリスに話を持ちかける;;;;;;;;;;X EVT162665N;フランス・チュニジア協力条約;;;;;;;;;;X EVT162665D;イギリスはチュニジアにおけるフランスの優先権を認めた。そこで駐チュニ\nス領事のルースタンは条約案を作成したが、ここでフランスはチュニジア\nでの戦略的拠点を占領でき、またチュニジアの警察組織を再編できると\nされた。これによりフランスはチュニジア支配を掌握できる地位に立った\nが、チュニジア人からの抵抗を最小限に留めるには時宜を待つべきだろ\nう。;;;;;;;;;;X ACT162665A;条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT162665B;国際情勢が味方するまで待とう;;;;;;;;;;X EVT162666N;フランス・チュニジア協力条約への国際的反対;;;;;;;;;;X EVT162666D;チュニジアの戦略拠点をフランスが占領できるとした我々の条約案をベ\nイは拒否した。そして他の列強もこの条約に反対の声をあげている。は\nたして今は退き、後に機会が巡るのを待つべきだろうか?それともチュニ\nジアでの地位保全のために、戦争のリスクを冒すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162666A;もっと良い機会を待とう;;;;;;;;;;X EVT162667D;チュニス・グレット間の鉄道を保有していたのはイギリス企業だったが、18\n80年に鉄道路線が売りに出されることになった。それにまず手を上げた\nのがイタリアのルバッティノ社で、続いてフランス企業がより好条件で交渉\nを持ちかけた。そしてそのイギリス企業は、フランス側に売却しようというこ\nとになったのだ。しかしイタリア政府の後押しを受けたルバッティノ社はイ\nギリス企業を契約違反だと訴え、最終的に競売によって鉄道権益を手\nに入れてしまった。チュニジアでの取引においてイタリア人は攻めの姿勢\nを強めており、そのためにフランスの影響力が脅かされないか見守ってい\nく必要がある。;;;;;;;;;;X EVT162668D;エンフィダはチュニジアの宰相、ハイルッディーンの所領である。1880年7\n月、彼はこの土地をフランス商業局に売却することにしたが、チュニジア\n政府は売買契約を破棄してしまった。そして1880年12月に不審なまま\n競売が行われ、エンフィダはイギリスのユダヤ人であるジョセフ・リーヴィー\nが購入することになった。フランス領事は本来の売買契約を守らせようと\nしたものの、チュニジア政府のために頓挫した。イギリスはリーヴィーの購\n入を支持すると明言している。;;;;;;;;;;X EVT162669N;フランスはチュニジアに介入すべきか?;;;;;;;;;;X EVT162669D;ここ何年も他のヨーロッパ諸国はチュニジア権益のために行動し、我々\nの影響力は大いに削がれてしまった。ベルリン会議で列強からの承認を\n取り付けたからには、チュニジアに対する支配権を確保するべく動かね\nばならない。さもなくばチュニジアという熟れた果実は他国の膝元に落ち\nてしまい、アルジェリア本土の安全保障を脅かす事態になりかねない。チ\nュニジアへの直接介入を果たすべき時が到来したのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162669A;チュニジアへの支配権を行使するときが来た;;;;;;;;;;X ACT162669B;チュニジアをめぐって他の列強と戦うリスクは負えない;;;;;;;;;;X EVT162670D;ムハンマド・アッサーディク・ベイは我々の要求を呑んだ。我々はチュニジ\nアにフランス支配を打ち建てようとしているが、何がしかの係争事項が存\n在しているとき、他のどの国もこれに介入できなくなったのだ。国際負債\n会議のためチュニジアの直接支配が望めない現在、あらゆる点でチュニ\nジアにはフランスの支配が及んでいるといえるだろう。;;;;;;;;;;X EVT162671D;ムハンマド・アッサーディク・ベイは我々の要求を受け入れたが、他の\n列強がはこれに異議を申し立てている。フランスはチュニジアに完全な\n支配を確立せねばなるまい。;;;;;;;;;;X EVT162672N;チュニジアのアリー・ベイが認証を求める;;;;;;;;;;X EVT162672D;1882年の10月にムハンマド・アッサーディク・ベイが死去した。そして次\nのベイとして弟のアリーが統治にあたることになったが、これはあくまで名\n目上の話である。公式にベイとして認められるためには、フランス政府の\n賛成が必要だったのだ。そこで叙任書を受けるため、チュニジア使節が\nパリにやってきた。;;;;;;;;;;X ACT162672;アリー・ベイをチュニジアの支配者として承認する;;;;;;;;;;X EVT162673N;マルサ協定;;;;;;;;;;X EVT162673D;チュニジアに全面的な支配を確立するにあたって、フランスは国際負債\n委員会という最後の壁を乗り越えねばならなかった。チュニジアの債務\n返済を確実に履行させるため、この委員会は、ヨーロッパ諸国から出し\nた顧問に国政運営への発言権を認めていたためである。そこで1883\n年、フランスの駐チュニス公使であるポール・コンボンは他国の領事と交\n渉し、チュニジアが抱える1億2500万フランの負債をフランスが直接引き\n受けることを条件に、国際負債委員会を解散させることに成功した。;;;;;;;;;;X ACT162673A;協定を受諾し、チュニジアを全面的に支配しよう;;;;;;;;;;X ACT162673B;チュニジアでは現状維持だ。これが目的に適っている;;;;;;;;;;X EVT162674N;チュニジア南部の部族反乱;;;;;;;;;;X EVT162674D;1881年現在、チュニジア北部ではフランス侵略に対して敵意があらわに\nされることは少ない。しかしその頃、諸部族が支配する南部地域では、\nフランス軍がトリポリタニア国境の保全のため送られたことに不満が広\nがり、部族首長らによる反乱が発生してしまった。;;;;;;;;;;X EVT162675N;モロッコで新たな国際会議?;;;;;;;;;;X EVT162675D;モロッコの地位および列強の当地における役割について、国際会議を\n招集するようドイツが求めている。これを拒絶すれば、ヨーロッパに戦争\nの火種が生まれることになるだろう。しかし求めに応じて会議を開けば、\nモロッコでのフランス権益が害されることにもなり得る。;;;;;;;;;;X EVT162677N;モーシャン事件;;;;;;;;;;X EVT162677D;アルヘシラス会議の後、モロッコでの社会経済情勢はさらに緊迫し、ヨ\nーロッパ人への暴力沙汰もより酷いものとなっていった。そして1907年の\n3月、フランス人医師のエミール・モーシャンがマラケシュで反欧暴徒に殺\nされた。これに対し殺害犯に懲罰を加え、またアルジェリア西部国境を\n保全するためだとして、アルジェリアの陸軍指揮官はウジダ制圧の許可\nを求めてきた。だがこれによりモロッコ情勢はさらに悪化するだろう。;;;;;;;;;;X ACT162677A;ウジダに軍を送れ;;;;;;;;;;X ACT162677B;これ以上モロッコを不安定にはできない;;;;;;;;;;X EVT162678N;カサブランカ暴動;;;;;;;;;;X EVT162678D;ヨーロッパ勢力から見たモロッコでの治安情勢は、1907年に著しく悪化\nした。同年6月にはカサブランカでムスリムが蜂起し、ヨーロッパ人の資産\nの多くが破壊された。カサブランカ港の改善工事に従事していた技師\nが作業場に選んだのが、かつてムスリムの墓地だった場所だからだ。軍\n部はこの問題について、カサブランカ港を制圧しなければモロッコでのフラ\nンスの威信は地に落ちると信じ込んでいる。;;;;;;;;;;X ACT162678A;カサブランカ確保のためこれを制圧せよ;;;;;;;;;;X EVT162679N;モロッコの負債に関するパリ合意;;;;;;;;;;X EVT162679D;1910年2月、モロッコ政府はフランスに接近し、1904年に締結された\n借款について債務履行の見込みが無いため再交渉させてほしいと言っ\nてきた。商業界や軍部の面々の多くは、同意する代わりにモロッコの財\n政と軍事を掌握せよとフランス政府に訴えている。フランスがモロッコに\n地歩を得るときがついにやってきたのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162679A;モロッコに提案しろ;;;;;;;;;;X ACT162679B;他の列強とモロッコ問題で疎遠になる訳にはいかない;;;;;;;;;;X EVT162680N;モロッコがパリ協定を受諾;;;;;;;;;;X EVT162680D;モロッコのスルタンがパリ協定を受諾した。この協定によってモロッコに\nおける我々の支配は保護され、また同地に全面的なフランス統治を\nもたらす礎となるだろう。;;;;;;;;;;X EVT162681N;モロッコのさらなる無秩序化;;;;;;;;;;X EVT162681D;1911年に交わされたアルムクリ協定により、ヨーロッパ系住民の安全確\n保と秩序維持のためフランスはモロッコに介入できることとなった。そして\n現在、ムーラーイ・ザインの反乱でフェズに住むフランス人の安全が脅か\nされている。反乱鎮圧のために軍を進駐させろと、モロッコ政府に要求\nすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162681A;モロッコに要求しろ;;;;;;;;;;X ACT162681B;これに割けるだけの軍が無い;;;;;;;;;;X EVT162682D;ドイツとの間で起こったモロッコ事件に対し、イギリスは仲介に向けた動\nきを続けてきた。その中でフランスのモロッコ支配を受け入れる条件とし\nて、ドイツはコンゴ川一帯の回廊地帯を割譲するよう求めてきたので\nある。交渉案を受け入れるべきか、戦争の脅威にさらされるか、どう\nすべきだろう?;;;;;;;;;;X ACT162682A;ドイツの要求を容れる;;;;;;;;;;X ACT162682B;脅しによる交渉など認められない;;;;;;;;;;X EVT162685N;フェズ条約;;;;;;;;;;X EVT162685D;モロッコにおける我々の地位について、ドイツの他に異議を申し立てる\n列強はなかった。そこで外相はモロッコをフランスの保護国とする条約案\nを準備している。影響下におく地域をめぐってスペインとの協議は続けら\nれているが、モロッコの大部分はフランスの支配下におかれることだろう。;;;;;;;;;;X ACT162685;スルタンに条約を提起せよ;;;;;;;;;;X EVT162687N;モロッコのフェズ条約受諾;;;;;;;;;;X EVT162687D;スルタンは保護条約に調印した。我々は今やモロッコに対し、\n法的にも支配を及ぼすことになったのだ。;;;;;;;;;;X EVT162688N;モロッコ問題に関するマドリード条約;;;;;;;;;;X EVT162688D;かつてモロッコ問題でフランスとスペインは協議を開き、モロッコをどのよう\nに両国間で分割するかという点について合意に至った。そしてモロッコが\n我々の支配下におかれた今日、スペインは支配地域の境界画定を求\nめてきている。この合意に従えば、リーフ地方の北部一帯と、スース谷\n以南の南部地域はスペインの支配に服することになる。;;;;;;;;;;X ACT162688A;必要な土地をスペインに割譲せよ;;;;;;;;;;X ACT162688B;モロッコでの立場を考えれば全土領有が筋だ;;;;;;;;;;X EVT162689D;かつてモロッコ問題でフランスとスペインは協議を開き、モロッコをどのよう\nに両国間で分割するかという点について合意に至った。そしてモロッコが\n我々の支配下におかれた今日、スペインは支配地域の境界画定を求\nめてきている。この合意に従えば、地中海に面するリーフ地方の北部一\n帯はスペインの支配に服することになる。;;;;;;;;;;X EVT162690N;1904年の仏西協定;;;;;;;;;;X EVT162690D;モロッコでフランスの影響力が強まってきたのを受けて、スペインは歴史\n上影響力を及ぼしてきた地域について領有主張を始めた。彼らの主\n張に従えば、その地域においてモロッコの主権は存在せず、スペインが\nこれを支配することになる。モロッコにスペインの影響圏を認めるべきだ\nろうか?;;;;;;;;;;X ACT162690A;モロッコ北部のスペイン権益を承認する旨申し出る;;;;;;;;;;X EVT162691D;スペインはモロッコに関する協定を受け入れた。今後行われるモロッコに\n関する協議では、彼らの外交的支援が見込めそうだ。;;;;;;;;;;X EVT162692N;フランス・モロッコ国境に関する1901年の合意;;;;;;;;;;X EVT162692D;フランスがサハラ砂漠へと拡大したことで、仏領アルジェリアとモロッコの間\nの国境に関する問題が重要性を帯びてきた。1901年の7月にモロッコと\n協議が行われ、国境委員と新たな制度が設けられた。これによりフラン\nスとモロッコはともに交易所を維持し、現地部族の動向や交易を管理\n下におけるようになったのである。;;;;;;;;;;X EVT162693N;フェズ反乱;;;;;;;;;;X EVT162693D;1912年にフランスはモロッコの政体を転覆し、モロッコは反ヨーロッパ感\n情が渦をなす破綻国家となってしまった。そして新たにフランス人指揮\n官のもとにおかれることとなったモロッコ人兵士らは、西洋化路線に\n則った改革が決まったことにひどく憤り、1912年の4月、離反して\nフェズ地方で反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT162694N;スルタン・ユースフの擁立;;;;;;;;;;X EVT162694D;フランスのモロッコ支配は先行き不透明でもまだ良いほう、といったところ\nであった。フランス側の総督であったリヨテ提督は、時のスルタンであるア\nブドゥルハフィーズがフランス支配を脱し、さらなる反乱を率いるのではな\nいかと憂慮した。そうしてリヨテはアブドゥルハフィーズを廃位し、その弟で\n親仏派のユースフをフランス保護領モロッコのスルタンとして擁立した。;;;;;;;;;;X ACT162694B;スルタン制を廃せよ;;;;;;;;;;X EVT162695N;マラケシュでアル・ヒバの反乱;;;;;;;;;;X EVT162695D;アル・ヒバの別名で知られるアフマド・ヒバトゥッラーは、モロッコ南部の有力\n者の息子である。彼は新スルタン・ユースフが擁立されたことについて、\n不法なフランスの傀儡による権力掌握だとみなし、イスラムが危機にあ\nると訴えた。そしてアル・ヒバはアラウィー朝を廃して自身をモロッコの正当\nなスルタンだとすべきだと主張したのである。こうしてモロッコ南部で広範\n囲にわたる反乱の火の手が上がった。;;;;;;;;;;X EVT162696N;タザでアル・シンキーティーの反乱;;;;;;;;;;X EVT162696D;アル・シンキーティーはイスラム神秘主義者で、モロッコ北東部の部族民\nから支持を得ていた。その頃フランスは南部で発生したアル・ヒバの反乱\nを叩いて回っていたが、1913年の春、アル・シンキーティーもタザでスルタ\nンを僭称し、モロッコ北部において新たな反仏反乱が発生することにな\nってしまった。;;;;;;;;;;X EVT162700N;アルジェリアがフランス行政区へ編入;;;;;;;;;;X EVT162700D;フランスによるアルジェリア殖民も進み、本土のフランス市民と同じ参政\n権を持ちたいとする要求も大きくなっていった。そして1848年の末に国\n民議会で新法が可決され、アルジェリアの民政所管地域は「県」となり\n議会へ代表を送る権利が認められた。;;;;;;;;;;X EVT162701N;ザアチャでアブー・ザイヤーンの反乱;;;;;;;;;;X EVT162701D;1847年にはアブドゥルカーディルの抵抗も終了し、フランスのアルジェリア\n支配に反対する連中のうち最大の危険分子が除かれることになった。\nしかし他の部族指導者らは、隙あらばフランス支配に対し抵抗運動を\n行っている。1849年にはオアシス都市のザアチャで、フランスの徴税官が\nナツメヤシに課税しようとしたのに反対して、ザアチャのシェイフである\nアブー・ザイヤーンが反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT162702N;1851年のアルジェリア関税法;;;;;;;;;;X EVT162702D;1830年のフランス征服以来、アルジェリアはフランス本土と異なる経済\n主体とみなされ、本土への輸出品には関税が課せられた。しかし代議\n士を出すほどまでに植民者の数も増えてきた昨今、仏領北アフリカの経\n済開発を促進するためにフランス・アルジェリア間の関税障壁を撤廃す\nるよう求める声が、植民者らから上がっている。;;;;;;;;;;X EVT162703N;カビリアでアブー・バグラが反乱軍を組織;;;;;;;;;;X EVT162703D;1840年代、フランスは概してカビリアに手を出さないでいた。アブドゥルカ\nーディルの勢力が強かった当時、ベルベル人がさらに反乱を起こすことを\n恐れたのである。しかし1851年にはアルジェリアのフランス軍部もここに\n直接統治を敷くべき時が来たと判断し、その結果、アブー・バグラを首\n領とするベルベル反乱軍がフランスに対し蜂起した。;;;;;;;;;;X EVT162704N;アルジェリアで土地使用法;;;;;;;;;;X EVT162704D;アルジェリアをフランス植民地とするためには、長期的に見て植民者に\n土地を供与できるようにする必要があった。そうしてアルジェリア先住民\nの土地使用状況と、植民者が先住民の土地を購入できるようにする\nためのフランス側の権利関係について、フランス本土とアルジェリアの\n双方で議論が巻き起こった。1851年にかくして施行された土地法に\nより、森林地帯の国有地については全て植民者も購入できるようにな\nったが、先住部族の土地は保護された。これはある種の妥協であり、\nアルジェリアでの支持も薄かった。;;;;;;;;;;X ACT162704A;法案を通過させろ;;;;;;;;;;X ACT162704B;先住民の土地は保護せねば;;;;;;;;;;X EVT162705N;ランドン元帥とアルジェリア軍政の復古;;;;;;;;;;X EVT162705D;フランス本土でルイ・ナポレオンがクーデタに成功した。アルジェリアの植\n民者社会ではこれまで共和政が広く支持を集めてきたが、ここでも本\n土と同様に、軍部による統制が復活することになった。ナポレオンはラン\nドン元帥に命じてアルジェリアの統治機構を軍部の統制下におき、ここ\nにアルジェリアの民政は終わりを迎えることになった。;;;;;;;;;;X ACT162705A;軍政を復活させる;;;;;;;;;;X ACT162705B;民政を維持する;;;;;;;;;;X EVT162706N;アルジェリアでイスラム法廷の再編成;;;;;;;;;;X EVT162706D;ランドン総督がアルジェリアを視察に訪れたが、その目的のひとつに、先\n住民の制度体系を近代化するまでの間、先住民社会が植民者の支\n配を受けないよう保護するというものがあった。そして1854年に総督は、\nムスリム法制度を再編してカーディー(法治官)の指揮に服する宗教裁\n判所を設ける旨公示した。しかしこの改革はフランス人入植者から怒り\nを買った。先住民から入植用の土地を買う権利が制限され、またヨー\nロッパ人でも宗教裁判所にかけられるのではないかと思われたのである。;;;;;;;;;;X ACT162706A;法廷システムを再編する;;;;;;;;;;X ACT162706B;あらゆる法廷をフランスの支配下におく;;;;;;;;;;X EVT162707N;ドアノー事件;;;;;;;;;;X EVT162707D;ドアノーはトレムセンにあるアラブ局の支部長だったが、彼とかねてより険\n悪な関係にあった現地部族長が待ち伏せを受けて殺害されると、これ\nについて罪を問われることになった。入植者も先住民も、彼をアルジェリ\nア統治に軍政を敷こうとする暴君だとみなしており、オランで開かれた裁\n判はそうした立場からの糾弾の場と化した。しかしドアノーの関与を示す\n決定的な証拠だとされたものは、せいぜい状況証拠にすぎないのが実\n情だった。;;;;;;;;;;X ACT162707A;ドアノーを有罪にする;;;;;;;;;;X ACT162707B;彼は無実だ;;;;;;;;;;X EVT162708N;アルジェリアに鉄道;;;;;;;;;;X EVT162708D;アルジェリアで長期的にフランスの権益と支配を維持していくためには、\n鉄道が重要になってくるとランドン総督は考えていた。そこで1857年4\n月に布告を発してアルジェリア植民地政府に対し、オランからアルジェを\n通ってコンスタンティーヌに向かう鉄道路線を建設するよう命じた。;;;;;;;;;;X ACT162708A;アルジェリアでの鉄道建設を支援する;;;;;;;;;;X ACT162708B;植民地にそんな贅沢をする余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT162709N;カビリア征服;;;;;;;;;;X EVT162709D;フランスの支配を受け入れまいとするカビリアでの抵抗運動には、アルジ\nェリアのフランス行政官も頭を抱え続けてきた。しかし1857年にランドン\n総督は、現地部族を屈服させてフランスの監督下に置くことを目標に、\nカビリアに派兵することを決めた。アブー・バグラ一味による抵抗は決然と\nしたものだったが、最終的にはこれも鎮圧された。;;;;;;;;;;X EVT162710N;アルジェリア大臣;;;;;;;;;;X EVT162710D;アルジェリア行政に軍の統制がかかっていることについて、入植者らの間\nで不満が高まっていたが、この傾向はドアノー事件で拍車がかかり、アル\nジェリアに民政を復活させようとの声が上がりだした。アルジェリアの軍部\nはこうした動きに反対で、アルジェリア社会が入植者に牛耳られている\nことについて、民政を導入すればきっと先住民らに敵意が芽生えるだろ\nうと考えている。;;;;;;;;;;X ACT162710A;アルジェリアに民政を復活させる;;;;;;;;;;X ACT162710B;軍政を維持する;;;;;;;;;;X EVT162711N;アルジェリアに県議会創設;;;;;;;;;;X EVT162711D;アルジェリア行政に対する軍の管制が外れたことで、フランス本土の地方\n行政区をモデルとした地方議会を求める声が上がっている。こうしてアル\nジェリアの3州それぞれに県議会が創設されたが、参政権はヨーロッパ系\n入植者に厳しく限定され、アルジェリア先住民には与えられなかった。;;;;;;;;;;X EVT162712N;イスラム法廷がフランスの監督下に;;;;;;;;;;X EVT162712D;1854年に行われたイスラム法廷の再編は、フランス人入植者からして\nみれば、アルジェリアにおける政治経済面での立場を脅かしているように\n見えた。彼らはムスリム社会がフランスの支配から離れ、社会的な並列\n構造が生まれるのを恐れたのだ。そしてシャスルー・ローバが新しくアルジ\nェリア大臣となると、1859年に布告を発し、イスラム法廷での裁判はす\nべてフランスの裁判所に上訴できるようになった。つまりイスラム法廷はフ\nランス司法システムの監督下に置かれるようになったのである。;;;;;;;;;;X ACT162712A;フランスの裁判所をイスラム法廷の上位に置こう;;;;;;;;;;X ACT162712B;イスラム法廷はフランスの司法システムの外にある;;;;;;;;;;X EVT162713N;ホドナ族の反乱;;;;;;;;;;X EVT162713D;ホドナ族はアルジェリア南西部のティーテリー地方で強い勢力をもってい\nた。しかしアルジェの県議会が彼らの土地の大部分を未使用、つまりフ\nランス人入植者に払い下げられる土地として定義しなおそうとしたのに\n対し、1860年の春、彼らはフランス当局に叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X EVT162714N;ナポレオン3世のアルジェリア訪問;;;;;;;;;;X EVT162714D;入植者の追求している経済的、文化的な政策は、多数派を形成して\nいるムスリム先住民の怒りを買っている。そのためフランス軍部の指導層\nはアルジェリアでの民政復活が、植民地の安定を損ねる恐れがあるとみ\nていた。そして一方、ナポレオン3世は状況を自ら観察しようと、1860年\n9月にアルジェリアを訪問して軍部、民間問わず多くの指導者と接見し\nた。;;;;;;;;;;X EVT162715N;アルジェリア大臣の廃止;;;;;;;;;;X EVT162715D;ナポレオン3世はアルジェリアを訪問した際、アルジェリア大臣がフランス人\n入植者の言いなりであって、アルジェリアで大多数を占めるムスリムの間\nに不安定をもたらしていることを確信した。その結果として皇帝は大臣\n職を廃止し、植民地に対する軍の管制を復活させることになった。軍\n部はこれに歓喜したが、アルジェリアのフランス系入植者は怒りを禁じえ\nなかった。;;;;;;;;;;X ACT162715A;大臣職を廃止し、総督を呼び戻そう;;;;;;;;;;X ACT162715B;アルジェリアの民政は残さなければ;;;;;;;;;X EVT162716N;イスマイル・ユルバン;;;;;;;;;;X EVT162716D;イスマイル・ユルバンはギアナ生まれのムラートで、後年イスラムに改宗し\nた人物である。その彼は著書のなかで、アルジェリアの多数派であるムス\nリムの法的、経済的、文化的実態をフランスは守らなければならないと\n心情的に訴えた。ユルバンの主張によれば、アルジェリア先住民を祖国\nに忠誠を誓うフランス市民に変えていくには、これを長期にわたってじっく\nりと行われるべきであるという。またアルジェリアのフランス入植者がやって\nいる事は、フランス支配に対するムスリムの敵意をかきたてるだけだとユル\nバンは批判した。;;;;;;;;;;X EVT162717N;「アラブ王国」書簡;;;;;;;;;;X EVT162717D;ナポレオン3世はイスマイル・ユルバンの思想に深く感銘を受け、アルジェ\nリアの軍部が行っている植民地のフランス化は多数派であるムスリムを\n敵に回しているだけだと考えた。そこでナポレオン3世は総督のペリシエ\n元帥に手紙を書き、アルジェリアはフランスの庇護下にある「アラブ王国」\nであって、フランスの最終的な目標はいつの日か本国の良きパートナー\nとなれるよう、アルジェリア社会を近代化することにあるとの主張を示した。;;;;;;;;;;X ACT162717A;ペリシエに手紙を送る;;;;;;;;;;X ACT162717B;植民者はアルジェリアの礎だ;;;;;;;;;;X EVT162718N;1863年の元老院決議;;;;;;;;;;X EVT162718D;アルジェリア植民地政府が1850年代に行った土地取得には、正当性が\n疑わしいものもあった。数10万ヘクタールにわたって土地が譲渡され、\n多くの部族民が不毛な辺境の地に追いやられたのだ。こうした土地売\n買に対する批判を受けて、先住民の土地は生産性があるならばヨーロ\nッパ人入植者に譲渡してはならないとする布告が、皇帝により発せられ\nることになった。1863年に出された元老院決議はこうした要求に応える\nものだったが、これにより多くの入植者が憤慨する結果となってしまった。;;;;;;;;;;X ACT162718A;布告を出せ;;;;;;;;;;X ACT162718B;入植者の怒りを買う余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT162719N;アウラード・シーディー・シャイフの反乱;;;;;;;;;;X EVT162719D;1861年にアウラード・シーディー・シャイフの首長となったサイード・スレイ\nマーンは、1864年にフランスに対し反乱を起こした。元老院決議にもか\nかわらず彼ら部族の土地が、殖民者に売却できるものとして審決され\nそうになったためである。フランスは約束を守らないという不信もあって、\n反乱はアルジェリア西部の大部分に広がっていった。;;;;;;;;;;X EVT162720N;アルジェリア行政局に対する軍の管制;;;;;;;;;;X EVT162720D;1860年にアルジェリア省が廃止されたことで、アルジェリアには軍部と文\n民の二重官僚制が生まれてしまい、司法の場でも双方の主張が対立\nするようになった。アウラード・シーディー・シャイフの反乱はこの二重制度\nに由来すると軍部は主張し、ナポレオン3世に対して文民の行政制度\nを軍の監督下におくよう求めた。入植者はこれを権利の侵害だとしてひ\nどく反発している。;;;;;;;;;;X ACT162720A;アルジェリアの行政局に軍の管制をきかせろ;;;;;;;;;;X ACT162720B;文民統制は維持されなければ;;;;;;;;;;X EVT162721N;ナポレオン3世が再度アルジェリアを訪問;;;;;;;;;;X EVT162721D;1865年、ナポレオン3世は二度目のアルジェリア訪問を行い、1860年に\nはじまる改革の影響を確かめようとした。そして1ヶ月の滞在期間中、皇\n帝は各部族や入植者、そして軍部の長といった、アルジェリアの長期的\n発展という問題を同じくする面々からの使節団と接見した。;;;;;;;;;;X EVT162722N;1865年の元老院決議;;;;;;;;;;X EVT162722D;1865年のナポレオン3世訪問を受けて、同年に元老院決議が布告さ\nれた。その内容とは全てのアルジェリア住民を、民族や宗教に関わらずフ\nランス臣民として認めることだった。つまり民事に関するフランスの法律を\n受け入れる意思があるというのなら、先住民であってもアルジェリアのヨー\nロッパ系入植者と同等の権利を持つフランス市民として、その帰化を認\nめようとするものである。入植者はこの布告に対し、アルジェリア社会に\nおける支配的地位を脅かすものとして反対意見を表明し、またムスリム\nからは、完全な市民権のためにはイスラム法を放棄せねばならないのか\nとの批判も受けた。;;;;;;;;;;X ACT162722A;布告を出せ;;;;;;;;;;X ACT162722B;入植者の怒りを買う余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT162723N;アルジェリアで1868年の旱魃;;;;;;;;;;X EVT162723D;アルジェリアの農業は天候に依存している。1867年から1868年の冬季\nにかけては雨量が少なく、大旱魃が発生した。これによりアルジェリアの\n農村部では飢饉が発生する見込みで、またいくつもの州で農業生産\n高が減少することになった。この旱魃はなかでも、生産性の低い土地に\n追いやられていた先住民に影響を与えることとなった。;;;;;;;;;;X EVT162724N;アウラード・シーディー・シャイフが再度反乱;;;;;;;;;;X EVT162724D;1864年にサイード・スレイマーンは打倒されたものの、アウラード・シーデ\nィー・シャイフは依然として反抗的なままだった。そして旱魃と、止むこと\nの無いフランス入植者の土地をめぐる圧力から、彼らは再び1869年に\n反乱を起こすことになった。;;;;;;;;;;X EVT162725N;アルジェリアの現状に関するベイク委員会報告;;;;;;;;;;X EVT162725D;1869年、フランス帝国においてアルジェリアがどうあるべきか決定するた\nめ、アルマン・ベイクを長とする委員会が設けられた。そして委員会が推\n薦したところによれば、アルジェリア先住民も入植者と同等の政治的権\n利を享受できるような自治制度が必要であるという。入植者らはこれに\n強く抗議し、北アフリカでのフランスの立場を確立するためには、アルジェ\nリアをフランスに直接統合しなければならないと主張した。;;;;;;;;;;X ACT162725A;勧告を受け入れる;;;;;;;;;;X ACT162725B;勧告を拒絶する;;;;;;;;;;X EVT162726N;アルジェリアで民政の復活;;;;;;;;;;X EVT162726D;アルジェリアはフランス本土に統合されなければならないとする、入植者\nの主張が支持されたことで、ベイク委員会やアラブ王国の構想からは\n離れ、入植者が全面的に支配する以前の体制に戻ってしまった。この\n体制において、アルジェリア先住民は権力から排除されている。;;;;;;;;;;X EVT162727N;クレミュー法令;;;;;;;;;;X EVT162727D;1870年の秋、フランスのユダヤ人団体が請願書を提出し、仏領北アフ\nリカに住むユダヤ人がフランス市民権を得られるようにと訴えた。こうした\n運動により、アルジェリア社会における一大勢力がフランス植民地に連\n関し、またフランス市民の数も増加すると主張されたのだ。しかし一方、\n入植者の多くはこの案に反対していた。アルジェリアの開発における支\n配権が弱められるかもしれないと考えたためだ。;;;;;;;;;;X ACT162727A;アルジェリアのユダヤ人はフランス市民だ;;;;;;;;;;X ACT162727B;市民権を得られるユダヤ人はフランス生まれに限る;;;;;;;;;;X EVT162728N;カビリアでの反乱;;;;;;;;;;X EVT162728D;1871年、フランスはプロイセンに敗北した。アルジェリアの大多数を占め\nるムスリムはこれに驚き、その多くは祖国に対するフランス支配に終わり\nが来たと考えた。そしてカビリアでは、ムハンマド・アル・ムクラーニーに率\nいられたベルベル人の一派が、フランスに対する反乱の口火を切った。;;;;;;;;;;X EVT162729N;ラフマーニーヤ教団がフランスへのジハードを宣言;;;;;;;;;;X EVT162729D;アルジェリアのイスラム神秘主義結社の中でも最大のものにラフマーニー\nヤ教団があるが、これはフランス人の入植者がカビリア地方に食い込む\nのを強く阻止してきた。だがアル・ムクラーニーが1871年に反乱を起こす\nと、間もなく教団も急進化し、ついにはアル・ムクラーニーと連合するまで\nに至る。そして教団はフランスに対するジハードを宣言し、アルジェリア東\n部にわたる大反乱が起こることになった。;;;;;;;;;;X EVT162730N;アルジェリアの土地所有に関するヴァルニエ法;;;;;;;;;;X EVT162730D;カビリアの反乱は鎮圧されたが、これを受けてアルジェリアにおけるフラン\nスの土地取得にかかる制限は、1863年から撤廃されることになった。\n反乱に参加した部族はその土地を没収され、また反乱に直接参加し\nなかった部族に対しても、彼らの所有する広大な土地についてその取得\nのために土地利用状況が再定義されることになった。ヴァルニエ法は、\nフランス入植者の大勝利の表れである。;;;;;;;;;;X EVT162731N;先住民法;;;;;;;;;;X EVT162731D;1870年代末にもなると、フランス入植者とアルジェリア先住民の関係は、\n次第に支配者と従属者のそれになっていった。そうした中1871年に制定\nされた先住民法では、先住民には別個の刑事システムが設けられた。\n植民地政府は「法と秩序」への種々の侵害を理由に、先住民に対して\n裁判無しに刑罰を与えられるようになったのである。こうした法令は、\n19世紀の後期になると多くのフランス植民地で刑法モデルとして\n採用された。;;;;;;;;;;X ACT162731A;先住民を抑え込まねば;;;;;;;;;;X ACT162731B;先住民も入植者と同じ権利を持っているだろう;;;;;;;;;;X EVT162732N;アルジェリアがフランス本土の行政制度に統合;;;;;;;;;;X EVT162732D;アルジェリアに対して入植者が究極的にもとめる政治目標は、フランス\n本土への直接統合であった。ラタシュマン(再帰属)と呼ばれたこの思\n想は本土でも広く支持を獲得し、1881年には国民議会へと上程され\nた。これが可決されれば、アルジェリアのあらゆる植民地統治機構は廃\n止され、フランス内地の県と同等の領域としての地位を得ることになる\nだろう。;;;;;;;;;;X ACT162732A;アルジェリアを本土の行政制度に組み込もう;;;;;;;;;;X ACT162732B;アルジェリアは別個に統治されるべきだ;;;;;;;;;;X EVT162733N;アルジェリア法とヨーロッパ系入植者の帰化;;;;;;;;;;X EVT162733D;フランスがアルジェリアへの植民奨励運動を活発に行ったため、フランス\n出身者以外もアルジェリアに移民するようになった。そして1880年代に\nは、アルジェリアに住むヨーロッパ系住民の半数近くが非フランス系、つま\nりスペイン人やイタリア人、マルタ人といった出自を持つようになっていた\nのだ。そこでアルジェリアのフランス人は多数派としての地位を失うのでは\nないかと考え、1889年に法案を提出し、アルジェリアで生まれた子供は\nヨーロッパ系であるなら、血統に関係なくフランス市民権を与えられるよ\nうにした。;;;;;;;;;;X ACT162733A;法案を通過させ、アルジェリアをフランスのまま保て;;;;;;;;;;X ACT162733B;フランス人でなくてもヨーロッパ系なら脅威ではない;;;;;;;;;;X EVT162734N;アルジェリア先住民の現状に関するジョナール報告;;;;;;;;;;X EVT162734D;アルジェリアがフランスの統治機構へのラタシュマン(再帰属)を果たして\nから約10年が経った。そこへ、フランスの行政官が多数派であるアルジェ\nリア先住民に対し著しく配慮の欠いた扱いをしているという報告があが\nり、国内にセンセーションが巻き起こった。こうした報告のなかでも重要\nなのが1892年のジョナール報告である。改革派のアルジェリア知事であ\nるジョナールによれば、ラタシュマンはアルジェリア先住民にとって災厄で\nあり、彼らが貧困に苦しむ一方でフランス入植者が富を得ているとのこ\nとだ。;;;;;;;;;;X ACT162734A;アルジェリアでの現状を調査させよう;;;;;;;;;;X ACT162734B;アルジェリアの先住民は危機状態にない;;;;;;;;;;X EVT162735N;アルジェリアに関する18人委員会報告;;;;;;;;;;X EVT162735D;ジョナール報告を受けて、アルジェリアの現状をきっちりと調査するために、\nジュール・フェリーを長とする18人委員会が発足した。そして報告書が出\nされたとき、政治世界に論争の嵐が巻き起こった。報告書のなかで彼ら\nは入植者政府によるアルジェリア先住民の扱いを糾弾し、また先住民に\nアルジェリアでの全面的な政治的権利を与えるよう改革を行うべきだと\nしたためである。;;;;;;;;;;X ACT162735A;アルジェリアには改革が必要だ;;;;;;;;;;X EVT162736N;アルジェリアで入植者の騒乱;;;;;;;;;;X EVT162736D;ドレフュス事件がもたらした社会不安に加え、アルジェリア社会を入植\n者が支配していることへの精査が次々と入ったことで、1898年の1月、\nついにアルジェリアの数都市で反ユダヤ、反ムスリム暴動が発生した。そ\nしてこの暴動は、入植者が統治により深く関われるようにしたいとする自\n治主義志向と結びつくようになった。;;;;;;;;;;X EVT162737N;アルジェリアに財政自治の許可;;;;;;;;;;X EVT162737D;入植者らの間で自治に関する抗議が増えてきたのを受けて、アルジェリ\nア側が財政委員会を組織し、それを通じて再び財政を管理できるよう\nにすることをフランス政府は提案した。この出来事は植民者の主な関心\nが、フランスへの全面的統合から、フランスの一部としてアルジェリアの行\n政を自ら支配することに、大きく変わったことを示している。;;;;;;;;;;X ACT162737A;財政自治を認めよう;;;;;;;;;;X ACT162737B;アルジェリア財政には引き続き管制をかけよう;;;;;;;;;;X EVT162738N;イスラム法に関するモーラン委員会;;;;;;;;;;X EVT162738D;アルジェリア植民地政府はその人口の大多数を占めるムスリムについて、\n彼らの制度を「近代化」することが彼らの発展に最も寄与すると考えて\nいた。そして1905年、その思想に基づき植民地政府はマルセル・モーラン\nを長とする委員会を組織し、イスラム法の編纂にあたらせることにした。\nイスラム聖職者はこれについて、イスラムの伝統にフランス的価値観を押\nし付けようとしているとみなし、これに激しく反発した。;;;;;;;;;;X EVT162739N;青年アルジェリアとアル・ヒラール紙;;;;;;;;;;X EVT162739D;20世紀初頭になると、アルジェリアのムスリム知識人にも西洋式の教育\nを受けた新世代が立ち現れるようになった。青年アルジェリアに代表され\nるこうした知識人は、ムスリムがアルジェリア社会で二等市民に甘んじ、\nまたフランスの入植者社会への同化が唱えられている現状に憤りを隠さ\nないでいた。そして1906年、彼らはアル・ヒラール紙という新聞を新しく\n創刊し、アラブ住民にその考えを広めようとした。;;;;;;;;;;X ACT162739A;監視するが発行を認めよう;;;;;;;;;;X ACT162739B;危険な考えだ、弾圧しよう;;;;;;;;;;X EVT162740N;青年アルジェリア覚書;;;;;;;;;;X EVT162740D;1912年、青年アルジェリアの一派がパリの政府に書簡を送り、アルジェリ\nアでのムスリムの二等市民としての扱い、つまり先住民法の廃止とアル\nジェリア統治に対するムスリム住民の参加を認めるよう要求した。;;;;;;;;;;X ACT162740;アルジェリアの民族主義が高揚している;;;;;;;;;;X
タイムスタンプを変更しない
ハードコード八割。未使用のイベントは別に添付。読み込みの負荷を考えるevent_text.csvには含めない方向で。 EVT162000N、ペイストリー(菓子)戦争に対する記述を詳細に。突然起きると意味がわからんかったため。3/31 一月蜂起イベント微修正 ####### 162K FRANCE #######;;;;;;;;;;;X,,,, EVT162001N;六月革命;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162001_DESC;ルイ・フィリップ退位においてパリの労働者層は重要な役割を演じた。ゆ\nえに、新政府による経済的、社会的な改革が失敗に終わると彼らは\n大いに幻滅した。つけくわえて、経済の不調により多くの労働者が職を\n失い、窮乏においこまれた。政府は雇用問題を軽減するため、国立作\n業所などの仕組みを提案したが、政府は充分な援助を与えることはで\nきなかった。多少の雇用は獲得できたもの効果はすぐになくなり、パリの\n労働者たちは蜂起をはじめた。;;;;;;;;;;X ACT162001A;反逆者を撃退する!;;;;;;;;;;X ACT162001B;社会主義的な新フランスを目ざそう!;;;;;;;;;;X ACT162001C;ルイ・フイリップを復位させる絶好の機会ではないか!;;;;;;;;;;X ACT162001D;ブルボン家が復権するための絶好の機会ではないか!;;;;;;;;;;X EVT162002N;フランスにおける防諜;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162002_DESC;フランス政府が防諜の罪に問われていたわれわれのスパイを放免した。\nスパイは任務を継続することができる。;;;;;;;;;;x,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ACT162002A;すばらしい!;;;;;;;;;;X EVT162003N;フランスにおける防諜;;;;;;;;;;X ACT162003A;すばらしい!;;;;;;;;;;X EVT162004N;ラマルティーヌの改革;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162004_DESC;ラマルティーヌの業績は、国立作業所の設立、奴隷制および死刑の廃\n止などである。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ACT162004A;革命政府バンザイ!;;;;;;;;;;X EVT162005N;国立作業所は共和政に対する危機か?;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162005_DESC;第二共和政は、雇用問題に関して社会主義者の主張をうけいれ、か\nつ市民の要望を満たすために特徴ある試みを行った。労働大臣マリー\nの発案による国立作業所の設立である。雇用に対して慈善的にでなく\n社会的な意図をもって干渉する試みであり、 かつ一般経済の利益に\n貢献する形もとっていた。かくて、国立作業所システムは1848年2月26\n日に開始。ラマルティーヌと財務大臣のデフォールは企業からの援助を\nあてに鉄道の建設を再開することができると考えていた。国家による一\n時的な財政援助をもとに、不定期な一連の作業により開通したパリ=リ\nヨン線のようなケースを考えていたのだ。労働条件の改善とワークシェア\nリングの確立を目的として法は施行され、1848年3月2日、一日あたり\nの労働時間はパリにおいて11時間から10時間まで削減、地方におい\nても12時間から11時間と定められることとなった。先進的なグループは1\n930年代でいうところの「巨視的な視点からの危惧」をあげ、また即興\n的な妥協案ではあったもの、この先進的な考えは同時に実際的なもの\nではあった。だが下院において鉄道、道路建設における雇用を大幅に\n増大することとなる建設計画の不定期化は否決され、給与額の総量\nは限定されたままとなった。事実として、これは寛大さの精神と社会と\n折り合う精神を合わせた考えである。政治と社会における緊張により、\n最初のフラタニティ(友愛団体)としての存在は軽視され、国民の悪意を\n和らげることが優先されていた。国立作業所のポリシーがどうあるべきか\nはこの件において最大の論点であった。これは金の無駄遣いか、それと\nも単なる口実であろうか?疑問の残るプロジェクトに対し数万の大都\n市の失業者をあてるべきだろうか?パリの国立作業所による雇用者は1\n848年3月には6,000人、月末には25,000人、五月には90,000人、七\n月末には117,000人にまで膨らんだ。;;;;;;;;;;X,,,,,, ACT162005A;うむ、廃止しよう!;;;;;;;;;;X ACT162005B;このままで行こう;;;;;;;;;;X EVT162006N;政教分離;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162006_DESC;第三共和政の期間、共和主義者たちはカトリック教会の権力を公的\nに抑制することにつとめた。教会は王権派に連なるものと見なされてお\nり、束縛されるべき共和主義者のもう一個の敵であった。いずれ分裂す\nることとはなるものの、共和主義者たちはそれを望んではいなかった。彼\nらは1801年ナポオレン一世により結ばれたコンコルダート(政教条約)を\n志向していた。カトリック教が信仰を集める代償として政府による支配\nを教会が受ける型式である。しかしバチカンは、このとき政教分離による\n宗教の俗化に悩まされており、またイタリアによるローマ教皇国の併合\nに対する保護をフランスに拒否された経緯から、フランス国内の教会に\n対する権威を再度宣言した。共和主義者は教皇のこの行動に対して\n憤り、フランス政府による政教分離を宣言、1905年法令を公布した。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,, ACT162006A;分離を!;;;;;;;;;;X ACT162006B;このままで行こう;;;;;;;;;;X EVT162008N;ブーランジェ危機;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162008_DESC;1886年さきの将軍ジョルジュ・アーネスト・ブーランジェが陸軍大臣に就\n任、しばらくして友人や賛美者とともに極度に国粋的集団を築いた。そ\nの動向から過激な集団とみなされ1887年彼はポストを追われた。権\n力は失われたものの彼には影響力が残された。王家による独裁に対す\nる志向はなかったが、彼は王権派の支援をとりつけはじめた。1888年\n陸軍を除隊されると選挙事務所を構え、1889年代議士として当選。\n政府は革命を恐れ反逆罪の名目で逮捕状を発行した。ブーランジェは\nベルギーに亡命さらに地方へと逃れたが、1891年自殺した。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,, ACT162008A;ブーランジェを捕縛せよ!;;;;;;;;;;X ACT162008B;ブーランジェを支援せよ!;;;;;;;;;;X ACT162008C;ブーランジェとその後援者を捕縛せよ!;;;;;;;;;;X VIP_EVENT_162013_NAME;ポーランドの一月蜂起;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, VIP_EVENT_162013_DESC;保守派とロシアの暴虐による専制政治に対し、1863年1月22日蜂起\nが発生した。ポーランド各地の都市で過激派のポーランド人が武器を\n取りロシア人守備隊と交戦した。彼らは数は多かったものの装備は貧\n弱であり、戦略的重要な都市を獲得することもできなかった。守備隊の\nうちいくらかを武装解除においこんだものの、反乱軍は一万人程\n度\nであり、ロシア人守備隊は10万人におよんだ。しかしながら「赤軍」によ\nりポーランド地下政府が組織されることにより事態は最悪の方向へ向\nかう。彼らは過激な社会経済改革を叫び、農奴解放と万人の政治的\n平等を宣言した。これに「白軍」王権派が合流、ポーランドにおける\n \nゲリラ戦が開始した。その後すぐ、ヨーロッパ各地で団結のデモ集会が行\nわれるようになり、最大のものはロンドンとパリにおいて開催された。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ACTIONNAME162013A;経緯を見守ることとしよう;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162018D;バルカン諸国に対しフランスの直接的な興味が限定的なものであったこ\nとで、ヨーロッパ諸国の勢力バランスは維持されていた。ロシアのバルカン\n半島における優勢はこの均衡を打ち破った。われれはイギリスとともにロ\nシアに対しバルカン半島における和平を強要すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162019D;バルカン諸国に対しフランスの直接的な興味が限定的なものであったこ\nとで、ヨーロッパ諸国の勢力バランスは維持されていた。ロシアのバルカン\n半島における優勢はこの均衡を打ち破った。われれはオーストリアととも\nにロシアに対しバルカン半島における和平を強要すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162020D;バルカン諸国に対しフランスの直接的な興味が限定的なものであったこ\nとで、ヨーロッパ諸国の勢力バランスは維持されていた。ロシアのバルカン\n半島における優勢はこの均衡を打ち破った。われれはイギリスや干渉を\n拒否するオーストリアとともにロシアに対しバルカン半島における和平を\n強要すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162021D;サンステファノ条約によるロシア人による「大ブルガリア」の建国はフランス\nのバルカン半島における権益に対しての脅威であり、ヨーロッパ列強の\n勢力バランスを崩すものであった。イギリスとオーストリアはすでにロシアの\n行動に対して反旗を翻している。彼らに加わりロシアに対し、ブルガリア\n国境の国際裁判における仲裁を要求すべきだろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162023D;バルカン問題に対する、ベルリンの国際会議は望みどおりに進んだ。ロ\nシアはブルガリアに対する支配を弱めることを認め、オスマントルコのマケ\nドニアに対する支配は保持された。オーストリアにはボスニアの統治が認\nめられバルカン半島におけるロシアの影響は調整された。チュニジアにお\nける権益を我が国に認めるかわりに、イギリスはキプロスに対する支配権\nを得た。上々の結末である。;;;;;;;;;;X,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, EVT162281D;レバノンに諸国が寄せる権益確保の動きは苦い宗教的対立を生みだ\nし社会政治的な闘争へと発展した。ギリシア正教とギリシアカトリックの\n対立を再現するかのように、絶頂期の1860年にはキリスト教マロン派の\n約一万人の人々がイスラム教ドルージ派に虐殺された。マロン派は長\nい間フランスの支援を受けていたが、今回もレバノンに対する直接的な\n介入を行い闘争の鎮圧を要求する声があがった。オスマントルコは、フラ\nンスの介入を最小限にするべくレバノン山脈を保護国化することを認め\nた。;;;;;;;;;;X EVT162500D;ロシアはベルリン会議における決定の受諾を拒否、バルカンにおける権\n益の改定を目論んでいる。イギリスはロシアを屈服させるべくフランスに対\nして同盟をよびかけている。もしこの試みが敗れればバルカン半島にお\nけるロシアの支配権は恒久的なものとなるだろう。戦争に参加すべきだ\nろうか?;;;;;;;;;;X,, EVT162501D;ロシアはベルリン会議における決定の受諾を拒否、バルカンにおける権\n益の改定を目論んでいる。オーストリアはロシアを屈服させるべくフランス\nに対して同盟をよびかけている。もしこの試みが敗れればバルカン半島\nにおけるロシアの支配権は恒久的なものとなるだろう。戦争に参加すべ\nきだろうか?;;;;;;;;;;X,, EVT162502D;ロシアはベルリン会議における決定の受諾を拒否、バルカンにおける権\n益の改定を目論んでいる。イギリスもオーストリアもロシアの暴虐にたいし\n行動を起こす気はないようだ。もし行動をおこさなければ、バルカン半島\nにおけるロシアの支配権は恒久的なものとなるだろう。われわれはどうす\nべきだろうか?;;;;;;;;;;X,, EVT162600N;ニュージーランドにおけるフランスの権益;;;;;;;;;;X,,, EVT162600D;19世紀初頭、フランス人交易商はニュージーランドのマオリ族と交易を\n開始した。国民のうちいくらかはこの島々を南太平洋においてフランスが\n影響力を広げるべき新しい地域と考えていた。イギリスはすでに小さい\nが直接的な権益をこの島々に獲得している。この島々に対するフランス\nの支配権を明らかにしておくべきだろうか?;;;;;;;;;;X,, ACT162600A;これらの島々に戦略的意味はない;;;;;;;;;;X,,, ACT162600B;フランスの影響力を広げる機会を見逃す必要はないな;;;;;;;;;;X,,, EVT162601N;ニュージーランドにおけるフランス人植民地;;;;;;;;;;X,,, EVT162601D;1830年代のニュージーランドにおいてその支配に関心をよせた列強はイ\nギリスだけではなかった。フランス人交易商はこの島々を潜在的な市場\nと見なし、多くの人々は列強におけるフランスの地位復権のため獲得す\nべき潜在的な目標と考えていた。1839年ニュージーランドに対しフラン\nス人入植を認めるよう交渉したことからみても、この島々に対しフランス\nが権益を求めたのは明らかである。;;;;;;;;;;X,, ACT162601A;ニュージーランドのフランス人植民地建設を支援;;;;;;;;;;X,,, ACT162601B;限りある資源は他の場所で影響力を増すことに利用しよう;;;;;;;;;;X,,, EVT162602N;イギリスがニュージーランドにおける主権を宣言した;;;;;;;;;;X,,, EVT162602D;フランス人がニュージーランドにおける権益に興味を増したことにもかかわ\nらず、いやおそらく興味を増したことにより、イギリスはこの島々における\n主権獲得を主張した。フランスはどのように対応すべきだろうか。;;;;;;;;;;X ACT162602A;ニュージーランドにおけるイギリスの支配的地位を認めよう;;;;;;;;;;X,,, ACT162602B;ニュージーランドはフランスの領域であり、我らはその地位を守る;;;;;;;;;;X,,, EVT162603N;イギリス、ニュージーランドから撤退;;;;;;;;;;X,,, EVT162603D;イギリスがニュージーランドにおける権益を求めないことを宣言、フランス\nはこの島々における地位を高める機会を得た。どのように行動すべきだ\nろうか?;;;;;;;;;;X,,,,,, ACT162603A;この島々を保護国としよう;;;;;;;;;;X,,,,,,, ACT162603B;この島々を直接の植民地としよう;;;;;;;;;;X,,,,,,, ACT162603C;この群島はこのままにしておこう;;;;;;;;;;X,,,,,,, EVT162621N;クローゼルのトレムセン侵略;;;;;;;;;;X EVT162621D;アブドゥルカーディルに率いられた不満分子が、盟約にもとづきトレムセ\nンを根城として、オラン周辺のフランス領を襲撃している。これらの扇動\n者を根絶するために市街地へフランス軍を派遣すべきだとクローゼル提\n督は要求してきた。これによりアブドゥルカーディルと戦争になる可能性\nはあるが、何もしなければアラブ系住民に対し、フランスはアルジェリアに\n統治を敷くつもりが無いというシグナルを送ることになる。;;;;;;;;;;X EVT162622N;クローゼルのコンスタンティーヌ遠征;;;;;;;;;;X EVT162622D;トレムセンを占領したことで仏領アルジェリアの西部には安定がもたらさ\nれた。そこでクローゼル提督は、いまだオスマンの太守であるアフマド・ベ\nイの支配下にあって、フランスの覇権を認めようとしないコンスタンティーヌ\nに対しても、同様の占領計画をすべきだと訴えた。しかし提督の高圧\n的な手法やトレムセンでの弾圧により、世論は彼に否定的な見方をす\nるようになった。コンスタンティーヌ制圧に向けた彼の計画を支援すべき\nだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162622A;クローゼルの計画を却下する;;;;;;;;;;X ACT162622B;クローゼルの計画を支援する;;;;;;;;;;X EVT162623N;クローゼルのコンスタンティーヌ攻撃が失敗;;;;;;;;;;X EVT162623D;クローゼル提督は1836年11月、政府から行わないよう明言されたのを\n無視して、コンスタンティーヌ攻撃を実行した。山岳部では予期せぬ暴\n風雪に阻まれ、クローゼルの軍隊は戦闘する前に著しく弱体化し、わず\nかな時間に包囲攻撃を加えただけで多くの死者を伴ってアルジェに撤\n退することになった。これはアルジェリアにおいてフランス軍が敗れた主な\n戦闘であり、これをうけて先住民の間に動揺が広がった。;;;;;;;;;;X EVT162624N;クローゼルの命令違反が戦争の引き金に;;;;;;;;;;X EVT162624D;クローゼル提督は政府から行わないよう明言されていたにもかかわらず、\nコンスタンティーヌ攻撃を実行した。アブドゥルカーディルはこれをデミッシェ\nル条約の破棄だととらえ、アルジェリアでの戦闘再開を宣言した。;;;;;;;;;;X ACT162624;クローゼルは何てことをしてくれたんだ!;;;;;;;;;;X EVT162625N;タフナ協定;;;;;;;;;;X EVT162625D;クローゼルが独断で行ったコンスタンティーヌ侵略に端を発するアルジェリ\nア東部の動乱を受けて、ダムルモン総督はビュジョー将軍に対し、フラン\nスとアブドゥルカーディルの関係に一定の形を与える条約を提案する権\n限を与えた。これにより沿岸部におけるフランスの主権が承認され、そ\nれと引き換えにトレムセンから撤退、そしてアブドゥルカーディルを内陸部\n統治の代行者として承認することになる。;;;;;;;;;;X ACT162625A;アブドゥルカーディルに条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT162625B;ムスリム抵抗軍の長と話し合うことは無い;;;;;;;;;;X EVT162626N;アブドゥルカーディルがタフナ協定を受諾;;;;;;;;;;X EVT162626D;ビュジョー将軍とアブドゥルカーディルの交渉は成功した。アルジェリア西\n部では予期せぬ事態を防ぐために安定性が確保されることになり、アル\nジェリア東部でも治安維持のためにフランス軍を置くことが認められた。;;;;;;;;;;X EVT162627N;アブドゥルカーディルがタフナ協定を拒絶;;;;;;;;;;X EVT162627D;ビュジョー将軍とアブドゥルカーディルの交渉は決裂し、アミールはアルジェ\nリア全土のフランス支配からの解放を目指してジハードを宣言した。;;;;;;;;;;X EVT162628N;ビバン峠;;;;;;;;;;X EVT162628D;フランスが支配下においている都市の間を移動する際、フランス軍がアブ\nドゥルカーディルの支配している領域を通ってよいか否かという問題に関\nして、タフナ条約の文言は不明瞭なままだった。例えばアルジェ・コンスタ\nンティーヌ間を移動する時は、ビバン峠を使うことでその時間を縮められ\nる。だがビバン峠の通行許可をめぐる交渉は失敗し、ヴァレー総督もこ\nれを受けてその条項を認証した。しかし1839年の10月、フランス国王\nの息子であるオルレアン公に率いられた一隊が、お構い無しに峠を越え\nてしまったのだ。;;;;;;;;;;X ACT162628A;軍隊にビバン峠の使用を認める;;;;;;;;;;X ACT162628B;アブドゥルカーディルのビバン峠支配を尊重する;;;;;;;;;;X EVT162629N;アブドゥルカーディルがジハードを宣言;;;;;;;;;;X EVT162629D;フランス軍がビバン峠を通行してしまったのを知り、アブドゥルカーディルは\nタフナ協定の破棄とジハードを宣言した。こうしてアルジェ周辺の平原に\nおいてムスリムの一大蜂起が発生したのである。;;;;;;;;;;X ACT162629;アルジェリアのフランス支配へのムスリム反乱を粉砕しよう!;;;;;;;;;;X EVT162630N;ビュジョーがアルジェリア総督に任命される;;;;;;;;;;X EVT162630D;アブドゥルカーディルの対仏抵抗運動も長年にわたって繰り広げられ、\n都市を離れるとムスリムの非正規兵からかく乱を受けるという事態が続\nいた。そのためビュジョー将軍は1840年12月、総督に任命された。彼\nはムスリムの抵抗を根絶するため、その後背を焦土作戦によって壊滅さ\nせるよう軍を動かした。地方では大規模な破壊が行われたが、これによ\nりムスリムの抵抗も弱体化していったのである。;;;;;;;;;;X ACT162630;必要に応じあらゆる手段で反乱を鎮圧しよう;;;;;;;;;;X EVT162631N;アブドゥルカーディルがモロッコに逃亡;;;;;;;;;;X EVT162631D;アブドゥルカーディルはモロッコに逃亡し、現地のモロッコ人有力者から庇\n護を受けている。ビュジョーの主張に従い、モロッコ国境を越えてアブドゥ\nルカーディルを追跡すべきだろうか?それとも、モロッコとの国境線を尊重\nすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162631A;モロッコを攻めアブドゥルカーディルを捕縛しよう;;;;;;;;;;X ACT162631B;モロッコの領土主権は尊重せねば;;;;;;;;;;X EVT162632D;ビュジョーの軍隊はイスリーでモロッコ人の抵抗部隊を粉砕した。そして\n現在はアブドゥルカーディルの追跡を続けている。しかしイギリスから横槍\nが入り、紛争解決に向けて協議すること、モロッコの領土保全を尊重す\nる協定を結ぶことを求めてきた。モロッコにおける進軍を続けるべきだろう\nか?;;;;;;;;;;X ACT162632A;モロッコと和解に向け協議するよう認める;;;;;;;;;;X ACT162632B;イギリスにはお構い無しにモロッコで進軍する;;;;;;;;;;X EVT162633N;タンジール条約;;;;;;;;;;X EVT162633D;イスリーの戦いを受けてフランスとモロッコによる協議が、タンジールにおい\nてイギリスの仲介で行われ、タンジール条約が結ばれた。これによりフラ\nンスはモロッコ領内から撤兵し、モロッコの領土保全を承認すること、その\n一方でモロッコはアブドゥルカーディルへの支援を打ち切り、自国経済を\nヨーロッパの交易圏に開放することが決められた。;;;;;;;;;;X EVT162634N;ブー・マアザの反乱;;;;;;;;;;X EVT162634D;1844年にモロッコでアブドゥルカーディルを捕らえられなかったことで、アル\nジェリアのムスリム住民の間にフランス支配に抵抗する気風が広がってい\nった。1846年には増税を理由に、ベルベル人の指導者であるブー・マア\nザが自身の共同体を率いて、フランスに叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X EVT162635N;アブドゥルカーディルのアルジェリア帰還;;;;;;;;;;X EVT162635D;タンジール条約の後もアブドゥルカーディルはモロッコ北部に潜伏し、モロ\nッコ政府も彼を捕縛することができなかった。しかし1846年の初頭、タフ\nナ峡谷で新たな反乱軍を組織するため、アブドゥルカーディルはアルジェ\nリアに忍び込んだ。そして同年5月、反乱軍が蜂起し、瞬く間に仏領ア\nルジェリア全土へと広がっていった。;;;;;;;;;;X EVT162636N;アブドゥルカーディルの降伏;;;;;;;;;;X EVT162636D;反フランス活動を続けていくうえでの拠点とすべく、モロッコのリーフ地方\nで新国家建設にむけて現地部族の反乱を率いたアブドゥルカーディル\nだったが、そのせいでモロッコのスルタンに拘束されてしまう可能性が高ま\nってしまった。そのためアブドゥルカーディルは自身の目標が達成できない\nことを悟り、1847年の12月、彼はエジプトへの護送を条件にフランスへ\n投降した。こうしてフランスはアミールを1852年まで投獄し、そして釈放\n時にはオスマン帝国への国外追放を認めることになる。;;;;;;;;;;X ACT162636;アルジェリアでのフランス支配が確定した;;;;;;;;;;X EVT162637N;アブドゥルカーディルがゲリラ戦術を始める;;;;;;;;;;X EVT162637D;アブドゥルカーディルの国家は1840年末時点で、フランスの手により壊\n滅させられていたが、アミールはアルジェリア奥地の山岳地帯で抵抗を\n続けた。彼はフランス軍に散発的な攻撃を仕掛け、またフランスに協力\nした集落を攻撃していくうち、フランスはアルジェリアにおいてゲリラ戦争に\n陥っていくことになったのである。;;;;;;;;;;X EVT162638D;アブドゥルカーディルは1842年も引き続きフランス軍から巧みに逃げ回り、\nアルジェリア全土の遊牧部族らの抵抗運動を後押しして回った。;;;;;;;;;;X EVT162639D;アブドゥルカーディルは1843年も引き続きフランス軍から巧みに逃げ回り、\nアルジェリア全土の遊牧部族らの抵抗運動を後押しして回った。;;;;;;;;;;X EVT162640N;アラブ局の再編;;;;;;;;;;X EVT162640D;アラブ局は1830年代に設立された機関だが、その本来の業務はフラン\nス人指揮官の通訳支援にあった。これをビュジョー総督は1844年に、\nアルジェリアでムスリムを支配するための行政組織へと再編した。アラブ\n局のムスリムに対する扱いは家父長的なものとなる傾向が強かったが、\nフランスの入植者からムスリムの土地を守るためには安定が第一だと、ア\nラブ局自身は信じていたのだ。そのためにアラブ局は、アルジェリアに増え\n行く入植者集団から憎まれることになっていった。;;;;;;;;;;X ACT162640;宣撫工作と秩序維持の両立は難しい;;;;;;;;;;X EVT162641N;アルジェリアへの民政の導入;;;;;;;;;;X EVT162641D;1830年にフランス支配が始まって以降、アルジェリアは軍の司令官によ\nって、軍法にもとづいた領域統治が行われていた。この「サーベル制」に\nおいて入植地獲得の個々人の自由と権利は制限を受けたため、日々\n増加するフランス人入植者からは疎まれるようになっていった。そこで18\n45年4月にアルジェリアの統治制度が再編され、ヨーロッパ人の入植地\nは別のものとして、そこでは民政が敷かれることになった。しかし大多数\nを占めるムスリムの領域では、引き続き軍政が残ることにもなった。;;;;;;;;;;X ACT162641A;フランス市民は民主的統制の下におかれるべきだ;;;;;;;;;;X ACT162641B;アルジェリア情勢は軍による秩序維持を必要としている;;;;;;;;;;X EVT162642D;先代のベイであるフサインが1835年に死去したことを受けて、その息子\nであるムスタファ・ベイが新たにチュニジアの太守位を承継することになっ\nた。しかしこれにはオスマン政府の承認が必要である。オスマン帝国は年\n次の貢納を求めてきたが、それはベイが単なるオスマンの知事に過ぎず、\n独立国の支配者ではないとの見方を暗に含むものだった。こうした侮辱\nをやめさせようと、ムスタファは我々に助けを求めてきた。オスマン帝国の\n支配が強まれば、アルジェリアでのフランス支配の確立に悪影響が出\nるだろう。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162642A;オスマンの要求に対するチュニジアの抵抗を支援する;;;;;;;;;;X ACT162642B;チュニジアをその運命に委ねる;;;;;;;;;;X EVT162643N;オスマン帝国のチュニジア侵略;;;;;;;;;;X EVT162643D;我々はオスマン帝国に対し、チュニジアに介入しないよう警告してきた。\nしかし彼らはチュニスのムスタファ・ベイに支配権を行使しようと動き出し\nた。この問題に対するイギリスの立場は不透明だ。しかし我々がチュニ\nジアに介入することで、イギリスがオスマン帝国の側に立って支援する可\n能性がある。どうしようか?;;;;;;;;;;X ACT162643A;チュニジアでの権益保全のため介入する;;;;;;;;;;X ACT162643B;オスマン帝国のチュニジア直接統治を認めよう;;;;;;;;;;X EVT162644N;チュニジアに対するオスマン帝国の圧力;;;;;;;;;;X EVT162644D;オスマン帝国はチュニジアのアフマド・ベイに対し、オスマンの改革を施行\nせよと無理強いしている。これはアフマド・ベイが単なるオスマンの知事に\n過ぎず、独立国の支配者ではないとの見方を暗に含むものだった。こう\nした侮辱をやめさせようと、アフマドは我々に助けを求めてきた。オスマン\n帝国の支配が強まれば、アルジェリアでのフランス支配の確立に悪影響\nが出るだろう。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT162645D;我々はオスマン帝国に対し、チュニジアに介入しないよう警告してきた。\nしかし彼らはチュニスのアフマド・ベイに支配権を行使しようと動き出し\nた。この問題に対するイギリスの立場は不透明だ。しかし我々がチュニ\nジアに介入することで、イギリスがオスマン帝国の側に立って支援する\n可能性がある。どうしようか?;;;;;;;;;;X EVT162646N;サレ事件;;;;;;;;;;X EVT162646D;1851年、モロッコのサレ付近の沿岸で2隻のフランス商船が難破し、旱\n魃に苦しめられていた現地部族はこれ幸いと難破船を略奪した。商船\nの所有者はモロッコに対し、部族民の略奪によって生じた船の損害を\n補償するよう求めたが、これまでのところその要求は拒否されている。そ\nこで彼らはフランス政府に、自分たちにかわってモロッコ政府に補償を求\nめるよう依頼してきた。;;;;;;;;;;X ACT162646A;補償を求め、サレに砲艦を派遣する;;;;;;;;;;X ACT162646B;モロッコ権益にむしろ悪影響がでる;;;;;;;;;;X EVT162647D;サレで商船が難破し略奪を受けたことに関してその所有者が補償を要\n求し、フランス軍艦とモロッコの港湾守備隊の間でスタンドオフ砲撃(射\n程距離外からの砲撃)が繰り広げられたが、モロッコ政府はこれを拒絶\nし続けた。これについてイギリスは、我々が紛争をこれ以上深刻化させ\nるならモロッコ側に立って介入するとほのめかしてきた。;;;;;;;;;;X ACT162647A;モロッコでの緊張をこれ以上強めてはならない;;;;;;;;;;X ACT162647B;フランスの名誉にかけてモロッコに懲罰を与える;;;;;;;;;;X EVT162648N;モロッコがサムサール問題へのフランスの支援を要請;;;;;;;;;;X EVT162648D;サムサールとはヨーロッパ諸国の庇護下におかれたモロッコ人を指す語で\nある。当初は条約によりヨーロッパの領事が保護を与えられる現地人の\n数は2人までと定められていたが、のちにこの慣習は広汎に濫用され\nた。こうした制度濫用によりモロッコの安定性は根底から揺るいでおり、\nモロッコ政府はこの問題を解決するに当たって我々に外交的支援を\n求めてきた。モロッコを助けてやるべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162648A;イギリスとスペインに協定を提案する;;;;;;;;;;X ACT162648B;我々のモロッコ権益にそんな苦労は必要ない;;;;;;;;;;X EVT162649N;イギリスがタンジールでの会議を提唱;;;;;;;;;;X EVT162649D;サムサール問題を議論できるよう、イギリス政府はタンジールで会議を開\nいてはと提案してきた。西欧列強が現地担当者に外交保護を与えて\nきたこの慣行を、モロッコ政府は廃止するよう望んでいる。この会議によ\nり我々のモロッコにおける権益は著しく弱められ、その代わりイギリスが主\n導的立場にたつのを暗黙のうちに認めることとなるだろう。;;;;;;;;;;X ACT162649A;他の列強が出席する場合に限る;;;;;;;;;;X ACT162649B;会議の提案を受け入れる;;;;;;;;;;X ACT162649C;会議の提案を拒む;;;;;;;;;;X EVT162650N;モロッコに関する国際会議?;;;;;;;;;;X EVT162650D;サムサール問題を議論できるよう、イギリス政府はタンジールで会議を開\nいてはと提案してきた。西欧列強が現地担当者に外交保護を与えて\nきたこの慣行を、モロッコ政府は廃止するよう望んでおり、目標達成のた\nめなら譲歩する用意があるとしている。これを拒否すれば、モロッコはイギ\nリスの手中に収まることになるだろう。;;;;;;;;;;X EVT162652D;モロッコ政府は借款を受けようと、フランスの銀行のいくつかに接近した。\nこれはモロッコに支配権を確立する絶好のチャンスである。チュニジアに\n対してやったように、担保の設定を通じてモロッコ経済をより深く支配で\nきるよう、銀行にお膳立てさせればよいだけの話だ。この機を逸すれば\n他国がモロッコ支配の主導権を握り、フランスの損失となるおそれがある。;;;;;;;;;;X ACT162652A;モロッコとの協定をまとめよう;;;;;;;;;;X EVT162653N;サンルネ・タイヤンディエ使節団;;;;;;;;;;X EVT162653D;モロッコは今や、フランスの銀行に対して多額の債務を抱えている。190\n5年1月になると、機は熟しておりモロッコを保護国にすべきだ、との声が\nフランス政府の中でもあがった。そうしてモロッコに対しその財政と軍事は\nフランスの支配下におかれるという条約案を携え、サンルネ・タイヤンディ\nエを筆頭とした使節団が出発した。;;;;;;;;;;X ACT162653A;彼をモロッコに送れ;;;;;;;;;;X EVT162654N;サンルネ・タイヤンディエ使節団の成功;;;;;;;;;;X EVT162654D;スルタンのアブドゥルアズィーズは、モロッコが財政、軍事面で\nフランスの監督に服することを求める条約を受諾した。\n我々のモロッコにおける地位は安泰だ。;;;;;;;;;;X EVT162655D;オスマン帝国はチュニジアのムハンマド・ベイに対し、オスマンの改革を施\n行せよと無理強いしている。これはムハンマド・ベイが単なるオスマンの知\n事に過ぎず、独立国の支配者ではないとの見方を暗に含むものだった。\nこうした侮辱をやめさせようと、ムハンマドは我々に助けを求めてきた。\nオスマン帝国の支配が強まれば、アルジェリアでのフランス支配の確立に\n悪影響が出るだろう。どうすべきだろうか?;;;;;;;;;;X EVT162659N;チュニジア負債危機;;;;;;;;;;X EVT162659D;1860年代のチュニジア政府にとって、フランスの銀行は唯一にして最大\nの外国資本の供給源だった。そしてフランス政府はこの借款を、チュニジ\nアにおいてフランスの影響力を拡大する手段だとみなしてきたのである。\nそして1868年の初頭、フランスの銀行とチュニジア国債の債権者にとっ\nては不幸なことだったが、チュニジア政府はこの時もはや利子の支払い\nすらできなくなってしまった。これまでの投資が水の泡となってしまう、そう\n考えた3万人のチュニジア国債保有者はフランス政府に対し、チュニジア\nが国家破産を宣言してしまう前に投資を回収できるよう、軍事介入す\nべきだと要求してきた。;;;;;;;;;;X ACT162659A;債権保全のため、チュニジアに介入しよう;;;;;;;;;;X ACT162659B;自己責任だというのに、愚かな投資家だ;;;;;;;;;;X EVT162660N;負債危機へのフランスの介入をチュニジアが拒否;;;;;;;;;;X EVT162660D;負債危機を立て直せとする我々の要求を、チュニジア政府は拒否した。\nイギリスやイタリアもチュニジアに強い利害関係をもっているため、何として\nでもチュニジアに国際的な監督を受け入れさせる必要がある。;;;;;;;;;;X ACT162660A;チュニジア負債危機にイギリスの支援を要請する;;;;;;;;;;X EVT162661N;チュニジア負債危機に対するヨーロッパの利害;;;;;;;;;;X EVT162661D;チュニジアに強い利害をもっている他のヨーロッパ諸国も、チュニジアに\n国際的な監督を受け入れさせ、債権を保証してもらうために介入\nするなら、それに参加させよと求めている。;;;;;;;;;;X ACT162661A;国際負債委員会の創設を認める;;;;;;;;;;X ACT162661B;投資家には申し訳ないが、国際問題になればフランスの権益が危ない。;;;;;;;;;;X EVT162662N;チュニジアが国際負債委員会を承認;;;;;;;;;;X EVT162662D;チュニジア政府は負債危機を受けて、チュニジア財政の建て直しに向け\nた国債負債委員会の設立を受諾した。フランス、イギリス、イタリアそし\nてチュニジアの代表からなる国際組織により、チュニジアが以前に設定\nした借款は債権者に満額返済されることが保証された。;;;;;;;;;;X EVT162663D;チュニジアの鉄道をゲルマまで延伸し、アルジェリアの鉄道網に接続する\nという事業に特許を与えるよう、フランス領事のルースタンは求めてきた\nが、チュニジア政府はこれを拒絶した。チュニジア側は安全保障上の問\n題があると述べ、また国内における西欧の利害関係を均衡させる必要\nがあるとしている。;;;;;;;;;;X ACT162663;影響力維持のため、もっと効率の良い方法を探さねば;;;;;;;;;;X EVT162664N;ベルリン会議とチュニジア問題;;;;;;;;;;X EVT162664D;フランスはベルリン会議で多くの問題を解決したいと考えていたが、その\nひとつにチュニジアでの支配的地位について、というものがあった。当時\nイギリスはキプロスを掌握しようとしていたが、これはフランスの交渉担当\n者からすれば取引材料に見えた。すなわちキプロスでのイギリス支配を\n支持する代わりに、チュニジアから手を引くよう求めたのである。この主\n張には、フランスが自国の権益保護のため必要に応じ占領行為に出\nても、イギリスが関知しないことも含まれていた。;;;;;;;;;;X ACT162664;イギリスに話を持ちかける;;;;;;;;;;X EVT162665N;フランス・チュニジア協力条約;;;;;;;;;;X EVT162665D;イギリスはチュニジアにおけるフランスの優先権を認めた。そこで駐チュニ\nス領事のルースタンは条約案を作成したが、ここでフランスはチュニジア\nでの戦略的拠点を占領でき、またチュニジアの警察組織を再編できると\nされた。これによりフランスはチュニジア支配を掌握できる地位に立った\nが、チュニジア人からの抵抗を最小限に留めるには時宜を待つべきだろ\nう。;;;;;;;;;;X ACT162665A;条約を提案する;;;;;;;;;;X ACT162665B;国際情勢が味方するまで待とう;;;;;;;;;;X EVT162666N;フランス・チュニジア協力条約への国際的反対;;;;;;;;;;X EVT162666D;チュニジアの戦略拠点をフランスが占領できるとした我々の条約案をベ\nイは拒否した。そして他の列強もこの条約に反対の声をあげている。は\nたして今は退き、後に機会が巡るのを待つべきだろうか?それともチュニ\nジアでの地位保全のために、戦争のリスクを冒すべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162666A;もっと良い機会を待とう;;;;;;;;;;X EVT162667D;チュニス・グレット間の鉄道を保有していたのはイギリス企業だったが、18\n80年に鉄道路線が売りに出されることになった。それにまず手を上げた\nのがイタリアのルバッティノ社で、続いてフランス企業がより好条件で交渉\nを持ちかけた。そしてそのイギリス企業は、フランス側に売却しようというこ\nとになったのだ。しかしイタリア政府の後押しを受けたルバッティノ社はイ\nギリス企業を契約違反だと訴え、最終的に競売によって鉄道権益を手\nに入れてしまった。チュニジアでの取引においてイタリア人は攻めの姿勢\nを強めており、そのためにフランスの影響力が脅かされないか見守ってい\nく必要がある。;;;;;;;;;;X EVT162668D;エンフィダはチュニジアの宰相、ハイルッディーンの所領である。1880年7\n月、彼はこの土地をフランス商業局に売却することにしたが、チュニジア\n政府は売買契約を破棄してしまった。そして1880年12月に不審なまま\n競売が行われ、エンフィダはイギリスのユダヤ人であるジョセフ・リーヴィー\nが購入することになった。フランス領事は本来の売買契約を守らせようと\nしたものの、チュニジア政府のために頓挫した。イギリスはリーヴィーの購\n入を支持すると明言している。;;;;;;;;;;X EVT162669N;フランスはチュニジアに介入すべきか?;;;;;;;;;;X EVT162669D;ここ何年も他のヨーロッパ諸国はチュニジア権益のために行動し、我々\nの影響力は大いに削がれてしまった。ベルリン会議で列強からの承認を\n取り付けたからには、チュニジアに対する支配権を確保するべく動かね\nばならない。さもなくばチュニジアという熟れた果実は他国の膝元に落ち\nてしまい、アルジェリア本土の安全保障を脅かす事態になりかねない。チ\nュニジアへの直接介入を果たすべき時が到来したのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162669A;チュニジアへの支配権を行使するときが来た;;;;;;;;;;X ACT162669B;チュニジアをめぐって他の列強と戦うリスクは負えない;;;;;;;;;;X EVT162670D;ムハンマド・アッサーディク・ベイは我々の要求を呑んだ。我々はチュニジ\nアにフランス支配を打ち建てようとしているが、何がしかの係争事項が存\n在しているとき、他のどの国もこれに介入できなくなったのだ。国際負債\n会議のためチュニジアの直接支配が望めない現在、あらゆる点でチュニ\nジアにはフランスの支配が及んでいるといえるだろう。;;;;;;;;;;X EVT162671D;ムハンマド・アッサーディク・ベイは我々の要求を受け入れたが、他の\n列強がはこれに異議を申し立てている。フランスはチュニジアに完全な\n支配を確立せねばなるまい。;;;;;;;;;;X EVT162672N;チュニジアのアリー・ベイが認証を求める;;;;;;;;;;X EVT162672D;1882年の10月にムハンマド・アッサーディク・ベイが死去した。そして次\nのベイとして弟のアリーが統治にあたることになったが、これはあくまで名\n目上の話である。公式にベイとして認められるためには、フランス政府の\n賛成が必要だったのだ。そこで叙任書を受けるため、チュニジア使節が\nパリにやってきた。;;;;;;;;;;X ACT162672;アリー・ベイをチュニジアの支配者として承認する;;;;;;;;;;X EVT162673N;マルサ協定;;;;;;;;;;X EVT162673D;チュニジアに全面的な支配を確立するにあたって、フランスは国際負債\n委員会という最後の壁を乗り越えねばならなかった。チュニジアの債務\n返済を確実に履行させるため、この委員会は、ヨーロッパ諸国から出し\nた顧問に国政運営への発言権を認めていたためである。そこで1883\n年、フランスの駐チュニス公使であるポール・コンボンは他国の領事と交\n渉し、チュニジアが抱える1億2500万フランの負債をフランスが直接引き\n受けることを条件に、国際負債委員会を解散させることに成功した。;;;;;;;;;;X ACT162673A;協定を受諾し、チュニジアを全面的に支配しよう;;;;;;;;;;X ACT162673B;チュニジアでは現状維持だ。これが目的に適っている;;;;;;;;;;X EVT162674N;チュニジア南部の部族反乱;;;;;;;;;;X EVT162674D;1881年現在、チュニジア北部ではフランス侵略に対して敵意があらわに\nされることは少ない。しかしその頃、諸部族が支配する南部地域では、\nフランス軍がトリポリタニア国境の保全のため送られたことに不満が広\nがり、部族首長らによる反乱が発生してしまった。;;;;;;;;;;X EVT162675N;モロッコで新たな国際会議?;;;;;;;;;;X EVT162675D;モロッコの地位および列強の当地における役割について、国際会議を\n招集するようドイツが求めている。これを拒絶すれば、ヨーロッパに戦争\nの火種が生まれることになるだろう。しかし求めに応じて会議を開けば、\nモロッコでのフランス権益が害されることにもなり得る。;;;;;;;;;;X EVT162677N;モーシャン事件;;;;;;;;;;X EVT162677D;アルヘシラス会議の後、モロッコでの社会経済情勢はさらに緊迫し、ヨ\nーロッパ人への暴力沙汰もより酷いものとなっていった。そして1907年の\n3月、フランス人医師のエミール・モーシャンがマラケシュで反欧暴徒に殺\nされた。これに対し殺害犯に懲罰を加え、またアルジェリア西部国境を\n保全するためだとして、アルジェリアの陸軍指揮官はウジダ制圧の許可\nを求めてきた。だがこれによりモロッコ情勢はさらに悪化するだろう。;;;;;;;;;;X ACT162677A;ウジダに軍を送れ;;;;;;;;;;X ACT162677B;これ以上モロッコを不安定にはできない;;;;;;;;;;X EVT162678N;カサブランカ暴動;;;;;;;;;;X EVT162678D;ヨーロッパ勢力から見たモロッコでの治安情勢は、1907年に著しく悪化\nした。同年6月にはカサブランカでムスリムが蜂起し、ヨーロッパ人の資産\nの多くが破壊された。カサブランカ港の改善工事に従事していた技師\nが作業場に選んだのが、かつてムスリムの墓地だった場所だからだ。軍\n部はこの問題について、カサブランカ港を制圧しなければモロッコでのフラ\nンスの威信は地に落ちると信じ込んでいる。;;;;;;;;;;X ACT162678A;カサブランカ確保のためこれを制圧せよ;;;;;;;;;;X EVT162679N;モロッコの負債に関するパリ合意;;;;;;;;;;X EVT162679D;1910年2月、モロッコ政府はフランスに接近し、1904年に締結された\n借款について債務履行の見込みが無いため再交渉させてほしいと言っ\nてきた。商業界や軍部の面々の多くは、同意する代わりにモロッコの財\n政と軍事を掌握せよとフランス政府に訴えている。フランスがモロッコに\n地歩を得るときがついにやってきたのだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162679A;モロッコに提案しろ;;;;;;;;;;X ACT162679B;他の列強とモロッコ問題で疎遠になる訳にはいかない;;;;;;;;;;X EVT162680N;モロッコがパリ協定を受諾;;;;;;;;;;X EVT162680D;モロッコのスルタンがパリ協定を受諾した。この協定によってモロッコに\nおける我々の支配は保護され、また同地に全面的なフランス統治を\nもたらす礎となるだろう。;;;;;;;;;;X EVT162681N;モロッコのさらなる無秩序化;;;;;;;;;;X EVT162681D;1911年に交わされたアルムクリ協定により、ヨーロッパ系住民の安全確\n保と秩序維持のためフランスはモロッコに介入できることとなった。そして\n現在、ムーラーイ・ザインの反乱でフェズに住むフランス人の安全が脅か\nされている。反乱鎮圧のために軍を進駐させろと、モロッコ政府に要求\nすべきだろうか?;;;;;;;;;;X ACT162681A;モロッコに要求しろ;;;;;;;;;;X ACT162681B;これに割けるだけの軍が無い;;;;;;;;;;X EVT162682D;ドイツとの間で起こったモロッコ事件に対し、イギリスは仲介に向けた動\nきを続けてきた。その中でフランスのモロッコ支配を受け入れる条件とし\nて、ドイツはコンゴ川一帯の回廊地帯を割譲するよう求めてきたので\nある。交渉案を受け入れるべきか、戦争の脅威にさらされるか、どう\nすべきだろう?;;;;;;;;;;X ACT162682A;ドイツの要求を容れる;;;;;;;;;;X ACT162682B;脅しによる交渉など認められない;;;;;;;;;;X EVT162685N;フェズ条約;;;;;;;;;;X EVT162685D;モロッコにおける我々の地位について、ドイツの他に異議を申し立てる\n列強はなかった。そこで外相はモロッコをフランスの保護国とする条約案\nを準備している。影響下におく地域をめぐってスペインとの協議は続けら\nれているが、モロッコの大部分はフランスの支配下におかれることだろう。;;;;;;;;;;X ACT162685;スルタンに条約を提起せよ;;;;;;;;;;X EVT162687N;モロッコのフェズ条約受諾;;;;;;;;;;X EVT162687D;スルタンは保護条約に調印した。我々は今やモロッコに対し、\n法的にも支配を及ぼすことになったのだ。;;;;;;;;;;X EVT162688N;モロッコ問題に関するマドリード条約;;;;;;;;;;X EVT162688D;かつてモロッコ問題でフランスとスペインは協議を開き、モロッコをどのよう\nに両国間で分割するかという点について合意に至った。そしてモロッコが\n我々の支配下におかれた今日、スペインは支配地域の境界画定を求\nめてきている。この合意に従えば、リーフ地方の北部一帯と、スース谷\n以南の南部地域はスペインの支配に服することになる。;;;;;;;;;;X ACT162688A;必要な土地をスペインに割譲せよ;;;;;;;;;;X ACT162688B;モロッコでの立場を考えれば全土領有が筋だ;;;;;;;;;;X EVT162689D;かつてモロッコ問題でフランスとスペインは協議を開き、モロッコをどのよう\nに両国間で分割するかという点について合意に至った。そしてモロッコが\n我々の支配下におかれた今日、スペインは支配地域の境界画定を求\nめてきている。この合意に従えば、地中海に面するリーフ地方の北部一\n帯はスペインの支配に服することになる。;;;;;;;;;;X EVT162690N;1904年の仏西協定;;;;;;;;;;X EVT162690D;モロッコでフランスの影響力が強まってきたのを受けて、スペインは歴史\n上影響力を及ぼしてきた地域について領有主張を始めた。彼らの主\n張に従えば、その地域においてモロッコの主権は存在せず、スペインが\nこれを支配することになる。モロッコにスペインの影響圏を認めるべきだ\nろうか?;;;;;;;;;;X ACT162690A;モロッコ北部のスペイン権益を承認する旨申し出る;;;;;;;;;;X EVT162691D;スペインはモロッコに関する協定を受け入れた。今後行われるモロッコに\n関する協議では、彼らの外交的支援が見込めそうだ。;;;;;;;;;;X EVT162692N;フランス・モロッコ国境に関する1901年の合意;;;;;;;;;;X EVT162692D;フランスがサハラ砂漠へと拡大したことで、仏領アルジェリアとモロッコの間\nの国境に関する問題が重要性を帯びてきた。1901年の7月にモロッコと\n協議が行われ、国境委員と新たな制度が設けられた。これによりフラン\nスとモロッコはともに交易所を維持し、現地部族の動向や交易を管理\n下におけるようになったのである。;;;;;;;;;;X EVT162693N;フェズ反乱;;;;;;;;;;X EVT162693D;1912年にフランスはモロッコの政体を転覆し、モロッコは反ヨーロッパ感\n情が渦をなす破綻国家となってしまった。そして新たにフランス人指揮\n官のもとにおかれることとなったモロッコ人兵士らは、西洋化路線に\n則った改革が決まったことにひどく憤り、1912年の4月、離反して\nフェズ地方で反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT162694N;スルタン・ユースフの擁立;;;;;;;;;;X EVT162694D;フランスのモロッコ支配は先行き不透明でもまだ良いほう、といったところ\nであった。フランス側の総督であったリヨテ提督は、時のスルタンであるア\nブドゥルハフィーズがフランス支配を脱し、さらなる反乱を率いるのではな\nいかと憂慮した。そうしてリヨテはアブドゥルハフィーズを廃位し、その弟で\n親仏派のユースフをフランス保護領モロッコのスルタンとして擁立した。;;;;;;;;;;X ACT162694B;スルタン制を廃せよ;;;;;;;;;;X EVT162695N;マラケシュでアル・ヒバの反乱;;;;;;;;;;X EVT162695D;アル・ヒバの別名で知られるアフマド・ヒバトゥッラーは、モロッコ南部の有力\n者の息子である。彼は新スルタン・ユースフが擁立されたことについて、\n不法なフランスの傀儡による権力掌握だとみなし、イスラムが危機にあ\nると訴えた。そしてアル・ヒバはアラウィー朝を廃して自身をモロッコの正当\nなスルタンだとすべきだと主張したのである。こうしてモロッコ南部で広範\n囲にわたる反乱の火の手が上がった。;;;;;;;;;;X EVT162696N;タザでアル・シンキーティーの反乱;;;;;;;;;;X EVT162696D;アル・シンキーティーはイスラム神秘主義者で、モロッコ北東部の部族民\nから支持を得ていた。その頃フランスは南部で発生したアル・ヒバの反乱\nを叩いて回っていたが、1913年の春、アル・シンキーティーもタザでスルタ\nンを僭称し、モロッコ北部において新たな反仏反乱が発生することにな\nってしまった。;;;;;;;;;;X EVT162700N;アルジェリアがフランス行政区へ編入;;;;;;;;;;X EVT162700D;フランスによるアルジェリア殖民も進み、本土のフランス市民と同じ参政\n権を持ちたいとする要求も大きくなっていった。そして1848年の末に国\n民議会で新法が可決され、アルジェリアの民政所管地域は「県」となり\n議会へ代表を送る権利が認められた。;;;;;;;;;;X EVT162701N;ザアチャでアブー・ザイヤーンの反乱;;;;;;;;;;X EVT162701D;1847年にはアブドゥルカーディルの抵抗も終了し、フランスのアルジェリア\n支配に反対する連中のうち最大の危険分子が除かれることになった。\nしかし他の部族指導者らは、隙あらばフランス支配に対し抵抗運動を\n行っている。1849年にはオアシス都市のザアチャで、フランスの徴税官が\nナツメヤシに課税しようとしたのに反対して、ザアチャのシェイフである\nアブー・ザイヤーンが反乱を起こした。;;;;;;;;;;X EVT162702N;1851年のアルジェリア関税法;;;;;;;;;;X EVT162702D;1830年のフランス征服以来、アルジェリアはフランス本土と異なる経済\n主体とみなされ、本土への輸出品には関税が課せられた。しかし代議\n士を出すほどまでに植民者の数も増えてきた昨今、仏領北アフリカの経\n済開発を促進するためにフランス・アルジェリア間の関税障壁を撤廃す\nるよう求める声が、植民者らから上がっている。;;;;;;;;;;X EVT162703N;カビリアでアブー・バグラが反乱軍を組織;;;;;;;;;;X EVT162703D;1840年代、フランスは概してカビリアに手を出さないでいた。アブドゥルカ\nーディルの勢力が強かった当時、ベルベル人がさらに反乱を起こすことを\n恐れたのである。しかし1851年にはアルジェリアのフランス軍部もここに\n直接統治を敷くべき時が来たと判断し、その結果、アブー・バグラを首\n領とするベルベル反乱軍がフランスに対し蜂起した。;;;;;;;;;;X EVT162704N;アルジェリアで土地使用法;;;;;;;;;;X EVT162704D;アルジェリアをフランス植民地とするためには、長期的に見て植民者に\n土地を供与できるようにする必要があった。そうしてアルジェリア先住民\nの土地使用状況と、植民者が先住民の土地を購入できるようにする\nためのフランス側の権利関係について、フランス本土とアルジェリアの\n双方で議論が巻き起こった。1851年にかくして施行された土地法に\nより、森林地帯の国有地については全て植民者も購入できるようにな\nったが、先住部族の土地は保護された。これはある種の妥協であり、\nアルジェリアでの支持も薄かった。;;;;;;;;;;X ACT162704A;法案を通過させろ;;;;;;;;;;X ACT162704B;先住民の土地は保護せねば;;;;;;;;;;X EVT162705N;ランドン元帥とアルジェリア軍政の復古;;;;;;;;;;X EVT162705D;フランス本土でルイ・ナポレオンがクーデタに成功した。アルジェリアの植\n民者社会ではこれまで共和政が広く支持を集めてきたが、ここでも本\n土と同様に、軍部による統制が復活することになった。ナポレオンはラン\nドン元帥に命じてアルジェリアの統治機構を軍部の統制下におき、ここ\nにアルジェリアの民政は終わりを迎えることになった。;;;;;;;;;;X ACT162705A;軍政を復活させる;;;;;;;;;;X ACT162705B;民政を維持する;;;;;;;;;;X EVT162706N;アルジェリアでイスラム法廷の再編成;;;;;;;;;;X EVT162706D;ランドン総督がアルジェリアを視察に訪れたが、その目的のひとつに、先\n住民の制度体系を近代化するまでの間、先住民社会が植民者の支\n配を受けないよう保護するというものがあった。そして1854年に総督は、\nムスリム法制度を再編してカーディー(法治官)の指揮に服する宗教裁\n判所を設ける旨公示した。しかしこの改革はフランス人入植者から怒り\nを買った。先住民から入植用の土地を買う権利が制限され、またヨー\nロッパ人でも宗教裁判所にかけられるのではないかと思われたのである。;;;;;;;;;;X ACT162706A;法廷システムを再編する;;;;;;;;;;X ACT162706B;あらゆる法廷をフランスの支配下におく;;;;;;;;;;X EVT162707N;ドアノー事件;;;;;;;;;;X EVT162707D;ドアノーはトレムセンにあるアラブ局の支部長だったが、彼とかねてより険\n悪な関係にあった現地部族長が待ち伏せを受けて殺害されると、これ\nについて罪を問われることになった。入植者も先住民も、彼をアルジェリ\nア統治に軍政を敷こうとする暴君だとみなしており、オランで開かれた裁\n判はそうした立場からの糾弾の場と化した。しかしドアノーの関与を示す\n決定的な証拠だとされたものは、せいぜい状況証拠にすぎないのが実\n情だった。;;;;;;;;;;X ACT162707A;ドアノーを有罪にする;;;;;;;;;;X ACT162707B;彼は無実だ;;;;;;;;;;X EVT162708N;アルジェリアに鉄道;;;;;;;;;;X EVT162708D;アルジェリアで長期的にフランスの権益と支配を維持していくためには、\n鉄道が重要になってくるとランドン総督は考えていた。そこで1857年4\n月に布告を発してアルジェリア植民地政府に対し、オランからアルジェを\n通ってコンスタンティーヌに向かう鉄道路線を建設するよう命じた。;;;;;;;;;;X ACT162708A;アルジェリアでの鉄道建設を支援する;;;;;;;;;;X ACT162708B;植民地にそんな贅沢をする余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT162709N;カビリア征服;;;;;;;;;;X EVT162709D;フランスの支配を受け入れまいとするカビリアでの抵抗運動には、アルジ\nェリアのフランス行政官も頭を抱え続けてきた。しかし1857年にランドン\n総督は、現地部族を屈服させてフランスの監督下に置くことを目標に、\nカビリアに派兵することを決めた。アブー・バグラ一味による抵抗は決然と\nしたものだったが、最終的にはこれも鎮圧された。;;;;;;;;;;X EVT162710N;アルジェリア大臣;;;;;;;;;;X EVT162710D;アルジェリア行政に軍の統制がかかっていることについて、入植者らの間\nで不満が高まっていたが、この傾向はドアノー事件で拍車がかかり、アル\nジェリアに民政を復活させようとの声が上がりだした。アルジェリアの軍部\nはこうした動きに反対で、アルジェリア社会が入植者に牛耳られている\nことについて、民政を導入すればきっと先住民らに敵意が芽生えるだろ\nうと考えている。;;;;;;;;;;X ACT162710A;アルジェリアに民政を復活させる;;;;;;;;;;X ACT162710B;軍政を維持する;;;;;;;;;;X EVT162711N;アルジェリアに県議会創設;;;;;;;;;;X EVT162711D;アルジェリア行政に対する軍の管制が外れたことで、フランス本土の地方\n行政区をモデルとした地方議会を求める声が上がっている。こうしてアル\nジェリアの3州それぞれに県議会が創設されたが、参政権はヨーロッパ系\n入植者に厳しく限定され、アルジェリア先住民には与えられなかった。;;;;;;;;;;X EVT162712N;イスラム法廷がフランスの監督下に;;;;;;;;;;X EVT162712D;1854年に行われたイスラム法廷の再編は、フランス人入植者からして\nみれば、アルジェリアにおける政治経済面での立場を脅かしているように\n見えた。彼らはムスリム社会がフランスの支配から離れ、社会的な並列\n構造が生まれるのを恐れたのだ。そしてシャスルー・ローバが新しくアルジ\nェリア大臣となると、1859年に布告を発し、イスラム法廷での裁判はす\nべてフランスの裁判所に上訴できるようになった。つまりイスラム法廷はフ\nランス司法システムの監督下に置かれるようになったのである。;;;;;;;;;;X ACT162712A;フランスの裁判所をイスラム法廷の上位に置こう;;;;;;;;;;X ACT162712B;イスラム法廷はフランスの司法システムの外にある;;;;;;;;;;X EVT162713N;ホドナ族の反乱;;;;;;;;;;X EVT162713D;ホドナ族はアルジェリア南西部のティーテリー地方で強い勢力をもってい\nた。しかしアルジェの県議会が彼らの土地の大部分を未使用、つまりフ\nランス人入植者に払い下げられる土地として定義しなおそうとしたのに\n対し、1860年の春、彼らはフランス当局に叛旗を翻した。;;;;;;;;;;X EVT162714N;ナポレオン3世のアルジェリア訪問;;;;;;;;;;X EVT162714D;入植者の追求している経済的、文化的な政策は、多数派を形成して\nいるムスリム先住民の怒りを買っている。そのためフランス軍部の指導層\nはアルジェリアでの民政復活が、植民地の安定を損ねる恐れがあるとみ\nていた。そして一方、ナポレオン3世は状況を自ら観察しようと、1860年\n9月にアルジェリアを訪問して軍部、民間問わず多くの指導者と接見し\nた。;;;;;;;;;;X EVT162715N;アルジェリア大臣の廃止;;;;;;;;;;X EVT162715D;ナポレオン3世はアルジェリアを訪問した際、アルジェリア大臣がフランス人\n入植者の言いなりであって、アルジェリアで大多数を占めるムスリムの間\nに不安定をもたらしていることを確信した。その結果として皇帝は大臣\n職を廃止し、植民地に対する軍の管制を復活させることになった。軍\n部はこれに歓喜したが、アルジェリアのフランス系入植者は怒りを禁じえ\nなかった。;;;;;;;;;;X ACT162715A;大臣職を廃止し、総督を呼び戻そう;;;;;;;;;;X ACT162715B;アルジェリアの民政は残さなければ;;;;;;;;;X EVT162716N;イスマイル・ユルバン;;;;;;;;;;X EVT162716D;イスマイル・ユルバンはギアナ生まれのムラートで、後年イスラムに改宗し\nた人物である。その彼は著書のなかで、アルジェリアの多数派であるムス\nリムの法的、経済的、文化的実態をフランスは守らなければならないと\n心情的に訴えた。ユルバンの主張によれば、アルジェリア先住民を祖国\nに忠誠を誓うフランス市民に変えていくには、これを長期にわたってじっく\nりと行われるべきであるという。またアルジェリアのフランス入植者がやって\nいる事は、フランス支配に対するムスリムの敵意をかきたてるだけだとユル\nバンは批判した。;;;;;;;;;;X EVT162717N;「アラブ王国」書簡;;;;;;;;;;X EVT162717D;ナポレオン3世はイスマイル・ユルバンの思想に深く感銘を受け、アルジェ\nリアの軍部が行っている植民地のフランス化は多数派であるムスリムを\n敵に回しているだけだと考えた。そこでナポレオン3世は総督のペリシエ\n元帥に手紙を書き、アルジェリアはフランスの庇護下にある「アラブ王国」\nであって、フランスの最終的な目標はいつの日か本国の良きパートナー\nとなれるよう、アルジェリア社会を近代化することにあるとの主張を示した。;;;;;;;;;;X ACT162717A;ペリシエに手紙を送る;;;;;;;;;;X ACT162717B;植民者はアルジェリアの礎だ;;;;;;;;;;X EVT162718N;1863年の元老院決議;;;;;;;;;;X EVT162718D;アルジェリア植民地政府が1850年代に行った土地取得には、正当性が\n疑わしいものもあった。数10万ヘクタールにわたって土地が譲渡され、\n多くの部族民が不毛な辺境の地に追いやられたのだ。こうした土地売\n買に対する批判を受けて、先住民の土地は生産性があるならばヨーロ\nッパ人入植者に譲渡してはならないとする布告が、皇帝により発せられ\nることになった。1863年に出された元老院決議はこうした要求に応える\nものだったが、これにより多くの入植者が憤慨する結果となってしまった。;;;;;;;;;;X ACT162718A;布告を出せ;;;;;;;;;;X ACT162718B;入植者の怒りを買う余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT162719N;アウラード・シーディー・シャイフの反乱;;;;;;;;;;X EVT162719D;1861年にアウラード・シーディー・シャイフの首長となったサイード・スレイ\nマーンは、1864年にフランスに対し反乱を起こした。元老院決議にもか\nかわらず彼ら部族の土地が、殖民者に売却できるものとして審決され\nそうになったためである。フランスは約束を守らないという不信もあって、\n反乱はアルジェリア西部の大部分に広がっていった。;;;;;;;;;;X EVT162720N;アルジェリア行政局に対する軍の管制;;;;;;;;;;X EVT162720D;1860年にアルジェリア省が廃止されたことで、アルジェリアには軍部と文\n民の二重官僚制が生まれてしまい、司法の場でも双方の主張が対立\nするようになった。アウラード・シーディー・シャイフの反乱はこの二重制度\nに由来すると軍部は主張し、ナポレオン3世に対して文民の行政制度\nを軍の監督下におくよう求めた。入植者はこれを権利の侵害だとしてひ\nどく反発している。;;;;;;;;;;X ACT162720A;アルジェリアの行政局に軍の管制をきかせろ;;;;;;;;;;X ACT162720B;文民統制は維持されなければ;;;;;;;;;;X EVT162721N;ナポレオン3世が再度アルジェリアを訪問;;;;;;;;;;X EVT162721D;1865年、ナポレオン3世は二度目のアルジェリア訪問を行い、1860年に\nはじまる改革の影響を確かめようとした。そして1ヶ月の滞在期間中、皇\n帝は各部族や入植者、そして軍部の長といった、アルジェリアの長期的\n発展という問題を同じくする面々からの使節団と接見した。;;;;;;;;;;X EVT162722N;1865年の元老院決議;;;;;;;;;;X EVT162722D;1865年のナポレオン3世訪問を受けて、同年に元老院決議が布告さ\nれた。その内容とは全てのアルジェリア住民を、民族や宗教に関わらずフ\nランス臣民として認めることだった。つまり民事に関するフランスの法律を\n受け入れる意思があるというのなら、先住民であってもアルジェリアのヨー\nロッパ系入植者と同等の権利を持つフランス市民として、その帰化を認\nめようとするものである。入植者はこの布告に対し、アルジェリア社会に\nおける支配的地位を脅かすものとして反対意見を表明し、またムスリム\nからは、完全な市民権のためにはイスラム法を放棄せねばならないのか\nとの批判も受けた。;;;;;;;;;;X ACT162722A;布告を出せ;;;;;;;;;;X ACT162722B;入植者の怒りを買う余裕は無い;;;;;;;;;;X EVT162723N;アルジェリアで1868年の旱魃;;;;;;;;;;X EVT162723D;アルジェリアの農業は天候に依存している。1867年から1868年の冬季\nにかけては雨量が少なく、大旱魃が発生した。これによりアルジェリアの\n農村部では飢饉が発生する見込みで、またいくつもの州で農業生産\n高が減少することになった。この旱魃はなかでも、生産性の低い土地に\n追いやられていた先住民に影響を与えることとなった。;;;;;;;;;;X EVT162724N;アウラード・シーディー・シャイフが再度反乱;;;;;;;;;;X EVT162724D;1864年にサイード・スレイマーンは打倒されたものの、アウラード・シーデ\nィー・シャイフは依然として反抗的なままだった。そして旱魃と、止むこと\nの無いフランス入植者の土地をめぐる圧力から、彼らは再び1869年に\n反乱を起こすことになった。;;;;;;;;;;X EVT162725N;アルジェリアの現状に関するベイク委員会報告;;;;;;;;;;X EVT162725D;1869年、フランス帝国においてアルジェリアがどうあるべきか決定するた\nめ、アルマン・ベイクを長とする委員会が設けられた。そして委員会が推\n薦したところによれば、アルジェリア先住民も入植者と同等の政治的権\n利を享受できるような自治制度が必要であるという。入植者らはこれに\n強く抗議し、北アフリカでのフランスの立場を確立するためには、アルジェ\nリアをフランスに直接統合しなければならないと主張した。;;;;;;;;;;X ACT162725A;勧告を受け入れる;;;;;;;;;;X ACT162725B;勧告を拒絶する;;;;;;;;;;X EVT162726N;アルジェリアで民政の復活;;;;;;;;;;X EVT162726D;アルジェリアはフランス本土に統合されなければならないとする、入植者\nの主張が支持されたことで、ベイク委員会やアラブ王国の構想からは\n離れ、入植者が全面的に支配する以前の体制に戻ってしまった。この\n体制において、アルジェリア先住民は権力から排除されている。;;;;;;;;;;X EVT162727N;クレミュー法令;;;;;;;;;;X EVT162727D;1870年の秋、フランスのユダヤ人団体が請願書を提出し、仏領北アフ\nリカに住むユダヤ人がフランス市民権を得られるようにと訴えた。こうした\n運動により、アルジェリア社会における一大勢力がフランス植民地に連\n関し、またフランス市民の数も増加すると主張されたのだ。しかし一方、\n入植者の多くはこの案に反対していた。アルジェリアの開発における支\n配権が弱められるかもしれないと考えたためだ。;;;;;;;;;;X ACT162727A;アルジェリアのユダヤ人はフランス市民だ;;;;;;;;;;X ACT162727B;市民権を得られるユダヤ人はフランス生まれに限る;;;;;;;;;;X EVT162728N;カビリアでの反乱;;;;;;;;;;X EVT162728D;1871年、フランスはプロイセンに敗北した。アルジェリアの大多数を占め\nるムスリムはこれに驚き、その多くは祖国に対するフランス支配に終わり\nが来たと考えた。そしてカビリアでは、ムハンマド・アル・ムクラーニーに率\nいられたベルベル人の一派が、フランスに対する反乱の口火を切った。;;;;;;;;;;X EVT162729N;ラフマーニーヤ教団がフランスへのジハードを宣言;;;;;;;;;;X EVT162729D;アルジェリアのイスラム神秘主義結社の中でも最大のものにラフマーニー\nヤ教団があるが、これはフランス人の入植者がカビリア地方に食い込む\nのを強く阻止してきた。だがアル・ムクラーニーが1871年に反乱を起こす\nと、間もなく教団も急進化し、ついにはアル・ムクラーニーと連合するまで\nに至る。そして教団はフランスに対するジハードを宣言し、アルジェリア東\n部にわたる大反乱が起こることになった。;;;;;;;;;;X EVT162730N;アルジェリアの土地所有に関するヴァルニエ法;;;;;;;;;;X EVT162730D;カビリアの反乱は鎮圧されたが、これを受けてアルジェリアにおけるフラン\nスの土地取得にかかる制限は、1863年から撤廃されることになった。\n反乱に参加した部族はその土地を没収され、また反乱に直接参加し\nなかった部族に対しても、彼らの所有する広大な土地についてその取得\nのために土地利用状況が再定義されることになった。ヴァルニエ法は、\nフランス入植者の大勝利の表れである。;;;;;;;;;;X EVT162731N;先住民法;;;;;;;;;;X EVT162731D;1870年代末にもなると、フランス入植者とアルジェリア先住民の関係は、\n次第に支配者と従属者のそれになっていった。そうした中1871年に制定\nされた先住民法では、先住民には別個の刑事システムが設けられた。\n植民地政府は「法と秩序」への種々の侵害を理由に、先住民に対して\n裁判無しに刑罰を与えられるようになったのである。こうした法令は、\n19世紀の後期になると多くのフランス植民地で刑法モデルとして\n採用された。;;;;;;;;;;X ACT162731A;先住民を抑え込まねば;;;;;;;;;;X ACT162731B;先住民も入植者と同じ権利を持っているだろう;;;;;;;;;;X EVT162732N;アルジェリアがフランス本土の行政制度に統合;;;;;;;;;;X EVT162732D;アルジェリアに対して入植者が究極的にもとめる政治目標は、フランス\n本土への直接統合であった。ラタシュマン(再帰属)と呼ばれたこの思\n想は本土でも広く支持を獲得し、1881年には国民議会へと上程され\nた。これが可決されれば、アルジェリアのあらゆる植民地統治機構は廃\n止され、フランス内地の県と同等の領域としての地位を得ることになる\nだろう。;;;;;;;;;;X ACT162732A;アルジェリアを本土の行政制度に組み込もう;;;;;;;;;;X ACT162732B;アルジェリアは別個に統治されるべきだ;;;;;;;;;;X EVT162733N;アルジェリア法とヨーロッパ系入植者の帰化;;;;;;;;;;X EVT162733D;フランスがアルジェリアへの植民奨励運動を活発に行ったため、フランス\n出身者以外もアルジェリアに移民するようになった。そして1880年代に\nは、アルジェリアに住むヨーロッパ系住民の半数近くが非フランス系、つま\nりスペイン人やイタリア人、マルタ人といった出自を持つようになっていた\nのだ。そこでアルジェリアのフランス人は多数派としての地位を失うのでは\nないかと考え、1889年に法案を提出し、アルジェリアで生まれた子供は\nヨーロッパ系であるなら、血統に関係なくフランス市民権を与えられるよ\nうにした。;;;;;;;;;;X ACT162733A;法案を通過させ、アルジェリアをフランスのまま保て;;;;;;;;;;X ACT162733B;フランス人でなくてもヨーロッパ系なら脅威ではない;;;;;;;;;;X EVT162734N;アルジェリア先住民の現状に関するジョナール報告;;;;;;;;;;X EVT162734D;アルジェリアがフランスの統治機構へのラタシュマン(再帰属)を果たして\nから約10年が経った。そこへ、フランスの行政官が多数派であるアルジェ\nリア先住民に対し著しく配慮の欠いた扱いをしているという報告があが\nり、国内にセンセーションが巻き起こった。こうした報告のなかでも重要\nなのが1892年のジョナール報告である。改革派のアルジェリア知事であ\nるジョナールによれば、ラタシュマンはアルジェリア先住民にとって災厄で\nあり、彼らが貧困に苦しむ一方でフランス入植者が富を得ているとのこ\nとだ。;;;;;;;;;;X ACT162734A;アルジェリアでの現状を調査させよう;;;;;;;;;;X ACT162734B;アルジェリアの先住民は危機状態にない;;;;;;;;;;X EVT162735N;アルジェリアに関する18人委員会報告;;;;;;;;;;X EVT162735D;ジョナール報告を受けて、アルジェリアの現状をきっちりと調査するために、\nジュール・フェリーを長とする18人委員会が発足した。そして報告書が出\nされたとき、政治世界に論争の嵐が巻き起こった。報告書のなかで彼ら\nは入植者政府によるアルジェリア先住民の扱いを糾弾し、また先住民に\nアルジェリアでの全面的な政治的権利を与えるよう改革を行うべきだと\nしたためである。;;;;;;;;;;X ACT162735A;アルジェリアには改革が必要だ;;;;;;;;;;X EVT162736N;アルジェリアで入植者の騒乱;;;;;;;;;;X EVT162736D;ドレフュス事件がもたらした社会不安に加え、アルジェリア社会を入植\n者が支配していることへの精査が次々と入ったことで、1898年の1月、\nついにアルジェリアの数都市で反ユダヤ、反ムスリム暴動が発生した。そ\nしてこの暴動は、入植者が統治により深く関われるようにしたいとする自\n治主義志向と結びつくようになった。;;;;;;;;;;X EVT162737N;アルジェリアに財政自治の許可;;;;;;;;;;X EVT162737D;入植者らの間で自治に関する抗議が増えてきたのを受けて、アルジェリ\nア側が財政委員会を組織し、それを通じて再び財政を管理できるよう\nにすることをフランス政府は提案した。この出来事は植民者の主な関心\nが、フランスへの全面的統合から、フランスの一部としてアルジェリアの行\n政を自ら支配することに、大きく変わったことを示している。;;;;;;;;;;X ACT162737A;財政自治を認めよう;;;;;;;;;;X ACT162737B;アルジェリア財政には引き続き管制をかけよう;;;;;;;;;;X EVT162738N;イスラム法に関するモーラン委員会;;;;;;;;;;X EVT162738D;アルジェリア植民地政府はその人口の大多数を占めるムスリムについて、\n彼らの制度を「近代化」することが彼らの発展に最も寄与すると考えて\nいた。そして1905年、その思想に基づき植民地政府はマルセル・モーラン\nを長とする委員会を組織し、イスラム法の編纂にあたらせることにした。\nイスラム聖職者はこれについて、イスラムの伝統にフランス的価値観を押\nし付けようとしているとみなし、これに激しく反発した。;;;;;;;;;;X EVT162739N;青年アルジェリアとアル・ヒラール紙;;;;;;;;;;X EVT162739D;20世紀初頭になると、アルジェリアのムスリム知識人にも西洋式の教育\nを受けた新世代が立ち現れるようになった。青年アルジェリアに代表され\nるこうした知識人は、ムスリムがアルジェリア社会で二等市民に甘んじ、\nまたフランスの入植者社会への同化が唱えられている現状に憤りを隠さ\nないでいた。そして1906年、彼らはアル・ヒラール紙という新聞を新しく\n創刊し、アラブ住民にその考えを広めようとした。;;;;;;;;;;X ACT162739A;監視するが発行を認めよう;;;;;;;;;;X ACT162739B;危険な考えだ、弾圧しよう;;;;;;;;;;X EVT162740N;青年アルジェリア覚書;;;;;;;;;;X EVT162740D;1912年、青年アルジェリアの一派がパリの政府に書簡を送り、アルジェリ\nアでのムスリムの二等市民としての扱い、つまり先住民法の廃止とアル\nジェリア統治に対するムスリム住民の参加を認めるよう要求した。;;;;;;;;;;X ACT162740;アルジェリアの民族主義が高揚している;;;;;;;;;;X
テキスト整形のルールを表示する
添付ファイル:
フランス未使用イベント.txt
605件
[
詳細
]