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*VIP-166K GREECE [#w1164887] ####### GREECE #######;;;;;;;;;;;X EVT166000N;ギリシアの農業の発展;;;;;;;;;;X EVT166000D;財政収入の中心となるのは農夫の納める税金であり、農業の発展は\n国家の繁栄の基盤であった。したがって、耕作地を広げる為に農夫\nに与えられた土地と資金はすぐに税金という形で取り戻される事とな\nった。政府は海外在住のギリシア人や外国の銀行、他の欧州国家か\nら借り集め続け、手に負えないほどの負債とそれに耐え忍ぶという\n現代まで続く形式を確立する事となった。;;;;;;;;;;X ACT166000A;税収入を増やそう;;;;;;;;;;X ACT166000B;現状を維持しよう;;;;;;;;;;X EVT166001N;政治的危機;;;;;;;;;;X EVT166001D;オソン王による統治の第一段階で政局は不安定であった。オソン\n王と彼の助言者達は政治・法・教育における土着の伝統に関心を\n示さなかった。1834年に確立した政体は戦争の間存在した社会的\n分離をそのまま保持しており、更に新しい社会的分離を生み出すも\nのであった。王国は行政上10の県、15の副県、468の郡に分類され\nた。全ての首長は王によって任命された。この郡レベルでは小さな寡\n頭制が役割を担っていた。このような絶対的権力は共和制の名をか\nけて戦争を戦い抜いたギリシア人の信頼を失っていった。武装部隊は\n彼らを戦時に率いていた指導者が政治的目的を達成するのを助け\nる為に再編成され、1835年から1842年の間に過激な暴動が毎年\n起こる事となった。;;;;;;;;;;X ACT166001A;安定性はわかりにくいがいまだ存在している;;;;;;;;;;X EVT166002N;ギリシア復活;;;;;;;;;;X EVT166002D;様々な障害を乗り越え、ギリシアは11年の戦争の荒廃から蘇った。\n新首都アテネには王宮が建てられ、大邸宅には王宮に集う政治的\nエリートが住む事になった。地方への再移住により農業生産は立ち直\nった。海運業は戦時の損失から立ち直り、ギリシア人商人が地中海\nの遠洋航海における貨物の大部分を扱うようになり、キクラデス諸島\nのシロスや北西部のペロポネソスのパトラスといった港は再び繁栄す\nる事となった。;;;;;;;;;;X EVT166003N;最初の憲法とメガリ・イデア;;;;;;;;;;X EVT166003D;オソン王の統治の第二段階は、軍事クーデターの余波により憲法を\n起草する為に国民会議を招集した1844年3月から始まった。春に国\n民会議が憲法を起草し終え新しい政体が確立された。オソン王は\nこの後、立憲君主として政務を行う事となった。二院制議会は全て\nの25歳以上の男性による投票によって選出される事となった。理論\n上、ギリシアは欧州で最も民主的な国家となった。ドイツの官僚はオソ\nン王の政府のリベラルな考えをドイツに広めた。しかしながら、オソン\n王は政府閣僚を任命・罷免する権利、議会を解散する権利、法律に\n対する拒否権、実行力のある布告を出す権利を保有していた。政\n党を助成する代わりに、議会制民主主義は個人を崇拝する新しい\n派閥主義を生じさせた。この様な政治は新制度の下に1844年首相\nに任命されたイオアニス・コレティスの行政によって例示された。コレティ\nスは議会を上手く運営し、贈賄や脅迫や鋭く敏感な世論などを巧み\nに使用して行政権を実質的に掌握した。またコレティスは共和国に\n隣接するオスマン帝国の領土を併合して、ギリシア人を再結集しなけ\nればならないという思想であるメガリ・イデア(偉大な思想)を唱えた。\nオソン王がメガリ・イデアを達成出来なかった事が彼を失脚させた主な\n原因であった。この民族統一主義は独立運動に続く、ギリシアの様\n々な派閥と地方を結び続ける唯一の思想であった。メガリ・イデアは1\n9世紀を通じてギリシアの外交方針の全てに影響を及ぼす事となった\n。1830年代後半には、すでにテッサリ、マケドニア、エピルスでギリシア\n人による反乱が起こっていた。;;;;;;;;;;X ACT166003A;リベラルな憲法とメガリ・イデア!;;;;;;;;;;X ACT166003B;リベラルな憲法はいいがメガリ・イデアは却下!;;;;;;;;;;X EVT166004N;ゲオルギオス一世への大英帝国の贈答品;;;;;;;;;;X EVT166004D;1864年ゲオルギオス一世の統治が始まると大英帝国は1815年以来\n保護国としていたイオニア諸島をギリシアに割譲した。;;;;;;;;;;X EVT166005N;1864年の憲法;;;;;;;;;;X EVT166005D;1864年国会はギリシア国民に主権を与え、君主の権限を限定した\n新しい憲法を発布した。一院制の議会は完全な立法権を持ち、直\n接かつ秘密投票で選出される事となった。しかしながら、王はかなりの\n権限を保有していた。ギリシアの憲法改正は小さな政変でしかなかっ\nた。権力を持つ人物は後援組織を通じて封建領土を維持し続け、\n工業化や政府の計画等のような問題について、増加しているリベラル\nな都市の中産階級と保守的な老いた寡頭制を維持するエリートとの\n分裂を生む事となった。19世紀後半のギリシアの政治風土のかなり\nの要素を占めたものは増加した政治クラブであった。このようなクラブ\nは職業人や地主達に政治的な議論を生み出させ、地方の有力者と\n議会の議員とを結びつかせる事となった。また彼らはクラブの政見を主\n張する議員候補の支援をする動員を行った。例えば、大地主は地元\nの後援者を代表して自らの下にある労働者の票を保障した。アテネ\nを拠点とした青果組合のような職人組合や商人組合は、政治的文\n化変容と選挙支援の為の動員等の準備をした。このようなクラブと組\n合の間に合わせの仕事は、流動的な政治派閥のグループ分けとなり\n1864年の憲法の下でギリシアの議会制民主主義の出発点となった\n。新憲法が発布されたが、しかしながら政局は安定しなかった。1865\n年から1875年まで7回の総選挙があり、18もの異なった政権が誕生\nする事となった。ゲオルギオス王は法案か予算案が通過しなかった場\n合政府の任命と罷免を行ったので、政治的指導者は常に競合する\n政党と壊れやすい与党の連立を操る事となった。しばしば王は、少数\n政党の党首に政府を形成するように指示し、より重要な立法の案件\nは無視され、政治上の停滞が起きて民主的な過程はまやかしである\nと証明されてしまった。;;;;;;;;;;X EVT166006N;厄介なトリクピス;;;;;;;;;;X EVT166006D;1869年、政治家であるハラリオス・トリクピスは行詰りの状況にあると訴\nえ始めた。1874年にトリクピスが新聞に王が少数派内閣に寛容である\nと論説を書くと、彼は反逆罪で逮捕された。;;;;;;;;;;X ACT166006A;彼を釈放する;;;;;;;;;;X ACT166006B;彼を獄中で腐らせてしまえ!;;;;;;;;;;X EVT166007N;トリクピスの改革;;;;;;;;;;X EVT166007D;王は議会で最も勢力を持つ政党の指導者が組閣する事に同意した。\nもしもどの政党も過半数の支持を得られなければ、王は議会を解散さ\nせ総選挙を実施した。比較的安定した19世紀末の25年間はこの改\n革の結果があった。トリクピスと彼の最大のライバルであるテオドロス・ディ\nリヤンニスは、この期間最も有力な政治家であった。トリクピスは西洋化\n・近代化推進論者であり、ディリヤンニスは伝統主義派であり民族統\n一主義を強く主張していた。トリクピスはギリシアが真に‘モダン’な国家\nとなるのに経済の発展、更に自由な社会とより強大な軍事力が必要\nだと見ていた。彼が首相として任期があったのは全部で7回で内3回は\n1880年代であり、ディリヤンニスは5回の政変の間に一度首相について\nいる。トリクピスはギリシアにとって重要な経済・社会改革を行った。トリ\nクピスはギリシアの輸出部門とそれを支える主要な分野である輸送網と\n農業の発展に力を入れた。1800年代最後の10年間である程度うまく\nいった農業改革の狙いは、農村の財政を改善し購買力を増加させギリ\nシアの国際収支の慢性的な赤字を改善する事だった。しかしながら、\n分割貸与された農地ではほとんどの農民が生計を維持できる規模より\n上のレベルまでは農業が発展せず、財産のある農民を締め出し一つの\n作物に頼るかなり不安定な農産物輸出の構造を作り上げた。1875年\nから1895年までの間にギリシア船籍の汽船の総トン数はおよそ16個の\n要素により増加し、工業化、特に繊維生産はトリクピス政府の下で発\n展した。1875年から1900年の間にギリシアの工場の蒸気出力は250%\n以上増加した。さらにトリクピスは公教育を大幅に広げる事によって、\n衣服や建築、芸術、マナーで西洋の指向を取り入れた新しい文化を\n発展させた。このような改革の原動力となったものは海外からの債務で\nあった。;;;;;;;;;;X ACT166007A;改革しよう!;;;;;;;;;;X ACT166007B;現状を維持しよう;;;;;;;;;;X EVT166008D;1896年にオスマン帝国の統治に対する反乱がクレタで始まった。そこで\nは人口の大半が「エノシス(ギリシアに併合されるべきと考える一派)」で\nあるか、ギリシア王国との連邦を望んでいた。翌年ギリシアから義勇兵が\n到着した。1897年、ギリシアはオスマン帝国に宣戦布告した。;;;;;;;;;;X EVT166009N;1897年の希土戦争に敗北;;;;;;;;;;X EVT166009D;ギリシアがオスマン帝国との短期決戦で大敗を喫した事を受けて、列強\nはオスマン帝国に賠償金を払いギリシア―オスマン帝国間のある程度の\n国境線の変更を受け入れるようにギリシアに求めた。1898年、列強は\nクレタを自治領としオスマン帝国軍は島から退去するように求めた。クレ\nタはオスマン帝国の領土ではあったが、列強は島を治める総督としてゲ\nオルギオス一世の第二子ゲオルギオスを指名した。;;;;;;;;;;;X ACT166009;我々の敗北は価値があった;;;;;;;;;;X EVT166010N;改革時代の終焉;;;;;;;;;;X EVT166010D;1887年までには政府予算のおよそ40%は国債の返済にあてられた。ト\nリクピスは多くの商品に税金を掛け、輸入関税を徴収し、地租を上げ、\n塩とマッチを政府独占とした。1880年代を通じた慢性的な赤字は189\n0年代の経済的崩壊の引き金となった。1893年に主要な輸出商品だ\nった干しぶどうの価格が落ちると、国家経済は崩壊した。戦争という重\n荷がのしかかった1897年にはギリシアは破産していた。そして、多くの有\n益で恒久的な変化をもたらした改革の時代は終わった。;;;;;;;;;;X EVT166011D;1887年までには政府予算のおよそ40%は国債の返済にあてられた。ト\nリクピスは多くの商品に税金を掛け、輸入関税を徴収し、地租を上げ、\n塩とマッチを政府独占とした。1880年代を通じた慢性的な赤字は189\n0年代の経済的崩壊の引き金となった。1893年に主要な輸出商品だ\nった干しぶどうの価格が落ちると、国家経済は崩壊した。1897年には\nギリシアは破産していた。そして、多くの有益で恒久的な変化をもたらし\nた改革の時代は終わった。;;;;;;;;;;X EVT166012N;エノシスとクレタ;;;;;;;;;;X EVT166012D;1908年、クレタ島の議会はギリシア王国への加入を宣言した。この時\nは非公式なものだったが、列強は1912年にはギリシアによるクレタの併\n合を正式に承認した。;;;;;;;;;;X EVT166013N;1909年のクーデター - 陸軍がグディに進軍;;;;;;;;;;X EVT166013D;誰一人政治腐敗と軍事的な弱点を、もしくは陸軍将校が愛国的な意\n識に影響されやすい事を意識していなかった。1909年7月、1300人の\n下級将校が軍備拡大と軍事改革を行うための財政・税金改革を求\nめ、「軍人同盟」を組織して陳情を作成した。ゲオルギオス王が改革を\n約束し新たな大臣を任命したが、新しい首相で注目すべきところの無\nいマヴロミハリスは約束を破り、自らの友人をそのポストに据えた。将校\n達は普通の派閥政治であると抗議した。マヴロミハリスは軍人同盟の\n指導者を軍法会議にかけ、将校の代表団に会うのを拒絶した。それに\n対抗し、アテネの守備隊はグディ郊外に進軍し、改革と恩赦を要求し\n首都を占領すると脅迫した。低い税金を求めていた都市の小型船舶\nギルドは同盟を支持した。別の改革相が権力を掌握したが、同盟は政\n府に対し指定した法案が可決されない場合、同盟が権力を掌握して\n軍事独裁を布くと通告を出し法案は即座に可決された。1903年のセ\nルビアの危険な先例のようになった。文民政治はもはや、軍隊の下級\n将校の思うままに機能した。それからの数ヶ月、軍人同盟は議会から\n民間の職員と大使を排除し、陸軍から権力を奪おうとした海軍兵士の\n反乱を鎮圧し、立法府に予算案の通過を求めたがその多くは実行不\n可能であった。例えば低い税金である。;;;;;;;;;;X EVT166014N;エレフテリオス・ヴェニゼロスが立ち上がる;;;;;;;;;;X EVT166014D;エレフテリオス・ヴェニゼロスは20世紀前半で最も有力な政治家であり、\n彼は社会・経済において大きな足跡を残した。輝かしい知性を持った\nクレタ人の弁護士であり、1890年代にはギリシアとクレタの再統一のた\nめに疲れを知らずに働いた。そして1909年に不満を抱いた陸軍士官\nによって行われたグディ革命の指導者が、1890年代の軍事的・財政\n的な失敗を再建する新たな政府に彼を選んだ時、国内政治へと身を\n投じる事になった。1900年代初め、社会情勢と新たな派閥政治によ\nる混乱に対する民衆デモが見られたが、強い政党・強い指導者は現れ\nなかった。ヴェニゼロスは新たな自由党の党首となった。自由党は国家\n主義的な職業人や労働者、商人の支持を得てこれらの階級の人々\nの求めるものを果たそうとした。1910年と1912年に自由党は選挙に勝\n利し、ヴェニゼロスは首相になり改革法案を可決させた。;;;;;;;;;;;X EVT166054D;ロシア軍がバルカン半島でオスマン帝国の守備隊を打ち破っている今、\n他の国に取られる前にギリシアが求めている領土を占領するべきだろう\nか?;;;;;;;;;;X ####### GREECE FLAVOR #######;;;;;;;;;;;X EVT162231N;パリオリンピック;;;;;;;;;;X EVT162231D;ギリシアは国内でオリンピックを行おうとしたが、国際オリンピック委員会は\nフランスのパリで開催することを決めた。;;;;;;;;;;X ACT162231A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT304210N;セントルイスオリンピック;;;;;;;;;;X EVT304210D;第三回のオリンピックはセントルイスで、万国博覧会とあわせて行われた。;;;;;;;;;;X ACT304210A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT166015N;アテネオリンピック;;;;;;;;;;X EVT166015D;オリンピック開催10周年を記念して、開催地をギリシアに固定した\n別枠のオリンピックが策定された。;;;;;;;;;;X ACT166015A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT157077N;ロンドンオリンピック;;;;;;;;;;X EVT157077D;本来の開催地はローマだったが、不幸にもベスビオ火山が噴火し、\nオリンピック開催のための資金はナポリ再建に用いられることとなった。\nそこで代替地としてロンドンが選ばれたのである。;;;;;;;;;;X ACT157077A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT165051N;ベルリンオリンピック;;;;;;;;;;X EVT165051D;第六回オリンピックは、ドイツの首都であるベルリンで行われた。;;;;;;;;;;X ACT165051A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT117000N;アントワープオリンピック;;;;;;;;;;X EVT117000D;リヨンとアムステルダムが候補地として検討されていたが、国際オリンピッ\nク協会はベルギーのアントワープで開催する旨決定した。;;;;;;;;;;X ACT117000A;フレー!;;;;;;;;;;X
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*VIP-166K GREECE [#w1164887] ####### GREECE #######;;;;;;;;;;;X EVT166000N;ギリシアの農業の発展;;;;;;;;;;X EVT166000D;財政収入の中心となるのは農夫の納める税金であり、農業の発展は\n国家の繁栄の基盤であった。したがって、耕作地を広げる為に農夫\nに与えられた土地と資金はすぐに税金という形で取り戻される事とな\nった。政府は海外在住のギリシア人や外国の銀行、他の欧州国家か\nら借り集め続け、手に負えないほどの負債とそれに耐え忍ぶという\n現代まで続く形式を確立する事となった。;;;;;;;;;;X ACT166000A;税収入を増やそう;;;;;;;;;;X ACT166000B;現状を維持しよう;;;;;;;;;;X EVT166001N;政治的危機;;;;;;;;;;X EVT166001D;オソン王による統治の第一段階で政局は不安定であった。オソン\n王と彼の助言者達は政治・法・教育における土着の伝統に関心を\n示さなかった。1834年に確立した政体は戦争の間存在した社会的\n分離をそのまま保持しており、更に新しい社会的分離を生み出すも\nのであった。王国は行政上10の県、15の副県、468の郡に分類され\nた。全ての首長は王によって任命された。この郡レベルでは小さな寡\n頭制が役割を担っていた。このような絶対的権力は共和制の名をか\nけて戦争を戦い抜いたギリシア人の信頼を失っていった。武装部隊は\n彼らを戦時に率いていた指導者が政治的目的を達成するのを助け\nる為に再編成され、1835年から1842年の間に過激な暴動が毎年\n起こる事となった。;;;;;;;;;;X ACT166001A;安定性はわかりにくいがいまだ存在している;;;;;;;;;;X EVT166002N;ギリシア復活;;;;;;;;;;X EVT166002D;様々な障害を乗り越え、ギリシアは11年の戦争の荒廃から蘇った。\n新首都アテネには王宮が建てられ、大邸宅には王宮に集う政治的\nエリートが住む事になった。地方への再移住により農業生産は立ち直\nった。海運業は戦時の損失から立ち直り、ギリシア人商人が地中海\nの遠洋航海における貨物の大部分を扱うようになり、キクラデス諸島\nのシロスや北西部のペロポネソスのパトラスといった港は再び繁栄す\nる事となった。;;;;;;;;;;X EVT166003N;最初の憲法とメガリ・イデア;;;;;;;;;;X EVT166003D;オソン王の統治の第二段階は、軍事クーデターの余波により憲法を\n起草する為に国民会議を招集した1844年3月から始まった。春に国\n民会議が憲法を起草し終え新しい政体が確立された。オソン王は\nこの後、立憲君主として政務を行う事となった。二院制議会は全て\nの25歳以上の男性による投票によって選出される事となった。理論\n上、ギリシアは欧州で最も民主的な国家となった。ドイツの官僚はオソ\nン王の政府のリベラルな考えをドイツに広めた。しかしながら、オソン\n王は政府閣僚を任命・罷免する権利、議会を解散する権利、法律に\n対する拒否権、実行力のある布告を出す権利を保有していた。政\n党を助成する代わりに、議会制民主主義は個人を崇拝する新しい\n派閥主義を生じさせた。この様な政治は新制度の下に1844年首相\nに任命されたイオアニス・コレティスの行政によって例示された。コレティ\nスは議会を上手く運営し、贈賄や脅迫や鋭く敏感な世論などを巧み\nに使用して行政権を実質的に掌握した。またコレティスは共和国に\n隣接するオスマン帝国の領土を併合して、ギリシア人を再結集しなけ\nればならないという思想であるメガリ・イデア(偉大な思想)を唱えた。\nオソン王がメガリ・イデアを達成出来なかった事が彼を失脚させた主な\n原因であった。この民族統一主義は独立運動に続く、ギリシアの様\n々な派閥と地方を結び続ける唯一の思想であった。メガリ・イデアは1\n9世紀を通じてギリシアの外交方針の全てに影響を及ぼす事となった\n。1830年代後半には、すでにテッサリ、マケドニア、エピルスでギリシア\n人による反乱が起こっていた。;;;;;;;;;;X ACT166003A;リベラルな憲法とメガリ・イデア!;;;;;;;;;;X ACT166003B;リベラルな憲法はいいがメガリ・イデアは却下!;;;;;;;;;;X EVT166004N;ゲオルギオス一世への大英帝国の贈答品;;;;;;;;;;X EVT166004D;1864年ゲオルギオス一世の統治が始まると大英帝国は1815年以来\n保護国としていたイオニア諸島をギリシアに割譲した。;;;;;;;;;;X EVT166005N;1864年の憲法;;;;;;;;;;X EVT166005D;1864年国会はギリシア国民に主権を与え、君主の権限を限定した\n新しい憲法を発布した。一院制の議会は完全な立法権を持ち、直\n接かつ秘密投票で選出される事となった。しかしながら、王はかなりの\n権限を保有していた。ギリシアの憲法改正は小さな政変でしかなかっ\nた。権力を持つ人物は後援組織を通じて封建領土を維持し続け、\n工業化や政府の計画等のような問題について、増加しているリベラル\nな都市の中産階級と保守的な老いた寡頭制を維持するエリートとの\n分裂を生む事となった。19世紀後半のギリシアの政治風土のかなり\nの要素を占めたものは増加した政治クラブであった。このようなクラブ\nは職業人や地主達に政治的な議論を生み出させ、地方の有力者と\n議会の議員とを結びつかせる事となった。また彼らはクラブの政見を主\n張する議員候補の支援をする動員を行った。例えば、大地主は地元\nの後援者を代表して自らの下にある労働者の票を保障した。アテネ\nを拠点とした青果組合のような職人組合や商人組合は、政治的文\n化変容と選挙支援の為の動員等の準備をした。このようなクラブと組\n合の間に合わせの仕事は、流動的な政治派閥のグループ分けとなり\n1864年の憲法の下でギリシアの議会制民主主義の出発点となった\n。新憲法が発布されたが、しかしながら政局は安定しなかった。1865\n年から1875年まで7回の総選挙があり、18もの異なった政権が誕生\nする事となった。ゲオルギオス王は法案か予算案が通過しなかった場\n合政府の任命と罷免を行ったので、政治的指導者は常に競合する\n政党と壊れやすい与党の連立を操る事となった。しばしば王は、少数\n政党の党首に政府を形成するように指示し、より重要な立法の案件\nは無視され、政治上の停滞が起きて民主的な過程はまやかしである\nと証明されてしまった。;;;;;;;;;;X EVT166006N;厄介なトリクピス;;;;;;;;;;X EVT166006D;1869年、政治家であるハラリオス・トリクピスは行詰りの状況にあると訴\nえ始めた。1874年にトリクピスが新聞に王が少数派内閣に寛容である\nと論説を書くと、彼は反逆罪で逮捕された。;;;;;;;;;;X ACT166006A;彼を釈放する;;;;;;;;;;X ACT166006B;彼を獄中で腐らせてしまえ!;;;;;;;;;;X EVT166007N;トリクピスの改革;;;;;;;;;;X EVT166007D;王は議会で最も勢力を持つ政党の指導者が組閣する事に同意した。\nもしもどの政党も過半数の支持を得られなければ、王は議会を解散さ\nせ総選挙を実施した。比較的安定した19世紀末の25年間はこの改\n革の結果があった。トリクピスと彼の最大のライバルであるテオドロス・ディ\nリヤンニスは、この期間最も有力な政治家であった。トリクピスは西洋化\n・近代化推進論者であり、ディリヤンニスは伝統主義派であり民族統\n一主義を強く主張していた。トリクピスはギリシアが真に‘モダン’な国家\nとなるのに経済の発展、更に自由な社会とより強大な軍事力が必要\nだと見ていた。彼が首相として任期があったのは全部で7回で内3回は\n1880年代であり、ディリヤンニスは5回の政変の間に一度首相について\nいる。トリクピスはギリシアにとって重要な経済・社会改革を行った。トリ\nクピスはギリシアの輸出部門とそれを支える主要な分野である輸送網と\n農業の発展に力を入れた。1800年代最後の10年間である程度うまく\nいった農業改革の狙いは、農村の財政を改善し購買力を増加させギリ\nシアの国際収支の慢性的な赤字を改善する事だった。しかしながら、\n分割貸与された農地ではほとんどの農民が生計を維持できる規模より\n上のレベルまでは農業が発展せず、財産のある農民を締め出し一つの\n作物に頼るかなり不安定な農産物輸出の構造を作り上げた。1875年\nから1895年までの間にギリシア船籍の汽船の総トン数はおよそ16個の\n要素により増加し、工業化、特に繊維生産はトリクピス政府の下で発\n展した。1875年から1900年の間にギリシアの工場の蒸気出力は250%\n以上増加した。さらにトリクピスは公教育を大幅に広げる事によって、\n衣服や建築、芸術、マナーで西洋の指向を取り入れた新しい文化を\n発展させた。このような改革の原動力となったものは海外からの債務で\nあった。;;;;;;;;;;X ACT166007A;改革しよう!;;;;;;;;;;X ACT166007B;現状を維持しよう;;;;;;;;;;X EVT166008D;1896年にオスマン帝国の統治に対する反乱がクレタで始まった。そこで\nは人口の大半が「エノシス(ギリシアに併合されるべきと考える一派)」で\nあるか、ギリシア王国との連邦を望んでいた。翌年ギリシアから義勇兵が\n到着した。1897年、ギリシアはオスマン帝国に宣戦布告した。;;;;;;;;;;X EVT166009N;1897年の希土戦争に敗北;;;;;;;;;;X EVT166009D;ギリシアがオスマン帝国との短期決戦で大敗を喫した事を受けて、列強\nはオスマン帝国に賠償金を払いギリシア―オスマン帝国間のある程度の\n国境線の変更を受け入れるようにギリシアに求めた。1898年、列強は\nクレタを自治領としオスマン帝国軍は島から退去するように求めた。クレ\nタはオスマン帝国の領土ではあったが、列強は島を治める総督としてゲ\nオルギオス一世の第二子ゲオルギオスを指名した。;;;;;;;;;;;X ACT166009;我々の敗北は価値があった;;;;;;;;;;X EVT166010N;改革時代の終焉;;;;;;;;;;X EVT166010D;1887年までには政府予算のおよそ40%は国債の返済にあてられた。ト\nリクピスは多くの商品に税金を掛け、輸入関税を徴収し、地租を上げ、\n塩とマッチを政府独占とした。1880年代を通じた慢性的な赤字は189\n0年代の経済的崩壊の引き金となった。1893年に主要な輸出商品だ\nった干しぶどうの価格が落ちると、国家経済は崩壊した。戦争という重\n荷がのしかかった1897年にはギリシアは破産していた。そして、多くの有\n益で恒久的な変化をもたらした改革の時代は終わった。;;;;;;;;;;X EVT166011D;1887年までには政府予算のおよそ40%は国債の返済にあてられた。ト\nリクピスは多くの商品に税金を掛け、輸入関税を徴収し、地租を上げ、\n塩とマッチを政府独占とした。1880年代を通じた慢性的な赤字は189\n0年代の経済的崩壊の引き金となった。1893年に主要な輸出商品だ\nった干しぶどうの価格が落ちると、国家経済は崩壊した。1897年には\nギリシアは破産していた。そして、多くの有益で恒久的な変化をもたらし\nた改革の時代は終わった。;;;;;;;;;;X EVT166012N;エノシスとクレタ;;;;;;;;;;X EVT166012D;1908年、クレタ島の議会はギリシア王国への加入を宣言した。この時\nは非公式なものだったが、列強は1912年にはギリシアによるクレタの併\n合を正式に承認した。;;;;;;;;;;X EVT166013N;1909年のクーデター - 陸軍がグディに進軍;;;;;;;;;;X EVT166013D;誰一人政治腐敗と軍事的な弱点を、もしくは陸軍将校が愛国的な意\n識に影響されやすい事を意識していなかった。1909年7月、1300人の\n下級将校が軍備拡大と軍事改革を行うための財政・税金改革を求\nめ、「軍人同盟」を組織して陳情を作成した。ゲオルギオス王が改革を\n約束し新たな大臣を任命したが、新しい首相で注目すべきところの無\nいマヴロミハリスは約束を破り、自らの友人をそのポストに据えた。将校\n達は普通の派閥政治であると抗議した。マヴロミハリスは軍人同盟の\n指導者を軍法会議にかけ、将校の代表団に会うのを拒絶した。それに\n対抗し、アテネの守備隊はグディ郊外に進軍し、改革と恩赦を要求し\n首都を占領すると脅迫した。低い税金を求めていた都市の小型船舶\nギルドは同盟を支持した。別の改革相が権力を掌握したが、同盟は政\n府に対し指定した法案が可決されない場合、同盟が権力を掌握して\n軍事独裁を布くと通告を出し法案は即座に可決された。1903年のセ\nルビアの危険な先例のようになった。文民政治はもはや、軍隊の下級\n将校の思うままに機能した。それからの数ヶ月、軍人同盟は議会から\n民間の職員と大使を排除し、陸軍から権力を奪おうとした海軍兵士の\n反乱を鎮圧し、立法府に予算案の通過を求めたがその多くは実行不\n可能であった。例えば低い税金である。;;;;;;;;;;X EVT166014N;エレフテリオス・ヴェニゼロスが立ち上がる;;;;;;;;;;X EVT166014D;エレフテリオス・ヴェニゼロスは20世紀前半で最も有力な政治家であり、\n彼は社会・経済において大きな足跡を残した。輝かしい知性を持った\nクレタ人の弁護士であり、1890年代にはギリシアとクレタの再統一のた\nめに疲れを知らずに働いた。そして1909年に不満を抱いた陸軍士官\nによって行われたグディ革命の指導者が、1890年代の軍事的・財政\n的な失敗を再建する新たな政府に彼を選んだ時、国内政治へと身を\n投じる事になった。1900年代初め、社会情勢と新たな派閥政治によ\nる混乱に対する民衆デモが見られたが、強い政党・強い指導者は現れ\nなかった。ヴェニゼロスは新たな自由党の党首となった。自由党は国家\n主義的な職業人や労働者、商人の支持を得てこれらの階級の人々\nの求めるものを果たそうとした。1910年と1912年に自由党は選挙に勝\n利し、ヴェニゼロスは首相になり改革法案を可決させた。;;;;;;;;;;;X EVT166054D;ロシア軍がバルカン半島でオスマン帝国の守備隊を打ち破っている今、\n他の国に取られる前にギリシアが求めている領土を占領するべきだろう\nか?;;;;;;;;;;X ####### GREECE FLAVOR #######;;;;;;;;;;;X EVT162231N;パリオリンピック;;;;;;;;;;X EVT162231D;ギリシアは国内でオリンピックを行おうとしたが、国際オリンピック委員会は\nフランスのパリで開催することを決めた。;;;;;;;;;;X ACT162231A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT304210N;セントルイスオリンピック;;;;;;;;;;X EVT304210D;第三回のオリンピックはセントルイスで、万国博覧会とあわせて行われた。;;;;;;;;;;X ACT304210A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT166015N;アテネオリンピック;;;;;;;;;;X EVT166015D;オリンピック開催10周年を記念して、開催地をギリシアに固定した\n別枠のオリンピックが策定された。;;;;;;;;;;X ACT166015A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT157077N;ロンドンオリンピック;;;;;;;;;;X EVT157077D;本来の開催地はローマだったが、不幸にもベスビオ火山が噴火し、\nオリンピック開催のための資金はナポリ再建に用いられることとなった。\nそこで代替地としてロンドンが選ばれたのである。;;;;;;;;;;X ACT157077A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT165051N;ベルリンオリンピック;;;;;;;;;;X EVT165051D;第六回オリンピックは、ドイツの首都であるベルリンで行われた。;;;;;;;;;;X ACT165051A;フレー!;;;;;;;;;;X EVT117000N;アントワープオリンピック;;;;;;;;;;X EVT117000D;リヨンとアムステルダムが候補地として検討されていたが、国際オリンピッ\nク協会はベルギーのアントワープで開催する旨決定した。;;;;;;;;;;X ACT117000A;フレー!;;;;;;;;;;X
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